ホセ・ラウレル

提供: miniwiki
移動先:案内検索
大東亜会議に出席したホセ・ラウレル大統領(右から二人目)(1943年東京)
ファイル:Stamp of José P. Laurel in 1945.JPG
ラウレルの肖像のある「独立1周年」記念切手(1945年)

ホセ・ラウレル: José Paciano Laurel, 1891年3月9日 - 1959年11月6日)はフィリピン共和国の第3代大統領。当時は第二次共和国で、日本軍政下であった。

コラソン・アキノ政権の副大統領サルバドール・ラウレル (Salvador Laurelの父。

来歴

生い立ち

1891年、アメリカの植民地支配下にあったフィリピンのバタンガス州タナワンの裕福な政治家の家に生まれ、1915年フィリピン大学法学部卒業

政治家

1923年、フィリピン植民地政府の内務長官に就任。その後、上院議員、憲法制定議会議員、最高裁判事司法長官等の要職歴任。

太平洋戦争大東亜戦争)勃発後は、アメリカ植民地政府を放逐しフィリピンを占領下に置いた日本に協力、フィリピン行政委員会委員を務めた。帝国議会東條英機首相が示した、フィリピン独立の方針を受けた独立準備委員会で委員長として憲法を起草した。

大統領就任

1943年に日本の影響下にある国民議会によって共和国大統領に選出され、同年11月にフィリピン共和国代表として大東亜会議に出席[1]。戦時中は親米ゲリラに2度狙撃された。

日本の敗戦が濃厚になると山下奉文大将の助言で1945年3月末、命からがらフィリピンを脱出し、台湾に向かう。台湾では当初、混ぜご飯に福神漬けという粗末な食事しか与えられなかった。その後、奈良ホテル亡命生活を送る[2]。1945年8月15日の日本の降伏後にマッカーサー元帥の命令により、戦犯指定により家族と横浜刑務所に二か月間、巣鴨拘置所に十か月間収監されていた[3]。終戦2日後の8月17日に第二次共和国の解散を宣言した。

帰国と政界復帰

帰国後、新たにフィリピンに設立された独立政府により、大戦中の協力により132件の反逆罪で訴追されたが、1948年4月にマニュエル・ロハスEnglish版大統領の恩赦を受けた。1949年の大統領選に再出馬し、現職大統領エルピディオ・キリノに敗れた。

その後1951年に上院議員に立候補しトップ当選し[4]1953年にはラモン・マグサイサイ大統領の擁立に尽力。1954年には経済使節団長として渡米し、「ラウレル・ラングリー協定」に署名。1957年に公務から引退した。1959年11月6日に68歳で逝去。

関連項目

脚注

外部リンク