レーゲンスブルク

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レーゲンスブルク
Regensburg
レーゲンスブルクの位置
レーゲンスブルク
座標: 東経12度5分0秒北緯49.01667度 東経12.08333度49.01667; 12.08333
ドイツの旗 ドイツ
バイエルン州
行政管区 オーバープファルツ行政管区
郡独立市
行政区域 18 Stadtbezirke
行政
 - 市長 ハンス・シャイディンガー (CSU)
面積
 - 計 80.76km2 (31.2mi2)
最高部 471m (1,545ft)
最低部 326m (1,070ft)
人口 (2016年12月31日)[1]
 - 計 148,638人
郵便番号 93001 - 93059
市外局番 0941
ナンバープレート R
自治体コード 09 3 62 000
ウェブサイト www.regensburg.de

レーゲンスブルクドイツ語: Regensburgバイエルン語:Rengschburg)は、ユネスコの世界遺産に登録されているドイツ連邦共和国の都市。バイエルン州に位置する。人口は約12万人(2002年)。

レーゲンスブルクのザンクト・エメラム修道院(de)は、代々皇帝特別主席代理を務めた名残で、2013年2月現在もトゥルン・ウント・タクシス家の居所である。7世紀末から8世紀初頭にかけて、アキテーヌ出身のエメラムはレーゲンスブルクのバイエルン公の宮廷に赴き、重用されたが、アギロルフィング家のお家騒動に巻き込まれ、公の息子に致命傷を負わされた[2]

地勢・産業

バイエルン州東部、オーバープファルツの中心都市であり、ドナウ川レーゲン川の合流近くに位置する。そのため、水上運輸の要所としての役割を果たしている。歴史的景観と穏やかな気候から夏の保養地としても多くの旅行客を集める。近隣の都市としては、南西約55キロにインゴルシュタットが位置する。

歴史

1世紀ローマ帝国軍の駐屯地、カストロ・レギーナがおかれた。これが現在の地名の由来ともなる。6世紀頃、バイエルン族が居住するようになり、バイエルン大公の居城がおかれた。その後、8世紀後半にタシロ3世がカール大帝に屈服し、フランク王国の統治下に入った。その後も政治・経済の中心として重要な役割を果たしており、大司教座聖堂などを通じてその繁栄をうかがうことができる。13世紀半ばに「帝国自由都市」としての特権を認められていた。神聖ローマ帝国における帝国議会がこの地で幾度か開催され、1654年にレーゲンスブルクでなされた「最終帝国議会決議」は、正規の帝国議会における決議としては最後のものであった。1663年以降、それまで各地で開かれていた帝国会議は、レーゲンスブルクに常置された。1803年に独立を失い、マインツの代わりとしてマインツ大司教で神聖ローマ帝国の宰相であったカール・フォン・ダールベルクに引き渡された。カールは街を近代化させ、プロテスタントカトリック教徒に同じ権利を与え慕われた。1810年バイエルン王国に引き渡され、カールはフルダへと移った。1809年4月19日から4月23日までオーストリア軍とフランス軍が交戦し、街に大きな被害が出た。第二次世界大戦中にはドイツ軍の第8軍管区本部が置かれたが、連合軍空襲は小規模で、多くの歴史的建造物は破壊されずに残った。

レーゲンスブルク中心地のパノラマ

文化

1630年、この地で天文学者のケプラーが没している。

この街で「マクデブルクの半球」と呼ばれる真空実験が行われた(実験者ゲーリケマクデブルクの市長だったため、この名で呼ばれる)。

2006年、市の中心部に当たる旧市街と対岸の地区が「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」としてユネスコ世界遺産に登録された。

小惑星(927)のラティスボナ (小惑星)は、レーゲンスブルクのラテン語名に因んで命名された。

ベネディクト16世の出身地である。

レーゲンスブルク大聖堂  
レーゲンスブルク大聖堂(後部)  
ノイプファル広場  
レーゲンスブルク(夜間)  

関連項目

友好都市

引用

  1. バイエルン州統計・データ管理局 — 人口状況
  2. エーリヒ・ツェルナー 『オーストリア史』 彩流社 2000年 71頁

外部リンク


テンプレート:オーバープファルツ行政管区の郡および郡独立市