南次郎

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南 次郎(みなみ じろう、1874年明治7年)8月10日 - 1955年昭和30年)12月5日)は、日本陸軍軍人陸軍大将正二位勲一等功四級

来歴

大分県国東郡高田町(後・西国東郡高田町、現・豊後高田市)生まれ。1884年(明治17年)7月、叔父・宮崎義一の下に単身上京、9月に鞆絵小学校(現・港区立御成門小)初級入学。その後成績良好のために鞆絵小高等科に進級した。1888年(明治21年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。1889年(明治22年)9月、素行不良と数学の成績不振により翌年校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機に、かねてから陸軍士官学校志望であったことから、後年児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した[注釈 1]1890年(明治23年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。1892年(明治25年)4月、陸軍士官学校に入校。1895年(明治28年)4月、陸軍士官学校6期卒業。陸軍大学校17期出身。 

生年月日がハーバート・フーヴァーアメリカ合衆国・第31代大統領)と同じである。偶然にも、南の陸相在任期間(1931年)がフーヴァーの大統領在任期間(1929年 - 1933年)と重なった。

満州事変から朝鮮総督へ

田中義一宇垣一成の直系として1927年(昭和2年)に参謀次長1929年(昭和4年)に朝鮮軍司令官に就くなど要職を歴任、1930年(昭和5年)には大将に進み、軍事参議官となる。1931年(昭和6年)4月に、宇垣の後任として第2次若槻内閣陸軍大臣に就任。

同年9月に満州事変が勃発、国際協調を方針とする民政党政権の路線に金谷範三参謀総長とともに寄り添いつつも、陸軍内部の推進運動や世論に突き上げられ、最終的には関東軍に引き摺られた。十月事件についても、きわめて軽い処分ですませている。また陸相在任中に部下の軍事課長であった永田鉄山国家総動員法の策定に関わり出した。12月の第2次若槻内閣の退陣で、陸軍大臣をしりぞき、軍事参議官となる。1934年(昭和9年)には関東軍司令官に就任する。

1936年(昭和11年)、第8代朝鮮総督になり内鮮一体化を唱え、

などの政策を行った。朝鮮人の中には抗議の意味を込めて「南太郎」と改名届を出した者もいたとされる。南が朝鮮総督として君臨した6年間に朝鮮人の帝国臣民化政策は推進された(ただし、実際には政務総監大野緑一郎に全て丸投げしていたとの評もある。)。

後に枢密顧問官貴族院議員大日本政治会総裁(翼賛議会下の8割を占める衆議院院内会派)を歴任する。

第二次世界大戦後、満州事変の責任でA級戦犯に指名され、極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身禁固刑となる。1954年(昭和29年)、仮出獄。南は軍事思想として、国防は政治に優先すると常に唱えた。外交に関しては、重光葵が認めた『巣鴨日記』(『文藝春秋昭和27年8月号掲載)によると、巣鴨プリズン内での重光との会話の中で「外交とは軍の行動のしり拭いをすることであったと思っていたが、今度初めて外交の重要性を了解した」と語ったことがあるという。

人物

生前の南は、「南のある所春風あり」と言われるほどの人情家で、明るくユーモラスな人柄は誰からも慕われたという。重光によると、南の白髭は戦犯の間でも名物となり、巣鴨プリズンにおける獄中生活ですら楽しんでいる様子だったという。

年譜

栄典

脚注

注釈

  1. 当時成城学校は、弊衣破帽の校風で不良軍人子弟の収容所の観があった。 『人物で読み解く「日本陸海軍」失敗の本質』 (兵藤二十八PHP文庫、2014年2月発刊) P160

出典

  1. 『官報』第5676号、昭和20年12月12日。
  2. 中野文庫 旧・金鵄勲章受章者一覧
  3. 『官報』第7700号「叙任及辞令」1909年3月1日。
  4. 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧


先代:
宇垣一成
陸軍大臣
1931 - 1931
次代:
荒木貞夫
先代:
宇垣一成
朝鮮総督
第8代:1936 - 1942
次代:
小磯國昭

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