下総国

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下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)

現在の千葉県北部と茨城県の一部。東海道の一国。大国。『古語拾遺』によれば,初め総国 (ふさのくに) と称したが,のち上総 (かずさ) と下総とに分れたという。『和名抄』では上総を「かみつふさ」,下総を「しもつふさ」と読んでいる。「ふさ」とは麻のことで,よい麻が生産されるところとして,四国の阿波国から忌部氏が海路ここに移ったものとみられる。『旧事本紀』には印波 (いんば) 国造,下海上 (しもつうなかみ) 国造,『日本後紀』には千葉国造とある。国府,国分寺は市川市におかれた。『延喜式』には,葛餝 (かとしか) ,印旛,匝瑳 (さふさ) ,海上,香取,埴生 (はにふ) ,相馬,猿嶋 (さしま) ,結城,豊田の郡があり,『和名抄』には 87郷,田2万 6432町と載せている。平安時代中期以降,桓武平氏は関東にその勢力を伸ばしたが,ことに平将門は当国猿嶋郡を,また平忠常は相馬郡を本拠地として威をふるい,ついに反乱を起すにいたった。忠常の子孫は千葉氏として当国に重きをなし,鎌倉時代初期,千葉常胤が,石橋山の戦いに敗れて安房国に逃れた源頼朝を迎え,鎌倉幕府創立に協力した。その結果,鎌倉時代から室町時代にわたって千葉氏が守護として当国を支配したが,豊臣秀吉のときに徳川家康が江戸に入ると,千葉氏の支配は終った。江戸時代には佐倉,生実 (おいみ) ,関宿,結城,古河,高岡,小見川,多古,臼井などの小藩が分立した。明治4 (1871) 年廃藩置県で7月に藩は県となったが,11月に印旛県と新治県に合併され,のち 1873年印旛県は千葉県に,さらに 75年新治県は茨城県に編入された。