回天

提供: miniwiki
移動先:案内検索


ファイル:KaitenType1.JPG
遊就館に展示されている回天一型改一。国内では唯一の実物。ハッチの開閉は手動では内部からしか出来ず、外部からは下部ハッチを六角レンチで、上部を十字の突起を工具で回した。
ファイル:KaitenType1Turret.JPG
回天一型の上部ハッチ整流版に描かれた特攻の艦章「菊水」。菊水は大楠公旗印から。

回天(かいてん)は、太平洋戦争大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり[1]、日本軍初の特攻兵器である[2]

特徴

ファイル:Kaiten Type 4 side view at USS Bowfin Museum- Pearl harbor.jpg
回天四型。ハワイのUSSボーフィン潜水艦博物館に展示。

「回天」という名称は、特攻部長大森仙太郎少将が幕末期の軍艦回天丸」から取って命名した[3]。開発に携わった黒木博司中尉は「天を回らし戦局を逆転させる(天業を既倒に挽回する)[4]」という意味で「回天」という言葉を使っていた[5]。秘密保持のため付けられた〇六(マルロク)[1][6](てき)との別称もある。

1944年(昭和19年)7月に2機の試作機が完成し、11月20日のウルシー環礁奇襲で初めて実戦に投入された[7]。終戦までに420基が生産された[8]。兵器としての採用は1945年(昭和20年)5月28日のことだった[1][9]

回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造し、特攻兵器としたものである[6]。九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は55km/hで23キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。

回天が実戦に投入された当初は、港に停泊している艦船への攻撃、すなわち泊地攻撃が行われた。最初の攻撃(玄作戦)で給油艦ミシシネワが撃沈されたのをはじめ、発進20基のうち撃沈2隻(ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻の戦果が挙げられている。アメリカ軍はこの攻撃を特殊潜航艇「甲標的」による襲撃と誤認し、艦上の兵士はいつ攻撃に見舞われるかという不安にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったという[10]。しかし、米軍がこまめに防潜網を展開するようになり、泊地攻撃が難しくなってからは、回天による攻撃は水上航行中の船を目標とする作戦に変更された。この結果、搭乗員には動いている標的を狙うこととなり、潜望鏡測定による困難な計算と操艇が要求された。

回天の母体である九三式三型魚雷は長時間水中におくことに適しておらず、仮に母艦が目標を捉え、回天を発進させたとしても水圧で回天内部の燃焼室と気筒が故障しており、エンジンが点火されず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでスクリューが回り出す「冷走」状態に陥ることがあった。この場合、回天の速力や射程距離は大幅に低下し、また搭乗員による修理はほぼ不可能であったため、出撃を果たしながら戦果を得ることなく終わる回天が多く出る原因となった。また最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかったため、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。当然のことながら敵前での浮上は非常に危険が伴う。回天と母潜水艦は伝声管を通じて連絡が可能だったが、一度交通筒に注水すると、浮上しない限り回天搭乗員は母潜水艦に戻れなかった[11]。また、エンジンから発生する一酸化炭素や、高オクタン価のガソリンの四エチル鉛などで内部の空気が汚染され、搭乗員がガス中毒を起こす危険があることが分かっていたが、これらに対して根本的な対策はとられなかった[12]

潜水艦は潜れば潜るほど爆雷に対して強くなるが、回天の耐圧深度は最大でも80メートルであったため、回天の母艦となる伊号潜水艦はそれ以上は深く潜行する場合は回天を破損する覚悟が必要であり、敵に発見された場合も水中機動に重大な制約を受けた。そのためアメリカ側の対潜戦術、兵器の発達とあいまって出撃した潜水艦16隻(のべ32回)のうち8隻が撃沈されている。戦争最末期に本土決戦が想定された際は、回天も水上艦を母艦とすることが計画され、海上挺進部隊球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」をはじめとして松型駆逐艦等)や一等輸送艦が改造された。また局地防衛のため、突撃隊などの沿岸防備部隊にも配備された[1]

操縦方法

操作方法は、搭乗員の技量によるところが多かった。

手順としては、突入直前に潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認、これを元に射角などを計算して敵艦と回天の針路の未来位置が一点に確実に重なる、すなわち命中するように射角を設定。同時に発射から命中までに要する時間を予測。そして潜望鏡を下ろし、ストップウォッチで時間を計測しながら推測航法で突入する。命中時間を幾分経過しても命中しなかった場合は、再度潜望鏡を上げて索敵と計算を行い、突入を最初からもう一度やり直すという戦法がとられ、訓練もそのように行われた。

しかし、作戦海域となる太平洋の環礁は水路が複雑であり、夜間において潜望鏡とジャイロスコープを用いての推測航法で目標に到達することは十分な訓練を経ても容易ではなかった。当時の搭乗員は「操縦するのには6本の手と6つの目がいる」と話していたという[13]

歴史

開発段階

小型特殊潜航艇甲標的の開発に成功した日本海軍は、太平洋戦争で実戦に投入した[14]真珠湾攻撃(1941年12月8日)、シドニー湾奇襲(1942年5月30日)、ディエゴ・スアレス泊地奇襲(1942年5月31日)における甲標的作戦[15]では事前に収容方法こそ検討されたものの、搭乗員達は片道攻撃であることを覚悟していた[14]。したがって、体当たり攻撃への気運は潜水艦関係者間に当初から潜在していた[14]

人間魚雷の構想は、ガダルカナル島攻防戦が終結に近づいた1943年(昭和18年)初頭に、現場の潜水艦関係者から浮上した[14]。潜水艦乗組員の竹間忠三大尉は「(戦勢の立て直しは)必中必殺の肉弾攻撃」として、人間魚雷の構想を軍令部潜水艦担当参謀の井浦祥二郎中佐に対して送付した[14]。井浦も人間魚雷の実現性を打診したが、艦政本部は消極的で軍令部首脳は認めなかった。 1943年(昭和18年)12月、入沢三輝大尉(当時、伊百六十五型潜水艦水雷長)と近江誠中尉(当時、同潜水艦航海長)は、戦局打開の手段としてまとめた「人間魚雷の独自研究の成果」を血書と共に連合艦隊司令部(当時の司令長官は古賀峯一大将)に直送した[14]。だが、連合艦隊と軍令部は受け入れなかった。

陸軍の工作機械設計者だった沢崎正恵は、人間魚雷を設計して持参したが、紹介状がなかったため軍務局長には面会ができず、嘆願書を受理してもらった。1944年2月、軍務局長から、それは海軍の管轄との返信があった[16]

1943年(昭和18年)末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉も、P基地(倉橋島の大浦崎)で人間魚雷の構想を進めていた[14]。2人は九三式酸素魚雷を改造した人間魚雷(回天の原型)を試作する[6]山田薫に対して進言するも、省部との交渉が不十分だと判断して自ら中央に血書で請願を行った。これを受けたのは、海軍省軍務局第一課の吉松田守中佐と軍令部作戦課潜水艦部員藤森康男だった。同年12月28日に藤森から永野修身軍令部総長へこの人間魚雷が上申されるが、「それはいかんな」と明言されて却下された[17]

1944年(昭和19年)2月、黒木は再度上京して吉松中佐に採用を懇願する[6]。黒木はこの時、全面血書の請願書を提出した。2月17日[18]、日本海軍はトラック島空襲で大打撃を受ける[19]。 2月26日[20]、吉松中佐は山本善雄大佐(当時、軍務局第一課長)と協議し、呉海軍工廠魚雷実験部に対して、黒木・仁科両者が考案した人間魚雷の試作を命じた[6]。マル6兵器(○の中に6だが、環境依存文字のため「マル6」と表記)と仮称され、魚雷設計の権威であった渡辺清水技術大佐のもと試作に着手した[6]。最初は脱出装置(乗員の海中放出)が条件にあった[21]。だが脱出装置の設計は遅々として進まず、開発者2人(黒木、仁科)の主張により同年5月に断念された[6]

同年4月4日、黒島亀人軍令部第2部長の作成した「作戦上急速実現を要望する兵力」の中で[22]、大威力魚雷として人間魚雷が提案された。この後、人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称が付き、艦政本部で担当主務部が定められて特殊緊急実験が開始された[23]

1944年7月初旬、試作兵器三基が完成する[6]。同月上旬、サイパン島地上戦で同島守備隊は玉砕、潜水艦戦を行う第六艦隊司令部も地上戦に巻き込まれ、司令長官高木武雄中将が戦死した[24][25]。 7月10日[26]、日本海軍は三輪茂義中将を第六艦隊司令長官に任命する[25]。 同日附で、特殊潜航艇と人間魚雷(回天)の訓練研究・乗員養成を目的とする第一特別基地隊を編成[26](司令官長井満少将)[27][28]。回天開発の第一人者、仁科関夫中尉[29]黒木博司大尉[30]も第一特別基地隊に配属された。 嶋田繁太郎軍令部総長は、第一特別基地隊設立の経緯を昭和天皇に上奏した[注釈 1]。回天部隊は第一特別基地隊司令官の指揮下で訓練に従事する[27]。潜水艦に搭載されて出撃する場合は、母艦(潜水艦)と回天で「回天特別攻撃隊」が編成され、先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官三輪茂義中将)の指揮下に入った[27]。 7月25日、回天試作機の試験が大入島発射場で行われる。第一特別基地隊司令部では、兵器として採用するか否かの審議が行われた[6]。指摘の主なものは「酸素エンジンのため、冷走や筒内爆発の危険がある」「魚雷改造の艇のため後進ができない」「舵が推進器の前にあるので旋回半径が大きく、航行艦襲撃が困難」「試作兵器は潜航深度が最大80mしかない。母艦の大型潜水艦の安全潜航深度は100mである。試作兵器の耐圧深度を増大すべき」などが挙げられた[6]

同時期、マリアナ沖海戦(あ号作戦)における潜水艦の被害が判明し、潜水艦戦は続行困難とみなされた[4]。同時に特攻への気運が高まっていった[4]。 1944年8月1日、米内光政海軍大臣の決裁によってマル6は正式に兵器として採用された。試験で挙げられた3つの問題点は、終戦まで解決されなかった。 8月2日と3日に呉で行われた潜水艦関係者の研究会では、若手潜水艦長達は特攻作戦の採用を主張、会議の空気も同調した[4]。 8月15日、大森から「この兵器(回天)を使用するべきか否かを判断する時期に達した」という発言があった[31]。そして同月、大森によって明治維新の船名から「回天」と命名される[32]

運用開始

一方、回天の生産は、8月末までに100基の1型を生産する計画が立てられたものの、実生産数は9月半ばまでに20基、以後は日産3基が呉市の工廠の限界だった。これは、アメリカ軍が実施した海上輸送の破壊による資材不足や損傷艦の増大、この頃より本格化したB-29による本土空襲、工員の不足や食料事情の悪化が生産を妨げたためである。回天のベースになった九三式三型魚雷は燃焼剤として酸素を使用するため、整備に非常な手間がかかり、1回の発射に地上で3日の調整が必要だった。十分な訓練期間がない以上、回天の整備隊は3日で2回のペースで調整するよう督促された。

回天搭乗員は甲標的要員と同居していたが、教育訓練等に支障が生じ、移動することになった[27]。9月1日、山口県大津島板倉光馬少佐、黒木博司仁科関夫が中心となって基地が開隊され、同月5日より全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が開始された。 訓練初日の9月6日、提唱者の黒木と同乗した樋口が殉職する事故が起きる[27]。黒木の操縦する回天は荒波によって海底に沈挫、同乗の樋口大尉と共に艇内で窒息死するまで事故報告書と遺書、辞世などを残した[33]。この出来事は「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高め、搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。

9月12日[34]、大本営海軍部(軍令部)は軍令部総長官邸で奇襲作戦の研究をおこない、丹作戦(敵艦隊所在の泊地に対する航空特攻)と玄作戦(回天攻撃)を検討した[35]。当初の計画では大型潜水艦8隻(予備2隻含む)、潜水艦1隻あたり回天4基(可能なら5基)計32基用意、投入時期は10月下旬から11月上旬、目標はマーシャル諸島各地(メジュロ環礁、クェゼリン環礁、ブラウン環礁)の敵機動部隊となった[35]。 この時点で、回天は水漬け実験をまだ行っていなかった[36]。 9月27日、藤森中佐(軍令部部員)は中澤佑軍令部第一部長に、回天作戦の準備状況を報告する[36]。回天については「回天命中確度75%(と考えられる)。冷走の原因除去に努力している。」[37]と述べた。

実戦投入

回天特別攻撃隊菊水隊

ファイル:USS Mississinewa (AO-59) 20 November 1944B.jpg
回天特攻によって横転したミシシネワ

先遣部隊(第六艦隊)は潜水艦5隻(伊36、伊38、伊41、伊44、伊46)および回天による敵艦隊拠点奇襲攻撃(玄作戦)を、11月上旬に実施する予定で計画を進めていた[38]。だが1944年(昭和19年)10月上旬より米軍機動部隊の行動が活発化(十・十空襲台湾沖航空戦)、日本軍は捷号作戦を発動する[39]。玄作戦準備中の第15潜水隊も台湾沖航空戦の残敵掃蕩(誤認)に駆り出された[39]。 10月17日のレイテ島の戦い生起[40]にともない連合艦隊は潜水艦のフィリピン方面集中を下令(レイテ沖海戦)、玄作戦投入予定の潜水艦もフィリピン方面に投入されたので[41]、最初の玄作戦は変更を余儀なくされた[38]。そこで回天搭載のため改造整備中の潜水艦3隻(伊36、伊37、伊47)をもって、新たに玄作戦を実施することになった[38]周防灘で最後の総合訓練を実施。 10月下旬、第15潜水隊の3隻(伊36、伊37、伊47)の準備が完成し、回天特別攻撃隊菊水隊(指揮官は揚田清猪第15潜水隊司令)が編成された[38]。菊水隊の攻撃計画は、機密先遣部隊命令作第一号(玄作戦実施要領)及び機密玄作戦回天特別攻撃隊菊水隊命令作特第一号によって発令された[38]。 11月5日[42]、連合艦隊は先遣部隊(第六艦隊)に対し、11月20日の回天作戦実施を命じた[注釈 2]。このうち、ウルシー泊地攻撃隊は給油艦ミシシネワ」 (USS Mississinewa, AO-59)を撃沈して初戦果をあげた。最初の玄作戦における軍令部報告の中で回天について、「安全潜航深度増大が必要。熱走後一旦停止すると冷走になるので熱走が続くようにしたい」といった指摘があった[43]。玄作戦詳細は以下のとおり。

1944年(昭和19年)11月8日、「玄作戦」のために大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊36潜伊37潜伊47潜に各4基ずつ搭載)の12基が、回天特攻の初陣である[38]。西カロリン諸島への潜水艦や彩雲航空偵察により、目標地点を決定[44]。菊水隊の回天搭載潜水艦3隻のうち、伊36潜と伊47潜の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島ウルシー泊地を、伊37潜はパラオのコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指した[44]

回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」(第1次玄作戦)は、1944年(昭和19年)11月19日[45]から11月20日にかけて決行された[7][46]。 20日、伊47潜から4基全て、伊36潜からは4基中の1基(残3基は故障で発進不能)の計5基の回天が、環礁内に停泊中の200隻余りの艦艇を目指して発進した。しかし、伊47潜の帰着直後の報告により作成された「菊水隊戦闘詳報」によると、「3時28分から42分、伊47潜は回天4基発進。発進地点はマガヤン島の154度12海浬」とホドライ島の遥か南より発進させている。そのため、プグリュー島の南側で2基の回天が珊瑚礁座礁して自爆することとなった。

ファイル:KaitenMission.JPG
潜水艦の甲板上に搭載された回天

伊36潜は、4時15分発進予定地点のマーシュ島105度9分5浬に到着。3基は故障で潜水艦から離れず、今西艇だけが4時54分に発進した[46]。その後、伊47・伊36より発進した計5基の回天のうち、1基は湾外でムガイ水道前面で駆逐艦ケースより衝角攻撃を受けて沈没、残る2基が泊地進入に成功し、1基が5時47分にミシシネワへ命中(混載していたガソリンに引火して爆発・炎上、1時間後に沈没、戦死50名)。

その後、最後の1基は軽巡洋艦モービル (USS Mobile, CL-63) に向けて突入[46]。潜望鏡によって2 - 4ノットの速力で直進してくる回天を発見したモービルが、5インチ砲と40ミリ機銃で射撃を開始。機銃弾が命中、5インチ砲弾の至近弾を受けたため突入コースに入りながら海底に突入し、のちに護衛駆逐艦ラールEnglish版(USS Rall, DE-304)の爆雷攻撃によって6時53分に完全に破壊された(隊員と女学生が差入れた座布団が海面に上がった)。

伊37潜はパラオ・コッソル水道に向かったが、11月19日にパラオ本島北方で発見された[47]。これは米設網艦ウィンターベリーEnglish版(USS Winterberry, AN-56)が、8時58分に浮上事故を起こした伊37潜(ポーポイズ運動を行った)を発見し、通報したものである。この報告を受けて、米護衛駆逐艦コンクリンEnglish版(USS Conklin, DE-439)、マッコイ・レイノルズEnglish版(USS McCoy Reynolds, DE-440)が9時55分に現場付近へ到着し、両艦はソナーで探索を開始。午後も捜索を続けたのち、15時4分にコンクリンが探知し、レイノルズが15時39分にヘッジホッグで13発を発射したが効果なく失探、16時15分にコンクリンが再度探知して攻撃したところ、「小さい爆発音(命中音と思われる)らしきもの1」を探知。続くヘッジホッグ2回と艦尾からの爆雷攻撃の1回には反応がなかった。レイノルズが再度爆雷攻撃を行い(コンクリンがソナーで探査し、後続のレイノルズが爆雷で攻撃する)接近したところ、17時1分に海面にまで達する連続した水中爆発を認めた。以後は反応無く、撃沈と判定された。伊37潜の乗員と隊員は全員戦死と認定された[47]。なお、のちにコンクリンは金剛隊を搭載した伊48潜も撃沈している。

回天特別攻撃隊金剛隊

この菊水隊の泊地攻撃で、アメリカ軍の泊地の警戒が厳重になった。生還した伊三六と伊四七の報告を元に研究会が開かれ、潜水艦3隻の喪失と米軍の対抗策を予想して泊地攻撃への懸念が表明されたが、上層部は聞き入れなかった[48]当山全信海軍少佐(伊四八艦長)の抗議に、艦隊司令部は「精神力で勝て」と命令している[49]。第二次玄作戦は[7]、回天特別攻撃隊金剛隊と命名された[50]。参加潜水艦は6隻(伊36、伊47、伊48、伊53、伊56、伊58)[50]。12月19日[51]、連合艦隊は電令作第448号をもって第二次玄作戦開始を命じる[52]

12月21日に伊56(目標地点アドミラルチー諸島ゼアドラ―港)、12月25日に伊47(フンボルト湾)、12月30日に伊36(ウルシー)と伊53(コッソル水道)と伊58(グアム島アプラ港)、翌年1月9日に伊48(ウルシー)が、それぞれ内海西部を出撃した[52]。伊56は警戒厳重のため攻撃機会がなく、伊47は1月12日に四基発進(判定:大型輸送船4隻轟沈)、伊53は同日三基発進(大型輸送船2隻轟沈)、伊58は四基発進(特設空母1、大型輸送船3隻轟沈)、伊36は四基発進(有力艦4隻轟沈)、伊48は未帰還[53](油槽船1隻・巡洋艦1隻・大型輸送船2隻轟沈)となった[52]。 総合戦果判定は特空母1、大型輸送船9、油槽船1、巡洋艦1、有力艦6、合計18隻轟撃沈というものだったが、戦後調査によれば該当する記録はない[52](戦後確認された戦果は“戦果”の項目の表の通り)。金剛隊の回天作戦は、泊地攻撃の困難さを改めて浮き彫りにした[52][54]。黒木、仁科の進言どおりに水上航走艦を狙う作戦へと変更されたのは、金剛隊による泊地攻撃の後であった。

その後

1944年11月8日に菊水隊として、ウルシーパラオ方面に初出撃して以降1945年8月まで金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、轟隊、多聞隊、神州隊の28隊(潜水艦32隻、回天148基、途中帰投含む)の出撃が行われている。同一の隊が複数回の出撃を行ったり、○○隊などは呼称であるためこのような数字になる。最初の菊水隊のみが1回限りの出撃である。目的地は、ニューギニアからマリアナ諸島沖縄諸島にかけてである。

以後は、次第にアメリカ軍の停泊地の警備が厳重となったため、洋上攻撃へ作戦変更を余儀なくされた。だが沖縄方面や硫黄島方面で泊地攻撃に投入され、損害を出した事例もある[54]。菊水隊以降は金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、 轟隊、多聞隊と終戦の1週間前まで、計148基の回天が出撃した。すでに制海権制空権も完全に敵の手中にあり、母艦となる大型潜水艦は次々と撃沈されていった。

ファイル:Kaiten Type 1 launch test from starboard of Japanese cruiser Kitakami.jpg
軽巡「北上」に搭載された回天一型の試験発射

1945年3月以降は敵本土上陸に備えて、陸上基地よりの出撃や施設設営とともに、スロープを設けられた旧式の巡洋艦北上)や、松型駆逐艦一等輸送艦からの発射訓練も行われたが、戦地へ輸送中に撃沈されたり、出撃前に終戦となった。

終戦を迎えたあと、必死を要求される特攻兵器のイメージから「強制的に搭乗員にさせられた」「ハッチは中からは開けられない」[55]「戦果は皆無」などの作戦に対する否定的な面が強調され、ときには事実と異なる情報が流布されたこともあった。回天のハッチは中から手動で開けられ、外からも工具を必要とするものの開閉できた。これは脱出装置が装備されていないこととの混同が発生していると思われる。回天の搭乗員は全てが志願者であった。ただし、当時の日本軍将兵にとって特攻隊への志願を拒否することは著しく困難であったことも考え合わせる必要がある。

広島長崎に落とされた原子爆弾(核部分)をテニアン島まで運び、帰路にあった重巡洋艦インディアナポリスを撃沈したのは、この回天特別編成隊の多門隊・伊58潜によるものだった[56]。ただし、会敵時は暗く回天戦は困難であり、橋本以行艦長の判断で回天は予備に置かれ、通常の雷撃で行われた。多門隊の回天は後に沖縄海域で故障艇1[57] を除き全て出撃した。

戦果

回天の総合戦果は、判明している戦果は給油艦ミシシネワ、護衛駆逐艦アンダーヒルなど撃沈3、大破1、小破4。

アメリカ側の秘密文書公開と戦後の「全国回天会」の調査により、以下が判明している(母艦の雷撃による戦果も含まれる)。なお、一回目の出撃である1944年11月20日に戦艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) を撃沈しているとの報告が日米双方に存在したが、実際にペンシルベニアが受けた被害は1945年(昭和20年)8月12日の夜間雷撃によるものだった。ペンシルベニアは戦後のビキニ原爆実験における二度の核爆発に耐えたのち、1948年2月10日に沈没した。

  • 回天による攻撃(発進49基=搭乗員)
    • 1944年11月20日:給油艦ミシシネワ撃沈
    • 1945年1月12日:輸送艦ポンタス・ロス小破
    • 1945年1月12日:歩兵揚陸艇LCI-600撃沈
    • 1945年1月12日:弾薬輸送艦マザマ大破
    • 1945年1月12日:戦車揚陸艦LST225小破
    • 1945年7月24日:駆逐艦アンダーヒル撃沈[58]
    • 1945年7月24日:駆逐艦R・V・ジョンソン小破
    • 1945年7月28日:駆逐艦ロウリー小破
  • 母艦の雷撃による攻撃
    • 1945年6月24日:工作艦エンディミオン撃破
    • 1945年7月29日:重巡洋艦インディアナポリス撃沈[59]

本来の目標であった米正規空母・戦艦に対する戦果はなかった。この期待はずれの結果に対し、アメリカ軍が意図的に戦果を隠蔽しているのではと疑問視している旧軍の回天関係者(隊員や潜水艦長、参謀)がいた[60]吉田俊雄(海軍中佐、参謀)は、終戦時ダグラス・マッカーサー司令部のリチャード・サザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦が行動中かどうか」について質問され、行動中と聞くと動揺したというエピソードを紹介し、米軍による情報隠蔽の根拠としている[61]。また全ての文書が公開対象となっておらず、民間輸送船に関してはアメリカ軍での記録がないため、上記戦果はあくまで現在確認されているものということになり、これから新しい戦果及び戦闘状況が判明する可能性もある。

当時の日本軍側は回天発射後の母艦からの潜望鏡による火柱、爆煙の目視、爆発音の聴取など間接的な形でしか戦果を観察できず、そこに「発進から30分以内での爆発音は、突入時刻と一致するため敵突撃の可能性は濃厚」や「燃料の切れる1時間前後での爆発音は自爆の可能性が高い」など推定を多く重ねざるを得ず、戦果報告は現実とかけ離れたものにならざるを得なかった。例えば伊58潜の橋本以行艦長は、回天作戦に従事した時には潜水艦長勤務が3年に及ぶベテランであったが、インディアナポリス撃沈時には目標艦が酸素魚雷3本を被雷しながらしばらく沈まなかったことを考慮し、アイダホ型戦艦撃沈と報告している[62]。さらに8月12日の回天戦では発進後44分後に爆発と黒煙を確認、1万5000トン級水上機母艦を撃沈したと報告している[63]

また通常の酸素魚雷2発分の炸薬量を持つ回天の命中を受けながら小破に留まった艦がある原因としては、目標艦に激突後、一定時間経過後に搭乗員が自爆装置を起動させ爆発させたからだと推定されている。その場合、激突の衝撃で回天と敵艦船との距離は既に離れているため敵艦への被害は小さくなってしまう。搭乗員は突撃の際には安全装置を外し、敵艦への突入角度が足りなくても突入と同時に信管が作動するよう自爆装置に腕をかけるなどしていたが、個々人の覚悟と工夫だけでは限界があった。

部隊

搭乗員

海軍兵学校海軍機関学校出身者は加賀谷武大尉(兵71)、帖佐裕大尉(兵71)、久住宏中尉(兵72)、河合不死男中尉(兵72)、村上克巴中尉(機53)、福田斉中尉(機53)、都所静世中尉(機53)、豊住和寿中尉(機53)、川崎順二中尉(機53)が、潜水学校11期卒業と同時に志願して回天隊に参加。以上は黒木、仁科が最初に何らかの形で接触をはかった者と思われる。上別府宜紀大尉(兵70)、樋口孝大尉(兵70)は特四内火艇竜巻作戦中止の後、回天作戦に志願参加。近江誠大尉(兵70)、三谷與司夫大尉(兵71)、橋口寛中尉(兵72)も回天と同様の特攻兵器の意見書を提出後、志願参加。それ以外は指名による(本人の配属希望を考慮し選考)。

予備士官予科練出身者は募集による志願。ただし、作戦は奇襲で、軍機密事項の段階であったため、敵への情報流出を防ぐ必要から、兵器に関する具体的な事柄には一切触れられなかった。募集要綱には「右特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」、「選抜せられたる者はおおむね三月及至六月間別に定められたる部隊において教育訓練を受けたる上直に第一線に進出する予定なり」とある。それ以上の説明は口頭でなされた。土浦海軍航空隊の予科練習生の場合、応募者2千余名の中から、身体健康で意志強固な者、攻撃精神旺盛で責任感の強い者、家庭的に後顧の憂いのない者を基準に100名が選抜された。

なお、最初期に着任した搭乗員は以下の34名である。

黒木博司51・殉職)、樋口孝70・殉職)、上別府宣紀(兵70・菊水隊)、仁科関夫(兵71・菊水隊)、加賀谷武(兵71・金剛隊)、帖佐裕(兵71・第三回天隊◎)、久住宏(兵72・金剛隊)、河合不死男(兵72・第一回天隊)、石川誠三(兵72・金剛隊)、川久保輝夫(兵72・金剛隊)、吉本健太郎(兵72・金剛隊)、福島誠二(兵72・多々良隊)、土井秀夫(兵72・多々良隊)、柿崎実(兵72・天武隊)、小灘利春(兵72・第二回天隊◎)、福田斉(機53・菊水隊)、村上克巴(機53・菊水隊)、都所静世(機53・金剛隊)、豊住和寿(機53・金剛隊)、川崎順二(機53・千早隊)、宇都宮秀一東大・菊水隊)、今西太一慶大・菊水隊)、近藤和彦名古屋高工・菊水隊)、佐藤章九大・菊水隊)、渡辺幸三(慶大・菊水隊)、原敦郎早大・金剛隊)、工藤義彦大分高商・金剛隊)、前田肇福岡第二師範・天武隊)、池淵信夫大阪日大・轟隊)、小林好久長岡工業専門・殉職)、藤田克己(予・多聞隊◎)、永見博之(予・第五回天隊◎)、上杉正俊(予・転属)、松岡俊吉(予・転属)。(注・予=予備士官で出身校不明、◎=生還)

昭和63年2月の回天名簿によると、最終的には兵学校・機関学校122名、予備士官244名、兵科下士官10名、予科練1050名の、計1426名(うち転出51名)が着任した。

著名人には、 小灘利春(「全国回天会」会長)、河崎春美(全国回天会事務局長)、帖佐裕(軍歌「同期の桜」作詞者)、山地誠(旧姓近江)(晩年出家し回天戦没者追悼の旅をする)、横田寛(『ああ回天特攻隊』著者)、園田一郎(元三菱商事副社長)、上山春平(哲学者、京都大学名誉教授)、武田五郎(元大洋ホエールズ球団社長)

終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校海軍機関学校予科練予備学生など、1,375人であったが、実際に出撃戦死した者は87名(うち発進戦死49名)、訓練中に殉職した者は15名、終戦により自決した者は2名。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり、それらを含めると145人になった。訓練中の死者は特攻兵器の中で最も多い[64]。搭乗員は志願によって選抜され、戦死者の平均年齢は21.1歳だった[65]

坂本雅俊(回天特攻要員)は「覚悟はしていたが見た時はぎょっとした」という。[66]竹林博(回天特攻要員)は「戦争の再現は望まないし美化もしないし命も粗末に考えないが、日本のためどんなものでも行くという思いで殉じた若者がいたことを正しく歴史に刻みこんでほしい」と戦後語っている[67]

基地

訓練基地
「回天」の訓練基地として山口県周南市(旧・徳山市)の徳山湾に浮かぶ大津島が知られている。大津島の一番南、元は別の島だったものの、400年くらい前につながってひとつの島になった馬島に、戦時中は、回天の組立工場とそれを海に下ろすためのエプロン2ヵ所と島の裏側に発射練習基地があった。島の反対側までトンネルがあり、その先に発射練習基地があった。練習のコースは、大津島の徳山湾の東にあたる内海側から黒髪島方面に発射して戻ってくる第1コース、やはり内海側から発射して、馬島を周回して外海側の発射練習基地に戻る第2コース、内海側から発射して大津島を北上し、島の西を回って、外海側の発射練習基地に戻る第3コースがあった。
大津島の基地は、まもなく手狭になり、同じ山口県内の周防灘側の(光基地)と平生(平生基地)にも基地が設けられ、さらに大分県速見郡日出町大神(大神基地)にも基地が設けられた。大津島を含めて、4ヵ所に基地があったことになる。回天の出撃は、大半が大津島基地からで14回、他に光から12回、平生から2回、大神から1回である。
現在は、高台の旧馬島小学校[68]の跡地に1968年(昭和43年)に建てられた回天記念館と回天碑、鐘楼がある。門から記念館までのアプローチには、それぞれの戦没者の名を刻んだ烈士石碑が並んでいる。初代館長は、高松工(たくみ)である。現在は周南市教育委員会が管理運営している。
なお、以前の展示品などは、回天記念館と同じ住所の休憩所「養浩館」に展示されている。そちらでは体験談を聞くことができる。発射練習基地はそのほとんどが破壊され、大方の輪郭のみ残っているものの一部老朽化が進み、立ち入り禁止になっている。通称「ケイソン」と呼ばれている。
基地回天隊
回天を搭載する大型潜水艦が次々と失われ、また敵の本土上陸が現実問題となってきたことから、日本本土の沿岸に回天を配備する「基地回天隊」が組織された[69]
第一回天隊8基および搭乗員、整備員、基地員の全127名は1945年3月に第十八号輸送艦沖縄に向け進出したが、同18日に沖縄南西の慶良間諸島付近で米潜水艦「スプリンガー」に撃沈され全滅(推定)した。第二回天隊8基は1945年5月に伊豆諸島八丈島の2ヶ所の収容壕に配備され、敵艦隊の接近を待ったが、出撃する機会なく終戦を迎えた。その後アメリカ軍命令で壕ごと爆破処理されたが、現在は壕は発掘され、説明看板が立てられている。
そのほか、第三・第五・第八・第九回天隊は宮崎県、第四・第六・第七回天隊は高知県、第十一回天隊は愛媛県、第十二回天隊は千葉県、第十六回天隊は和歌山県に配備され、いずれも敵の上陸予想地点を射程内に捕らえる場所にあった。
一覧
部隊名 指揮官 編成年月日 部隊編成 配置
光突撃隊 S19年11月25日 山口県
平生突撃隊 S20年3月1日 山口県平生
大津島分遣隊 S19年9月1日 山口県大津島
大神突撃隊 山田 盛重 S20年4月20日 回天16基(終戦時) 大分県大神
01回天隊 河合 不死男 回天8基(配備前に喪失) 沖縄県沖縄本島
02回天隊 小灘 利春 回天8基 東京都八丈島
03回天隊 羽田 育三 回天8基 宮崎県油津
04回天隊 近江 誠 回天8基 高知県須崎
05回天隊 永見 博之 回天7基 宮崎県大堂津栄松 (宮崎県) |南郷町 (宮崎県) |栄松南郷
06回天隊 那知 勤 回天8基 高知県浦戸湾
07回天隊 櫻井 勝 回天8基 高知県浦戸湾・高知県須崎湾
08回天隊 井上 薫 回天12基 宮崎県細島
09回天隊 重岡 力 回天6基 宮崎県内海
10回天隊 佐賀 正一 回天4基 鹿児島県内ノ浦
11回天隊 久堀 弘義 回天8基 愛媛県麦ヶ浦
12回天隊 峯 眞佐雄 回天6基(未配備) 千葉県小浜
13回天隊 未展開 静岡県網代
14回天隊 未展開 神奈川県小田和湾
15回天隊 未展開 愛知県大井
16回天隊 武永 惟雄 回天4基(未配備) 和歌山県由良白崎
17回天隊 展開先未定
18回天隊 展開先未定

搭載母艦

  • 菊水隊(1944年11月8日出撃)[46]伊36潜伊37潜(11月19日喪失)[47]伊47潜
  • 金剛隊(1944年12月1日 - 1945年1月9日出撃)[52]、伊36潜、伊47潜、伊48潜(1月23日喪失)[53]伊53潜伊56潜伊58潜
  • 千早隊、伊44潜伊368潜伊370潜(1945年2月20日、21日、22日出撃)
  • 神武隊、伊36潜、伊58潜(1945年3月1日、2日出撃)
  • 多々良隊(1945年3月28日 - 4月3日出撃)[70]、伊44潜(4月18日喪失)[71]、伊47潜(損傷)[70]、伊56潜(4月5日喪失)[72]、伊58潜
  • 天武隊(1945年4月20日、22日出撃)[73]、伊36潜、伊47潜
  • 振武隊(1945年5月5日出撃)[74]伊366潜(出撃直前の5月6日、触雷して出撃不能)、伊367潜
  • 轟隊(1945年5月24日 - 6月15日出撃)[75]、伊36潜、伊165潜(6月27日喪失)[76]伊361潜(5月30日喪失)[77]伊363潜
  • 多聞隊(1945年7月14日 - 8月8日出撃)[78]、伊47潜、伊53潜、伊58潜[56]伊366潜、伊363潜、伊367潜
  • 神州隊、伊159潜(1945年8月16日出撃、18日帰投)[79]

各型

一型
艇後半の機関部を九三式酸素魚雷から流用して作製。他に一型を簡素化して量産性を高めた一型改一および一型改二がある。
一型は130基程度生産し、その後は二型に切り替える予定だった[80]。だが二型や改良型の生産遅延により、一型は各種約420基生産された[80]。各型の性能要目は、戦史叢書「潜水艦史」に依る[81]
  • 全没排水量:8.30 t
  • 全長:14.75 m
  • 直径:1.00 m
  • 軸馬力:550 馬力
  • 速力/射程距離:12kt / 78,000 m、20 kt / 43,000 m、30 kt / 23,000 m
  • 最低航行速度:3 kt
  • 乗員:1 名
  • 炸薬:1.55 t
  • 安全潜航深度:80 m
二型
遣独潜水艦作戦により伊号第八潜水艦がドイツより持ち込んだ新型機関を基礎に、過酸化水素と水化ヒドラジンを燃料とする機関(六号機械)を搭載して40ノットの高速を狙った大型タイプ。
六号機械の開発が難航し、量産されることなく終戦を迎えた。本来ならば、この二型が回天の主軸を担うはずであった[80]
  • 全没排水量:18.38 t
  • 全長:16.50 m
  • 直径:1.350 m
  • 軸馬力:
  • 速力/射程距離:20kt / 83,000 m、30 kt / 50,000 m、40 kt / 25,000 m
  • 最低航行速度:
  • 乗員:1 名
  • 炸薬:
  • 安全潜航深度:
四型
機関に二型と同じ六号機械を使用し、燃料のみ一型と同じ酸素と灯油に変更したタイプ。二型と同じく六号機械の開発難航により量産されなかった。生産台数は6基という[80]
  • 全没排水量:18.17 t
  • 全長:16.50 m
  • 全幅:1.35 m
  • 速力/射程距離:20kt / 62,000 m、30 kt / 38,000 m、40 kt / 27,000 m、
  • 炸薬:1.8 t
十型
九二式電池魚雷を中央部で切断し、操縦室を挿入した簡易型回天。航続距離、速力とも低く航行中の艦船を襲撃することは不可能だったが、酸素魚雷転用の一型では不可能な機関停止による待機や、逆転による後進が可能で運用の柔軟性が増すと期待されていた。
生産が間に合わず、実戦に参加することなく終戦を迎えた。

主題にした作品

映画
舞台
テレビドラマ
音楽
小説
漫画
写真集
  • 全国回天会編『回天特別攻撃隊 写真集』(1992年)

参考文献

  • 『特攻 最後の証言』(2006年、アスペクト) - 元全国回天会会長・小灘利春の記事
  • 板倉光馬 『続・あゝ伊号潜水艦』(光人社 ) - 元・回天隊参謀によるもの
  • 板倉光馬『どん亀艦長青春記』(光人社) - 元・回天隊参謀によるもの
  • 井星英『ああ黒木少佐』(1960年、私家版)
  • 上原光晴『「回天」その青春群像』(2000年、翔雲社)
  • 証言記録「兵士たちの戦争」〜回天特別攻撃隊 (2009年2月、NHK-BShi、ドキュメンタリー)
  • ある人生『回天の遺書』(1969年7月2日、NHK、ドキュメンタリー
  • 『回天』(1976年、回天刊行会)
  • 神立尚紀『戦士の肖像』(2004年、文春ネスコ)
  • 神津直次『人間魚雷回天』(1995年、朝日ソノラマ
  • 小島光造『回天特攻 人間魚雷の徹底研究』(光人社)
  • 小灘利春、片岡紀明『特攻回天戦〜回天特攻隊隊長の回想』(2006年、光人社)
  • 斎藤寛『鉄の棺』(光人社) - 金剛隊作戦時の伊五六潜軍医長の回想記
  • 『人間魚雷 回天』(2006年、ザメディアジョン
  • 鳥巣建之助『特攻兵器「回天」と若人たち』(1983年、新潮社
  • 平泉澄『慕楠記』(1975年7月、岐阜県教育懇話会) - 慕楠黒木博司の記録
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 「第四編 第三段作戦後期における潜水艦戦/第二章 回天の泊地攻撃」『戦史叢書 潜水艦史』第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。
  • 前田昌宏『回天菊水隊の四人』(光人社)
  • 松平永芳『ああ黒木少佐』(1960年、私家版)
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』(光人社、1990年、ISBN 4-7698-0462-8)
  • 宮本雅史『回天の群像』(2008年、角川学芸出版
  • 茂呂計造 「第14章 「回天」特攻戦」『南海の死闘 少年水兵の海戦記』 近代文藝社、1994年9月。ISBN 4-7733-3262-x。 「竹」水雷科連管手。
  • 山本親雄 『大本営海軍部』 朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1982年12月。ISBN 4-257-17021-2。
  • 横田寛『ああ回天特攻隊-かえらざる青春の記録』(1971年、光人社)
  • 吉岡勲・編『ああ黒木博司少佐』(1979年、教育出版文化協会)
  • 吉田俊雄 『指揮官たちの太平洋戦争 青年士官は何を考え、どうしようとしたか光人社、1984年8月。ISBN 4-7698-0242-0。
  • 別冊歴史読本 戦記シリーズ37 日本海軍軍艦総覧』(1997年、新人物往来社
    池田勝武「『伊366潜』と回天特攻 大戦末期、"どん亀"がたどった戦争とは」 - 「伊三六六」乗組員。8月11日に3隻発進。
  • 歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 36 『海龍と回天』(学習研究社、2002年、ISBN 4-05-602693-9)

脚注

注釈

  1. 戦史叢書98巻、389頁「新戦備方針ニ依リマシテ各種奇襲兵器ガ出現シテ参リマシテ之等ノ訓練研究要員養成等ノ中心トナリマスル機構ヲ必要ト致シマスノデ 従来カラアリマスル甲標的ノ訓練基地ヲ基幹ト致シマシテ新ニ第一特別基地隊ヲ編成シ同指令案ヲシテ各種奇襲兵器全般ノ研究訓練要員養成ニ従事セシムルコトト致度ト存ジマス/尚第一特別基地隊ハ所在地ノ関係竝ニ工作庁トノ関係上呉鎮守府部隊ニ編入ノコトト致度ト存ジマス」
  2. 戦史叢書98巻、393頁「聯合艦隊電令作第四〇〇号(五日一一四二)先遣部隊指揮官ハ左ニ依リ玄作戦ヲ実施スベシ  一 西「カロリン」方面在泊中ノ敵機動部隊ヲ捕捉「回天」ヲ以テ挺身奇襲ス/二 攻撃期日 十一月二十日頃/三 兵力 第十五潜水隊ノ作戦行動中ノ一部潜水艦ヲ以テ隠密実施ス」

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 戦史叢書102巻、330頁「回天(マル6〈まるろく〉金物)」
  2. 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 325頁
  3. 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 334頁
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 戦史叢書98巻、387頁「回天の採用」
  5. 時事ドットコム:人間魚雷「回天」の島 2/7 時事ドットコム
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 6.7 6.8 6.9 戦史叢書98巻、386-387頁「回天の試作」
  7. 7.0 7.1 7.2 戦史叢書102巻、401頁「玄作戦」
  8. 戦史叢書88海軍軍戦備(2)開戦以後 5-6頁
  9. 昭和17年8月10日.昭和20年7月13日 内令及び海軍公報(軍極秘)/昭和20年6月/昭和20年6月1日(金)海軍公報 第一四二號(甲配付) p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C12070204800 「内令兵第二五號(軍極秘) 回天、海龍及蛟龍ヲ兵器ニ採用ス 昭和二十年五月二十八日 海軍大臣」
  10. 鳥巣建之助『特攻兵器「回天」と若人たち』「ウルシー礁内の大恐慌」
  11. 『別冊歴史読本 戦記シリーズ37 日本海軍軍艦総覧』27頁
  12. 斉藤寛『鉄の棺』(光人社NF文庫)206頁
  13. 時事ドットコム:人間魚雷「回天」の島 3/7 時事ドットコム
  14. 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 14.5 14.6 戦史叢書98巻、385頁「特攻気運の醸成」
  15. 戦史叢書102巻、123頁「昭和17年(1942年)5月31日」
  16. 御田重宝『特攻』講談社305-307頁
  17. 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 325頁
  18. 戦史叢書102巻、216頁「昭和19年(1944年)2月17日」
  19. 戦史叢書98巻290-294頁「トラック被空襲時の作戦」
  20. 戦史叢書102巻、218頁「昭和19年(1944年)2月26日/海軍中央部、呉工廠魚雷実験部に人間魚雷の試作を指示」
  21. 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 326頁
  22. 戦史叢書102巻、225頁「昭和19年(1944年)4月4日/軍令部第2部長、軍令部第1部長に特攻兵器を含む「作戦上急速実現を要望する兵力」案を提示」
  23. 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 326-327頁
  24. 戦史叢書102巻、241頁「昭和19年(1944年)7月5日/7月6日/7月7日」
  25. 25.0 25.1 昭和19年7月14日(発令7月10日付)海軍辞令公報甲(部内限)第1535号 p.16高木武雄〈免06F長官〉・三輪茂義〈補06F長官〉』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000 
  26. 26.0 26.1 戦史叢書102巻、241-242頁「昭和19年(1944年)7月10日」
  27. 27.0 27.1 27.2 27.3 27.4 戦史叢書98巻、389-390頁「回天の訓練及び要員の養成」
  28. 昭和19年7月19日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1539号 p.41』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000 
  29. 昭和19年7月17日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1537号 p.28』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000 
  30. 昭和19年7月18日(発令7月10日付)海軍辞令公報甲(部内限)第1538号 p.37 第六艦隊司令部附海軍大尉黒木博司補第一特別基地隊附』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000 
  31. 御田重宝『特攻』講談社361頁
  32. 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 334頁
  33. 時事ドットコム:人間魚雷「回天」の島 4/7 時事ドットコム
  34. 戦史叢書102巻、253頁「昭和19年(1944年)9月12日」
  35. 35.0 35.1 戦史叢書98巻、391頁「マーシャル攻撃計画」
  36. 36.0 36.1 戦史叢書98巻、391-392頁「攻撃計画の変更」(菊水隊)
  37. 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 549-550頁
  38. 38.0 38.1 38.2 38.3 38.4 38.5 戦史叢書98巻、393頁「出撃」(菊水隊)
  39. 39.0 39.1 戦史叢書98巻、363-364頁「台湾沖航空戦と潜水部隊の出撃」
  40. 戦史叢書102巻、259頁「昭和19年(1944年)10月17日」
  41. 戦史叢書98巻、367-371頁「比島沖海戦における潜水艦戦/米軍のレイテ島上陸」
  42. 戦史叢書102巻、263-264頁「昭和19年(1944年)11月5日」
  43. 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 554頁
  44. 44.0 44.1 戦史叢書98巻、393-394頁「攻撃地点の決定」(菊水隊)
  45. 戦史叢書102巻、266-267頁「昭和19年(1944年)11月19日」
  46. 46.0 46.1 46.2 46.3 戦史叢書98巻、394-395頁「攻撃決行」(菊水隊)
  47. 47.0 47.1 47.2 戦史叢書98巻、485-486頁「伊37」
  48. #吉田、指揮官264頁
  49. #吉田、指揮官265頁
  50. 50.0 50.1 戦史叢書98巻、395-396頁「作戦計画」(金剛隊)
  51. 戦史叢書102巻、272頁「昭和19年(1944年)12月19日」
  52. 52.0 52.1 52.2 52.3 52.4 52.5 戦史叢書98巻、396-398頁「作戦経過」(金剛隊)
  53. 53.0 53.1 戦史叢書98巻、486頁「伊48」
  54. 54.0 54.1 戦史叢書98巻、422-424頁「回天の航行艦襲撃」
  55. #南海の死闘189頁(著者は竹乗組員、回天戦訓練に従事)
  56. 56.0 56.1 戦史叢書98巻、431頁「回天特別攻撃隊多聞隊/伊五十八潜」
  57. 白木一郎一飛曹のみ回天の故障により帰還
  58. 発進したのは多門隊伊53潜・勝山淳中尉(没後少佐)の回天。唯一、誰の艇によるものかが分かる戦果となった。
  59. 原爆の部品運搬任務を果たしたインディアナポリスの撃沈は、米海軍最大の惨事となった。その後マクベイ艦長軍法会議にかけられ、1968年に自殺している。
  60. #吉田、指揮官262頁
  61. #吉田、指揮官263頁
  62. #吉田、指揮官273頁
  63. #吉田、指揮官274頁
  64. 御田重宝『特攻』講談社377頁
  65. 注目集める回天特攻の島 周南・大津島 山口 msn産経ニュース 2013年12月8日
  66. 『証言記録 兵士たちの戦争3』NHK「戦争証言」プロジェクト、NHK出版194頁
  67. 神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ246頁
  68. 戦時中の予科練宿舎が解体された後に、木造の小学校校舎として転用されていたもので、1965年(昭和40年)頃ふもとの旧回天組み立て工場跡に鉄筋コンクリート二階建ての新校舎が出来、学校が移転して使用されなくなった。学校はその後大津島小学校と改名。
  69. 戦史叢書98巻、440-441頁「回天」
  70. 70.0 70.1 戦史叢書98巻、425-426頁「回天特別攻撃隊多々良隊の作戦」
  71. 戦史叢書98巻、489頁「伊44」
  72. 戦史叢書98巻、490頁「伊56」
  73. 戦史叢書98巻、429頁「回天特別攻撃隊天武隊」
  74. 戦史叢書98巻、429-430頁「回天特別攻撃隊振武隊」
  75. 戦史叢書98巻、430頁「回天特別攻撃隊轟隊」
  76. 戦史叢書98巻、490頁「伊165」
  77. 戦史叢書98巻、490頁「伊361」
  78. 戦史叢書98巻、430-431頁「回天特別攻撃隊多聞隊」
  79. 歴史群像『海龍と回天』、p. 99。
  80. 80.0 80.1 80.2 80.3 戦史叢書98巻、387頁「回天の生産」
  81. 戦史叢書98巻、388頁「挿表第二 回天要目」
  82. この映画の撮影の際、検証に立ち会っていた小灘利春(元第二回天隊隊長)のもとに主演の鶴田浩二がやってきて、耳元で「自分は本当は特攻隊員じゃなかったんです。整備兵だったんです」とそっと打ち明けたという(鶴田は特攻崩れとして売り出し戦後の大スターとなった)。
  83. 主演の市川海老蔵は、当時の搭乗員と比べ大柄であったため、撮影に使われた回天のコクピットも実際よりも2割ほど大きく作られていた。

関連項目

外部リンク

テンプレート:日本の潜水艦