京都法政学校

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ファイル:Kyoto Hosei Gakko (Before 1935).jpg
京都法政学校 初期の姿(1901年)
京都市上京区清和院町口寺町東入中御霊

京都法政学校(きょうとほうせいがっこう)は、1900年明治33年)に中川小十郎らによって創設された私立学校で、現在の立命館大学(学校法人本部:京都市中京区)の前身。

本項目では後身たる専門学校令準拠の京都法政専門学校京都法政大学立命館大学についても扱う。

概要

京都法政学校設立の構想と経緯

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西園寺公望と中川小十郎
中川は、戊辰戦争以来西園寺に仕えていた丹波郷士中川家に生まれた。叔父で東京女子高等師範学校校長を務めた中川謙二郎の勧めで13歳の時に上京。西園寺の取り立てで貴族院議員として活躍する一方、西園寺の意思を引き継いで発展した立命館大学の運営にも尽力。中川は西園寺の薨去まで側近として仕えた。

1894年(明治27年)、文部大臣に就任した西園寺公望が「高等教育の拡張計画」を立案。第一項に、東京帝国大学と相呼応して国家の需要に応じられる高等教育機関を京都にも設置することの必要性を挙げた。これに基づいて省内に設置した京都帝国大学「創立準備委員」が1897年(明治30年)「京都帝国大学ニ関スル件」(大学設置令)を公布し、京大創設の流れが固まった。当時、文部省専門学務局勤務から文部大臣秘書官として西園寺文部大臣直属となった中川小十郎が、京都帝国大学初代事務局長に任命され大学業務を総括。京都帝国大学初代総長に就任した木下廣次らとともに、大学創設の中心的役割を担うことになった。

京都帝国大学創設事業に区切りがついた1898年(明治31年)、中川小十郎は文部省参事官の職を辞し実業界へと転身。加島銀行理事への就任を皮切りに株式会社大阪堂島米穀取引所監査役、朝日生命保険株式会社(現在の大同生命副社長に就任するなど経済人として活躍した。しかし、自らが創設の中心に関わった京都帝国大学が制度上旧制高等学校卒業生しか受け入れることができず、西園寺公望が提唱した「能力と意欲のある人に国として(教育の)機会を与えるべき」という教育理念からもかけ離れている実態に限界を感じ、自ら私学を興すことを思い立つ。翌年、教学面での協力を京都帝国大学教授だった織田萬井上密岡松参太郎らから得るとともに、学校設立事務については、西田由[1](朝日生命株式会社 専務取締役)、橋本篤[2]大同生命保険株式会社 初代支配人)、山下好直[3](京都府議会議員)、河原林樫一郎[4]東洋レーヨン 常務取締役)、羽室亀太郎[5]京津電気軌道 支配人)らの協力を得て、また設立賛助員として京都政財界の大物(内貴甚三郎[6]浜岡光哲田中源太郎中村栄助[7]雨森菊太郎高木文平、河原林義雄[8])の力を借り、京都法政学校設立事務所を朝日生命保険株式会社の一角に設置した。

1900年(明治33年)5月4日、京都府知事に対し「私立京都法政学校設立認可申請書」を提出。同年5月19日、晴れて設置が認可され、同6月5日に開校式典を開いている。初代校長には、民法起草者の一人で東京帝国大学教授富井政章が就任した。富井は1927年昭和2年)8月31日まで京都法政学校長、私立立命館大学長の任にあたった。

京都法政学校の設立

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清輝楼
開学当初の1年間、講義が行われていた「清輝楼」(旧・吉田屋)の外観。「薩土同盟」締結の際、坂本龍馬中岡慎太郎らが立ち会った場所としても知られる。(写真は跡地に建てられた記念碑から)

設立の中心を担った中川小十郎が「初めより浮華を斥け堅実を旨とした」(「序文」『立命館三十五周年記念論文集文学編)と述べているように、設立当時は満足な校地も学舎も用意する余裕はなく、上京区東三本木通にあった料亭「清輝楼(旧・吉田屋)」の二階および三階部分を間借りして講義を行っていた。社会人教育を目的に夜間学校(三年制)として設立されたため、学生には官庁職員、府立学校教諭、府の名誉職にあるものなどが多く含まれていた。また専任教員を雇う余裕もなく、講義のほとんどを京都帝国大学教授が担当していた。その校名が示すとおり、設立当初は法学・政治学の2学科を置くのみであった。しかし開講直後に京都府に提出した「校舎敷地貸与願書」では、「将来は法政だけではなく文学、医学の二科を増設し、中学教員および医師を養成して、わが国教育の一大欠点を補充する一機関にしたい」と表明していることから、京都法政学校の校名は設立当時の一時的なものと考えられていたことが窺える。実際、1904年(明治37年)には大学部に「経済科」が設置され、法政学校の域を越える体制となっており、翌年には「立命館」という新しい学校名称の命名に向けた具体的な動きも見られる。なお、1889年(明治22年)に設立された京都法学校は、実質的に京都法政学校が引き継ぐ形で吸収されており、校主の山崎恵純は引き続き京都法政学校で教鞭を取ったと記録されている。

設立以降

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立命館大学広小路学舎(1920年代)
ファイル:Ritsumeikan Hirokoji Cumpus 1956.JPG
立命館大学広小路学舎(1956年)
1981年昭和56年)に衣笠キャンパスに全面移転するまで、約80年にわたり学校法人立命館の本部キャンパスとして機能した。校地面積は2,200m2程しかなく、総合大学としては極めて狭いキャンパスだった。現在は京都府立医科大学の一部になっている。
ファイル:Stone Memorial (Ritsumeikan School Site in Hirokoji, Kyoto, Japan).JPG
立命館大学広小路学舎記念碑
(題字は書家で立命館OBの今井凌雪が手掛けた)

京都府に提出した「校舎敷地貸与願書」では、当時上京区土手町通丸太町下ル駒之町にあった「旧京都府立第一高等女学校」の校舎と敷地の期限付貸与を申し出たが、「京都府立第二高等女学校」の利用が決まったためにこれを断念。そこで1901年(明治34年)12月西園寺公望の実弟で第15代住友家当主・住友公純から1,500円の寄付を得るなどして上京区広小路通河原町(中御霊町410番地)に校地と学舎を確保し移転した。この広小路校地は1981年昭和56年)に衣笠キャンパス(北区等持院北町)に移転するまでの約80年間、立命館大学の本部キャンパスとして機能した。

1903年(明治36年)に専門学校令により「私立京都法政専門学校」に組織変更。翌1904年(明治37年)、「私立京都法政大学」に改称、大学部(法律学科、経済学科、予科)、専門学部(法律科、行政科、経済科、高等研究科)を設置。1905年(明治38年)には、西園寺公望が明治2年に京都御所内の私邸に設置した「私塾立命館」の名称の継承を願い出てこれを許可され、1913年大正2年)「財団法人立命館」を設立すると共に、校名を「私立立命館大学」と改称した。財団法人立命館専務理事には、西園寺公望の実弟で、京都法政学校創設以来学園運営に尽力した末弘威麿が就任。末弘は中川と、財団法人立命館初代理事および私立立命館大学設立者の座を共有した。

現在、京都法政学校が仮学舎とした「清輝楼」の跡地には、「立命館草創の地」を示す記念碑が建っている。また、1901年(明治34年)から1981年(昭和56年)まで学校法人本部のあった「広小路学舎」跡地(旧中川会館付近)にも「立命館大学発祥の地」記念碑が建てられている。

創立の主意

政府は曩に一の帝国大学を京都に新設し、天下学問の中心を東西二都に置くの制を採れり、蓋し東西二大学の競争をして学問進歩の動機たらしめんとするに在るべし、而して東京には帝国大学の外各種の官私学校ありて各般学生の志望に充つることを得、青年の志を立つる者此に集合し自ら既に天下学問の中心たり、然るに京都に在りては帝国大学新たに設置せられ関西の学術大に振るわんとし青年の志を有して京都に集まり来るもの頗る多きも、大学の門戸は未だ高等学校卒業生以外の志望者を迎ふるに至らず、大学以外に在りて高等の学術を修めんとするも其機関あることなし、是れ頗る恨事なり、爰に於てか有志の者相図り京都法政学校を新設し、講義を京都帝国大学教授及其他博学知名の諸氏に嘱託し、政治法律経済に関する高等の学術を広く社会に紹介するの一機関たらしめんとす、是れ蓋し、一は政府か学問の中心を東西の二都に置かんとするの趣意に賛同の意を表し、又一は帝国大学か広く門戸を開放して高等学校卒業生以外の志望者を迎ふる能はさるの欠点を補はんとするの微意に出つるものなり(「立命館大学沿革略」『立命館学報』二 一九一五・大正4年3月)

創設賛助員

第一期入学生

第一期生について

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立命館大学
1930年(昭和5年)頃の広小路学舎の様子

1900年(明治33年)の開学時、京都法政学校への志願者数は360名だった。このうち305名(法律科:225名、政治科:80名)を第一期生として受け入れたが、入学から三年後、実際に卒業できたのは57名(法律科:47名、政治科:10名)のみであった。卒業生57名のうち20歳から25歳が過半数。20歳未満は約2割。26歳以上が3割弱。最年長者は41歳だったと記録されている。

第一期生卒業式は1903年(明治36年)7月12日に講堂にて執り行われ、来賓として京都帝国大学教授・助教授のほか、第三高等学校長、京都地方裁判所所長、京都弁護士会会長代表、京都府議会副議長、地元選出代議士京都府庁参事官、視学官など多数が参加し、一私学としてはかなり盛大なものとなった。卒業式当日、東京にあって入洛できない校長の富井政章に代わり、教頭井上密卒業証書の授与を行い、来賓代表の木下廣次(京都帝国大学総長)が祝辞を述べた。翌日には、浅田賢介教授、井上密教授、岡松参太郎教授、織田萬教授、島文次郎教授、田島錦治教授、仁井田益太郎教授らが参加して謝恩会が開催され、知恩院桜門前で卒業記念撮影会開かれた。

第一期生履修科目と担当者

ファイル:Stone Memorial of Ritsumeikan University (Kyoto, Japan).JPG
「立命館草創の地」を記念して建てられた石碑(京都市上京区東三本木通)

学術活動

京都法政学校では設立当初より「討論会」が開かれており、優秀者には賞典が与えられていた。1903年(明治36年)には学内外で「討論会」、「学術講演会」が開催されたことが記録されている。他に、岡山市広島市など地方都市への「出張講演会」も行われており、こうした行事には一期生も参加していた(『法政時論』四 - 一、一九〇三年一一月)。

関連項目

出典

  1. 西田由(1853年-1913年、にしだ・ゆう):京都府丹波国北桑田郡(現・京都府南丹市神吉村生まれ。京都電気鉄道会社初代社長・高木文平の実弟。6歳のとき西田家に養子に入った。1897年(明治30年)、京都帝国大学書記官(事務総長)・中川小十郎のもと、庶務課長として京都帝大創設にかかわった。1898年(明治31年)退官し、島根県師範学校校長に就任。翌1899年(明治32年)には、中川小十郎に請われ朝日生命保険株式会社(現在の大同生命)専務取締役として財界に籍を置く傍ら、京都法政学校の創立事業に参加し、同校理事を務めた(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)。
  2. 橋本篤(1869年-1911年、はしもと・あつし):京都府丹波国北桑田郡(現・京都府南丹市)神吉村生まれ。同志社、東京法科大学で学んだ後、京都府議会議員、郡会議員になった。中川小十郎に請われ、朝日生命保険株式会社(現在の大同生命)で営業部長として活躍。その後中川が京都法政学校設立に動き出すとこれに参画し、同校創立後は理事、講師を務めた。1911年(明治44年)、大同生命常務取締役、加島屋理事在職中に亡くなった(大同生命保険株式会社 初代支配人)(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)。
  3. 山下好直(1865年-1941年、やました・よしなお):京都市上京区の竹園校(後の室町校)で校長を務めた。慶應義塾を経て東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業。宮内省に入省したが、1897年(明治30年)京都帝国大学会計事務に転任した。京都法政学校創立の中心メンバーとして活躍した。自宅は京都市上京区の上御霊神社近くで、中川小十郎の妻・好栄の所有地の向かい側だった(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)。
  4. 河原林樫一郎(1874年-1939年、かわらばやし・けんいちろう): 京都府北桑田郡(現・京都府南丹市)山国村生まれ。同志社、東京専門学校(現在の早稲田大学)で学び、卒業後はベルリン大学に留学。帰国後、東洋レーヨン三井物産などに勤務した。河原林義雄の長女と結婚した。「法政時論」第五号(明治38年5月)および第六号(明治38年6月)に「現今の帝国主義的思想」という論文を発表した(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻)。
  5. 羽室亀太郎(1861年-1941年、はむろ・かめたろう):京都府綾部出身。郡是製糸株式会社(現・グンゼ)初代社長・羽室嘉右衛門、二代目社長・波多野鶴吉(郡是製糸株式会社創業者)の実弟。京津電気軌道の支配人、常務取締役を経て社長に就任。株式会社中立貯蓄銀行松原支店支配人、株式会社京都農商銀行取締役在職中に京都法政学校の創立に関与。同校創立後は理事に就任した(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)。
  6. 内貴甚三郎(1848年-1926年、ないき・じんざぶろう): 1898年(明治31年)から1904(明治37年)まで初代京都市長を務めた。退任後は衆議院議員となり、その後京都商工銀行取締役、京都商業会議所副会頭となり、田中源太郎浜岡光哲大澤善助らとともに、「京都四元老」と呼ばれた。長男・内貴清兵衛も1928年(昭和3年)から1934(昭和9年)、1936年(昭和11年)から1941年(昭和16年)まで、財団法人立命館の協議員だった(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)。
  7. 中村栄助(1849年-1938年、なかむら・えいすけ): 京都市下京区生まれ。河原林義雄とともに京都農商銀行の経営に携わっていたが、政界に転身し京都市初代市会議長として活躍。1890年(明治23年)から1902年(明治35年)まで衆議院議員としても活躍した。財界においては1887年、関西貿易合資会社、1888年、京都電燈株式会社を設立し取締役・監査役を務めた。また京都倉庫、京都米穀取引所、京都商品取引所、鴨東銀行、京都鉄道、京都電鉄、京福電鉄、都ホテルなどの設立・運営事業などに、京都財界人として貢献した。(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)
  8. 河原林義雄(1851年-1910年、かわらばやし・よしお):京都府丹波国北桑田郡(現・京都府南丹市)山国村生まれ。中川小十郎に請われ京都法政学校の設立発起人となる。明治30年代には株式会社京都米穀取引所理事長、自ら設立した株式会社京都農商銀行頭取を務めた財界人。1904年(明治37年)に行われた第二回京都法政専門学校卒業式に来賓として出席した記録が残っている(出典: 『京都法政学校創立事務所 - その場所と人をめぐって -』 著・久保田謙次「立命館百年史紀要 第20巻」)。

参考文献

  • 伊藤之雄『元老西園寺公望 古希からの挑戦』(文春新書609)
  • 立命館百年史編纂委員会『立命館百年史』第一巻通史

外部リンク


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