フランクリン・ルーズベルト

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フランクリン・デラノ・ルーズベルトFranklin Delano Roosevelt [ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt], 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国政治家。姓はローズベルトローズヴェルトとも表記[1][2]民主党出身の第32代大統領1933年 - 1945年)。第26代大統領セオドア・ルーズベルトは広義の従兄(五従兄、12親等)に当たる。名前のイニシャルをとってFDRと呼ばれることも多い。身長6フィート2インチ(約188cm)[3]

概要

世界恐慌第二次世界大戦時のアメリカ大統領であり、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人。ルーズベルトのニューディール政策と第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ合衆国の経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価される[4]ラジオを通じて国民との対話を重視した。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。その一方、ソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取り、その侵略行為を黙認したことは後に批判の対象となった。中国に対しては日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行っていた中国びいきと言われた。

ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。初代のジョージ・ワシントン大統領が3選を固辞した故事から大統領は2選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年・1944年の大統領選に立候補し当選した。後に憲法が改正され(修正第22条1951年)、正式に大統領は2期までと定められた。また、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領でもある。

アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。ルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。

ルーズベルトの評価は立場で大きく分かれる。リベラル派(自由主義)から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として評価され、「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として評価される。それまで南部地域政党的色彩が強かった民主党に「世界恐慌の結果発生した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出し、この2つの支持基盤を合わせる事によって「ニューディール連合」と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。保守派の中でも、ロナルド・レーガンは、ルーズベルトのリーダーシップを賞賛した。他方、小さな政府を唱える保守派はニューディールにきわめて否定的な評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。

また、最高裁判事の人事への介入による三権分立の民主主義原則への抵触や、大戦中に日系アメリカ移民強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた政策は、その立場を問わず各方面からの大きな批判をまねいただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代ジョン・F・ケネディリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越された。

在任日数4422日は、アメリカ大統領史上最長である。

生い立ちと家族

1882年1月30日にニューヨーク州北部のハイドパークで生まれる。父ジェームズ・ルーズベルト(1828年 - 1900年)は、デラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。ルーズベルト家[5]1650年頃にオランダハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダム)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まるユダヤ系といわれる。1788年にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり、それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。

18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(19世紀には民主党支持となる)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家(共和党支持)の二つに分かれる。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領のセオドア・ルーズベルトはフランクリンの遠縁の従兄であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた。[6]

フランクリンの母親サラ・デラノ(Sara Delano, 1854年 - 1941年)は、フランスプロテスタント教徒(ユグノー)であり[7]、デラノ一族は阿片戦争の頃から中国アヘンを含む貿易を手広く行って財を為していた[8]。フランクリンはサラが生んだ唯一の子供(大変な難産)であり、ジェームズは再婚で、フランクリンが生まれたとき54歳と高齢(すでに長男ジェームズに息子、つまり孫がいた)であった。サラはフランクリンの幼少時のみならず、生涯、支配的な影響を与えた[9]

この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリンは家庭教師の手によって教育を施された。同世代の子供と交わる機会はほとんどなかった。14歳の時、名門グロトン校に入学を果たしたものの、寄宿舎生活にはなじめなかった。 1904年ハーバード大学1908年にはコロンビア大学ロースクールを卒業。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。

1908年にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、1905年聖パトリックの祝日にセオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。この結婚式には、大統領セオドア・ルーズベルトがエレノアの父親代わり(実父はすでに逝去)に出席した。6人の子供(注で一人ずつ説明)をもうけ、4番目の息子エリオットはのちに作家となった[10]

1911年10月11日にフリーメイソンに加入した[11][12]

初期の政治経歴と海軍との関係

1910年の州議会議員選挙でダッチェス郡から州上院に出馬。同郡では1884年以来民主党からの議員を選出していなかった。選挙では地滑り的勝利で当選する。1911年1月1日に議員に就任し、彼は民主党を支配していた「タマニー・マシーン」に対する「反対分子」グループのリーダーとなった。連邦上院議員選挙が1911年1月16日、民主党幹部会議と共に始まり、二つの派閥の争いのため74日間行き詰まることとなる。3月31日にジェームズ・A・オゴーマンが選出され、タマニー派の候補ウィリアム・F・シーハンを打ち破ることでルーズベルトは目的を達成し、ニューヨークの民主党においても名声が高まった[13]

1913年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官に任命。ジョセファス・ダニエルズ海軍長官の下で同職を務め[14]、海軍の拡張に尽力し、海軍予備役部隊を設立した。中米およびカリブ海諸国への干渉のために海軍と海兵隊を派遣した。1920年の大統領選挙において、副大統領候補のルーズベルトは海軍次官として1915年にハイチに課した憲法を起草したと主張した[15]

ルーズベルトは生涯を通じて海軍への愛情を育んだ。彼は海軍予算を承認させるため議会のリーダーとその他の政府の各省と交渉した。潜水艦の導入と、ドイツ潜水艦による連合国船団への脅威に対抗する戦力導入の熱心な支持者であった。そして、ノルウェーからスコットランドまでの北海に機雷を敷設し、機雷原を作り上げるよう提案した。1918年にはイギリスフランスを訪問し、アメリカ海軍の施設を視察した。この訪問で彼は初めてウィンストン・チャーチルと面会した。1918年11月に第一次世界大戦が終了すると、ルーズベルトは復員業務を担当し、一方海軍の完全解体計画に反対した。1920年7月、ニューポート・セックススキャンダルに関連した報道で海軍次官を辞職し[16]、副大統領候補として大統領選に出馬した。

1920年民主党全国大会でルーズベルトは副大統領候補に選出され、大統領候補、オハイオ州知事ジェームズ・コックスと共に選挙戦に突入した。しかし両候補は共和党ウォレン・ハーディングに大敗。ルーズベルトは政界から引退しニューヨークで弁護士業を始め、新たに結成されたニューヨーク・シビタンクラブに加わった[17]

ニューヨーク州知事から大統領選まで

1920年代、ニューヨークで態勢を立て直し、ニューヨーク市のタマニー派との対抗馬としてその名を馳せたものの、1922年のニューヨーク州知事選ではアルフレッド・E・スミスを支援し、自らのいとこである共和党候補のセオドア・ルーズベルト・ジュニアと対抗した[18]1928年大統領選でスミスは大統領候補に指名され、ルーズベルトに自分に代わって州知事選挙に出馬するよう依頼した。スミスは自らの地元でも共和党のフーヴァーに敗れ、大統領選で大敗したが、ルーズベルトは知事に当選、改革派知事としてルーズベルトは多くの新しい社会計画を行った[19][20]

こうしてルーズベルトは民主党の主要候補となり、1932年の大統領選に出馬する。現職のフーヴァーの劣勢が明らかだったため、指名戦は激しい争いとなった。アル・スミスは何名かの有力者によって支持されたが、ニューヨーク民主党はルーズベルトが支配した。ルーズベルトは新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストアイルランド系アメリカ人コミュニティの指導者であるジョセフ・P・ケネディ、カリフォルニアの有力者ウィリアム・マカドゥーとの個人的な関係を持ち、その支援を自らの全国的な支援運動に組み込んだ。テキサスの指導者、ジョン・N・ガーナーがその支持をルーズベルトに行うとし、ルーズベルトはガーナーを副大統領候補に指名した。選挙戦は「三つのR - 救済、回復および改革」[21])の綱領で世界恐慌と戦うとして行われ、そのスピーチの中でニューディール(新規まき直しの意味)の用語を使用[22]。1932年の選挙における勝利後の1933年2月15日に、ルーズベルトはフロリダ州マイアミ暗殺されそうになった[23]。暗殺者はシカゴ市長アントン・J・サーマクを殺害した。


大統領職

ニューディール政策
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米国の実質GDP(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929–1939)、ルーズベルトの大統領就任は1933年
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米国の失業率(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929–1939)、1939年以前は推定値、ルーズベルトの大統領就任は1933年

世界恐慌に対しては有効的な対策を取れないまま大統領職を退いた前任のハーバート・フーヴァーに対し、「ニューディール政策」と呼ばれる、政府による経済への介入(積極的な経済政策)を行なった。テネシー渓谷開発公社、民間植林治水隊(Civilian Conservation Corps, CCC)、公共工事局 (Public Works Administration, PWA) 、公共事業促進局 (Works Progress Administration, WPA) 、社会保障局 (Social Security Administration)、連邦住宅局 (Federal Housing Administration, FHA)などを設立し大規模公共事業による失業者対策を行うなど、ケインジアン的な政策であった。ほか団体交渉権保障などによる労働者の地位向上・社会保障の充実などの政策を行った。ルーズベルトが就任した1933年以降、景気は回復過程に入り、実質GDPが1929年を上回った1936年[24]大統領選挙では当時の一般投票歴代最多得票率(60.80%)で再選を果たした。しかし、1937年の金融・財政の引き締めによる景気後退[25] もあり、結局任期の1期目と2期目である1933年から1940年の期間には名目GDP[26] や失業率[27][28] は1929年の水準までは回復しなかった。 また、外交政策では大統領就任後に真っ先にソ連を国家承認した。さらに当時、支那事変(日中戦争)の最中でアジアで勢力圏を拡大する日本への敵対心をむき出しにし、対日政策として石油を売らないという経済制裁を実施。 対日開戦の直接のきっかけとなるハルノートを突きつけるなど徹底した対日強硬策を取った。 「軍拡に勝る公共事業なし」という言葉もあるが、この一連の流れは地政学的に見るとかたや太平洋、もう一方はユーラシア大陸を挟んでほぼ地球の真裏に位置する日本に経済制裁を加えなければならない必然性は無いのだが、敢えてそうすることで合衆国にとって最も有効な公共事業である開戦による軍拡を行う口実になったのではないかという意見が根強い。 また、ソ連の国家承認に絡めてフランクリン・ルーズベルトは共産主義の大統領だったのではないかという憶測的な意見も存在する。

その後1941年12月の第二次世界大戦への参戦による史上最大の軍拡、軍需経済、戦時経済の著しい増大[29] によってアメリカ経済は完全に回復し、失業者も激減した。近年では太平洋戦争が無くても成功したのではないかという意見と、最初から太平洋戦争の開戦が無ければ成功しえない政策であったという意見(ミルトン・フリードマンら)がある。アメリカ合衆国連邦政府が公開している経済統計によると、アメリカ合衆国の実質GDPが1929年を上回った年度は1936年[24]、名目GDPが1929年を上回った年度は1941年[26]、失業率が1929年を下回った年度は1943年である[27][28]

前政権に増しての財政緩和政策、大統領令[30]によって市民に金貨、金塊の保有を禁止しての管理通貨制度の確立は、ケインジアンの立場からは有効な政策であったとされている。

炉辺談話
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マイクの前に座るルーズベルト

当時最も浸透していたメディアであったラジオ放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した、メディアを巧みに利用した大統領として知られている。ルーズベルトの行った毎週のラジオ演説は「炉辺談話 fireside chats」と呼ばれ、国民に対するルーズベルトの見解の発表の場となった。それはルーズベルトの人気を支え、大戦中のアメリカ国民の重要な士気高揚策となった。

内閣

職名 氏名 任期
大統領 フランクリン・D・ルーズベルト 1933 - 1945
副大統領 ジョン・N・ガーナー 1933 - 1941
ヘンリー・A・ウォレス 1941 - 1945
ハリー・S・トルーマン 1945
国務長官 コーデル・ハル 1933 - 1944
エドワード・ステティニアス 1944 - 1945
陸軍長官 ジョージ・ヘンリー・ダーン 1933 - 1936
ハリー・ハインズ・ウッドリング 1936 - 1940
ヘンリー・L・スティムソン 1940 - 1945
財務長官 ウィリアム・ウッディン 1933 - 1934
ヘンリー・モーゲンソウ 1934 - 1945
司法長官 ホーマー・S・カミングス 1933 - 1939
ウィリアム・F・マーフィー 1939 - 1940
ロバート・H・ジャクソン 1940 - 1941
フランシス・ビドル 1941 - 1945
郵政長官 ジェームズ・A・ファーレイ 1933 - 1940
フランク・C・ウォーカー 1940 - 1945
海軍長官 クロード・スワンソン 1933 - 1939
チャールズ・エジソン 1940
ウィリアム・フランクリン・ノックス 1940 - 1944
ジェイムズ・フォレスタル 1944 - 1945
内務長官 ハロルド・L・アイクス 1933 - 1945
農務長官 ヘンリー・A・ウォレス 1933 - 1940
クロード・レイモンド・ウィッカード 1940 - 1945
商務長官 ダニエル・カルフーン・ローパー 1933 - 1938
ハリー・ロイド・ホプキンス 1939 - 1940
ジェス・H・ジョーンズ 1940 - 1945
ヘンリー・A・ウォレス 1945
労働長官 フランシス・パーキンス 1933 - 1945
最高裁判所判事

第二次世界大戦への参戦

1910年代から1930年代の戦間期のアメリカ海兵隊は、独立した戦闘能力を維持するために小規模な師団的な部隊を大隊単位で恒常的に設置するようになり、中米カリブ海諸国に派遣されていたが(バナナ戦争)、1927年ニカラグアで始まったサンディーノ戦争で、アウグスト・セサル・サンディーノ将軍率いるゲリラ部隊に苦戦し、1933年に大統領に就任したルーズベルトは、ニカラグアと他の中米諸国から海兵隊を撤退させ、軍事占領を解く代わりに、キューバにはバチスタ政権ニカラグアにはソモサ政権などのアメリカ合衆国の傀儡政権を樹立して間接的に支配する政策に転換し、ドミニカ共和国トルヒーヨ政権のようにすでに樹立されていた傀儡政権に対する支配を継続した。ルーズベルトを支持する人はその政策を軍事占領を解いたことを論拠にして、傀儡政権による間接支配政策は論拠にせずに善隣外交español版English版と表現している。1933年12月、海軍長官命で艦隊海兵軍が創設された[31]。これは、海兵隊に長期遠征から敵海軍基地の奪取という任務の変化をもたらした[32][33]

就任後から1937年の隔離演説発表まで、表面上は日本に協調的姿勢を見せて日本中国間の紛争には一定の距離を置く外交政策を取っていた[34]

1939年9月、ヨーロッパ第二次世界大戦が勃発。アメリカ政府は、イギリス寄りだが武器援助以外には基本的に介入しない政策を取っていた。これは、第一次世界大戦に参戦した経験からヨーロッパの戦争に関わるのは極力避けたい、と考えていたアメリカ国民の世論を意識してのことであった。 また、名目上でもそうしなければならなかった理由として、ルーズベルトは大統領就任前の選挙中から「戦争はしない」という公約を掲げており、対日開戦はその意味でアメリカ国民に対する公約違反だとする批判も存在する。

戦時下のヨーロッパでアドルフ・ヒトラー率いるドイツ国防軍に、イギリス本土上陸寸前まで追いつめられていたイギリスウィンストン・チャーチル首相や、日華事変で日本と戦闘状態にあった中華民国蒋介石総統の夫人でアメリカ留学経験もある宋美齢が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦や日中戦争におけるアメリカの支援、参戦をルーズベルトに訴えかけていた[35]

当時、アメリカ政府はイギリスや中華民国に対し多大な支援を行っており、特に多額の戦債をつぎ込んだイギリスが負けることは避けたかった。ルーズベルト自身も選挙では戦争に介入をしない、と宣言して当選しており、参争したくても出来ない状況にあった。ルーズベルトはモンロー主義に閉ざされていたアメリカ国民に対し、「欧州やアジアの戦争はアメリカに関係ないという人たちがいる。しかし、戦争を引き起こしている者にアメリカにつながる大海原の支配権を渡すわけにはいかない」とラジオで諭している。

隔離演説から参戦まで

隔離演説

1937年には、最高裁改革の失敗や労働争議の頻発、景気後退、さらにはまたルーズベルトと同じ民主党の保守派議員が、ニューデュール阻止の為に共和党との超党派ブロックを結成するなどして、ルーズベルトは孤立し、議会に対する影響力を低下させており[36]、その様子はまるで「まったく棄てられた指導者」であったといわれる[37]

1937年8月30日、中華民国は国際連盟に対して、日本の行動は不戦条約および九ヶ国条約に違反すると主張し、措置を取るよう提訴した。9月6日にはルーズベルトは「世界の政府間の平和のためにアメリカが先頭に立って 大掃除をする準備ができていることを公にする」とヘンリー・モーゲンソー財務長官とハル国務長官に語り[36]、1937年(昭和12年)10月5日、世界でおこなわれつつあるとする侵略行為を非難するために「病人」になぞらえて隔離演説(隔離声明、防疫演説)(en:Quarantine Speech)をシカゴで行った[36]

「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しようとしている残り一割の人々によって脅かされようとしている。(…)不幸にも世界に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」[38][39]

演説は直接には特定の国家を名指しすることはなかったものの、一般には従来の棍棒外交をあらためて否定し、ドイツやイタリア、日本などの国家実行を非難するルーズベルトの政策理念を表明する演説と考えられている。演説のなかでは、「宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼ら平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」とも語られた[40]。なおハルの証言では、アメリカ国務省が作成した演説原案には「隔離」の部分はなく、演説直前にルーズベルト自身が入れた[41]

翌1938年10月6日には国務省声明を発表し、中華民国における日本の行為を、アメリカは九カ国条約とケロッグ-ブリアン条約(パリ不戦条約)違反だとみなし、声明は国際連盟の決議に沿うものとして、日本を明確に名指した[42]。 [Department of State 1943: 387-388]。

隔離演説の反響

隔離演説はニューヨーク・タイムズやコロンビア大学学長のニコラス・バトラーから賞賛される一方、ウォールストリート・ジャーナルは「外国への手出しをやめろ、アメリカは平和を欲する」という記事を掲載し、またシカゴ・ トリビューンは、ルーズベルトはシカゴを「戦争恐怖の世界的ハリケーンの中心」に変えたと報じ[43]、またハル国務長官もこの「隔離」や「伝染病」というレトリックは無用の反対をもたらしたとして批判した[36]。さらにクリスチャン・センチュリー紙は「もしアメリカが中国のために参戦すれば、その結果はひとりソビエトの勝利に終わるであろう」と警告した。挑発的な内容を持つこの隔離演説はアメリカ国内で非難を受け、演説後、6つの平和主義団体が「ルーズベルトはアメリカ国民を世界大戦の道に連れて行こうとしている」との声明を出した。アメリカ労働総同盟は「アメリカの労働者はヨーロッパ、アジアの戦争に介入することを欲しない」との決議を行った。アメリカを参戦させないための請願に2500万人の署名を求める運動も始まった。

日本でこの隔離演説が報道されると、毎日新聞は「米大統領の諷刺演説に應酬―率直にわが眞意吐露‘戦争’も已むを得ず」「紛争國“隔離”を提唱―米大統領演説」と題した記事で、朝日新聞は「米大統領獅子吼―平和確保に協力せん」と題した記事においてこの演説が日本を指すものとして報道した[44]。また松方幸次郎は日本駐在のユージン・ドゥーマン参事官に対して日本海軍はこれまで慎重論であったが、この隔離演説に対して強烈な反感を抱いていると伝えた[45]

駐米ドイツ大使のハンス・ディックホフ[46] は、演説の直接的なきっかけは、中国での日本の行動にあり、また大統領を悩ませていた黒人問題から大衆の気を逸らせる意図もあるとドイツ本国へ伝えた[47]。 なおニューヨークタイムズ記者のアーサー・クロックは「隔離声明以来、ルーズベルト大統領は、日本の敵意を煽り、枢軸側へ追いやるために、あらゆる手段を駆使した」としている[48]。スターリンと親交のあったルーズベルトは、ソ連によるフィンランドポーランド、およびバルト三国侵略については黙認していた。

また隔離演説は、アメリカ国民を戦争に順応させるレトリック的キャンペーンの始まりを告げるものであったともいわれる[49]

ブリュッセル会議とパナイ号事件

中華民国の国連への提訴と、アメリカ大統領による隔離演説を経て、同年11月3日から24日にかけて、ブリュッセル会議(九ヶ国条約会議)が開催。日本側は出席を拒否した。アメリカは隔離演説で見せたような挑発的な言明は避け、会議でウェルズ国務次官は「日本を侵略者呼ばわりするのは我々の考えではない。日本を懲罰するのではなく単に意見を交換するだけだ」と述べ[50]、中国を失望させた。

12月12日には、日本海軍機が米国の警備船「パナイ号」を爆沈したパナイ号事件が起きるが、アメリカはこの事件をもって開戦とはしなかった。西川秀和はその理由を「日本政府が速やかに賠償に応じたことも一因であるが、アメリカ国民の一般感情が強硬策を求めるまでに沸騰しておらず、 第一次世界大戦後の孤立主義的傾向を完全に払拭するまでに至らなかったことに大きな原因がある」としている[36]。ルーズベルトはパナイ号事件に激怒していたが、隔離演説で予想を上回る反発が世論に起きたため、挑発的な言辞を使用することも報復的な対策をとることもなかった[51]

対中支援工作

ルーズベルトは、1937年盧溝橋事件勃発後の日中戦争にあたり、大量の軍事物資を援蒋ルートを通じて蒋介石率いる国民党政権に送り続けた。1939年7月には日本の中国侵略に抗議するとして日米通商航海条約の廃棄を通告した。通告6か月後の1940年(昭和15年)1月26日に同条約は失効し、日米関係は無条約時代に入った。また、クレア・リー・シェンノートが当時は国民党に雇用されていて、シェンノートの指揮のもとに組織されたアメリカの退役軍人を中心とする義勇軍「フライング・タイガース」を1941年に中華民国へ派遣させるなどした。なお蒋介石は、1928年からドイツ軍事顧問団による指導を受けていた(中独合作を参照)が、1938年に軍事顧問団は引き上げている。また蒋介石の顧問に任命されていたオーウェン・ラティモアは日本軍の中国撤兵を要求する暫定協定に反対するよう蒋介石に助言してもいる。

レンドリース法

1940年7月10日、スティムソンが陸軍長官に復帰した。同時にやはり共和党員であるフランク・ノックスが海軍長官となる。これらの人事は、第2次大戦への参戦を意識したものであった。スティムソンは、9月には選抜徴兵制を導入して、140万人以上の兵員動員を可能とした。1941年3月にはレンドリース法(武器貸与法)を成立させ、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。終戦までに総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中国へ提供された。

日米交渉から開戦まで

4月からは日中間の戦争調停と日米間の合意を目指す日米交渉が本格化した。しかし日独伊三国同盟問題や満州国など日米の溝は大きく、交渉はまとまらなかった。当時日本の指導部は日米の国力の差を考え対米戦争に対して消極的であった [52]

しかし、1941年7月2日に策定された情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱によるフランス領インドシナやオランダ領東インドへの進駐計画はアメリカとの衝突をも予期したものであった。日本が平和目的であるとしながらも南部フランス領インドシナ進駐をほのめかすようになると、7月25日に在アメリカの日本資産凍結を行った。しかし7月28日に進駐が実行され、8月1日にアメリカは「日本を含む全侵略国」への石油禁輸を行った。第二次世界大戦における自陣営拡大の希望を持つドイツ[53] とイギリスは日米交渉打ち切りを外部から働きかけていた。

8月17日の野村・ルーズベルト会談において、豊田貞次郎外相は首脳会談による調整を提案したが、ルーズベルトは日本側の態度変更がない限り応じられないと回答した[54]。またハミルトン・フィッシュ3世en:Hamilton Fish III)によれば、近衛首相はルーズベルト大統領との会談を希望したが、すでに対日戦を決意していたルーズベルトは会談の要請を拒絶したという[55]。また在日米国大使のジョセフ・グルーも首脳会談の開催を強く要請したが、ルーズベルト政権は「会談の必要なし」として却下している。

11月27日に日本側が最後通告と受け取ったハル・ノートが手交された。日本側は12月1日の御前会議で対米開戦を正式決定したが、12月6日にルーズベルトは昭和天皇宛に「平和を志向し関係改善を目指す」親電を送った[56]。しかしこの日は日本側の交渉打ち切り文書である「対米覚書」が野村吉三郎大使に渡された日だった。

1941年12月7日(日本時間で12月8日)の日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発し、翌日(12月8日)には、「Pearl Harbor Address to the Nation」(=真珠湾攻撃を国民に告げる)として、日本への宣戦布告を議会に求めた(演説の冒頭で「a date which will live in infamy="屈辱の日"」の表現を用いた。このため、この演説は屈辱演説English版と呼ばれる)。上院は全会一致、下院は1人が反対したのみで、宣戦布告を認めた。その後、ルーズベルトがイギリス首相チャーチルに「我々は同じ船に乗りました、日本は攻撃してきました」と報告した際、チャーチルは手を叩いて喜んだ[57]。その後議会で日本軍の「卑劣な騙し討ち」を非難し、その日のうちに宣戦布告の誓約に署名して日本との戦争に突入した。

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日本への宣戦布告を行うルーズベルト
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アメリカ軍兵士の監視下で強制収容所に運ばれる日系アメリカ人

対日・対中政策

中国が経済的・軍事的に弱体化して日本と単独講和をする可能性があったため、ルーズベルト政権は対中援助政策を積極的に行った[58]蒋介石の国民党軍が日本軍に敗北を繰り返し、多くのヨーロッパ諸国やアジア諸地域が枢軸国に占領され連合国戦線から脱落しているにも関わらず、ルーズベルトは中国を戦線からの脱落をさせないために軍事援助の借款や蒋介石のカイロ会談出席と台湾の返還、さらに沖縄の中国による領有を主張し(蒋介石は沖縄領有を断った)、中国の常任理事国入りを強く希望し、米英ソ中が世界平和の維持する「四人の警察官構想」を抱いていた。ルーズベルトは米英の支援を受けた中国軍が中国の日本軍を撃破して、米軍のB29機が中国から日本本土へと空襲、中国軍が朝鮮半島から日本本土に侵攻する対日戦略を想定したが、これは中国の戦力の実態を認識していないルーズベルトがテヘラン会談におけるソ連の役割をカイロ会談で中国に当てはめたようなものであまりにも無理な作戦であった。しかも、ヨーロッパ戦線がアメリカの主要な関心事だったので、中国戦線に十分な物資を割り当てることができず、1942年のビルマの戦いで日本軍によって援蒋ルートが遮断されると、1944年にそれが復活されるまでの間は物資輸送は空輸に頼らざるを得ず、深刻な物資不足に陥った。また、中国は列強のソ連とは軍事力も工業力も経済力も大きく隔絶していた。

アメリカが参戦して以降、ルーズベルトは外交政策について国務省をほとんど頼らず、ハリー・ホプキンスのような個人的特使や大統領付軍事顧問であるウィリアム・リーヒなどとだけ相談して物事を進めてしまったため、国務省はルーズベルトが描いている戦争の遂行、終結についての構想を全く知らされていなかった[59]

カイロ会談で米英中は対日戦継続を宣言したが、ルーズベルトの期待に反して1944年の大陸打通作戦で中国国民党軍は日本軍に大きな打撃を受け、軍事的考慮よりも政治的考慮を優先したルーズベルトの対中政策は統合参謀本部から強硬に批判され[60]、アメリカ側は対日戦略をアイランド・ホッピングに変更した。

ルーズベルトの対中姿勢は理想的であったが、チャーチルとスティルウェルの対中姿勢は現実的であった。チャーチルは、中国を対日軍事拠点とする事、蒋介石をカイロ会談に出席させる事、台湾を中国に返還する事に反対し、さらにスターリンに対してと同じく中国へも常任理事国入りするのを反対した。回顧録では「(カイロ会談の時)蒋介石は権力の絶頂に立っていた。アメリカ人の目には彼は世界第4位の国の指導者であり、新アジアのチャンピオンだった。私はこういったものは過剰であって、中国の戦闘能力にしても未来の地位にしても疑問に思っていた。

これ以外にも、歴史家や野党の共和党議員などからは、「ルーズベルトは日本軍の真珠湾攻撃についての情報を前もって入手しており、アメリカが第二次世界大戦に参戦する理由づけとしてそれを看過した」と主張がなされることがある(真珠湾攻撃陰謀説)。 また、アヘン戦争の頃から中国アヘンを含む貿易を手広く行って財を為した母方の祖父の影響で、ルーズベルト本人が幼い頃から中国文化に深い愛着を持ち、中国人に対して同情的かつ友好的な考えを持つ親華派であることを明言していた[61]

レイシスト・「人種改良論者」

ルーズベルトの人種観、特に異人種間の結婚に対する考えは、現代的な視点から判断すれば基本的にはレイシズムに基づいていると言えるが、その上でもやや一貫性のないものである[62]。太平洋戦争会議(Pacific War Council)では、「人類は、均等な機会が与えられるのならば、うまく混ざるだろう。(戦後は[引用者註])我々が知っているような人種差別は軽減されて、世界の国々は人種のるつぼのようになるだろう」と語る一方で[62]、駐米イギリス公使ロナルド・キャンベル(Ronald Hugh Campbell)との私的な会話では、ルーズベルトは、スミソニアン博物館の研究者による、日本人の頭蓋骨は「われわれのより約2000年、発達が遅れている」という見解を紹介した上で、「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」などと語り、「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが日本人は除外する」、「日本人が敗北した後は、他の人種との結婚をあらゆる手段を用いて奨励すべきである」などとキャンベルに語ったという[62][63]

この様な自らの人種差別的感情と、第二次世界大戦以前からのアメリカにおける日本人に対する人種差別的感情を背景に、1941年12月の対日開戦後には妻・エレノアからの反対をも押しのけて、大戦中にアメリカ国内とアメリカの影響下にあったブラジルメキシコペルーなどの中南米諸国において、ヒトラーのユダヤ人強制収容と同様の日系人の強制収容政策を推し進め、自由を束縛するとともに財産を放棄せざるを得ない状況に追い込んだ。

さらに1944年6月13日には、アメリカの新聞が「ルーズベルト大統領が、フランシス・E・ウォルター連邦議会下院議員からレターオープナーを贈呈されたが、それが日本兵の腕の骨から作られたものである」と報じた。なおルーズベルトは、このような猟奇的な行為を隠しも恥じてもいなかった。

原子爆弾の開発政策(マンハッタン計画)

ルーズベルトは、1939年にレオ・シラードアルベルト・アインシュタインのからの書簡を契機に、原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画を推進した。1941年にイギリスからユダヤ系科学者オットー・フリッシュルドルフ・パイエルスの記した核エネルギーの兵器応用のアイディアを伝えられ、核兵器実現の可能性が高まると、1942年6月、ルーズベルトは国家プロジェクトとしての研究着手を決意する。プロジェクトの実施にあたっては「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うこととなった。責任者はレズリー・リチャード・グローヴス准将が1942年9月に着任した。

連合国首脳との会談

ファイル:Cairo conference.jpg
カイロ会談で蒋介石とチャーチルとともに

ルーズベルトは、大戦中に数度にわたり他の連合国首脳と会談している。 1943年1月14日には、イギリスのチャーチル首相と会談するためフロリダ州マイアミからモロッコカサブランカに出発した。彼は飛行機で外国を訪問した最初のアメリカ大統領になった。 会合は1月24日に終えたが、会談最終日にルーズベルトは第二次世界大戦の趨勢に重大な影響を及ぼすことになる「枢軸国との一切の和平交渉を拒絶し、無条件降伏を唯一の戦争終結とする。」という原則を表明した。 これは戦争の終結が条件付き講和という方法が遮断されていて無条件の降伏しかないならば、枢軸国は敗戦濃厚となっても休戦という決断は取らないで必然的に破れかぶれで戦争の継続を突き進む可能性が高いと考えられて(実際にドイツはそうなった)、弊害の方が大きいとしてチャーチルはじめ反対意見が少なくなかった。 またチャーチルはイタリアを枢軸国側から離脱するよう誘うためにも、枢軸国一律に無条件降伏を要求することは同意していなかった。 しかしこうした重大な政治的、軍事的要素をはらむ問題にも拘らず、ルーズベルトは事前に国務省から意見を聞いたり、チャーチルから承諾を得たりすることも無しに、独断で連合国首脳の総意であるかのように記者会見でコメントした。 これは当時、アメリカ世論がルーズベルト政権に対して「戦争の早期終結のため枢軸国勢力と安易に取引するのでは?」と不信感を抱いており、ルーズベルトはこの疑惑を払拭する何らかの意思表示をする必要性から無条件降伏の原則を発表した。 ルーズベルト政権に疑惑が生じた背景には、その前年の1942年に米英軍が実施した親ドイツ姿勢ヴィシー・フランス支配下の北アフリカへの上陸作戦(トーチ作戦)において、ナチス・ドイツのフランス国内でのユダヤ人迫害政策に加担していた、ヴィシー・フランス軍司令官フランソワ・ダルランとルーズベルト政府が秘密裏に休戦交渉していたことが露見して、アメリカのマスコミから「ルーズベルトはファシズム勢力と妥協した」と激しく非難されていた経緯があった[59]

同年11月にはエジプトのカイロで行われたカイロ会談において、中華民国蒋介石総統とチャーチル首相とアジアにおける戦後処理について話し合った。その後チャーチル首相とともにイランテヘランに移動してソ連ヨシフ・スターリン書記長と会談。

1944年10月14日、ルーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を提案した[64]。同12月14日にスターリンは武器の提供と南樺太千島列島の領有を要求[65]、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした[66]

翌1945年2月4日から11日にかけて、ソビエト連邦クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによるヤルタ会談が開かれ、大戦後の国際秩序や発足が議論されていた国際連合についての協議が行われた。また、日本の領土分割などについても話され、ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた[67](ヤルタ会談#極東密約(ヤルタ協定))。

この会期中2月9日に開かれた英米軍事会議においてルーズベルトは、チャーチルから「戦争が1年でも半年でも短縮されるならば意味がある。」としてドイツ、日本との戦争終結に際しての降伏条件に何らか緩和するように提言された。それに対しルーズベルトは「そうした考えは、世界情勢に無知であり、今なお自国に有利な譲歩を得られると考える日本人に、そのような条件緩和を行うことが有効だとは思えない。」と一蹴し、あくまでも無条件降伏を要求し続けるとの姿勢を固持した[68]

そしてヤルタ会談においてルーズベルトは、ドイツ降伏後も当分の継続が予想された対日戦を、降伏条件を緩和することなしに早期に終結させるため、スターリンに対し千島列島南樺太のソ連への割譲を条件にドイツ降伏後3ヶ月以内の対日参戦を要求した。

勝利を目前にした死

ルーズベルトは共和党候補トーマス・E.デューイに勝ち、1944年11月7日に先例のない4選を果たした。しかしながら肖像画の制作途中、1945年4月12日の昼食前に脳卒中で死去し、副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。その後、5月にはドイツ、8月には日本が降伏し、第二次世界大戦の終結とその勝利を目前にした死であった[69]

その他

ファイル:Roosevelt in a wheelchair.jpg
FDRと愛犬ファラと庭師の孫の少女。車椅子姿のルーズベルトを撮った稀少な写真の1枚。
  • 1911年ニューヨーク州のホーランド・ロッジNo.8でフリーメイソンに入会[70][71]
  • 1921年8月10日カナダキャンポベロー島English版の別荘でポリオを発症する。その後遺症により、下半身がほとんど麻痺し日常生活では車椅子を常用していた(彼が実際に罹患したのはギラン・バレー症候群であったと推測する症状比較研究がある[72]。それによれば、彼の症状の8項目のうち6項目についてはギラン・バレー症候群の症状との整合性が高く、2項目についてはポリオとの整合性が高かったという。しかし彼の脳脊髄液は採取されなかったので、正確なことは分かっていない)。生前は車椅子姿を見られるのを非常に嫌ったため、訪問先の植木や立ち木をカムフラージュのために植え替えさせるなど障害を知られないよう神経質なまでに指示した。また、マスコミもあえて積極的に報道しなかったため、ルーズベルトに障害のあったことは当時のアメリカ国民にはほとんど知られなかった。前述の通り、彼の車椅子姿をとらえたメディアは殆ど無く、写真がわずか2枚ほど残されているだけである。
  • 1944年9月23日、ワシントンD.C.大統領選挙戦を開始したスピーチは「ファラ・スピーチ」と呼ばれる。アリューシャン列島にアメリカ海軍の駆逐艦を派遣して愛犬のスコティッシュ・テリアファラを迎えに行かせたという批判に言及したため。
  • 2001年に米国の身障者協会の運動で、ワシントンに車いす姿のルーズベルトの銅像が立てられた。
  • ルーズベルトの肖像は、米国の10セント銀貨に採用されている。
  • ルーズベルトは切手収集家としても有名であった。そのため在任中に発行された多くの切手について、郵政当局に発行の要望を提案、これを実現させるのみならず、(歴代大統領肖像図案の普通切手、国立公園切手、枢軸国に占領された国の国旗切手など)デザインの選定やシリーズの構成にまで関与した。切手収集家のためのサービス向上にも熱心で、切手カタログへの図版掲載に柔軟に対応できるよう法改正を進めた(これ以前は、たとえモノクロであっても切手の一部しか掲載することはできなかった)ほか、切手発行初日に特別の消印を使用させるなど、様々な施策をとった。個人的な趣味が行政に影響を与えたが、切手や彼が導入した施策は内外の切手収集家により、現在でも高く評価されている。またモナコで戦後発行された彼の追悼切手には切手を整理する姿が描かれている。
  • 推理小説の大ファンでもあり、シャーロック・ホームズ愛好家の団体ベーカー・ストリート・イレギュラーズの会員であった。また、彼自身が思いついたプロットでS・S・ヴァン=ダインらが『大統領のミステリ』と題するリレー長編を執筆したこともある。
  • ハーバート・フーヴァーは自著『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』においてルーズベルトについて「日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望だった」と、手厳しく批判を重ねている。
  • 当時下院議員だったハミルトン・フィッシュは、戦後ハル・ノートの存在を知り、ルーズベルトを非難した[73]
  • 死因は高血圧性脳出血であり、死亡日の血圧は300/190mmHgであった。1年前から最高血圧は200mmHg以上であった。当時高血圧の薬は実験的な報告が出たばかりであり、治療法はなかったという[74]


マルチメディア

ファイル:FDR video montage.ogv
ルーズベルトの映像集

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フランクリン・ルーズベルトが登場する作品

映画

脚注

  1. 近年世界史の研究書や辞典類では、ローズヴェルトと表記するものが多い。帝国書院 | Q&A 変わる社会科 -歴史
  2. フランクリン自身も米国人一般も/ˈroʊzəvəlt/と二重母音で発音する。日本では、綴りに引かれて/ˈruːzəvɛlt/と長母音で発音してしまう例が多い。
  3. The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー
  4. もっとも、1943年6月9日に成立したen:Current Tax Payment Act of 1943という源泉徴収法は、有事法であったはずが、戦後も特に根拠がないまま現行法であり続けており、国内労働者から批判される。
  5. ルーズベルト家のもともとの姓はRozenvelt ローゼンヴェルト, 英語で 'field of roses'の意
  6. ジェームズ・ルーズベルトはオイスター・ベイの一家の集いで妻に出会い、またフランクリンはセオドア・ルーズベルトの姪(この姪は後の妻・アナ・エレノア・ルーズベルトとは別人)と結婚する予定であった。
  7. 彼女の祖先は1621年にマサチューセッツに移住したフィリップ・デ・ラ・ノイ(Philippe de Lannoy)であった。その彼女の母親ライマンはアメリカの非常に古い家系のうちの一つの出身であった
  8. 東久邇日記
  9. フランクリンは後に友人に生涯、母親を恐れていたと語っている。
  10. Masonic Presidents”. Grand Lodge of Pennsylvania. . 2013年9月2日閲覧.
  11. Holland Lodge website. Cf. History section.
  12. 1912年の州議会議員選挙で再選されたが、海軍次官の職を引き受けるため1913年3月17日に議員を辞職した。Smith, FDR, pp 51-98
  13. 1914年、連邦上院議員選挙の民主党予備選挙でタマニー協会の候補ジェームズ・W・ジェラードに敗れる。
  14. Arthur Schlesinger, The Crisis of the Old Order, 364, citing to 1920 Roosevelt Papers for speeches in Spokane, San Francisco, and Centralia. The remark was at best a politically awkward overstatement and caused some controversy in the campaign.
  15. プロヴィデンス・ジャーナル紙とニューヨーク・タイムズ紙の報道により
  16. “Civitans Organize Here” (PDF). The New York Times. (1922年6月16日). http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&res=9A06E7DC1231EF33A25755C1A9609C946395D6CF . 21 January 2009閲覧. 
  17. "Franklin D. Roosevelt sees Davis a winner; Predicts also a Victory for Smith for Governor by a Decisive Majority," The New York Times, October 28, 1924, p. 3.また1924年および1928年民主党全国大会でルーズベルトはスミスの指名推薦演説を行っている。Morgan, pp. 267, 269-72, 286-87.
  18. そして、フランシス・パーキンスハリー・ホプキンスから助言を受けた。
  19. 1930年の再選のキャンペーンでは、ルーズベルトはニューヨーク市のタマニー協会の協力を必要とした。しかしながら、共和党の対抗馬チャールズ・H・タトルは選挙の争点としてタマニー協会の不正を取り上げるが、ルーズベルトは70万票以上の差をつけてタトルに勝利、2期目を務めることとなったWhitman, Alden (1976年6月10日). “Farley, 'Jim' to Thousands, Was the Master Political Organizer and Salesman”. The New York Times. p. 64 
  20. (Three R's - relief, recovery and reform.
  21. 「私は誓約します。私は、米国民のための新規まき直し政策を誓約します。 I pledge you, I pledge myself, to a new deal for the American people.
  22. Freidel, Frank. Franklin D. Roosevelt (4 vol 1952-73), the most detailed scholarly biography; ends in 1934.
  23. 24.0 24.1 U.S. Bureau of economic analysis>Interactive Data>National Economic Data>GDP & Personal Income>Bigin Using the Data>SECTION 1 - DOMESTIC PRODUCT AND INCOME>Table 1.1.6. Real Gross Domestic Product, Chained Dollars (A) (Q)>Options
  24. http://www.economist.com/node/21541388
  25. 26.0 26.1 U.S. Bureau of economic analysis>Interactive Data>National Economic Data>GDP & Personal Income>Bigin Using the Data>SECTION 1 - DOMESTIC PRODUCT AND INCOME>Table 1.1.5. Gross Domestic Product (A) (Q)>Options
  26. 27.0 27.1 U.S. Bureau of Labor Statistics>Publications>Compensation from before World War I through the Great Depression
  27. 28.0 28.1 U.S. Bureau of Labor Statistics>cpsa2011>Employment status of the civilian noninstitutional population 1941 to date
  28. White House>Office of Management and Budget>Historical Tables>Fiscal Year 2014>50 - 80Page>Section3 Federal Government Outlay by Function
  29. en:Executive Order 6102
  30. Swanson, Claude A. (1933年12月7日). “The Fleet Marine Force”. SecNav General Order No. 241. Marine Corps History Division. 2010年10月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2010閲覧.
  31. Tierney, Elizabeth L. (1962年). “A Brief History of Marine Corps Aviation”. Marine Corps Historical Reference Series – Number 18. Historical Branch, Headquarters Marine Corps. . 2007閲覧.
  32. Astor, Gerald (2005). Semper Fi in the Sky – The Marine Air Battles of World War II. New York City: Random House. ISBN 0-89141-877-6. 
  33. 歴史群像シリーズ決定版太平洋戦争1「日米激突」への半世紀 学研パブリッシング、2008年,70頁
  34. ただし、ルーズベルトが参戦を望んでいたのはアメリカの権益・領土に直接害が及ばないヨーロッパ戦線であり、ハワイフィリピンなどのアメリカ領土や植民地、中華民国内の租界などのアメリカの利権に直接被害が及ぶ可能性の高く、(ヨーロッパと太平洋の)2つの戦線で戦うことになる対日開戦には消極的であったとも言われている。
  35. 36.0 36.1 36.2 36.3 36.4 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
  36. ウィリアム・ルクテンバーグ『ローズヴェルト』陸井三郎訳、紀伊國屋書店,1968年,200頁
  37. Rosenman, Samuel I. (ed.) The Public Papers and Addresses of Franklin D. Roosevelt, v.6. Russell and Russell.1969,p410. 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
  38. 中村粲の翻訳では「不幸にも世界の無秩序という病気が広がっているようだ。身体の病気が広がり出したら、社会はその健康を守るため病人を隔離するものだ」となっている。中村粲『大東亜戦争への道』展転社 (1990)
  39. 『戦史叢書籍・支那事変陸軍作戦I』。笠原十九司『南京事件』岩波新書,38頁
  40. Hull, Cordell,The Memoirs of Cordell Hull, v.1, 1941,The Macmillan Company. p545. 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説 中村粲『大東亜戦争への道』展転社 (1990)
  41. Department of State, Peace and War: United States Foreign Policy, 1931-1941. Washington: United State Government Printing Office. pp.387-388.西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
  42. ウィリアム・ルクテンバーグ『ローズヴェルト』陸井三郎訳、紀伊國屋書店,1968年,180頁
  43. 毎日新聞、昭和十二年十月七日、朝日新聞同日。西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
  44. McJimsey, George (ed.) ,Documentary History of the Franklin D. Roosevelt Presidency, v.7. Bethesda, University Publications of America:2002, pp.7-8. 西川秀和前掲リンク
  45. Hans Heinrich Dieckhoff
  46. Rosenman, Samuel I, Working with Roosevelt. Da Capo Press. 1972,p166.西川秀和前掲リンク。
  47. ハミルトン・フィッシュ『日米・開戦の悲劇』PHP文庫、1992年
  48. Ryan Halford R. ,Franklin D. Roosevelt‟s Rhetorical Presidency. 1988.New York: Greenwood Press.p.141. 西川秀和 フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説
  49. Graff, Frank Warren,Strategy of Involvement: A Diplomatic Biography of Sumner Welles. Garland Publishing.1988,p206.西川 秀和 前掲リンク
  50. 西川秀和前掲
  51. NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第4回 開戦・リーダーたちの迷走」2011年3月6日放映。
  52. 第49回大本営政府連絡会議
  53. インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 - 8月17日の野村・ルーズベルト会談におけるアメリカ側回答の報告
  54. ハミルトン・フィッシュen:Hamilton Fish III)は「非常な平和愛好者である首相の近衛公爵は、ワシントンかホノルルに来てもよいからルーズベルト大統領と会談したいと、繰り返し要望していた。彼は、戦争 を避けるためには、米国側の条件に暫定協定の形で同意する意志があったが、ルーズベルトは、すでに対日戦、およびその帰結としての対独戦を行うことを決意 していたというだけの理由で、日本首相との話し合いを拒否した」としている。ハミルトン・フィッシュ『日米・開戦の悲劇』PHP文庫、1992年
  55. インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 - ルーズベルト親電画像へのリンクあり
  56. 『チャーチル回顧』
  57. 滝田賢治F.D.ルーズベルトの中国政策:第2次大戦期を中心として (PDF) 」 、『一橋研究』第30巻、一橋大学1975年12月15日、 98-114頁、. 2012閲覧.
  58. 59.0 59.1 歴史群像シリーズ決定版太平洋戦争9「日本降伏」学研パブリッシング、2010年,41頁
  59. 杉田米行テンプレート:DOClink」 、『大阪外国語大学アジア太平洋論叢』第6号、大阪大学大学院杉田研究室、1996年、 113-130頁、. 2012閲覧.
  60. 産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班 『ルーズベルト秘録』 産経新聞社、2000年12月、。
  61. 62.0 62.1 62.2 Christopher G. Thorne (1979). Allies of a kind: the United States, Britain, and the war against Japan, 1941-1945. Oxford University Press, 158-159,167-168. ISBN 0195201736. 
  62. ジョン・W・ダワー 『容赦なき戦争』 猿谷要、斉藤元一訳、平凡社ライブラリー、2001年。ISBN 978-4582764192。
  63. 前田徹、佐々木類、スコット・スチュアート「ルーズベルト秘録(上)」産經新聞社、2000年,30頁
  64. 長谷川毅『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(上)中公文庫、2011年、p64 - 65
  65. 在米ソ連大使アンドレイ・グロムイコ「回顧録」(Andrei Gromyko,Memoires,1990.邦訳『グロムイコ回想録・ソ連外交秘史』 読売新聞社)、W.A.Harriman,&E.Abel,Special Envoy to Churchill and Stalin,1975.前田徹、佐々木類、スコット・スチュアート「ルーズベルト秘録(上)」産經新聞社、2000年,31頁
  66. 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集(日本国外務省・ロシア連邦外務省編、1992年)
    • 23ページ目「ヤルタ会議における米ソ首脳発言(1945年)」
    • 24ページ目「ヤルタ協定」
  67. 歴史群像シリーズ決定版太平洋戦争9「日本降伏」学研パブリッシング、2010年,43頁
  68. 墓はニューヨーク市のウッドロン墓地にある。
  69. http://www.lodgestpatrick.co.nz/famous2.php#M
  70. FRANKLIN DELANO ROOSEVELT”. Masonic Presidents Of The United States. The Grand Lodge of Free and Accepted Masons of Pennsylvania. . 2013閲覧.
  71. What was the cause of Franklin Delano Roosevelt's paralytic illness? Journal of Medical Biography. 11 : 232-240,(2003)
  72. ハミルトン・フィッシュ著『ルーズベルトの戦争責任』草思社刊
  73. 連載「病理医があかす、知っておきたい“医療のウラ側”」第5回.『ルーズベルト米大統領を死に至らしめ、米ソ冷戦構造をつくった「迷信」とは?』 ヘルスプレス2016年1月6日

関連項目

ルーズベルトの主な政策

フランクリン・ルーズベルトの名がついたもの

外部リンク


スピーチ

その他

公職
先代:
ハーバート・フーヴァー
アメリカ合衆国大統領
1933年3月4日 - 1945年4月12日
次代:
ハリー・S・トルーマン
先代:
アルフレッド・E・スミス
ニューヨーク州知事
1929年 - 1932年
次代:
ハーバート・H・リーマン
官職
先代:
ビークマン・ウィンスロップ
アメリカ合衆国海軍次官
1913年3月17日 - 1920年8月26日
次代:
ゴードン・ウッドベリー
党職
先代:
アルフレッド・E・スミス
民主党大統領候補
1932年, 1936年, 1940年, 1944年
次代:
ハリー・S・トルーマン
先代:
アルフレッド・E・スミス
民主党ニューヨーク州知事候補
1928年, 1930年
次代:
ハーバート・H・リーマン
先代:
トーマス・R・マーシャル
民主党副大統領候補
1920年
次代:
チャールズ・W・ブライアン
受賞や功績
先代:
ルネ・ヴィヴィアニ
タイム誌の表紙を飾った人物
1923年5月28日
次代:
ジョン・L・ルイス
先代:
ドナルド・W・ダグラス
タイム誌の表紙を飾った人物
1943年11月29日
次代:
クレア・リー・シェンノート