久米宏

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久米 宏(くめ ひろし、1944年7月14日 - )は、日本フリーアナウンサータレント司会者ラジオパーソナリティニュースキャスターTBSアナウンサー12期生[1][2]

埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)出身。オフィス・トゥー・ワン所属。血液型A型ドイツ親善大使も務める。

略歴

生い立ち

TBSアナウンサーとして

TBSからフリーに

ニュースキャスターとして

  • 1985年10月7日 - テレビ朝日の夜の大型ニュースショー番組『ニュースステーション』がスタート。メインキャスターを務める。フランクな司会ぶりは民放の報道番組に変革をもたらし、賛否両論を呼んだ。この間、引き続き『がん戦争シリーズ』など単発番組の司会は務めた他は、ほぼ『ニュースステーション』に専念。『おしゃれ』の終了と同時に、完全にこの番組一本となった。
  • 1989年10月10日 - 『ニュースステーション』の企画「ジャイアンツエイド'89」での公約を守り、プロ野球読売ジャイアンツ優勝を受けて丸坊主になる。さらに11月3日、1989年の日本シリーズを制した時の公約に従い、他局である日本テレビの夕方に放送されていた徳光和夫メインキャスターのニュース番組『NNNニュースプラス1』に出演し『読売ジャイアンツ、バンザイ!』と叫んだ。この一件は翌日の朝のワイドショーでも話題として採り上げられた。さらに、当時リクルート事件などで頻用されていた「ケジメ」という言葉が、この一連の出来事を伝える際にも使われるようになり、その結果、1989年版の現代用語の基礎知識流行語部門で「ケジメ」という言葉が銀賞を獲得した時、その言葉の代表例として、久米の名前が表記された。
  • 1990年代前半 - 正確な時期は不明なものの、この頃に左の鼻と口のあいだ付近にあったほくろを切除している。これは当時の映像ではっきりとなくなっているのを確認することができる。
  • 1990年 - 日本女性放送者懇談会20周年特別賞を受賞する[11]
  • 1990年4月 - TBSラジオの特別番組『大沢悠里のそれ行け!ラジオ天国』に出演。パーソナリティの大沢悠里永六輔とラジオをテーマに鼎談を行う。
  • 1990年5月 - ニュースステーションのキャスターとしての業績に対し、第27回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞[12]
  • 1994年9月24日 - ほぼ5年ぶりの日本テレビ出演となった『スーパースペシャル'94・久米宏の道徳の時間』の司会を務める(視聴率25.3%)。なお、この道徳の時間はその後、1995年6月に第2弾、1996年2月に第3弾が放送された。視聴率の伸び悩みや日本テレビ側からの第4弾出演依頼を固辞したことなどにより、第3弾で、打ち切りになった。
  • 1995年2月- TBSラジオの戦後50年特別番組『久米宏のトーク スクランブル』で10年ぶりにパーソナリティを務める。アシスタントには『ニュースステーション』共演者の小宮悦子を迎え、5時間の生放送を行った。
  • 1996年10月 - 『ニュースステーション』でのインドのルポの中で、インド人がよどみない日本語で話をする映像を見て、「しかし、外人の日本語は片言の方がいいよね」と発言、直後から有道出人の猛烈な抗議を受ける。ただし大きな問題として表面化はせず。トニー・ラズロが代表を務める、一緒企画からも回答願を出されている。2006年12月1日になって、久米本人から有道に対し、当発言に対する謝罪のメールがあった[13]
  • 1999年2月1日 - 『ニュースステーション』のダイオキシン問題に関する特集で埼玉県所沢市の葉物(実際には煎茶)から多く検出されたと伝えた。これにより、埼玉県所沢市産のホウレンソウなど野菜の価格が風評被害により暴落[14]。その後、2004年6月16日にテレビ朝日が農家側に謝罪。1000万円で和解した。
  • 同年10月6日 - 気力、体力の問題により『ニュースステーション』を降板。自身のウェブサイト、著書ではこの期間を「無職」としている。テレビ朝日は「休暇」としていた。
  • 2000年1月4日 - 『ニュースステーション』に復帰。ヒゲ姿で登場した。写真入りで「久米ヒゲ復帰」などの見出しが新聞各紙を飾った。番組はリニューアルされ、ロゴがカタカナ表記から英字表記(『NEWS STATION』)に改められる。
  • 2004年3月26日 - 『ニュースステーション』の放送最終日。エンディングでは、「今まで頑張った自分へのご褒美」と称してビールを飲みながら「本当にお別れです。さようなら!」と手を振り60歳を目前にして、18年半のメインキャスター生活のピリオドを打った。番組の終了の際、他局でも「ニュースステーション終了」が取り上げられたり、裏番組筑紫哲也 NEWS23』の筑紫哲也が番組内でコメントするなど、反響が大きかった。『ニュースステーション』終了後はテレビ朝日へは直接の出演を一切行っていない。

『ニュースステーション』終了以降

人物

  • 身長は『ニュースステーション』等で長らく、「私の身長は180cmです」と公言してきたが、後に縮んで、178cmになったことを明かしている。
  • 自動車愛好家であり[17]、動画配信番組『久米宏のCAR TOUCH!!』も作った[18]
  • 現在はテレビからは距離を置いており、テレビ出演に消極的な発言をしている。
  • 久米が入社した年のアナウンサー最終試験は試験官の前に、1台の赤電話が置かれ「赤電話を題材にして、自由にしゃべって下さい」という課題だった。他の志望者は「さぁ、いま私の目の前に赤電話が置かれております」「ここから一体、どの様な人間ドラマが始まるのでしょうか?」という実況型だったが、久米は赤電話を前に暫し、黙考。10円玉を取り出し、その場で、実家に電話をかけた。電話に出た母親と「もしもし母さん? 今、TBSで入社試験を受けているんだけど……」と普通に会話をし、そのまま終了した。みのもんた(久米と同い年)は、同年の試験に落ちて文化放送に入った[19]
  • 久米はあがり症で胃腸も弱く、病弱だったため、入社当初はアナウンサーとしての活動ができず、電話番の仕事が中心だった。病気が回復した1970年4月、「パックインミュージック」のパーソナリティーとして出演する事が決まった。本人は深夜から早朝の番組に、当初は消極的だったが、その後、出演を許諾。放送開始直後に行われた、TBSの社員健康診断で、医者から「結核を患っている」事を告げられ、番組を休養(事実上降板)。5回で降板した。その後を、林美雄が引き継がれた[8]
    1991年2月18日放送のテレビ朝日『徹子の部屋』放送開始15周年記念公開録画(会場:有楽町朝日ホール)で出演にした折にて、前述の対人恐怖症(あがり症)を告白した。この中で、「(観客ならば)3人ぐらいが限界」「スタジオの中は静かで、(出来ればカメラマンも)誰もいない状態が一番好きなんです」と答えていた。また、このとき黒柳は、『ザ・ベストテンin長崎』(1983年11月10日放送、300回記念公開放送)にて、このときニューヨークに滞在していた黒柳がこの公開放送のために国際電話で呼びかけた際、大勢の観客が観覧する長崎市の会場が土砂降りとなって大混乱したのも重なり、頭の中が錯乱状態になり、黒柳との会話も粗暴になってしまったと回顧している。ちなみに、この回は久米単独での司会であった。
  • 『ニュースステーション』は今日のニュース番組としては珍しく、一切プロンプターを使用せず、原稿を机の上に置いて読み上げる方式を終始一貫して行った。久米は自著で「視聴者の側を向いた、ニュースショー番組にしたかったから」と記している。番組の衣装選びは、妻であるスタイリストの麗子が担当した[20][21]。1987年にはベストドレッサー賞(スポーツ・芸能部門)、2004年には日本メガネベストドレッサー賞(文化界部門)を受賞もした。
  • 『ニュースステーション』担当時の夏季休暇(夏休み)は最大で3週間取っていた。
    • その休暇中に、重大ニュースが起こる事があった。アメリカ同時多発テロ事件も、久米の夏休み中に起こり、サブキャスターの渡辺真理が第一報を取り上げた。久米はその2日後に夏休みを切り上げて、復帰している。
    • 休暇中は人間ドックを受けた後、『ニュースステーション』を放送していない山陰地方の温泉を旅行する事が度々あったが、とりわけ『ニュースステーション』の視聴率が高かった近畿地方からの旅行者が多く、「番組を見られていないところに行ったはずなのに、『ニュースステーション観てます』と声をかけられて困った」と語っている。また、同じく放送がなかった宮崎県では、休暇中にゴルフを楽しんでいたところ、他のプレー客から「あなた最近テレビで見ないけど、仕事ないの?」と言われ、苦笑いした経験があるとも語っている。
  • 「僕は、社会党が政権を取ったら、アンチ社会党になりますから。これは間違いないです。共産党が政権取れば、アンチ共産党です。だいたいマスコミが政権と同じ所に立ったらめちゃくちゃですから、その国は。なぜ反自民かというと、政権を取っているからです。それ以外には、理由はないですね」[22]と語っているように、自身のスタンスは「反自民」ではなく「反政権与党」である旨を表明している。『ニュースステーション』キャスター当時、現政権を徹底的に糾弾するスタンスを曲げることはなかった。
  • 『ニュースステーション』での発言が賛否両論になったことに関しては「僕は思いつきの失言はしないんですよ。失言は予定通りです」とし、失言によって問題が起きることは「想定内」であったと「爆笑問題の日曜サンデー」(TBSラジオ系)で述べているが、直後に田中裕二に「まさかここまで(大ごとになるとは)ってのはあったでしょ?」聞かれた際には、一例として前述の所沢ダイオキシン問題を挙げている[23]
  • NHKのことを嫌いと話し、『NHK紅白歌合戦』の司会を打診されたとしても断るとしている[24]。長らくNHKへの出演歴自体もなかったが、2016年11月23日放送のNHK BSプレミアム結成50周年!コント55号 笑いの祭典』にゲスト出演、同局初出演を果たす[25]
  • 吉本隆明は、ニュースキャスターの筑紫や久米は、自分を棚上げにして、キレイごとやカッコいいことをいって、そのうえ他人にはキツイことばかり要求しているとし、「民衆の味方です」みたいな顔して発言をしているが、果たして筑紫や久米が普通の民衆なのかあるいは民主主義が身についているかといえば、そうではないと批判している[26]

スポーツ

  • 広島東洋カープのファン[27]。広島カープファンになった切っ掛けは、TBS入社同期の林美雄がカープの魅力を熱心に話すので影響されたと話している[28]。「林君も筑紫哲也さんも「反中央」「反権力」という自分の性格をカープに重ねたのではないか」と述べている[28]1989年に広島が優勝を逃して、巨人が優勝した際、ライバル局・日本テレビの『NNNニュースプラス1』に坊主頭で生出演し、巨人ファンの徳光和夫に半ば強制的に「巨人軍優勝、ばんざーい!」と言わされた[29][30]
  • 福岡ソフトバンクホークスのファンで、2000年、福岡ダイエーホークスの始球式に出た事がある。その時の背番号は「9:54」。これは、当時のフライングスタートを開始した『ニュースステーション』の開始時刻「9時54分」にちなんでいる。なお、始球式に至る練習風景や当日の様子は『ニュースステーション』で「久米さん、始球式ですよ!」として放送(当時のテレビ朝日のキャッチコピー「○○さん、テレビ朝日ですよ!」のパロディ)。
  • 2020年の東京オリンピック開催に、石原都知事が立候補表明した時点から反対し続けている(2017年6月時点も)[31]。「東京でやることの理由がわからない」などの思いから[32]

対人関係

  • 明るい性格で、外国人と、すぐに打ち解けられる人物である。
  • 『土曜ワイドラジオTOKYO』は前身『永六輔の土曜ワイド』時代から長年に渡り担当している。パーソナリティを務めた永六輔は久米にとって、放送業界での師匠格にあたる。
  • 生放送音楽番組『ザ・ベストテン』では、黒柳徹子との安定感ある早口[34]コンビで人気を博していた。その最中、テレビ朝日から『ニュースステーション』のキャスターの打診があった。テレビ朝日の社運を賭けた番組で、久米もキャスター業をしたいと思っていたため引き受けるが、スタッフから番組が決まるまで、絶対に口外しない事を告げられる。そのため、司会パートナーの黒柳やスタッフに本当の降板理由を告げられず、黒柳からは自身の自宅に久米を呼び、降板の理由を問い詰めたことがある。結果的には遺恨を残すような形での降板となる。後年、アナウンサーの2年後輩で[35]『ザ・ベストテン』のプロデューサーだった山田修爾が亡くなった際、降板の顛末をキチンと謝罪できなかったことを悔やむ発言をしている(『ザ・ベストテン』関係者では黒柳のみ謝罪している)。加えて『ザ・ベストテン』がなければフリー転身もその後の『ニュースステーション』もなかったと話している[36]
  • タマネギ」と呼ばれる黒柳徹子の髪型だが、この「タマネギ頭」の名称を考えたのは久米である[37]
  • 『ニュースステーション』と『NEWS23』のキャスター対決と注目された、筑紫哲也との関係は決して悪くなく、『ニュースステーション』の最終回終了直後の『NEWS23』では筑紫が賛辞を送った(上記参照)他、2人ともカープファンという共通性があり、1991年の日本シリーズ西武ライオンズ-広島東洋カープ)の対戦で、一緒に球場で観戦した[28]
  • 山口百恵の熱狂的ファンを公言しており、『ザ・ベストテン』時代は百恵の体に軽くタッチしたり、百恵が歌い終わった後、絶叫するなどし、同じく司会者である黒柳徹子に窘められるという場面が数多く見受けられた[38]。百恵が三浦友和との「恋人宣言」(後に結婚)発表した後の1980年にTBSで放送された、百恵の引退コンサート番組の司会を久米が務めている。
  • 阪神大震災の取材の際、森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者で、脳性麻痺の後遺症を抱える男性と偶然知り合い、現在も交流を続けている。彼との出会い以来、森永グループの製品を口にできなくなった。
  • 『ニュースステーション』の降板表明会見において、「後を受け継ぐ古舘(後継番組『報道ステーション』の初代メインキャスター)さんに何かメッセージありますか?」と記者に尋ねられた際、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ」と回答した。これに対し古舘伊知郎は『AERA』(2014年七月十四日号)のインタビューで「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど」「それから久米さん嫌いになったんですけど」と述べている。その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど」と語った[39]。ただし、その後久米は「いかにつらいか、大変さが手に取るように分かる。(最近は)見ていないけど、無意識のうちに避けているのかもしれない」「自分は家を土台から造った。自由に造って来た。でも、彼はその土台を壊す事をさせてもらえずに、建物を造る様にさせられている。その事に苦労していると思う」と古舘を気遣うコメントをしたことがある[40][41]
    • また、久米は「古舘君をはじめ、かなり人が勘違いしている。僕が『ニュースステーション』でかなりしゃべったというイメージを持っている方が多いんですが、ほとんどのニュースに関して、リード原稿は僕が読んでいたんです。僕が原稿を読んでいる時間が結講あったのを、フリートークだと思い込んで見ていた人がかなり多かった。このぐらいの時間、しゃべらないといけないんじゃないかと、後任者が思い込んだ可能性はあるんです。僕が本当にフリートークで話した時間は、短い時は2秒ぐらいですからね」とも述べている[42]
    • 2015年3月27日放送分の『報道ステーション』で発生し、問題視された古舘と古賀茂明のやり取りについて、古舘に対する批判とも取られる発言を行った[43]

現在の出演番組

ラジオ

テレビ

過去の出演番組

テレビ

TBS

日本テレビ

フジテレビ

テレビ朝日

テレビ東京

  • 久米宏 経済スペシャル
    • 「酒を飲まない、車に興味の無い、消費しない若者たち」(2008年6月1日)
    • 「1秒でも早く結婚したい女たち」(2008年12月28日)
    • 「激変するニッポンの食卓」(2010年11月14日)
    • 「東京って幸せですか?」(2011年12月18日)
    • 「実は日本人はデフレが大好きだった!?」(2013年1月16日)

BS民放5局共同キャンペーン

  • 久米宏のニッポン百年物語(2013年 - 2014年)
    • 「久米宏のニッポン百年物語 食の100年 おいしいは力だった」(BS日テレ)
    • 「久米宏のニッポン百年物語 医学の100年 日本人はなぜ長寿になったのか」(BSフジ)
    • 「久米宏のニッポン百年物語 流行歌の100年 未来に残すべきニッポンの歌」(BS-TBS)
    • 「久米宏のニッポン百年物語 鉄道の100年 日本人は鉄道がつくった?」(BS朝日)
    • 「久米宏のニッポン百年物語 家族の100年 人生相談にみる日本人」(BSジャパン)

パソコンテレビGyaO

ラジオ

TBS[44]

ニッポン放送

J-WAVE

  • Jam the WORLD(2003年12月19日) - 『ニュースステーション』年末スペシャルとのコラボレーション

NHK

  • すっぴん! (2017年11月17日) すっぴんインタビュー

NHK-FM

著書

  • 『知的センスおしゃれ会話入門』(1979年4月、青春出版社〈プレイブックス〉)
  • 『久米宏の新・素朴な疑問 ひまつぶしに笑ってみようか』(1981年4月、TBSラジオ編、ベストセラーズ〈ワニの本〉)
  • 『テーブルマナーなんか怖くない 食べ方でわかる女の魅力』(1981年7月、ベストセラーズ〈ワニの本〉)
  • 『シズルはいかが』(1984年7月、ケイブンシャブックス)
  • 『こんにちは、久米宏です』(1989年12月、ケイブンシャ文庫
  • 『もう一度読む「おしゃれ会話入門」 好印象と知性の隠し味をサラリ、のコツ』(1997年9月、青春出版社)
  • 『最後の晩餐 久米宏対話集』(1999年4月、集英社
  • 『ミステリアスな結婚』(2001年3月、久米麗子共著、世界文化社、のち講談社文庫
  • 『久米宏です。 ニュースステーションザ・ベストテンだった』(2017年9月25日、世界文化社)、ISBN 978-4-418-17506-2

関連人物


  • 鈴木史朗(5期先輩にあたるTBS時代の直属の上司。元TBSアナウンサー)
  • みのもんた(久米のライバル的存在としてよく引き合いに出される。元文化放送アナウンサー)
  • 古舘伊知郎(テレ朝「ステーション」シリーズ2代目キャスター、久米とは犬猿の仲とされている。元テレビ朝日アナウンサー)
  • 富川悠太(テレ朝「ステーション」シリーズ3代目キャスター。久米と直接の面識はないが、古舘とは違い富川へはラジオで多々エールを送っている)

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 「III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録」『TBS50年史 資料編』 東京放送、東京放送、2002-01。OCLC 166924883。「久米宏[1979.6退社]R「土曜ワイドラジオTokyo」「全国縦断ひろし・あきらの朝ですよ〜」TV「料理天国(1975)」「ぴったしカンカン(1975)」「ザ・ベストテン(1978)」」
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 2.15 2.16 2.17 2.18 2.19 2.20 2.21 2.22 2.23 2.24 2.25 「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF) 東京放送、東京放送、2002-01。「久米宏…[79.6 退社]R「土曜ワイド・ラジオTokyo(70)〈78年4月から、永六輔、三国一郎に次いで三代目のパーソナリティーとなる〉」「それ行け歌謡曲(70)」「パック・イン・ミュージック(70)」「TBS今週のベストテン(72)」「久米宏の朝ですよ〜!(73)」「ミュージック・イン・ザ・スカイ(73)」「ミュージックガイ(74)」「東京赤坂歌謡曲(74)」「TBS歌謡新人戦(75)」「歌のグランド・ステージ(76)」「全国縦断ひろし・あきらの朝ですよ〜(77)」「久米宏のラジオでデート(77)」「久米宏のクッキーデート(78)」TV「モーニングジャンボ(71)」「みんなで歌おう(75)」「料理天国(75)」「ぎんざ11:00(75)」「ぴったしカンカン(75)」「トップスターショウ〜歌ある限り〜(77)」「チャーミングおくさま(77)」「ザ・ベストテン(78)」★「ぴったしカンカン」〈第4回アノンシスト賞 グランダ・プレミオ賞受賞〉」
  3. 神山典士「(自殺)松宮一彦と(降板)久米宏を結ぶ「運命の糸」」、『現代』第33巻第12号、講談社1999年12月、 98頁。
  4. 「III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録」『TBS50年史 資料編』 東京放送、東京放送、2002-01。OCLC 166924883。「1967.4〈12期生〉8人入社(男8)青木靖雄、石森勝之、河野通太郎、小口勝彦、久米宏、林美雄、宮内鎮雄、米沢光規」
  5. 「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF) 東京放送、東京放送、2002-01、21-22。「67.4〈12期生〉8人入社、青木靖雄、石森勝之、河野通太郎、小口勝彦、久米宏、林美雄、宮内鎮雄、米沢光規」
  6. 「TBSアナウンサーの動き」『TBS50年史 付属資料・ハイブリッド検索編』(DVD-ROM & PDF) 東京放送、東京放送、2002-01、22。「1967年11月15日『アナウンサー研修室』設置〈アナウンサー研修室付兼ラジオ局第一制作部勤務者〉今村稔、小川哲哉、車尾具昭、五味陸仁、桐本幸子、手塚俊子、本田綾子、岩崎直子、遠藤泰子、藤田恒美、堀川恵子、堀川友子、青木靖雄、石森勝之、小口勝彦、久米宏、林美雄、宮内鎮雄、米沢光規、河野通太郎」
  7. 「子供を持たなかった夫婦の”決断” 久米宏「73歳の終活」 私、生前墓を建てました」、『FLASH』(1437)、光文社 p. 10
  8. 8.0 8.1 1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代(柳澤健・著、集英社 2016年5月31日)p.97 - 99
  9. 9.0 9.1 『文藝春秋』2003年、第81巻、266ページ
  10. 「VIII. 各種表彰 2.TBS主催の外部表彰 2.ゴールデンマイク賞」『TBS50年史 資料編』 東京放送、東京放送、2002-01。「贈呈日 1983.12 贈呈者 久米宏 石井和子 担当番組名 土曜ワイドラジオTokyo」
  11. 歴代受賞者”. 日本女性放送者懇談会 SJWRT. . 2016閲覧.
  12. 第27回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. . 2014閲覧.
  13. “「外人の日本語は片言の方が」久米さん10年後の謝罪”. asahi.com (asahi.com). (2006年12月21日). http://www.asahi.com/culture/tv_radio/TKY200612210282.html . 2013閲覧. 
  14. ニュースステーション#所沢ダイオキシン訴訟
  15. 『久米宏・経済スペシャル“新ニッポン人”現わる!』放送決定!”. 新着情報プラス. テレビ東京. . 2013-5-13閲覧.
  16. 久米宏さん、2億円を寄付……東日本大震災救援募金”. asahi.com. 朝日新聞社 (2011年3月19日). . 2013-5-13閲覧.
  17. #161 2時間SP!久米宏が愛した日本の名車たち! BS日テレ - おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR,NO LIFE!
  18. カータッチサイドストーリー - 久米宏 プライベートサイト
  19. ノーベル賞受賞者もみのもんたも就活で第一志望に落ちていた SAPIO 2011年3月9日号
  20. 第22回 久米麗子さん - イーウーマン 佐々木かをり対談 win-win
  21. (人生の贈りもの)わたしの半生 放送人・久米宏:8 72歳 - 朝日新聞、2016年10月26日
  22. 久米宏『アサヒ芸能』1992年5月14日号、徳間書店1992年
  23. 「所沢の方には迷惑かけた(笑)」 久米宏が「ダイオキシン騒動」振り返るJ-castニュース
  24. 2004年9月28日に東京都内で行った記者会見で発言。
  25. [1],日刊スポーツ,2016年10月21日
  26. 吉本隆明『私の「戦争論」』 ぶんか社、1999年8月。ISBN 978-4821106844。75頁
  27. 「金満球団と違う貧乏球団、奇跡の化学反応」久米宏さん”. asahi.com. 朝日新聞社 (2016年9月10日). 2016年9月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2013-5-13閲覧.野球はカープ、司会は久米宏???|TBSラジオAM954+FM90.5広島は物価が安いから?! 広島愛に溢れた久米宏がカープ選手の年俸の安さを解説- Book Bang、2016年9月23日
  28. 28.0 28.1 28.2 中国新聞 日刊 2016年10月9日28面『V7 私の鯉心(6) 久米宏さん』
  29. 巨人優勝で丸刈りになった久米宏(3/3)”. 日刊ゲンダイ (2014年1月16日). . 2016閲覧.
  30. 久米宏:「Nステ」坊主頭騒動を振り返る カツラ疑惑も…、MANTANWEB、2014-09-07
  31. 東京オリンピックでリスナー国民投票8割のリスナーが「返上」を支持! - 久米宏 ラジオなんですけど 2017年6月17日放送
  32. (人生の贈りもの)わたしの半生 放送人・久米宏:10 72歳 - 朝日新聞、2016年10月28日
  33. プロアナウンサーの「伝える技術」 石川顕
  34. TBSの同僚アナ・石川顯によると、久米は一分間に760字から800字ほど喋る時期もあったという[33]
  35. “黒柳徹子が涙、山田修爾さんとの出会い「宝物」”. サンケイスポーツ. オリジナル2014年2月9日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140209112416/http://www.sanspo.com/geino/news/20130904/oth13090405010005-n1.html . 2015閲覧. 
  36. 中居正広の金曜日のスマたちへ”. TVでた蔵(TV DATA ZOO) (2013年9月27日). . 2013年9月28日閲覧.
  37. [2],goo
  38. 百恵さんのおしりを…久米宏らが語るベストテン秘話”. 夕刊フジ (2009年4月21日). . 2016閲覧.
  39. 古舘伊知郎が懺悔告白“テレビはウソしか伝えていない”,LITERA,2014年7月15日
  40. 『久米宏と1日まるごと有楽町放送局』での公開記者会見にて発言。
  41. 久米宏過激に復帰 渡辺前オーナー口撃,Sponichi Aneex,2004年9月21日
  42. [3],スポーツニッポン,2016年4月23日
  43. 久米宏氏、報ステに苦言 古賀氏降板問題「僕が司会なら最後まで聞いた」,ZAKZAK,2015年5月30日
  44. ラジオ東京スピリッツ〜TBSラジオ開局60周年〜過去のラジオ番組表
  45. 2018年6月3日1:00 - 3:30(2日深夜)にNHK総合テレビで『秋元康の超プレミアム対談[4]』と題した特別番組が放送。テレビ向けに再編成され、予告篇で「総合テレビ初出演!」とテロップが入る。

参考文献

外部リンク


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