但馬国

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但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。

「但馬」の名称

古事記』には「多遅麻国」と記載される。但馬の歴史的仮名遣いは「たぢま」。

領域

明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。

当該地域の2010年国勢調査による人口は17万9530人(男8万5568人/女9万3962人)、世帯数は6万1880世帯、面積は2099.01km2、人口密度は85.5人/km2[1]

沿革

のちに但馬国となる地域には以下の2つの国造が置かれていた。

こののち、のちの丹波国丹後国・但馬国の3国にあたる地域は丹波国造の支配地域である丹波国となった。但馬国は7世紀後半に丹波国より8郡を分割して成立したとする説もあるが確証はない。『日本書紀天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。

近世以降の沿革

国内の施設

国府

和名抄』および『拾芥抄』によると、国府は気多郡にあった。

初期の国府の所在地には、豊岡市出石町の袴狭(はかざ)遺跡とする説、気多郡(現在の豊岡市日高町)内とする説があるが、明らかでない。『日本後紀』によると、延暦23年(804年)に気多郡高田郷に国府が移されたという[5]。豊岡市役所日高振興局(旧日高町役場)の付近で発掘された祢布ヶ森遺跡(豊岡市日高町祢布)がこれに比定される(位置)。

国分寺・国分尼寺

  • 但馬国分寺跡(豊岡市日高町国分寺、位置
    国の史跡。寺域は1町半(約160メートル)四方。伽藍遺構として金堂・回廊・塔・中門、また寺域を示す築地の雨落溝の一部が確認され、その溝からは36点の木簡が出土している。跡地付近にある護国山国分寺(豊岡市日高町国分寺、位置)が法燈を伝承する。
  • 但馬国分尼寺跡(豊岡市日高町水上・山本、位置
    国分寺跡から北方の豊岡市立日高東中学校付近。礎石が伝世され、尼寺の遺構とされる。北方の天台山法華寺(豊岡市日高町山本、位置)が後継を称する。

神社

延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社18座10社・小社113座106社の計131座116社が記載されている(「但馬国の式内社一覧」参照)。大社10社は以下に示すもので、全て名神大社である。
  • 朝来郡 粟鹿神社
  • 養父郡 夜夫坐神社二座(五座のうち)
  • 養父郡 水谷神社
  • 出石郡 伊豆志坐神社八座
  • 出石郡 御出石神社
  • 気多郡 山神社
    • 比定社:山神社(豊岡市日高町山宮、位置
  • 気多郡 戸神社
    • 比定社:戸神社(豊岡市日高町十戸、位置
  • 気多郡 雷神社
    • 比定社:雷神社(豊岡市佐野、位置
  • 気多郡 椒神社
    • 比定社:椒神社(豊岡市竹野町椒、位置
  • 城崎郡 海神社

総社一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[6]

地域

  • 朝来郡 - 朝来市
  • 養父郡 - 養父市、朝来市(大蔵・糸井地区)、豊岡市(日高町赤崎・日高町朝倉地区)
  • 出石郡 - 豊岡市(出石地域、但東地域、神美地区)
  • 気多郡 - 豊岡市(日高地域、竹野町南地区)
  • 城埼郡 - 豊岡市(城崎地域、豊岡・八条・三江・田鶴野・五荘・新田・奈佐・港地区)
  • 美含郡 - 美方郡香美町(香住区)、豊岡市(竹野町竹野・竹野町中地区)
  • 七美郡 - 美方郡香美町(村岡区、小代区)、養父市(熊次地区)
  • 二方郡 - 美方郡新温泉町

※郡名は『延喜式』による。

江戸時代の藩

  • 出石藩:小出家(6万石→5万石)→松平(藤井)家(4万8千石)→仙石家(5万8千石→3万石)
  • 豊岡藩:杉原家(2万石→2万5千石→1万石)→天領→京極家(3万5千石→1万5千石) 
  • 八木藩:別所家(1万5千石→2万石)
  • 清富藩:宮城家(1万3千石)
  • 竹田藩:

明治時代の藩

  • 村岡藩:山名家(6700石→1万1千石)

人物

国司

但馬守

但馬介

守護

鎌倉幕府

室町幕府

国人

戦国大名

織豊大名

  • 宮部継潤 豊臣秀吉の側近。豊臣政権の五奉行の一人。城崎豊岡と改め、城を改築した。このとき城下町も整備され、これが現在の豊岡の町の基礎となった。後の鳥取城城主
  • 山名氏政 - 豊臣政権の大名。居城は有子山城。播磨に転封。
  • 前野長康(5万3千石→11万石)
  • 明石則実(2万2千石):四国征伐の功により豊岡城に入封。文禄4年(1595年)、豊臣秀次に連座して切腹・改易。
  • 小出吉政(6万石):文禄4年(1595年)から有子山城城主。西軍についたものの、弟・小出秀政が東軍に付いたために安堵され、後に但馬出石藩初代藩主。

武家官位の但馬守

江戸時代以前

江戸時代

但馬国の合戦

現代的用法

但馬は、現代でも兵庫県北部を指す地域名として用いられる。また北部を北但(ほくたん)、南部を南但(なんたん)として二分することがある。(北但を、北但東部、北但西部と二分して三分する事もある。)

気象予報区域

脚注

  1. 平成22年国勢調査、小地域集計、28兵庫県”. 総務省統計局(e-Stat) (2010年10月1日). . 2014閲覧.
  2. 『国造制の研究 -史料編・論考編-』(八木書店、2013年)p. 223。
  3. 二方国造 ( 但馬 ) - 日本辞典(2017年9月25日 午前8時55分(JST)閲覧)
  4. 旧高旧領取調帳」は但馬国分が欠けているため、木村礎の手により「天保郷帳」をもとに作成され、「日本史料選書11 旧高旧領取調帳 近畿編」(近藤出版社、1975年)に掲載されたデータが国立歴史民俗博物館によりデータベース化されている。
  5. 『日本後紀』では「但馬の国治(国府)を気多郡高田郷に遷す」とあり、それまでは別の場所にあったと推測されている。
  6. 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 406-409。

参考文献

関連項目

外部リンク


テンプレート:但馬国の郡