ボストン・レッドソックス
テンプレート:MLBのチーム ボストン・レッドソックス(英語: Boston Red Sox、略称:BOS)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ東地区所属のプロ野球チーム。本拠地はマサチューセッツ州ボストンにあるフェンウェイ・パーク。
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概要
アメリカン・リーグ創設時からの球団で、一度もボストンから本拠を移したことが無いチームである。ワールドシリーズ8回優勝、アメリカンリーグ13回優勝を誇る。伝統的に長打力を重視した野球を志向し典型的なビッグボール派のチームと見られている。
愛称は1901年の球団創立当初はアメリカンズ、1902年~1903年がソマーセッツ(オーナーのチャールズ・ソマーズからとった)、1904年~1906年がピルグリムスと変わったとされ、他にもピューリタンズやプリモスロックスなどの愛称があったとされるが、実際には1901年からの7シーズンは単にホームタウンのボストン、もしくはナショナルリーグの「ボストン・ビーンイーターズ」(現:アトランタ・ブレーブス)に対し、「アメリカンリーグのボストン」を示すボストン・アメリカンズで通っており、その他の愛称は当時の新聞記者が自由につけていたもので、1908年シーズンから現在のレッドソックスが正式なものとなった。
1903年にアメリカン・リーグで初優勝し、しかもナショナル・リーグ優勝チーム(この年はピッツバーグ・パイレーツ)と初のワールド・シリーズで優勝して、その後1910年代には4回リーグ優勝を果たし、かつワールド・シリーズも4回優勝するなど、1901年から1919年までにリーグ優勝6回、ワールド・シリーズ優勝5回のアメリカン・リーグ屈指の名門チームである。その後は、台頭したライバルのニューヨーク・ヤンキースの後塵を拝し、戦後は1946年、1967年、1975年、1986年にリーグ優勝したが、ワールド・シリーズではいずれも第7戦で惜しくも敗れて敗退を繰り返した。しかし21世紀に入ってから、2004年、2007年、2013年にリーグ優勝を果たしワールド・シリーズも3回優勝するなど、ヤンキースと並ぶ人気球団である。
ユニフォームカラーは紺・赤で、ロゴデザインは赤い靴下1足である。本拠地のフェンウェイ・パークは現在メジャー・リーグ球団の本拠地球場では最も古い歴史を持つ。市街地の中心に建設されたため、球場自体はそれほど広くなく観客席も少ない。そのためレッドソックスの人気と相まってチケットは入手困難な状況が続いており、特に対ヤンキース戦といった人気カードではプラチナチケットと化す。
2003年5月15日から2013年4月10日まで、フェンウェイ・パークでは820試合連続チケット完売を記録した。
全米一熱狂的なファンを持つといわれ、同じアメリカン・リーグ東地区のニューヨーク・ヤンキースとは深い因縁がある。ベーブ・ルースの移籍以来、ア・リーグの盟主として君臨するヤンキースに対して、「バンビーノの呪い」とともにレッドソックスファンは強い敵愾心を持っている。
球団の歴史
1893年-1900年
1893年、ウエスタンリーグ (Western League) のオハイオ州トレド市に誕生した球団が前身とされている。1900年にアメリカンリーグが発足すると、当初の予定では本拠地をバッファローに置く予定だったが、結局ボストンに本拠地を置くこととなった。
1901年-1910年代
1901年、リーグ加盟と同時にセントルイス・カージナルスからサイ・ヤングを獲得。サイ・ヤングや選手兼監督のジミー・コリンズを中心に1903年には91勝47敗という成績でリーグ初優勝を遂げた。この年には第1回となるワールドシリーズが開催され、ピッツバーグ・パイレーツと対戦、5勝3敗で初代ワールドチャンピオンに輝く。翌1904年もリーグ優勝を果たすが、対戦相手であるはずだったニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)が対戦を拒否し、ワールドシリーズは開催されなかった。
1912年にはフェンウェイ・パークが開場[1]。この頃のレッドソックスでは、スライディングキャッチを得意としたハリー・フーパー、抜群の打球の読みで極端な前進守備をひき、いくつもの「センターゴロ」を捌いたというトリス・スピーカー、当時レフト後方にあった約3メートル(10フィート)の高さの土手を自由に上り下りしたというダフィー・ルイスの3人からなる、『100万ドルの外野陣』が知られていた。ニューヨーク・ジャイアンツとの対戦となったワールドシリーズでは、スモーキー・ジョー・ウッド投手の活躍もあり4勝3敗1分という僅差でこれを下し、2度目のワールドチャンピオンに輝く。
1914年にベーブ・ルースを獲得。ルースは1915年に投手として18勝、打っては打率.314、4本塁打という活躍でチームのワールドシリーズ制覇に貢献。1916年も変わらぬ活躍で23勝、防御率1.75で最優秀防御率を獲得し、チームも2年連続でワールドシリーズ制覇を成し遂げる。1917年はシカゴ・ホワイトソックスにリーグ優勝を奪われるが、1918年に5度目のワールドシリーズ制覇を果たす。ベーブ・ルースもこの頃から打者に専念するようになり、この年には11本塁打、翌1919年にはそれまでの本塁打記録を大幅に塗り替える29本塁打を放ち、本塁打王に輝いている。
1920年代
1920年1月3日、当時経営難にあえいでいたレッドソックスは、12万5千ドルの金銭と30万ドル以上の負債の肩代わりをすることを条件に、ベーブ・ルースをニューヨーク・ヤンキースにトレードした。この当時オーナーのハリー・フレジーが球団の資金難の解消のため、有力選手を次々と金銭トレードで放出し、主にヤンキースが買い取っていた。
当時のヤンキースは最下位が定位置の弱小球団だったが、彼のヤンキース移籍を期にヤンキースの成績が伸び始め、ベーブ・ルースが在籍した1920年代から1930年代にかけて8回のワールドシリーズ優勝、11回のリーグ優勝を成し遂げた。そしてそれに反比例してレッドソックスの成績は伸び悩み、1925年から6年連続最下位を記録するなど、優勝から大きく遠のいたシーズンが続いた。1921年から1927年までにヤンキースがワールド・シリーズで挙げた18勝のうち15勝は元レッドソックスの投手が勝利投手で、1920年代のヤンキースの黄金時代は『元レッドソックス選手の黄金時代』であったと言われる。
アメリカン・リーグ初期の名門チームの衰退は、ベーブ・ルースに呪いをかけられたようだとして、いつしかベーブ・ルースの愛称「バンビーノ」から「バンビーノの呪い」と呼ばれるようになった。
1930年代-1950年代
1933年、トム・ヨーキーが球団を買収しオーナーとなると、ヨーキーは球団の再建に着手した。ヨーキーは球団が利益本位のものであることを批判し、人々に敬愛されるチームを作ることを目指して、かつての名内野手で、当時フィラデルフィア・アスレティックスの名監督コニー・マックのもとで監督補佐をしていたエディ・コリンズをゼネラルマネージャーとして招聘し、コリンズに球団再建を託した。ヨーキーがオーナーとなって潤沢な資金提供を受けたコリンズは、アスレティックスから後の300勝投手レフティ・グローブ、1932年に本塁打58本(この記録は1998年にマグワイアとソーサに破られるまで右打者の最高本塁打数であった)を打ち2度MVPになった右の強打者ジミー・フォックス、セントルイス・ブラウンズから名捕手リック・フェレル、ワシントン・セネタースから遊撃手で後にレッドソックスの選手兼監督となったジョー・クローニンらの有力選手を獲得し、次に若手新人の発掘に努め当時パシフィック・コースト・リーグで二塁手として活躍し後にレッドソックス主将を務め殿堂入りを果たしたボビー・ドーア、そして後に打撃の神様と呼ばれたテッド・ウィリアムズを育てるなど、チームは徐々に力をつけていく。この中で特にテッド・ウィリアムズは生涯打率3割4分4厘、通算本塁打数521本、三冠王を2度達成し、1941年には打率4割6厘で今日まで「最後の4割打者」として輝いている。
これらのメンバーが揃ってついに1946年にレッドソックスは2位タイガースに12ゲーム差をつけて28年ぶりにリーグ優勝を飾った。しかしセントルイス・カージナルスと対戦した1946年のワールドシリーズでは第7戦で、3対3の同点で迎えた8回裏にカージナルスの1塁走者の暴走気味の本塁突入を遊撃手ジョニー・ペスキーの一瞬の迷いで生還を許して惜しくも敗れ、ワールドシリーズ制覇は成らなかった。1948年には、アメリカン・リーグのペナントレースでインディアンスと最終首位を分け合い、クリーブランド・インディアンスとワンゲームプレイオフとのプレーオフに持ち込んだが敗れた。続く1949年では最終の2試合を残してあと1勝でペナント獲得までいったが、ヤンキースに2連敗して逆転優勝を許してしまった。
この時期のレッドソックスはチームとしての実力は高かったのだが、1948年・1949年と2年続けて最終戦でペナントを逃し、やがて下降線を辿って1966年まで長い低迷期に入った。
1959年に球団初の黒人選手パンプシー・グリーンがメジャーデビューを果たした。これは、MLB球団の中で最も遅かった。1945年4月16日にニグロリーグから(ジャッキー・ロビンソン、マービン・ウィリアムズ、サム・ジェスロー)などが入団テストを受けたが、球団には契約の意思はなかった。1949年にウィリー・メイズの獲得の機会があったが、これをみすみす逃している[2]。この黒人選手の登用が最も遅れたことが長期の低迷の原因の一つとされている。
1960年代-1970年代
1960年代にはカール・ヤストレムスキーが中心となってリーグの優勝争いにも加わった。しかしレッドソックスは、何故かあと一歩のところで優勝に手が届かないという悲劇を繰り返すこととなる。
1967年にカール・ヤストレムスキーが打率3割2分6厘、本塁打44本、打点112で三冠王(この後に半世紀近くこれが最後の三冠王と言われたが2012年にデトロイト・タイガースのミゲル・カブレラが45年ぶりに三冠王を達成した)に輝きこの年にリーグMVPとなり、投手のジム・ロンバーグが22勝でサイ・ヤング賞を獲得して、レッドソックスは前年の9位からこの年は快進撃を続けて21年ぶりにペナントを獲得した(この時のナインには後に来日して巨人でプレーしたレジー・スミスがいた)。しかしワールドシリーズでは、セントルイス・カージナルスと再び対戦となり1勝3敗から盛り返して3勝3敗となって、最終第7戦に中2日でエースのロンバーグ投手を登板させ、一方カージナルスも中3日でエースのボブ・ギブソン投手がマウンドに立ち、このエース対決はカージナルスに勝利の女神は微笑み、またしても涙を呑む結果となった。
1972年は開幕直後のストライキとデトロイト・タイガースの最終直接対決に敗れたことが響いて0.5ゲーム差で地区優勝を逃してしまった。
1975年は2人の新人フレッド・リンとジム・ライスの驚異的な活躍もあって8年ぶりにペナントを獲得した。フレッド・リンは打率3割3分1厘、本塁打21本、打点105で新人王・リーグMVP・ゴールドグラブ賞に輝き(この3つのタイトルを同時に獲得したのはメジャーリーグ史上2人だけでこの年のリンと2001年のイチローのみ)、ジム・ライスも打率3割9厘、本塁打22本、打点102であった。しかし続くワールドシリーズではまたもや第7戦で敗れた。球史に残るシリーズとなったこの年のワールドシリーズは、ピート・ローズ、ジョニー・ベンチ、ケン・グリフィー、ジョー・モーガン、ジョージ・フォスターなどのビッグレッドマシンと呼ばれた強打者揃いのシンシナチ・レッズを相手に7戦のうち5試合が1点差ゲームで6試合が逆転勝利であった。そしてとりわけ第6戦は延長12回裏にレッドソックスの4番打者カールトン・フィスクがレフトポールに当たる劇的なサヨナラホームランで3勝3敗のタイに持ち込んだが結局第7戦で逆転負けを喫し、またもや涙を呑んだ。
1978年は一時2位ヤンキースに14ゲームもの大差をつけたが、故障者続出等で9月の直接対決4連戦に全敗したことも響いて、シーズン最終日に追いつかれ、ワンゲーム・プレーオフに敗れて地区優勝を逃してしまった。
1980年代-1990年代
1984年に「ロケット」ことロジャー・クレメンスがメジャーデビューを果たした。そして1986年には、4月29日にMLB新記録となる1試合20奪三振を達成し、この年に、クレメンスはサイヤング賞とリーグMVPを同時受賞し、他に安打製造機ウェイド・ボッグス三塁手が首位打者をとり、ビル・バックナー一塁手が102打点を挙げる活躍で11年ぶりにリーグ優勝を遂げた。そしてニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでは、3勝2敗で迎えた第6戦を延長10回表にデーブ・ヘンダーソンの本塁打などで2点をリードし、その裏も2人が凡退して2死走者無しであと1人で優勝という場面まで来たものの、そこからカーターとケビン・ミッチェル(後に来日してダイエー・ホークスでプレーした)がヒットで出塁し、ナイトがタイムリーヒットでカーターを返し、ここでレッドソックスは投手交代でスタンリーがマウンドへ。そのスタンリーが打者ムーキー・ウイルソンに投げた球がワイルドピッチでミッチェルが生還して同点となった。そしてカウント3-2から投げた低めの変化球でウイルソンの打った打球は一塁へボテボテの一塁ゴロ。これで延長戦と思われた瞬間、ビル・バックナー一塁手が「史上最悪のトンネル」とも呼ばれるエラーでまさかのサヨナラ負けを喫してしまった。そして第7戦も逆転負けで、「奇跡のシリーズ」と呼ばれたこの年も手に届くところまで来ていたワールドチャンピオンを逃してしまった。
その後、1988年・1990年・1995年に地区優勝を果たしたが、ワールドシリーズに進出できなかった。
2000年代-
2002年にセオ・エプスタインが史上最年少となる28歳でGMに就任し、2003年のアメリカンリーグチャンピオンシップ敗退後、積極的な戦力補強を進めた。ヤンキースとのチャンピオンシップ第7戦における継投ミスを問われ、グレイディ・リトル監督が解雇され、元フィラデルフィア・フィリーズ監督のテリー・フランコーナ監督が就任する。アリゾナ・ダイヤモンドバックスからトレードでカート・シリング投手を獲得し、フリーエージェントでオークランド・アスレチックスのクローザーだったキース・フォーク投手を獲得する。また、マニー・ラミレス外野手を放出し、テキサス・レンジャーズのアレックス・ロドリゲス遊撃手を獲得する計画も進んでいたが、このトレードは選手会の反発を受け、不成立に終わる(その後ヤンキースがロドリゲスをアルフォンソ・ソリアーノ二塁手らとの交換で獲得した。)。
2004年:呪いが解けた年
そして86年もの長きに及んだこの「バンビーノの呪い」も2004年のワールドシリーズ制覇により解かれることとなった。
2004年のペナントレースは4月はヤンキースとの直接対決を6勝1敗で乗り切り、アリーグ東地区を4ゲーム差をつけて首位に立つ。しかしその後チーム全体が低調となり、7月末の時点でヤンキースに10ゲーム差をつけられていた。7月末に長年チームの顔であったが、シーズン後にFAによってチームを去ることを確実視されていたノマー・ガルシアパーラ遊撃手をシカゴ・カブスに放出し、モントリオール・エクスポズからオーランド・カブレラ遊撃手、ミネソタ・ツインズからダグ・ミントケイビッチ一塁手、ロサンゼルス・ドジャースからデーブ・ロバーツ外野手らを獲得する。人気者のガルシアパーラを放出したことに非難が集中したが、のちにこれらの選手が重要な役割を果たすことになる。
8月に入るとチームは投打がかみ合い好調を維持する。結果8月は21勝7敗の好成績をあげ首位ヤンキースとのゲーム差を縮めることとなった。9月に入ってもヤンキースに追いつくことはなくアメリカンリーグ東地区2位で終わったが、勝率でワイルドカードを獲得した。
ディビジョンシリーズではアナハイム・エンゼルスを3連勝で下し、リーグチャンピオンシップシリーズは前年と同じヤンキースとレッドソックスの組み合わせとなる。カート・シリングが先発した第1戦を落とし、その上、シリングは足首の腱を断裂する怪我のため降板し、もはやシリングの再登板は絶望的とみられた。第2戦はペドロ・マルティネスが先発するが、1-3で2連敗を喫する。第3戦も落とし、0勝3敗と追い詰められる。しかし第4戦、9回裏に3-4と負けていながら、代走のデーブ・ロバーツの盗塁をきっかけにヤンキースの守護神であるマリアノ・リベラからビル・ミラーが同点打を放ち、延長戦の末にデビッド・オルティーズのサヨナラ本塁打でヤンキースを降す。第5戦も8回裏にリベラからジェイソン・バリテックの犠牲フライで同点に追いつくと、延長14回にまたもデビッド・オルティーズがサヨナラ安打。第6戦では負傷したかかとを応急手術で縫い合わせたカート・シリングが復帰し、「レッドソックス」の名前通り靴下を血で赤く染めながらの投球でヤンキース打線を封じ、最終的にレッドソックスは、MLB史上初となる3連敗から4連勝の大逆転を達成する。3連敗から4連勝しての勝ち上がりは、北米の他のプロスポーツ史上でも1942年のトロント・メープルリーフスと1975年のニューヨーク・アイランダーズと2010年のフィラデルフィア・フライヤーズ(いずれもNHL)の3例のみである。プレーオフ後、ヤンキースの監督であるジョー・トーリは、「第5戦の6回2死満塁の場面で守備がそれほど評価されていない選手(トロット・ニクソン)に好捕されたのがシリーズ(敗退)のポイントだった」と振り返った。
この年のワールドシリーズではセントルイス・カージナルスと対戦。緻密な野球を標榜するカージナルスと、細かい野球が苦手な自分達を『イディオッツ (idiots)』と呼んでいたレッドソックスとの好対照の顔合わせだったが、結果は4勝0敗でレッドソックスが1918年以来のシリーズ制覇を達成した。ポストシーズン8連勝はMLB史上初、4勝0敗でのシリーズ制覇は球団史上初であった。
2005年 - 2006年
2005年はヤンキースタジアムでシーズン開幕を迎えた。2005年はヤンキースやオリオールズと優勝争いを繰り広げて、オリオールズはオールスター明け後脱落(最終的には負け越しの4位に終わった。)、レッドソックスとヤンキースとの争いに絞られたが、終盤に追いつかれてしまい、勝率は同じだったが、前年東地区では2位だったためにワイルドカード扱いとなる。プレーオフはシカゴ・ホワイトソックスの前に敗退した。
2006年も前半は貯金20で折り返したが、その後は失速、8月上旬にヤンキースに首位を奪われると、同月18日からの本拠地での直接対決5連戦に全敗して脱落し、終盤にはトロント・ブルージェイズにも抜かれて11ゲーム差の3位だった。オフにはポスティングシステムを利用して、松坂大輔投手に対して5,111万1,111ドル11セントを提示(かつてレッドソックスにも在籍した大投手サイ・ヤングの通算勝利数511にちなむ)。独占交渉権を獲得し、松坂の入団が決まった。
2007年:3年ぶりのワールドチャンピオン
2007年は、シーズン当初から首位を独走し、一時は同地区との差を10ゲーム以上引き離していた。その背景には、 抑えとなったジョナサン・パペルボンやこの年の新人王を受賞する二塁手ダスティン・ペドロイアなどの生え抜きが台頭してきたことや長年の懸念材料であったブルペンが岡島秀樹の獲得やマニー・デルカーメンなどの活躍によってMLB屈指のブルペンになったこと、三塁手マイク・ローウェルや一塁手ケビン・ユーキリスなど守備も強化されたことが挙げられる。また、クレイ・バックホルツがデビュー2戦目でノーヒットノーランを達成したという明るい話題もあった。その結果、ニューヨーク・ヤンキースの地区10連覇を阻止し、チームとしても12年ぶりの地区優勝を成し遂げ、この年のMLB最高勝率(96勝66敗)も記録した。ポストシーズンも勝負強さを発揮し、クリーブランド・インディアンスとのリーグチャンピオンシップシリーズを1勝3敗からの3連勝で逆転勝利すると、ワンゲーム・プレーオフからポストシーズンを全勝で勝ち抜いてきたコロラド・ロッキーズを4連勝で下し、3年ぶりのワールドシリーズ制覇を成し遂げた。
2008年 - 2012年
2008年も地区優勝は確実と見られていたが、エースのジョシュ・ベケットや主砲のデビッド・オルティーズら主力選手の相次ぐ故障が響き、この年大躍進を遂げたタンパベイ・レイズにかわされ、地区2位となった。シーズン途中には癌(悪性リンパ腫)を克服したジョン・レスターがノーヒットノーランを達成し、大きな称賛を浴びている。結局ワイルドカードは獲得したものの、続くプレーオフでもレイズに敗れてこのシーズンを終えた。なお、同年末のストーブリーグでは、12月4日に田沢純一がメジャー契約を果たしている。この契約は、日本プロ野球への所属も経ず、さらにマイナー契約も経ずにメジャー契約となった日本人選手初のケースとなった。
2009年は大補強を施したヤンキース、前年リーグ優勝のレイズとの三つ巴の争いとなった。7月頃には一時首位を保持していたものの、オールスター明けにヤンキースに首位を奪われるとそのままヤンキースの独走を許し、2年連続でワイルドカード獲得の地区2位となった。プレーオフでは前年勝利したロサンゼルス・エンゼルスと再び対戦したが、0勝3敗で敗れてしまった。
2010年は、ジャコビー・エルズベリーをはじめ怪我人の続出で、地区3位に終わった。この年限りでマイク・ローウェルは引退した。
2011年は、オフシーズンにサンディエゴ・パドレスの主砲一塁手エイドリアン・ゴンザレス及びレイズの外野手カール・クロフォードを獲得し、打線がより一層強化され、前年とは大きく異なって、開幕から絶好調であり、単独地区1位になっていた。そして、オールスター後はヤンキースと地区1位を争い、更に、8月にオークランド・アスレチックスからトレードで外野手コナー・ジャクソンを獲得し、地区優勝に勢いをかけた。また、先発投手陣の不振を補うため、ヤンキースの黒田博樹をトレードで獲得しようと交渉していたが、当時の黒田の契約にはノートレード条項あったために果たせなかった。9月以降に大失速し、ヤンキースに地区1位を奪われ、ワイルドカードもレイズに奪われ、最終的には、前年同様地区3位でシーズンを終えた。9月30日には、テリー・フランコーナ監督が辞任した。更に10月にはセオ・エプスタインGMの辞任も発表され、86年ぶりの世界一をもたらした体制が一新されることになった。なおエプスタインの後任に彼の腹心だったベン・チェリントンが就任した。またジョナサン・パペルボンがFAとなって去った為、アスレチックスの抑えアンドリュー・ベイリーを獲得した。
2012年、ボビー・バレンタインが監督を招聘。しかしチームは低迷、バレンタインと主力選手の間にも軋轢が生じ、6月24日にケビン・ユーキリス、8月25日にジョシュ・ベケット、エイドリアン・ゴンザレス、外野手カール・クロフォード、内(外)野手ニック・プントがトレードで放出された。また前半戦は、ジャコビー・エルズベリー、ダスティン・ペドロイア、アンドリュー・ベイリー、後半戦はデビッド・オルティーズがDL入りするなど怪我人も多かった。その結果、69勝93敗で地区最下位に沈み、バレンタイン監督も解任された。松坂もこの年限りで自由契約となった。
シーズンオフは、10月20日に新監督ジョン・ファレルをトレードで獲得した。戦力補強においては、レンジャーズからFAとなった一塁手マイク・ナポリ、ドジャースから外野手シェーン・ビクトリーノ、アスレチックスから遊撃手スティーブン・ドリューと外野手ジョニー・ゴームス、マリナーズからも外野手マイク・カープを獲得した。投手については、松坂と入れ替える形で黒田の獲得を再度試みるが、黒田がヤンキースと再契約したためにまたしても果たせなかった。しかし、ピッツバーグ・パイレーツのクローザージョエル・ハンラハンや、レンジャーズからFAとなったライアン・デンプスターと上原浩治を獲得し、投手陣を揃えた。
2013年:6年ぶりのワールドチャンピオンとBoston Strong
2013年、開幕直後の2013年4月15日、ボストンマラソン爆弾テロ事件が起き、ボストンに暗い影を落とした。しかしながら、チームは「Boston Strong」を掲げ、上述の新加入組に加え、オルティーズ、外野手エルズベリーおよびダニエル・ナバ、二塁手ペドロイア、捕手ジャロッド・サルタラマッキアらの連綿と続く打線の爆発、投手陣もクレイ・バックホルツ、ジョン・レスターに加え、前年に手術でシーズンを棒に振ったジョン・ラッキーも再生し、開幕前の最下位予想を覆して、東地区1位を快走した。
5月から6月にかけては、無敗のバックホルツおよびクローザーのハンラハン、ベイリーが相次いで怪我により長期離脱、投手陣が崩壊の危機に晒されたが、ブルペンの田澤純一、5月にチームに合流した左腕クレイグ・ブレスロウ、そして6月27日以降クローザーとして圧倒的な成績(防御率1.09、WHIP0.565、連続アウト37人、連続27試合無失点)を残した上原浩治らの活躍により危機を脱出、更に7月30日、絶好調であった新人遊撃手ホセ・イグレシアスを三角トレードで放出、ホワイトソックスのエース、ジェイク・ピービーを獲得し投手陣を整えた。また後半戦は投手フェリックス・ドゥブロン、三塁手ウィル・ミドルブルックス、遊撃手ザンダー・ボガーツらの若手も活躍、7月末・8月末と、何度も首位に迫ったタンパベイ・レイズを9月には9.5ゲーム差まで突き放し、6年ぶりの東地区優勝をリーグ最多勝利(97勝65敗)で飾った。
ポストシーズンも粘り強い打線と強力なリリーフ陣で相手チームを圧倒、ワンゲームプレイオフとワイルドカードゲームを勝ち抜いたタンパベイ・レイズを3勝1敗、中地区王者デトロイト・タイガースを4勝2敗で破りアメリカンリーグ優勝、そしてア・リーグとナ・リーグの最高勝率同士の戦いとなったカージナルスとのワールドシリーズを第6戦で制し、95年ぶりに本拠地フェンウェイ・パークでのワールドシリーズ優勝を果たした(2004年、2007年は敵地で世界一)。前年地区最下位からのワールドシリーズ制覇は1991年ミネソタ・ツインズ以来、22年ぶり2チーム目であった。3度目の戴冠となったデビッド・オルティーズは、2013年のチームについて「2004年・2007年ほどの爆発力や才能を持つチームでは無かったけれど、ハートの強いやつらばかりだった。自分が出場した中で最も特別なワールドシリーズだったかもしれない。」と述べた[3]。
2014年 -
連覇を目指した2014年は、ジャロッド・サルタラマッキアがマーリンズへ、ジャコビー・エルズベリーが縁りによって伝統の一戦のライバルであるヤンキースへそれぞれ移籍。ワールドチャンピオンを支えた主力の移籍や既存の戦力(ナポリやペドロイア)の怪我や不振で、リーグ最多の145通りのバッティングオーダーを組まなければならない程、得点力が低下しリーグ最下位の2割3分2厘にまで低下し5月の16日から26日にかけて1994年以来の10連敗も経験した。シーズン途中にトレードなどでジョン・レスター、ジョニー・ゴームス、ジェイク・ピービー、ジョン・ラッキー、スティーブン・ドリュー、フェリックス・ドゥブロン、マイク・カープを放出した。ここ3年間で2度目の地区最下位に終わった。
2015年も低迷し、シーズン途中にトレードなどでエドワード・ムヒカ、ダニエル・ナバ、シェーン・ビクトリーノ、マイク・ナポリを放出した。
2016年は前回世界一の2013年以来、3年ぶりの東地区優勝を飾ったものの、ディビジョンシリーズで2004年から2011年まで率いたフランコーナ擁するインディアンスに3連敗を喫して敗退した。特に第1戦の5回に登場したミラーが好投し、第3戦に値千金のホームランを放ったクリスプという元チームメイトの選手に竹箆返しを喰らい、長年主砲として活躍したデビッド・オルティーズが引退し、背番号34が2017年より永久欠番となることが発表されたが、皮肉にもそのオルティーズがポストシーズンで9打数1安打と絶不調だった。[4][5]。
2017年も2年連続の東地区優勝を果たしたが、ディビジョンシリーズでヒューストン・アストロズに1勝3敗で敗退となり、10月11日にはファレル監督の解任が発表された[6]。
ヤンキースとレッドソックス
レッドソックスとヤンキースは長年のライバル関係にあり、数々の名勝負が繰り広げられてきた。
- 1904年、アメリカンズ(当時のレッドソックスの名称)とハイランダーズ(当時のヤンキースの名称)によるシーズン最終戦で、ハイランダーズのジャック・チェスブロ投手がサヨナラ暴投し、アメリカンズがリーグ連覇を成し遂げた。
- 1949年のシーズン最終戦でヤンキースと同率首位決戦を行った末、ヤンキースに敗退、リーグ優勝を奪われた。ヤンキースはその後ドジャースを下し、見事ワールドチャンピオンに輝いている。
- 1978年、レッドソックスが首位を独走していたが、2位ヤンキースが終盤に猛追。最終的に同率首位となり、1ゲームプレーオフを実施。試合はバッキー・デントの本塁打によってヤンキースが逆転勝利し、ヤンキースが優勝。最大14ゲーム差をひっくり返されることとなった。
- 2003年、地区優勝争いでヤンキースに敗れたが、ワイルドカードで見事プレーオフに進出した。しかし、アメリカンリーグ優勝決定戦で、またしてもヤンキースに激戦の末敗退した。
- 2004年も、前年同様に地区優勝争いでヤンキースに敗れ、ワイルドカードでプレーオフに進出した。リーグ優勝決定戦で、ヤンキースに3連敗しながら4連勝する大激戦を演じてリーグ優勝を決めた。その後、ワールドシリーズでもセントルイス・カージナルスに圧倒的な勢いで4連勝し、1918年以来86年ぶりのワールドシリーズ優勝を果たした。
- 2005年シーズン開幕戦、ヤンキースタジアムで「バンビーノの呪いは解けたのではなく、86年に一度しか優勝できなくなるものだ」と皮肉り、ヤンキースファンによって“2004+86=2090”(次の優勝は2090年以後だ)と書かれたプラカードが見受けられた。しかし3年後の2007年にナ・リーグ優勝チームのコロラド・ロッキーズと対戦し、4連勝でワールドシリーズを制覇したことから、「バンビーノの呪い」が完全にとかれた事を証明する形となった。対するボストンはヤンキースが球界最高年俸のアレックス・ロドリゲスを擁してワールドシリーズを全く制覇できないことから「Aロッドの呪い」として揶揄したが2009年にヤンキースがワールドチャンピオンになり、ロドリゲス自身も大活躍した。
どちらのチームもMLB屈指の人気を誇り、贅潤な資金で数々のスター選手を揃える。2007年シーズンのヤンキースとレッドソックスの年俸総額はそれぞれ2億770万ドルと1億6310万ドルで、MLB1位と2位である。コミッショナーに収めるぜいたく税(課徴金)はヤンキースが2388万ドル、レッドソックスが606万ドルにのぼる[7]。
日本ではヤンキースが最も人気のあるチームと報道されることが多い。確かに観客動員数ではヤンキースが上回っているが、それはヤンキースの本拠地ヤンキー・スタジアムの収容人数57,545人に対して、レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークは38,805人しか収容できないためである(客席を増やすための改築が現在進行中)。フェンウェイ・パークは入場券の平均価格が2006年春現在、46.46ドル(約5,500円)と9年連続30球団最高であるにもかかわらず456試合連続満員札止め状態(2008年9月8日時点、2003年5月15日から完売が続いている)[8][9]が続き、またビジターゲームでの観客動員はレッドソックスが1位である。そのため、アメリカではMLBで最も人気のある球団はレッドソックスだといわれている。ファンは全米一熱狂的といわれ、2004年のワールドシリーズでは、女子学生が死亡するという事態にまで発展した。
ベーブ・ルースの移籍以来、両チーム間の選手の移籍は禁忌とされ、特にレッドソックスからヤンキースへの移籍はファンから激しい非難を受ける。近年ではジョニー・デイモンがヤンキースに移籍した際に、フェンウェイ・パークで激しいブーイングを浴びた(他にはウェイド・ボッグス、ブルージェイズを経由したロジャー・クレメンスなど)。また両チームとも資金豊富なことから、選手の争奪戦も激しいものがある。「悪の帝国」発言の発端となったホセ・コントレラスや松坂大輔のように、毎年選手の争奪戦が繰り広げられる。
レッドソックスからヤンキースに移籍した主な選手
- カール・メイズ
- ベーブ・ルース
- ウェイド・ボッグス
- ラミロ・メンドーサ
- アラン・エンブリー
- マーク・ベルホーン
- ジョニー・デイモン
- ケビン・キャッシュ
- グスタボ・モリーナ
- ジャスティン・トーマス
- アルフレド・アセベス
- ダーネル・マクドナルド
- ジャコビー・エルズベリー
- マット・ソーントン
- スティーブン・ドリュー
- トミー・レイン
- ルイス・ティアント
- ボブ・ワトソン
- ウェイト・ホイト
- ハーブ・ペノック
- レッド・ラフィング
- スパーキー・ライル
選手名鑑
現役選手・監督・コーチ
アメリカ野球殿堂表彰者
選手
- ルイス・アパリシオ (Luis Aparicio)
- ウェイド・ボッグス (Wade Boggs)
- ルー・ブードロー (Lou Boudreau)
- ジェシー・バーケット (Jesse Burkett)
- オーランド・セペダ (Orlando Cepeda)
- ジャック・チェスブロ (Jack Chesbro)
- ジミー・コリンズ (Jimmy Collins)
- ジョー・クローニン (Joe Cronin)
- アンドレ・ドーソン (Andre Dawson)
- ボビー・ドーア (Bobby Doerr)
- デニス・エカーズリー (Dennis Eckersley)
- リック・フェレル (Rick Ferrell)
- カールトン・フィスク (Carlton Fisk)
- ジミー・フォックス (Jimmie Foxx)
- レフティ・グローブ (Lefty Grove)
- ハリー・フーパー (Harry Hooper)
- ウェイト・ホイト (Waite Hoyt)
- ファーガソン・ジェンキンス (Ferguson Jenkins)
- ジョージ・ケル (George Kell)
- ヘイニー・マナシュ (Heinie Manush)
- フアン・マリシャル (Juan Marichal)
- ペドロ・マルティネス (Pedro Martinez)
- ハーブ・ペノック (Herb Pennock)
- トニー・ペレス (Tony Perez)
- ジム・ライス (Jim Rice)
- レッド・ラフィング (Red Ruffing)
- ベーブ・ルース (Babe Ruth)
- トム・シーバー (Tom Seaver)
- アル・シモンズ (Al Simmons)
- ジョン・スモルツ (John Smoltz)
- トリス・スピーカー (Tris Speaker)
- テッド・ウィリアムズ (Ted Williams)
- カール・ヤストレムスキー (Carl Yastrzemski)
- サイ・ヤング (Cy Young)
球団経営者他
- トム・ヨーキー (Tom Yawkey)
永久欠番
レッドソックスには永久欠番に関する規定が存在する。
- レッドソックスに10年以上在籍
以前は、「レッドソックスでキャリアを終結した」および「アメリカ野球殿堂入り」という条件も存在していたが、2000年、シカゴ・ホワイトソックスでキャリアを終え、同年殿堂入りを果たしたカールトン・フィスクの背番号『27』が永久欠番に指定され、キャリア終結条件が廃止された[10]。また、2008年、殿堂入りしていないジョニー・ペスキーの背番号『6』が永久欠番に指定されたことにより、殿堂入り条件も廃止された。
- 1 ボビー・ドーア (Bobby Doerr)
- 4 ジョー・クローニン (Joe Cronin)
- 6 ジョニー・ペスキー (Johnny Pesky)
- 8 カール・ヤストレムスキー (Carl Yastrzemski)
- 9 テッド・ウィリアムズ (Ted Williams)
- 14 ジム・ライス (Jim Rice)
- 26 ウェイド・ボッグス (Wade Boggs)
- 27 カールトン・フィスク (Carlton Fisk)
- 34 デビッド・オルティーズ (David Ortiz)
- 42 ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson)
- 45 ペドロ・マルティネス (Pedro Martinez)
キャプテン
- ジミー・コリンズ (1901-1905)
- チック・スタル (1906)
- ボブ・アングローブ (1907)
- ディーコン・マグワイア (1908)
- ドク・ゲスラー (1909)
- ロード・ハリー (1910)
- ヘイニー・ワグナー (1911,1913-1914)
- ジェイク・スタール (1912)
- ジャック・バリー (1915-1917)
- ディック・ホビットゼル (1918)
- ハリー・フーパー (1919-1920)
- エベレット・スコット (1921)
- デル・プラット (1922)
- ジョージ・バーンズ (1923)
- マイク・メノスキー (1923)
- ジミー・フォックス (1940-1942)
- カール・ヤストレムスキー (1966,1969-1983)
- ジム・ライス (1985-1989)
- ジェイソン・バリテック (2005-2011)
ボストン・レッドソックス殿堂
ボストン・レッドソックス殿堂 (Boston Red Sox Hall of Fame) は少なくとも3シーズンをレッドソックスで過ごし、引退してから3年以上が経過している選手が対象となる[11]。ユニフォームを着用しない球団職員経験者に関しては満場一致が殿堂入りの条件となる[11]。
殿堂入り表彰者
ボストン・レッドソックス殿堂は1995年に設立され、2014年度の選考が終わった時点で84人が選出されている[11][12][13]。1995年の選出メンバーのうち16人は殿堂が出来る前にアメリカ野球殿堂で表彰を受けており、自動的に殿堂入りが認められた[11]。太字はアメリカ野球殿堂入りも果たした人物。
- エディ・コリンズ(1995年)
- ジミー・コリンズ(1995年)
- ジョー・クローニン(1995年)
- ボビー・ドーア(1995年)
- ジミー・フォックス(1995年)
- レフティ・グローブ(1995年)
- ハリー・フーパー(1995年)
- リック・フェレル(1995年)
- ハーブ・ペノック(1995年)
- レッド・ラフィング(1995年)
- ベーブ・ルース(1995年)
- トリス・スピーカー(1995年)
- テッド・ウィリアムズ(1995年)
- カール・ヤストレムスキー(1995年)
- トム・ヨーキー(1995年)
- サイ・ヤング(1995年)
- トニー・コニグリアロ(1995年)
- ドム・ディマジオ(1995年)
- フランク・マルゾーン(1995年)
- ジョニー・ペスキー(1995年)
- ジム・ライス(1995年)
- スモーキー・ジョー・ウッド(1995年)
- ジーン・R・ヨーキー(1995年)
- カールトン・フィスク(1997年)
- ディック・オコンネル(1997年)
- メル・パーネル(1997年)
- リコ・ペトロセリ(1997年)
- ディック・ラディッツ(1997年)
- ルイス・ティアント(1997年)
- カート・ガウディ(2000年)
- ケン·コールマン(2000年)
- ドワイト・エバンス(2000年)
- ラリー・ガードナー(2000年)
- ジャッキー・ジェンセン(2000年)
- ネッド・マーティン(2000年)
- ビル・マンボウクエッター(2000年)
- レジー・スミス(2000年)
- ボブ・スタンリー(2000年)
- リック・バールソン(2002年)
- ブー・フェリス(2002年)
- ルー・ゴーマン(2002年)
- ジョン・ハリントン(2002年)
- テックス・ヒューソン(2002年)
- ダフィー・ルイス(2002年)
- ジム・ロンボーグ(2002年)
- フレッド・リン(2002年)
- ウェイド・ボッグス(2004年)
- ビル・カーリガン(2004年)
- デニス・エカーズリー(2004年)
- ビリー・グッドマン(2004年)
- ブルース・ハースト(2004年)
- ベン・モンダー(2004年)
- ピート・ラネルズ(2004年)
- ヘイウッド・サリバン(2004年)
- ディック・ブレッシアーニ(2006年)
- エリス・カインダー(2006年)
- ジョー・モーガン(2006年)
- ジェリー・レミー(2006年)
- ジョージ・スコット(2006年)
- バーン・スティーブンス(2006年)
- ディック・ウィリアムズ(2006年)
- ジョージ・J・ディグビー(2008年)
- ウェス・フェレル(2008年)
- マイク・グリーンウェル(2008年)
- エドワード・F・ケニー・シニア(2008年)
- ビル・リー(2008年)
- エベレット・スコット(2008年)
- フランク・サリバン(2008年)
- モー・ボーン(2008年)
- ジョン・バレンティン(2010年)
- ドン・ジマー(2010年)
- トミー・ハーパー(2010年)
- エディ・カスコ(2010年)
- ジミー・ピアソール(2010年)
- マーティー・バレット(2012年)
- エリス・バークス(2012年)
- ジョー・ドブソン(2012年)
- ダッチ・レナード(2012年)
- ジョン・ムーニー(2012年)
- カート・シリング(2012年)
- ジョン・I・テイラー(2012年)
- ロジャー・クレメンス(2014年)
- ペドロ・マルティネス(2014年)
- ノマー・ガルシアパーラ(2014年)
- アイラ・フラッグステッド (2016年)
- ラリー・ルキーノ (2016年)
- ジェイソン・バリテック (2016年)
- ティム・ウェイクフィールド (2016年)
- バック・フリーマン (2018年)
- パンプジー・グリーン (2018年)
- デレク・ロウ (2018年)
- マイク・ローウェル (2018年)
- ケビン・ユーキリス (2018年)
傘下マイナーチーム
- ポートランド・シードッグス のホーム球場であるハドロック・フィールドは、レッドソックスのホーム球場であるフェンウェイ・パークと造りが似ている。レフトには、フェンウェイ・パークの「グリーンモンスター」と全く同じ高さの約11.3メートルの「メーンモンスター」がある。
公式応援歌
- ドロップキック・マーフィーズがチームの公式応援歌「Tessie」を歌っている。ホームでレッドソックスが勝つと試合後に曲が流れる。
脚注
- ↑ 当時は名物であるグリーンモンスターは存在しなかった。1936年に設置され、1947年に緑色に塗られるようになった
- ↑ 「歴史が動いた日-1947年7月5日 ア・リーグ初の黒人選手、ドビーがメジャーデビュー」『月刊スラッガー』2008年1月号、日本スポーツ企画出版社、2007年、雑誌15509-1、92-94頁。
- ↑ “WORLD SERIES MVP DAVID ORTIZ” (英語). iHigh.com. . 2013年10月31日閲覧.
- ↑ “Red Sox to retire Papi's No. 34 next year” (英語). . 2016閲覧.
- ↑ “Tribute to David Ortiz includes plan to retire his number” (英語). bostonglobe.com. Boston Globe Media Partners, LLC. . 13 October 2016閲覧.
- ↑ Ian, Browne. “Red Sox release manager John Farrell after five seasons”. MLB.com. . October 13, 2017閲覧.
- ↑ スポーツビジネス from NY 『ヤンキースとレッドソックスに“ぜいたく税”』 鈴木友也
- ↑ レッドソックス本拠地、455試合連続完売 メジャー記録に並ぶ 米大リーグ
- ↑ レッドソックス主催試合が連続完売 足掛け6年、メジャー記録を更新
- ↑ レッドソックス公式ページ
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 “Red Sox Hall of Fame” (英語). The Official Site of the Boston Red Sox. MLB.com. . 2014年2月18日閲覧.
- ↑ “Schilling, Barrett and Burks among seven selected for Red Sox Hall of Fame” (英語). Boston.com. . 2014年2月18日閲覧.
- ↑ “Clemens, Pedro, Nomar voted into Red Sox Hall of Fame” (英語). Foxsports.com. . 2014年2月18日閲覧.
関連項目
外部リンク
- 公式ウェブサイト (英語)
- レッドソックス野球殿堂サイト
- 歴代チームキャプテン(英語版)
- (英語)
- (日本語)
ワールドシリーズチャンピオン ロースター |
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