仲代達矢

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仲代 達矢(なかだい たつや、1932年12月13日 - )は、日本俳優無名塾主宰。

愛称はモヤ[注釈 1]仕事所属。本名は仲代 元久(なかだい もとひさ)。

概要

劇団俳優座出身で演劇映画テレビドラマで活動を続け、戦後の日本を代表する名優の1人とされている。映画会社とは専属契約を結んでこなかったが、同じ監督の指名を受けるケースが多く、小林正樹岡本喜八五社英雄(各11本)、市川崑(6本)、黒澤明(5本)[注釈 2]成瀬巳喜男千葉泰樹(各5本)、豊田四郎山本薩夫神山征二郎(各4本)、堀川弘通舛田利雄丸山誠治杉江敏男青柳信雄小林政広(各3本)、熊井啓勅使河原宏村野鐵太郎蔵原惟繕須川栄三阪本順治松林宗恵佐伯幸三(各2本)らと仕事をしてきた。このうち10人がキネマ旬報ベストテン入選5回以上の実績を持つ監督である。市川とのコンビは48年間、岡本とのコンビは45年間に及んでいる。出演映画が米国アカデミー賞世界三大映画祭カンヌヴェネツィアベルリン)の全てで受賞しており、森雅之山形勲と並び四冠を達成している。出演作25本のキネマ旬報ベストテン入賞回数は、主演級スターとしては三國連太郎に次ぐ数字で、3位は三船敏郎である。映画会社出身の俳優であった他の2人とは異なり、仲代は劇団出身の俳優であり、活動の半分は演劇である。

日本での受賞は日本映画製作者協会新人賞(1957年)、毎日映画コンクール男優主演賞(1961年と1980年)、ブルーリボン賞主演男優賞(1962年と1980年)、キネマ旬報主演男優賞(1962年)、ゴールデン・アロー賞大賞(1980年)、毎日芸術賞(1975年)、芸術祭優秀賞(1980年)、芸術祭大賞(2005年)ほか数多いが、2013年には長年にわたる映画界、演劇界での活躍と日本文化への貢献が評価され川喜多賞並びに朝日賞が贈られている。海外での受賞歴は、シシリア・タオルミナ映画祭賞(1971年)、カンヌ国際映画祭グランプリ(1980年)、マニラ映画祭主演男優賞(1982年)、フランス文化省芸術文化勲章シュヴァリエ(1992年)など。1996年紫綬褒章受章、2003年勲四等旭日小綬章受章。2007年に文化功労者、2015年に文化勲章を受けた。大衆芸能分野で文化勲章を受けるのは5人目で、翌年には映画主演をしており、文化勲章を受けた後に映画主演をした俳優は史上初である。

来歴

東京市目黒区五本木生まれ。父親は茨城県農家出身で京成電鉄のバス運転手[1]、母親は五反田小町と呼ばれた薬局の看板娘であった。

父の転勤により千葉県津田沼に移るが、小学校2年生の時に父親が死去し、東京都世田谷区瀬田に移り[2]、用賀の小学校に転校。

やがて一家で青山の弁護士事務所の留守番をすることになったため、青山青南小学校に転校するも、一家は極貧状態で弁当のおかずもなく、母親は教師から「ここはあなた方のような貧乏人が来る学校ではない」とののしられたという。戦時中は母を青山に残したまま調布市仙川の寺に疎開。

1945年4月、小学校を卒業して青山に引き揚げると、母が住み込み先の弁護士の妾となり、弟を産んでいた。この弁護士が仲代母子のために渋谷に家を借りたのでここに住んだが、空襲に遭って世田谷区千歳烏山に移る。

1945年、青山の弁護士の弟が教頭をつとめる東京都立北豊島工業学校に入学するが空襲が激しいため通学を断念し、ここを中退して東京都立重機工業学校を卒業、敗戦を迎える。

学制改革ののち、親戚や弟と共にポン菓子屋中華そば製麺所を起こし、世田谷区立烏山中学校用務員なども務めながら東京都立千歳高等学校定時制卒業。

俳優の道へ

高校卒業後、定職に就けず、大井競馬場鑑札を持たない違法な予想屋を取り締まる警備員をしたり、学歴不問ということでボクシングの三回戦ボーイの職にありつくなどしながら、映画館・芝居見物に通う。そんな日々の中、俳優座公演を観劇した際、千田是也の演技に感銘を受け、1952年昭和27年)、俳優座養成所に第4期生として入所。同期生には佐藤慶佐藤允中谷一郎宇津井健らがいた。なお、このうち佐藤允、仲代、中谷の3人は、後年岡本喜八監督作品の常連として喜八一家と呼ばれるようになり、佐藤慶も二本の岡本作品に出演している。同期生の中で新東宝に入社した宇津井とのみ仕事上やや疎遠になった(仲代は大手映画会社では唯一、新東宝だけは1本も出演していない)が、宇津井とは性格が違ったものの仲が良く、映画『七人の侍』では、ともに浪人役のエキストラとして共演している。仲代はバーで働きながら役者修行に励んだが、この頃、俳優座へ通うための電車賃を節約するために徒歩で移動し、毎日同じ服を着て、人とはあまり話さず、目だけが異様な光を帯びていたという。

養成所時代に『七人の侍』(1954年)で、セリフなしの浪人役をつとめて映画デビュー。養成所から仕出しで派遣された数秒間のエキストラ出演[3]で、本来は出演作にカウントすべきものではないが、この出演で時代劇の歩き方ができなかった仲代は監督・黒澤明を苛立たせ、「俳優座では歩き方も教えないのか」と罵られ、ワンカットに朝の9時から午後3時までの半日がかりの撮影となってしまい、最終的に「いいや。OK」となった。黒澤はこのことをすぐ忘れたらしいが、仲代にとって強烈な思い出となり、これが映画俳優・仲代のスタートとしてしばしば引き合いに出されることとなった。

1955年(昭和30年)、養成所を卒業(前年既に初舞台)、俳優座に入団した。芸名の「達矢」は射手座生まれに因んで「的に達する矢のごとく」と異母姉が命名した。同年秋の公演『幽霊』で抜擢された。この『幽霊』を見た女優・月丘夢路の推薦で、月丘の夫である映画監督・井上梅次から依頼が舞い込み、映画『火の鳥』(1956年日活)で月丘の相手役という大役をつとめ、映画でも本格デビューを果たす。翌年には映画『黒い河』(1957年)における冷酷なヤクザ・通称人斬りジョーの演技でも存在感を示す。

1957年(昭和32年)、俳優座所属の女優(まもなく演出家、脚本家に転身)・宮崎恭子と結婚。

主演俳優に

映画会社大手5社全てから様々な好条件を提示され、専属俳優にと望まれたが、舞台へのこだわり等から、結局どの会社とも専属契約を締結せずフリーランスの道を歩み続けた。この背景もあって、原則として「1年の半分は演劇」と定めることができ、五社協定に縛られることなく映画出演の機会に恵まれた。1959年(昭和34年)から1961年まで六部で総上映時間が約10時間の『人間の條件』で主人公・梶に起用される。撮影が1年半に及んだこの作品で、仲代は監督の小林正樹も感服する演技を見せた。同年には犯罪者に扮した『野獣死すべし』も公開。

東宝では三船敏郎に対抗できる敵役俳優として、『用心棒』(1961年)の監督・黒澤明から出演依頼を受ける。『七人の侍』出演時に黒澤から散々NGを出された記憶もあって「立派な役者になって、二度と黒澤組には出ない」と心に決めていた仲代は当初出演をきっぱりと固辞したが(「いやあ、気持ちよかったな」とは本人の弁)[1]、黒澤本人に呼び出されて説得されたため出演することにし、洒落者だが残忍なヤクザを演じる。翌年の『椿三十郎』でも続けて起用され、今度は剛直な武士を演じ、仲代の風格と演技力を買った黒澤の期待に応えた。1963年(昭和38年)には『天国と地獄』で誘拐事件の捜査を指揮する警部役を演じ、犯人との相似すら感じさせる異常な執念に個性を発揮した。

他映画では『』(1959年)、『娘・妻・母』(1960年)、『女が階段を上る時』(1960年)、『切腹』(1962年)、『怪談』(1964年)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967年)、『憂愁平野』(1963年)、『四谷怪談』(1965年)、『大菩薩峠』(1966年)、『殺人狂時代』(1967年)などに出演した。1968年(昭和43年)にはイタリア映画『野獣暁に死す』に出演、アジア系ではなくメキシコ・インディアンの血を引くという設定のアメリカ人の悪役であった。

1970年代には山崎豊子の政財界もの映画『華麗なる一族』(1974年)で準主役を一人二役で、同じ山崎作品『不毛地帯』(1976年)では主役を務めた。また『金環蝕』(1975年)では主人公の冷酷な官房長官役を演じている。映画俳優としてはフリーを通しながらも東宝への出演が多く、会社別を基本として編纂されたグラビア叢書セット「戦後日本映画黄金時代」(日本ブックライブラリー1978)では「東宝の主役」の巻に収録されている。一方テレビドラマにおいては、1972年のNHK大河ドラマ新・平家物語』で平清盛を演じ、清盛が出家する後半では実際に剃髪している(これは、同作で後白河院を演じた滝沢修の髪が薄く、滝沢が残った髪を剃って法皇姿を演じることをスタッフに伝えていたことも理由である)。正統派の主役ヒーローだけでなく、気弱な役、コミカルな役など役柄の守備範囲は非常に広く、『雲霧仁左衛門』のようなダークヒーローや『用心棒』『金環触』のような、一切内面が描かれない純粋な悪役も演じた。

無名塾主宰

俳優座の看板俳優だった1975年(昭和50年)に、妻・宮崎恭子と共に無名塾を創立して後進の養成を開始した。1979年(昭和54年)には俳優座を退団。以後は無名塾公演で、脚本・演出を妻に任せ、自分が出演する形で演劇を継続してきた。俳優座時代、また無名塾公演でも多くのシェイクスピア作品に主演、日本を代表するシェイクスピア俳優でもある。

映画では1980年(昭和55年)の『影武者』で、監督・黒澤明との確執で降板した勝新太郎の代役として、急遽主役に抜擢され、同作はカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。同年には『二百三高地』にも主演、人情味をたたえた乃木希典を演じている。1982年(昭和57年)には『鬼龍院花子の生涯』で、傲岸で気性の激しい土佐の鬼政こと鬼龍院政五郎を演じ、全くタイプの異なる役柄を演じ分けた。1985年(昭和60年)の『』でも主演し、「戦国版リア王」として悲劇への道を辿る秀虎役を演じた。翌年の『熱海殺人事件』では一転して狂騒的なドタバタ喜劇に出演、それでもなお重厚さのにじみ出る演技を見せた。同作の原作と脚本・つかこうへいは、主役・木村伝兵衛の名を「仲代の名を支えきれない」と二階堂伝兵衛に変えてしまった。

時代劇・現代劇双方を演じられる俳優として、テレビドラマでは大石内蔵助を演じた『忠臣蔵』(1991年)、中国残留孤児となった子を探し続ける父親を演じた『大地の子』(1995年)、千利休を演じた『秀吉』(1996年)などで近年も活躍している。1983年に公開されたアニメーション映画宇宙戦艦ヤマト 完結編』ではナレーションを務めた。

2010年平成22年)、久々の主演映画『春との旅』が公開され、日本映画批評家大賞ダイヤモンド大賞(荻昌弘賞)、イタリアのAsian Film Festival Reggio Emilia最優秀主演男優賞を受賞した。また黒澤明誕生100年にあたり、同年の『文藝春秋』7月号[4]で、香川京子と対談した。

2015年(平成27年)、文化勲章を受章[5]。同年にも2本の映画に主演しているが、うち『果し合い』は文化勲章受賞後の公開であり、受賞後に主演映画を公開した俳優は史上初である。2017年にはさらに主演作『海辺のリア』が公開された。

人物・家族

妻・宮崎恭子とは1955年(昭和30年)に舞台『森は生きている』の共演が縁で1957年(昭和32年)に結婚。その後、家庭と無名塾の公私両面を二人三脚で乗り切る。宮崎が1962年(昭和37年)に死産してから夫婦に子がなかったため、宮崎の妹宮崎総子アナウンサー)の娘・奈緒を養女に迎えている(総子は山川建夫と離婚)。奈緒は仲代奈緒の名で歌手になった。1996年(平成8年)宮崎をで失う。

自叙伝『遺し書き』[6] では、テレビ東京ドキュメンタリー番組『ネシアの旅人』で太平洋全域の島を訪れ、生きることの意味を再発見して仕事に復帰したという。

脚本家演出家だった宮崎没後、無名塾公演は演出家を招くか、時には仲代自身が演出を兼ねる形で続いている。

弟はシャンソン歌手の仲代圭吾

逸話

温厚な性格で知られるが、若き日には共演者の三船敏郎萬屋錦之介と酒を飲んで、演技論を戦わせた末にケンカした、という血気盛んな逸話を自ら語っている。丹波哲郎は「ケンカが強いのは仲代」と述べていた。映画『黒い河』『椿三十郎』『鬼龍院花子の生涯』など傲岸な役も多かったが、素顔は前述通り温厚。数々の女優達とも共演してきたが、『さんまのまんま』では「女優さんって、みんなどうしてあんなに強いんだろうねぇ…」と語っている。

大河ドラマでは1995年の『八代将軍吉宗』の題字を書いた。何回も書き直して最後に納得がいったものをスタッフに渡したという。2007年の『風林火山』で武田信虎を演じたとき、映画『影武者』で晩年の武田信玄を演じたことを引き合いに出し、「こういった信玄像もあるのか」としきりに感心していた。

勝プロ製作の映画にも出演しており、その際、勝新太郎からは「毎晩ご馳走になった」そうで、仲代は勝を「派手で面白い人物」と語る。しかし『影武者』の一件以来、疎遠になったのも事実であり、勝が亡くなる1997年までの間、2人が顔を合わせたのは1996年、仲代の妻・恭子の葬儀のみであった。勝の『影武者』降板理由について仲代は「真相はわからない」としているが、映画評論家たちの「勝の方が良かったろうな」という声に対しては「勝さんが演じた『影武者』を見た訳じゃないだろう?」と俳優としてのプライドを覗かせた。その一方で「長谷川等伯が描いた武田信玄の肖像画は私のイメージじゃない」と外見に関しては勝に分があった事を認める発言もしている[7]

TBSラジオ大沢悠里のゆうゆうワイド』の投稿コーナー『お色気大賞』では、時折大沢悠里さこみちよにせがまれて、仲代の声色で色艶話を披露している。

受賞・受章

出演

演劇

映画

テレビドラマ

ラジオ

ドキュメンタリー

バラエティ

CM

ディスコグラフィー

シングル
  • 男の涙(作詞:高月ことば、作曲:村沢良介 / 1958年1月、テイチク
  • 東京の灯よさようなら(作詞:柴田忠男、作曲:村沢良介 / 1958年3月、テイチク)
  • 青空のない男 作詞:柴田忠男、作曲:村沢良介 / 1958年3月、テイチク)
  • 銀座ロックン(作詞:大高ひさを、作曲:村沢良介、編曲:伊藤恒久 / 1958年6月、テイチク)
  • 小雨の駐車場(作詞:渋谷郁夫、作曲:野崎真一 / 1958年6月、テイチク)
  • トランペット物語

著書

  • 『役者 1955-1980』 講談社、1980年/小池書院「道草文庫」、1997年
  • 『遺し書き 仲代達矢自伝』 主婦と生活社、2001年/中公文庫、2010年。改訂版
  • 『老化も進化』講談社+α新書、2009年。聞き書
  • 『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』 聞き手春日太一、PHP新書、2013年/文春文庫、2017年。改訂版
  • 『未完。』 KADOKAWA(角川書店)、2014年

脚注

注釈
  1. もともと仲代の少年時代に、本名・元久の「モ」と、「ねえや」「ばあや」の「ヤ」をかけあわせて母親が呼び始めた愛称である。また「靄」と掛けて、激しい役を演じている最中でも、演技を離れれば温和でぼんやりしていることも多い仲代の様子や、彼の顔の摑みどころのない独特の雰囲気、声に抑揚があまりない、という特徴なども思い起こさせるうってつけの語感を持つことから、芸能界に入ってからも多くの人にこの綽名で呼ばれ続けている。
  2. エキストラ出演の「七人の侍」を含まない。後記の瀬戸内寂聴との対談でも、完全なアルバイト扱いであったことを認めている。
出典
  1. 『「家」の履歴書』 光進社 2001年、180頁
  2. 『「家」の履歴書』 光進社 2001年、180頁
  3. 瀬戸内寂聴との対談で「(撮影日の前日に)養成所から明日東宝撮影所に行けと言われた」と語っている(AERA2010年6月14日)。
  4. 仲代達矢×香川京子、「私たちのクロサワ悶絶体験 生誕100年」、文藝春秋2010年7月号
  5. “文化勲章、ノーベル賞2氏や仲代達矢さんら7人”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2015年10月30日). オリジナル2015年10月30日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/20151030035020/http://www.yomiuri.co.jp/culture/20151030-OYT1T50050.html . 2015閲覧. 
  6. 私の履歴書」での連載をもとに、2001年(平成13年)に主婦と生活社。2010年(平成22年)7月に中公文庫で再刊。
  7. 日本映画専門チャンネル 「仲代達矢の日本映画遺産 第五部 時代劇の現場」
  8. 宇宙戦艦ヤマト 完結編”. バンダイビジュアル. . 2016閲覧.
  9. “「仲代達矢84歳、Twitterはじめました」、主演作「海辺のリア」公開記念し開設”. 映画ナタリー. (2017年1月5日). http://natalie.mu/eiga/news/215627 . 2017閲覧. 
  10. “仲代達矢、テレ東社員との18年前の約束果たす 玉木宏主演ドラマに出演”. ORICON STYLE. (2016年8月24日). http://www.oricon.co.jp/news/2077248/full/ . 2016閲覧. 
  11. テンプレート:Web cite

外部リンク