マルグレーテ2世 (デンマーク女王)

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テンプレート:Danish Royal Family マルグレーテ2世デンマーク語: Margrethe 2.1940年4月16日 - )は、デンマーク女王(在位:1972年1月14日 - )。

妹が2人おり、末妹のアンネ=マリーは元ギリシャ国王コンスタンティノス2世の王妃である。

経歴

ナチス・ドイツのデンマーク侵攻からわずか一週間後、当時王太子だったフレゼリク9世の長女としてアマリエンボー宮殿で誕生した。母はスウェーデン王女イングリッド。当時王位継承は男子のみであったデンマークでは、王太子の娘たちには王位継承権はなかった。

しかし、フレゼリクとイングリッドの間には、女子3人が誕生したものの男子は授からなかった。この時点では、フレゼリクの弟クヌーズ王子とその息子たちに王位継承がなされるはずであったが、クヌーズ王子よりもフレゼリクと娘たちの国民的人気が非常に高かったことから、フレゼリクに男子ができる事が望み薄になるにつれて、王位継承の変更を求める国民の声が高まった。これに後押しされる形で、1953年に行なわれたデンマーク王国憲法と王位継承法の改定により、男子優先ながら、男子のいない場合には女子にも継承権が認められ、弟のいないマルグレーテは13歳で推定相続人となった。

1958年4月16日、国家評議会の議席を与えられた。父王の不在時には議長を務めた。

ケンブリッジ大学パリ大学(ソルボンヌ)、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学んだ。 オーフス大学 (テンプレート:Lang-da-short) にも在籍した。

1967年6月10日フランスの伯爵家の出身で外交官のアンリ・マリ・ジャン・アンドレ・ド・ラボルドゥ・ド・モンペザ(Henri Marie Jean André de Laborde de Monpezat)と結婚。結婚に際し、アンリには「ヘンリク王子」の名と称号が与えられた。披露宴はフレゼンスボー城で行なわれた。

1972年、父王の死去に伴い女王に即位した。以降国家元首として公務に取り組む。デンマークでは初の女王であり、実質的な女王であった摂政マルグレーテ1世からでも560年ぶりである。また、クリスチャン2世以来デンマーク王の名前はクリスチャンフレゼリクであり、これら以外の名前の王は459年ぶりとなる。

人物

  • デンマーク語を母語とするが、フランス語スウェーデン語英語ドイツ語も堪能である。
  • 身長180cmの長身で、柔道の心得がある。美人で才能豊か、気さくな人柄で国民に絶対的な人気がある[1]。海外のメディア(テレビ、新聞を問わず)へのインタビューも国家元首という立場でありながら気さくに応じている。
  • 30代の頃に J・R・R・トールキンの『指輪物語』のデンマーク語版挿絵を担当しており、その絵はめったに自作の他分野作品を気に入らなかった原作者を喜ばせたという。
  • ヘビースモーカーである、コペンハーゲン市内の書店で立ち読みしていた、訪問先のフェロー諸島で民俗舞踊の輪に飛び入りで加わった、などのエピソードがある。また服飾デザイナーとしての顔も合わせ持つ。
  • 毎年大晦日の18時から約10分間、国民へ向けテレビを介してスピーチをしている。その内容は形式的で中身の無いパフォーマンスチックなものではなく、その時々の世界情勢や国民生活などを考慮した現実的で、かつ前向きなメッセージが込められたものとなっている。「これを観ないと年を越せない」という国民が居るほど、デンマークの大晦日には欠かせないものとなっている。

子女

フレデリック皇太子
2004年5月、オーストラリアタスマニア州出身のメアリー・ドナルドソンと結婚した。
ヨアキム王子
1995年に5歳年上の香港出身のキャリアウーマン、アレクサンドラ・マンリーと結婚。ヨーロッパ王室で初めてアジア出身の妃を迎えたことで話題になった。しかし、2004年9月16日に別居が王室から発表され、2005年4月8日に離婚した。2008年にフランス人マリー・カヴァリエと再婚している。

脚注

  1. マイケル・ブース 『ありのままのアンデルセン ヨーロッパ独り旅を追う』 晶文社、2017年。ISBN 978-4-7949-6950-7。

外部リンク

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