吉川晃司

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吉川 晃司
出生名 吉川 晃司
生誕 (1965-08-18) 1965年8月18日(58歳)
出身地 日本の旗 日本 広島県安芸郡府中町
学歴 修道高等学校中退
ジャンル J-POPロック
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ボーカル
ギター
活動期間 1984年 -
レーベル SMSレコード
1984年 - 1988年
東芝EMI
1989年 - 1996年
ポリドール
1997年 - 1999年
kitty mme
2000年
徳間ジャパンコミュニケーションズ
2002年 - 2008年
ユニバーサルミュージック
2009年 - 2012年
ワーナーミュージック・ジャパン
2013年 - )
事務所 渡辺プロダクション→セブンスエンタープライズ→アクセルミュージックエンターテイメント
共同作業者 菅原弘明
松井五郎
公式サイト K2 NET CAST : KOJI KIKKAWA OFFICIAL WEBSITE

吉川 晃司(きっかわ こうじ、1965年8月18日 - )は、日本ロックミュージシャンシンガーソングライター俳優。本名同じ。自身設立の所属事務所、株式会社アクセルミュージックエンターテイメント代表取締役社長。身長182cm。既婚。

広島県安芸郡府中町出身。1984年シングルモニカ」で歌手デビュー。「LA VIE EN ROSE」、「KISSに撃たれて眠りたい」、「VENUS 〜迷い子の未来〜」や布袋寅泰とのユニット、COMPLEXでの「BE MY BABY」などのヒット曲で知られる。デビュー当時は映画に多数出演。一時は俳優業からは遠ざかっていたが、2000年の『漂流街』出演以降、しばしば取り組むようになった。

略歴

生い立ち

  • 吉川の元の実家は原爆投下まで、現在の広島市中心部、原爆ドーム元安川を挟んで真向かいにある当時、中国地方指折りの繁華街だった「中島地区」で[1]料亭、吉川旅館を営んでいた[2][3][4]。吉川の祖母が営んでいたが、戦況の悪化に伴いこれを船本家に売って旅館を譲り、原爆投下1か月前に疎開し難を逃れたが[5]、投下直後に父親は入市したため「入市被爆」が認められ吉川自身も被爆二世に当たる[2][4][6][7]。父親は若い頃、京都太秦で大部屋俳優をしていたが[8]、家業を継ぐため俳優を諦め板前になったものの、店が火事になり廃業し、その後喫茶店の経営やタクシー運転手・管理職などをした。幼少期の吉川は千葉真一倉田保昭の大ファンで[9]、彼らの活躍に憧れを抱いていた[10]
  • 府中町立府中小学校出身[注 1]修道中学校を経て修道高等学校2年時に中退[8][12]
  • 広島の男子進学校である修道中学校時代から水球の選手として活躍し、修道高校時代には世界ジュニア水球選手権大会の日本代表。また2年連続全日本高校最優秀選手に選ばれたほどの逸材で、最年少日本代表としてイタリアエジプト遠征にも参加した[13][14][15][16][17]。広島屈指の進学校である修道中学校を受験した理由は、「制服の袖の部分に2本の白線があり、それがカッコよかったから」と述べている[17]。合格したものの授業についていけず、いきなり落ちこぼれたとメディアでも語っている。しかも、いざ入学するとその2本の白線で、修道中学校の生徒だと判ってしまい、悪いことが出来なかったため、嫌いになってしまったそうである(入学後は、その白線を物と擦って消していたという)。

渡辺プロへ所属

  • 同じ水泳部だった酒井麿に誘われ[18]ロックバンド(EIGHT CITYS FISH BAND/通称:はまちバンド)に加入[19][20]、バンド活動も平行して行っていたが、佐野元春のコンサートを見て、カルチャーショックを受け音楽一本に絞る[15][21]。「音楽の世界でビッグスターになる」とその後のサクセスストーリーを考えた吉川は、「まずはスカウトされること」と考えたが、田舎でスカウトされる筈も無く、シビれを切らして渡辺プロダクションに「広島にスゴい奴がいる、見に来ないと一生悔いを残す」などと自ら手紙を書き送りつけた[15][8][13][22][注 2]。なお、なぜナベプロかといえば「沢田研二アン・ルイスなどが当時所属していたのがナベプロで、ここがいいな」と言い(吉川本人の回想)、他のプロダクションは知らなかった[23]
  • 渡辺プロの関係者が、高松松本明子を見に行った帰りに、本当に会いに来てくれて、その後の数度のオーディションを経てナベプロ入り[13][注 3]修道高校からは水球の推薦で慶應義塾大学特待生として入学できる道が開かれていたため、教師、両親や周囲から猛反対を受けた[24]。父親からは「芸能界ってのは猿まわしだ。お前は東京でになるのか」と言われたが、「いつか自分で動いてやる」と決意を固めた[25]。実際は高校を卒業してからという話だったが、吉川本人の「今すぐにでも」という話で、修道高校3年に上がる直前に中退して上京[23][24]。自分だけが東京に呼ばれたと思っていたら、そういう人がたくさんいて、当初はスクールメイツと練習をこなす[24]。すぐにデビューさせてもらえず、当時のマネージャーの部屋に居候。ダンスのレッスン代わりに新宿渋谷六本木のディスコで毎日踊り、当時最先端の音楽、ファッション、踊りを身につけた。しかしいつまでたってもデビューさせてくれないことに業を煮やし、社長室に直談判したところ渡辺晋社長に気に入られ、デビューへの運びとなった[26]
  • 実際には渡辺プロは吉川を「10年に1度の逸材」とみなし、凋落していたナベプロの起死回生のため、社長自らが音頭をとってデビューのためのプロジェクトチームを編成するほどの力の入れようだった[27][28]。「ナベプロ帝国の興亡」軍司貞則著、文藝春秋(1995年)によると、その当時渡辺プロの金庫には3億円の現金しかなく、渡辺晋は30人ほどのスタッフとの会議において、その金で吉川を売り出す方法をひねり出せ、と迫った。映画と歌の同時デビューもナベプロの肝いりで実現した。吉川は渡辺晋の手掛けた最後のタレントになった[29]大澤誉志幸が「渡辺プロは総力を挙げて吉川晃司を売り出すから、お前にかける金はない」と、ナベプロのスタッフから言われたという逸話も残る[30]

プロデビュー

  • 1984年2月1日シングル「モニカ」でデビュー[31][32]。この曲は、同年2月11日公開の主演映画『すかんぴんウォーク』の主題歌でもあった。以降「サヨナラは八月のララバイ」、「LA VIE EN ROSE」、「ユー・ガッタ・チャンス」(オリコン3週連続1位)、「にくまれそうなNEWフェイス」(オリコン1位)、「RAIN-DANCEがきこえる」(オリコン4位)、「キャンドルの瞳」(オリコン2位)と立て続けにヒットシングルをリリースし、1984年の日本歌謡大賞最優秀新人賞、日本アカデミー賞新人賞など歌手と俳優の両部門で8つの新人賞を独占[14]
  • 1985年の始めに、デビュー1年目では史上2人目の日本武道館公演を行った[注 4]。その他、初期に行われた学園祭コンサートで、体育館にある緞帳(どんちょう)にぶら下がり、緞帳をビリビリに破いてしまったことがある。その弁済金は1,000万円だったという[注 5]。暮れにはNHK紅白歌合戦に出場した。
  • 1987年に発売したシングル「MARILYNE」は、当時の恋人である女優の石原真理子(石原真理)との恋愛実体験を歌詞にした曲であったことが判明[34]2006年に石原が暴露本ふぞろいな秘密』を発売した際に、石原の過去の13人の交際相手として名前が出され、石原は吉川を玉置浩二以外に「結婚をしてもいいかな」と意識したと書いた。吉川は事務所を通じて「交際をしていたのは事実。「MARILYNE」のプロモーションビデオには彼女も出演しているはずです」とコメントを出した[34]。吉川本人が明石家さんまのラジオで、石原のことを「憧れの人」と呼び、「悲しいことや楽しいことも彼女とは憧れの形で実現出来る」と、石原の存在は吉川の理想であることを語った。
  • ナベプロは芸能プロダクションであるため、歌だけでなくバラエティ番組にも出なければいけないが、当時はそれが嫌で、人前に出て笑うことは一切できなかった。そのため渡辺晋にいつも「独立させて下さい」とお願いしていた[35]。「インターナショナルで通用する映画を作りたいと思っている。その映画に出たら、独立させてやるから」と言われ、渡辺からは独立を承知してもらい1987年、日本・イタリア合作映画『シャタラー』に出演した。しかし撮影途中に渡辺が亡くなり、映画の内容も企画も大幅に変更されて、当初予定された物とは全く違う惨憺たる作品になってしまった[35]。ガンの末期にあった渡辺の最期に近い頃の言葉は「吉川は元気でやっているか、イタリアで?」であったという。その言葉は胸にズシッと響き、毎年何度も足を運ぶ渡辺の墓参りでは、渡辺から叱咤激励されているような気がするという[35]
  • 1988年に一時活動を停止した後、渡辺プロダクションから子会社独立と言う形で22歳のとき独立[12]、マネージャーの河村嚴生が代表取締役社長のセブンスエンタープライズ所属になる。レコード会社を東芝EMIに移籍。元BOØWY布袋寅泰とユニット「COMPLEX」を結成し、翌1989年4月にシングル「BE MY BABY」(トヨタ・セラのCM曲)をリリース[36]。COMPLEXは『BE MY BABY』を含め2枚のシングルと2枚のアルバムをリリースした(いずれもオリコンチャート1位を記録)後、1990年11月8日東京ドームのライブをもって活動を停止。ビジネス的なことにはまったく興味がなく純粋にロックがやりたかった吉川と、音楽を活動コンセプトやサウンドアプローチからビジネス面までトータルで捉える布袋との間に徐々に溝が生まれ、最後は飲み屋でのつかみ合いの喧嘩に発展して活動停止に至った。布袋、吉川はそれぞれ、当時の音楽雑誌のインタビューで「COMPLEXさえ組まなければ、少なくとも友人を失う事はなかった」とコメントしている。しかし、東日本大震災復興支援ライブを同じく東京ドーム2DAYSとして行い、21年ぶりに復活。待ちかねたファン約10万人が詰め掛けた(後述)。

1990年代

  • 1997年に東芝EMIから、元同社専務取締役である石坂敬一が代表取締役に就任したユニバーサルグループに移籍。しかしこの時期の音楽業界に吹き荒れた外資の嵐と変革の混乱の中で売上が低迷。その後2002年徳間ジャパンへ移籍。
  • 1998年、32歳のとき、個人事務所「アクセルミュージックエンターテイメント」を設立[37]。前所属のセブンスエンタープライズで、会社スタッフによる会社資金の使い込みが発覚。事務所の空中分解という状況で、セブンスエンタープライズの音楽部門若手スタッフを引きつれ設立という経緯である。本人曰く「他所に世話になるなんて考えられなかったので、自分について来てくれる会社の若い連中もいたし、仕方なく自分で会社を立ち上げざるを得なかった。今では立ち上げて本当に良かったと思っている」。歴史書を読む面白さを知ったのもこの時から[25]。ちなみにセブンスエンタープライズ俳優部門は金山一彦つみきみほ達で新たに立ち上げている。同社設立の際に、若い社員の前で「利益が出るまで、オレは家に帰らない!」と大見得を切ったため、スタジオにソファを入れてそこで暮らした。利益が出るのに7年もかかり、結局12年スタジオで暮らした[37]。窓が無い地下室で湿気が多く、肺にカビが湧き頭の皮がむけるなど色んな体の箇所を病んだ[37]
  • 同年、自宅で知人と殴り合いになり、鼻骨および肋骨を骨折させる傷害容疑で、示談は成立していたが書類送検された。原因は、酒に酔った知人が吉川所有の尾崎豊の形見のギターを蹴った事による。謝罪会見では、前所属事務所セブンスエンタープライズの会社スタッフによる資金使い込み騒動の真っ只中でもあり、真実をありのままに述べられない状況下での謝罪会見になった。この会見で記者の「何発殴ったのか?」との質問に、一方的に殴ったわけじゃなく殴りあいになり、相手もボクシングの経験があると前置きした上で、「ワン、ツー、スリー?」と答える。この3発のパンチを打つ動作を客観的に再現しながら「こう、こう、こう、うん、3発殴った」「泥酔していたといわれているが違う。25%ぐらいの酒なら眞露2、3本くらいなら大丈夫」「僕はちょっと人より力が強いみたいで..」などと発言したシーンがTV放送で流された。プロを相手に、一発目から的確に拳を鼻に打ち込んで鼻骨を折り、二発目で急所の一つといわれる脇の下の肋骨を骨折させたことから、吉田豪らが吉川を“芸能界ケンカ最強”と推す切っ掛けとなった[38]

2000年代

2010年代

  • 2011年5月31日にファンクラブのページにて一般女性との結婚を発表。翌6月1日に、婚姻届を提出。二人の間には既に第一子も誕生しており、未婚の父であったことも明かした。
  • 2012年12月10日、ワーナーミュージック・ジャパンへの移籍および同社にプライベート・レーベル「SAMURAI ROCK」を設立[39]
  • 2017年7月21日、左側声帯ポリープが見つかり除去手術を受けることを、日本武道館ライブのアンコールで明らかにした[40]
  • 2018年1月20日から2日間、武蔵野の森総合スポーツプラザ メインアリーナのコンサート等の本格的な音楽イベントとしてのこけら落し公演を開催[41]。前年のツアー終了後は治療に専念する予定であったが、ツアーの手ごたえを感じた本人の「ツアーをもっとやりたい、まだ歌いたいという思いが夏からどんどんふくらんできて」という意向を受けて行われたもの[42]

人物

音楽関係

  • デビュー時から自作曲はあったのだが、当初はアルバムに入れてもらえなかった[43]。ディレクターと大喧嘩もしたが、徐々に自作曲を増やし、現在は以外に作詞作曲演奏プログラミングプロデュース等幅広く手がけ、「PANDORA」「JERRY FISH&CHIPS」など様々な作品を世に送り出している。
  • 日本語英語っぽく発音してロックに乗せる「巻き舌唱法」は、日本ではキャロルを始まりとして、吉川で一応の完成形となると評される[4][14][44]。吉川自身はこれを“日本語を崩す歌い方”、例えば「だからぼくは」という歌詞を「だっかぁら、ぼっくぅは」と歌うとロック的なリズムが出るなどと説明している[8]。デビュー時に紹介された木崎賢治プロデューサー[45] に「どんな音楽やりたいの?」と聞かれて「僕は原田真二さんとか、格好いいと思うんですけど」と答えたら、「ああいう日本語の崩し方というか、乗っけ方というのをできる人は少ないんだよ、吉川くんできる?」と言われて始めたのが切っ掛けと話している[8][26]。吉川はデビュー直後1985年のインタビューで「歌い方が佐野元春さんの真似とよく言われる」と話していたが[21]、2012年のインタビューでは、「この先駆者は佐野元春さんだといわれるんですけど、僕は原田真二さんだと思う」と話している[8][15]
  • キメキメのステージアクションで話題を呼んだ[14]。『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』、『NHK紅白歌合戦』など、当時の歌番組での数々のパフォーマンスも有名[27][46][47][48][49][50]。『ザ・ベストテン』でのパフォーマンスで最も知られているのは出身校・修道高校のプールでのバク転飛込みだが(1984年4月5日)[32][27][46][51]、毎回出演時には視聴者を驚かす演出を自ら考案し楽しませた[27]。「ベストテンのセットを壊すことで自分の存在を確認してたとこがあった」と述べている[52]。数年たってTBSに行ったら、当時ADだった人たちに凄いイヤな顔をされたという[52]。『夜ヒット』では、アン・ルイスとの性行為を連想させる過激な“六本木心中コラボレーション”などが有名(「六本木心中#解説」)[46]。デビュー当時はアンに大きな影響を受けた。アンとは姉弟のような関係で、吉川の歌唱中、袖で心配そうに吉川を見守るアンの姿が目撃された。アンの「六本木心中」と「あゝ無情」のモデルはいずれも吉川であると作詞者の湯川れい子は話している[49]。この頃は日本におけるヴィジュアル系の走りとも言われる沢田研二がテレビに出なくなった時期で、安全地帯玉置浩二とともに、続いて男の化粧を認知させたと言える。吉川デビュー時の衣装=ノータイ・ピンク、あるいはスーツは街に“偽吉川”を溢れさせ、同時期に活躍したチェッカーズタータンチェック共々よく流行った[32][25][46][53]2013年NHK連続テレビ小説あまちゃん』では、小泉今日子演じる天野春子が学生時代を過ごした部屋で、吉川の写真に向かって「肩幅〜!」と叫ぶシーンがあった[54]
  • 若い頃、吉川に似ていると言われた元プロ野球選手新庄剛志は、そのファッションをよく真似ていた。また、カラースプレーで髪に色を付けたり、立たせたり新しい髪型を考案するなど、いわゆる男のおしゃれ、男性ファッションを認知させたスターである[32][27]
  • 吉川のファッションといえばサングラスである。現在はあまりサングラスをしないが、デビュー直後は常用していた。サングラスを常用した動機は、細いキツネ目にコンプレックスがあったためと言われている。現在は芸能人がサングラスをどんな時も外さなくても批判をされるような事は無くなったが、当時は批判を受けることがあった。岡田有希子葬儀にサングラスを掛けたまま参列し、同様にサングラスで参列した舘ひろし共々、マスメディアに叩かれたことがある。
  • バク転以外のステージパフォーマンスとして、足を高く上げてドラムシンバルを蹴る「シンバルキック」は吉川のライブの代名詞となっているステージ・アクションの一つ[55]。いつから始めたか自身はよく覚えていないが、「肩を脱臼してバク転ができなかった時、代わりに何かやろうと思いついたのではないか」と思うと話している[56]。「グラマラス・ライフ」のMVでシンバルを蹴るシーラ・Eが頭にあったという[56]。初期は垂直に蹴り上げていたが、両足が肉離れを起こして縦に上がらなくなったため、横回転で勢いをつけて蹴る様になった[57]。観客が「普通のシンバルキックは飽きたよ」「もっと高くできないの」などと言うから、意地で段々難度が上がってきたという[55]。シンバルキックで過去3回骨折している[57][58]
  • 体育会系のノリで広い交遊を持った。アン・ルイス、ブラザー・コーン、チェッカーズ、尾崎豊とんねるず大沢誉志幸岡村靖幸氷室京介布袋寅泰世良公則布川敏和本木雅弘近藤真彦小泉今日子中森明菜藤真利子鈴木賢司[21][59][60]
  • 特に尾崎豊と岡村靖幸を交えた同級生3人の仲は親友として有名だった[61][62][63]六本木WAVE(1999年閉店)1階のカフェ「レイン・ツリー」で待ち合わせて、次の店をどこにするか、「じゃんけんをし、勝った者が行き先を決めることが出来る」という方法で行く先を決めた[62]。吉川が勝つとひたすら飲む、尾崎が勝つと女を口説くことが出来るクラブ、お酒が苦手な岡村が勝つとディスコ(岡村は、ディスコであの独特の踊りをずっと踊っていたそうである)に行った[61][62]。吉川と尾崎は飲むのが好きで酒も強く、尾崎が勝っても女の子のいる店にはいかず結局、男三人で飲む、泥酔していたという。「昔は3人で無茶なことばっかりやっていた」と述べている。よく行ったのは「レッドシューズ」や「トゥールーズバー」、六本木「AREA」、カラオケ「港町十三番地」など[43][62][64]。岡村は「当時の僕の目には、尾崎と吉川はキラキラ輝いて見えた」と話している[注 6]。19歳という未熟な時期から三人ともそれぞれの道を歩み始め、三人で集まって遊ぶことは段々少なくなっていった。最後に三人で遊んだのは25歳くらいのとき、芝浦のクラブ「GOLD」で、ちょうどマドンナが「GOLD」に遊びに来ていた日で、VIPルームで三人で飲んでいたら、マドンナが突然現れて吉川だけが呼ばれた。何だろうと騒然となったが、数分後、吉川が戻ってきて「便所はどこかって聞かれた」と言った[58][62]。吉川は「そこの角曲がったとこだ。一人で行け」とマドンナに言ったが「いいから連れて行け」と命令され、仕方なく便所までエスコートしたと話している[65]。それからしばらくして尾崎が亡くなり、三人で遊ぶことはもう出来なくなった。尾崎が亡くなったとき、吉川は友人代表としてお悔みを述べ、岡村が不祥事を起こした際は、「自分のケツは自分で拭かないとね。でもきっと、スリムになって戻ってくるんじゃないかな?」と気遣うコメントを述べている。尾崎の死後は「彼は反論できないのでフェアじゃない」と言い、彼について深く語る事は無い。
  • 尾崎と泥酔して明け方、ゴミ置き場のダンボールが夏の暑い日で冷たくて気持ちがよく、二人でゴミ置き場に寝込み、そのまま朝になった。そこは六本木交差点近くのバス停の前で、通学の女子高生がずらりと並んでいて、女子高生の一人に「もう起きられた方がいいですよ」と声をかけられた[58]
  • 晩年のアベフトシ川村カオリの活動を支援した[66]
  • 初期の頃の専属バックバンドは、PaPa。ただし、PaPaはTVや映画、ライブ等「見える場所」では共演していたが、レコーディングには参加していない。
  • 「音楽を真面目にやっているミュージシャンも、テレビに出ないとだめだ」と言い続けていた。これは渡辺プロに在籍している以上、テレビに出る仕事は避けられなかったが、テレビに出演していく内に、テレビの影響力を自ら肌で感じ、「上手い具合に出演すれば、ミュージシャン自身の向上にもつながる」と考えるようになったためである。そのため、吉川自身がテレビに出なくなると、ファンは「自分がテレビに出ないとダメだと言っておいて、なぜテレビに出ないのか?」と非難をするため、本人もテレビに出るようにしている。COMPLEXとしての時期はテレビ出演をほとんどしなかったため「(テレビ出演を好まなかった)布袋に遠慮している」と非難されたことがある。
  • 1986年1987年12月24日日本テレビで放送された伝説的音楽番組メリー・クリスマス・ショー(Merry X'mas Show)』の企画を言い出したのは吉川[15]。「たくさんミュージシャンを集められるのは桑田さんしかいない」と呑みの席で桑田佳祐に「今の音楽シーンがつまらないのは、ある意味あなた方にも責任があるんじゃないの?」と暴言を吐き、「ガキのくせにこのボケ!」とケンカになったが、朝まで話し込んで「よっしゃ考えてみる」という桑田の話で始まったもの。当初は2人を中心に運営したが、吉川が働かないのでほぼ桑田がやったという。ただ、BOØWYや若いバンドに声をかけたのは、吉川である[15][67]
  • 最近では当たり前になった「CD + DVD」2枚組は、吉川の1997年作品「I WRITE THE SONGS」が業界で初めてといわれている。

NHK紅白歌合戦でのハプニング

  • 吉川自身、現在唯一の出場である1985年暮れの『第36回NHK紅白歌合戦』では、「にくまれそうなNEWフェイス」で白組のトップバッターで登場したが、その際に自ら様々なハプニングを起こし、物議を醸すきっかけとなる[27][48][60][68]。そのハプニングは下記の通りである。
    • 白組なのに真赤な衣装で、酒(シャンパン)を撒き散らしながら登場し、さらに観客に向けて吹き出す。
    • 当初予定になかった、ステージから客席に降りる行為を行った上に、撮影中のカメラに衝突する。
    • 本来の出演時間をオーバーし、ギターに火をつけ、ステージに叩きつけて破壊するというパフォーマンスを行った。ただしギターを破壊するシーンは放映されることはなかった。
    • その後も吉川のパフォーマンスが続き、次の歌順の河合奈保子オーケストラをバックに、「デビュー」を歌う筈だった。ところが、「デビュー」のイントロが既に演奏されているにも関わらず、未だ吉川はバックバンドと共にステージ上に居残り続けていた。この要因により河合は、舞台に出ようとするタイミングがつかめずに、「デビュー」の出だしが歌えなくなり河合が怯える様子や、バックダンサー達も困惑の表情がテレビに放映。やむなく河合は演奏の途中から歌唱した(のち吉川サイドから河合へ直接謝罪している)[69]
    • 白組の次の歌順のシブがき隊は酒浸しになったステージ上で歌う羽目になり、『スシ食いねェ!』の歌唱中に布川敏和が、2回も足を滑らせて転倒した。ただしこの転倒については、吉川のせいではなく、布川自身が事前に予定していたパフォーマンスだったという。吉川からは何をやるかは聞かされていなかったが、布川はそれとは関係なしにステージから落ちる、というパフォーマンスを考えていた。しかし足元が滑りやすいというその時の状況から、2度転倒に変更したと布川は話している[60][68]
  • 吉川はこの件を振り返って、「当時は多くの賞が出来レースになっていて、プロダクションやレコード会社の政治力によって決まっていたり、事実を受け入れたくない、どうしたらいいんだろうといつも悶々としていた。紅白は抗議行動的な側面もあったが、あまりに稚拙だったと思う。極度の興奮状態にあったので曲を延ばしている意識も全く無かった。ギターもあそこまで燃やすつもりもなくて、ジミ・ヘンドリックスをマネして、軽く付けてみようと思ったら、照明が当たっていて火が見えなくて自分でも火傷して、訳が分からなくなってしまった。全部が見事なほど裏目に出てしまった」などと述べている[70]。また、それだけではなく「墓場まで持っていかなければいけない、言えないことがまだある」とも話している[58]
  • 著作「晃司全てを語る」にて、この時嫌な芸能界をやめるつもりでいたが。楽に高収入を稼げるこの仕事やめるの惜しいな~俳優ももっとやりたいし~とずっと芸能界にいよう~と決意を語っている。
  • その後、NHK側に十数年間出入り禁止となり[39][70]、ラジオでもしばらく曲がかからなかったものの[70]、後年解除され『ポップジャム』に何度か出演、ドラマ『真夜中は別の顔』(2002年4月1日 - 5月23日OA、共演:瀬戸朝香小雪玉山鉄二他)では主演に抜擢され、2009年の大河ドラマ天地人』で織田信長役で出演した。1998年6月21日に、コンサートツアーの一環としてNHKホールで公演を行い、以後何度も公演を行っている。

俳優関係