国生さゆり

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国生 さゆり(こくしょう さゆり、1966年(昭和41年)12月22日 - )は、日本女優タレント歌手血液型A型、身長162cm[1]。愛称はさゆちゃん。ソニー・ミュージックアーティスツ所属。

鹿児島県鹿屋市出身。幼少期を長崎県佐世保市で過ごし、鹿屋市立西原小学校・鹿屋市立第一鹿屋中学校清水ヶ丘高等学校広島県呉市)卒(父親が海上自衛官で、佐世保基地から鹿屋基地呉基地への転勤にともなうもの)[2][3][4]

1985年(昭和60年)4月に、おニャン子クラブの会員番号8番としてデビューした[5]。翌年の1986年(昭和61年)に、シングル曲の「バレンタイン・キッス」でソロデビューした[2]

本名の正式な表記は「國生さゆり」で、NHKに出演する際などにはこちらを用いる場合もある。「さゆり」という名前は父が吉永小百合のファンであったことから名付けられた。

経歴

芸能界入り前から、おニャン子クラブ卒業まで

高校在学中の1984年、第3回ミス・セブンティーンコンテスト(過去最大応募総数18万325人)中国地区代表に選出され全国大会に出場(同コンテストの同期には渡辺美里工藤静香渡辺満里奈などがいる)[6][7]。高校の友達がコンテストに写真を送るから一緒に参加してはどうかと勧めたことが応募のきっかけである[7]

入賞はできなかったが、大会終了後にCBSソニーからレコード会社対抗運動会に「運動会要員」として出場しないかと声をかけられる[6][7]。これは陸上短距離走インターハイ選手であった国生にゼッケンの社名をアピールしてもらいたいという狙いであった[6]。レコード会社対抗運動会には二度出場し、運動神経の良さを売りにしていた石川秀美を追い抜いたこともある。

CBSソニーからは正式にスカウトされたわけではなかったので[8]、高校卒業後は資生堂の美容部員に就職が内定しており、広島のデパート化粧品売り場に立つ予定だった[7][6][8]。しかし、先のCBSソニー担当者による薦めで1985年2月にフジテレビで放送される、深夜番組『オールナイトフジ』の特別番組『オールナイトフジ 女子高生スペシャル』に出演[5][8]。この特番は同年4月1日から同局で始める新番組『夕やけニャンニャン』のパイロット番組であり、番組の中でアシスタント兼マスコットとして結成される女性アイドルグループ・おニャン子クラブのメンバー選定も含まれていて、CBSソニー担当者からはそのテストを設けられての出演でもあった。何十人にも及ぶ同年代の娘たちが出演していた特番の中で行った“美少女コンテスト”において優勝するなどして、見事その関門をクリア。それにより、地元での就職は取り止めて、芸能界入りするために高校を卒業するのと同時に単身上京した[7][8][9]。なお、高校時代を広島県で過ごしたため[4]、デビュー当時は「広島出身」としていた(現在は「鹿児島出身」としている)。所属事務所は、CBSソニー運営のエイプリル・ミュージック(現在のソニー・ミュージックアーティスツ)。そして、おニャン子クラブ会員番号8番として『夕やけニャンニャン』開始とともに芸能界デビューした[2]

おニャン子クラブの初期メンバーは都会育ちの子が多く、田舎育ちは国生だけであった[10]。また素人集団というおニャン子クラブのイメージだが[11]、実際は子役上がりの子も多く、完全な素人は国生だけで当初はメンバー内で孤立したという[10]。学生時代は陸上部のキャプテンを務めていたことに加え、『夕やけニャンニャン』開始時には既に学生ではなかったことから、夕方5時放送開始の番組には日中のリハーサルから連日参加し、陸上部のキャプテン時代とリハーサルで得た体験を交えつつ、自発的に歳下の学生メンバーに指導するなど、自然とおニャン子クラブのリーダー格となっていった[7]。『夕やけニャンニャン』放送開始から三ヶ月後の7月、おニャン子クラブはポニーキャニオンから出したデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」でブレイクを果たすも、この当時のおニャン子クラブにおけるパブリックイメージは、「セーラー服を脱がさないで」フロントヴォーカルの4人である新田恵利中島美春福永恵規内海和子に集中していたため、4人の後ろでその他大勢の一員として踊っているだけの国生がおニャン子クラブのメンバーであることは世間一般的にはまだまだ知られてなかった。おニャン子クラブからの第二弾として9月にCBSソニーからソロデビューした河合その子のキャンペーンに同行した以外は特に目立ったソロ活動のない状態が続いた。

この当時について、「ソロで出れるのか、グループで出れるのか、それとも出れないのか、とてもピリピリしていた。」「先にソロデビューを果たしている新田恵利や河合その子を応援したいという気持ちと嫉妬心とが入り混じり、女の子ならではのとても複雑な気持ちで見ていた。」と振り返っている。

混沌とした気持ちの1985年から抜けた翌1986年になってようやく国生にも運が開き、2月1日に、国生さゆりwithおニャン子クラブ(国生のサブボーカルとして、白石麻子渡辺美奈代がつく)名義のもと『バレンタイン・キッス』でソロデビュー。おニャン子クラブが大ブームだった中で同曲は約30万枚のヒットとなり、現在でもバレンタインシーズンには定番の曲となっている。しかし、おニャン子クラブ関連の曲がオリコン1位が当たり前だった状況の中で最高位2位という結果に甘んじる。新田や河合は1位を獲得しているだけに「二人には負けたくなかった」と、当時の悔しい心境を語っている。また、2017年の別冊宝島のインタビューでは、当時そもそもデビューできると思っていなかったといい、サブボーカルが付いたのも1人では難しかったという関係者の判断による[7]

ソロデビューに合わせて『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブのスタッフらは、国生を積極的に推すようになり、歌手活動以外にも『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』へのメインゲスト出演や、『月曜ドラマランド』などおニャン子クラブ主体のドラマにも主役格で出演させたことで瞬く間に中心メンバーへと躍り出た。さらに、カネボウ秋のキャンペーンガールに選ばれるなどの活躍をみせた。この頃から「芯の強さ・気の強さ」を前面に出すようになり、おニャン子クラブのリーダーとしてのイメージも定着してゆく。国生の親衛隊つなぎ姿の若者が多かった[12]

リーダーとして後輩の指導にも積極的に関わっていたが、ソロデビュー以降は「年下のメンバーの子たちの中に、自分から入ってはいかなかった」という。渡辺美奈代などは後に「さゆりちゃんが苦手だった」と発言している(そうとわかる発言をしている)。国生が挙げる仲の良かったメンバーは福永恵規、樹原亜紀名越美香城之内早苗など、自身が「おとな組」と称する面々。(新田との確執に関して「私はプロ意識のない人は嫌いです」と、暗におニャン子内に派閥が存在していることを認める発言をしているが、樹原や名越は芸能界での成功を目指していたわけではなかった。)特に同い年で、同じく就職を取り止めておニャン子入りした福永のことは「東京に来てはじめてできた友達」と表現している。(新田恵利#新田派・国生派の頁参照)

バイクの免許を取得し、同年10月から約一か月掛けて北アメリカ大陸を横断する企画を実行。その様子は『夕やけニャンニャン』内で逐一報告された。完走を遂げた際には「(交通)事故を起こすと芸能活動ができなくなるので、もうバイクには乗れません」と、涙ながらに発言。ビデオソフト「HELLO!アメリカ」(2004年にDVDソフト化)、写真集「EAGLE」などの形で商品化された。

1987年3月、『夕やけニャンニャン』およびおニャン子クラブを卒業[5]。卒業当日、「おニャン子の想い出を缶詰に入れ、冷蔵庫に入れて保存しておきたいですっ!」と述べた[13]が、。

卒業時、『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブのブームは峠を過ぎていたが、ソロとしての国生さゆりはアイドル絶頂期にあり、卒業直後には初主演映画『いとしのエリー』が劇場公開[5]。三浦友和と共演できたことは嬉しかったといい、山口百恵と三浦友和が出演していたアーモンドチョコレートの販促用下敷きを「今でも実家で大切にしてます」と話した思い出を後に語っている[7]。また同年5月に『キスより簡単』で連続ドラマ初主演を果たすなど、卒業後もその活動の勢いは続いた。

そして、同年8月の『夕やけニャンニャン』番組終了時まで他の卒業したメンバーらと幾度もゲスト出演し、おニャン子クラブの解散コンサートにも出演するなど、実質的には最後まで関わっていた。

1990年代の活動など

おニャン子クラブが解散した後は、卒業していたとはいえ、中心メンバーの一人であったことからその煽りでアイドルとしては翳りが出てしまい、1988年でシングル曲、翌1989年でアルバムが途絶えて歌手活動は休止してしまったが、並行していた女優活動の方ではさらに花開き、1988年のエランドール賞新人賞を受賞[5]。おニャン子クラブ時代のイメージである快活な女性から淑やかな女性まで様々な女性像を演じていき、多くのドラマや映画に出演していく。ただこの頃に、当時親交のあった長渕剛との絡みで、長渕が長渕のADに暴行するのを助勢したなどと報じられるなど一部メディアで批判が出るようになる。 [14] これに関して当時は「自分は口数が少ないから誤解を受けやすい」と弁明していたが、近年は「あの頃は天狗でした」とそれらが事実であったこと、そのために20歳代の後半に一気に仕事が減ったことを明かしている。

1991年のドラマ『しゃぼん玉』出演以降、長渕剛との不倫関係が噂されるようになる[14]。これに関して長渕は「自分は一般常識の範囲外で生きている」と発言。1995年1月、長渕が大麻取締法により逮捕されたのを受けて記者会見を開き、自身は薬物に無関係であり、長渕の夫人(志穂美悦子)を交えて話し合い不倫関係を清算させたと発表。「潔い」、「保身のために逃げた」と賛否が分かれたが、この件を機にバラエティ番組に多く出演するようになり、「強気に恋愛を語る」というキャラクターを得る。

1995年4月から『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』にレギュラー出演。番組の企画で、室井滋高山理衣との3人組ユニットMckeeを結成。曲を出し、オリコン初登場28位を記録するという結果になる。しかし、リリースした曲はこの1曲で終わり、Mckeeも自然消滅した。番組のマイナーチェンジ(「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」へ番組名改名・番組内容大幅リニューアル)により1996年の夏に降板した。

これ以降も読売テレビ制作『島田紳助がオールスターの皆様に芸能界の厳しさ教えますスペシャル!』などに出演。

2000年以降の活動など

2000年11月、中学時代の同級生だった一般人男性と結婚。結婚初期は鹿児島県内に居住し、仕事の度に東京へ向かう生活を送っていた。結婚生活中から再びバラエティ番組への出演も増える。

2002年、おニャン子クラブの再結成に参加。シングル「ショーミキゲン」では、おニャン子クラブの楽曲ではじめてフロントボーカルを担当した。

2003年8月に中学時代の同級生だった一般人男性と離婚。その後、1年間ほどのブランクを経て再び同棲する関係になっていたことが2007年6月になって報道されたが[15]、2008年8月になって再び同棲が解消されていると報道された[16]

2007年2月13日にテレビ朝日系列で放送された『ロンドンハーツ』ではドッキリ企画として番組内のライブで21年ぶりに「バレンタイン・キッス」をデビュー当時の衣装とポニーテールの髪型で再現。ライブ当日での急遽出演依頼であったため、感涙していたと同時にもう少しレッスン時間が欲しかったと伝えていた。「バレンタイン・キッス 2007」と銘打った新録音バージョンをインターネット配信で発表した。

2008年、デビュー曲のセルフリメイク「バレンタイン・キッス 2008」を発表。同年2月14日、AKB48のライブ内で歌唱された「バレンタイン・キッス」でもドッキリ企画として同曲の2番目のフレーズから参加し、AKB48との共演を果たす。この後の記者会見では報道陣に今でも「現役アイドル」宣言をした。

また、事務所の後輩で奇しくも自身と同じ番号「8」を持つアイドリング!!!8号のフォンチーに対し「フォンチーね、ちょっと太ったのよね」と指摘し、そこからしっかりダイエットを成功させたフォンチーを褒め、フォンチーも国生のことを尊敬するようになった[17]

11月には、女子プロレス団体OZアカデミーによる新宿FACEでの興行に、交友関係のあった尾崎魔弓セコンドとして登場[18]。 以降、尾崎魔弓率いる尾崎軍のマネージャーとして参加している。

2009年12月24日、コンサルタント会社社長の男性と婚約。2012年2月14日に婚姻届を提出[19]

2010年7月、おニャン子クラブ在籍時には犬猿の仲と言われた新田恵利と有楽町のディスコ「クラブディアナ」で同じステージに立ち、新ユニット結成を約束した。

同年11月、宝くじで100万円を当てたことを本人のブログで報告した。その後、2011年3月11日東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の義援金として、当選した宝くじの当選金100万円全額を寄付すると自身のブログで明かした。

2013年9月13日、コンサルタント会社社長の男性と9月9日に離婚した事を、レギュラー出演している『ハピくるっ!』(関西テレビ)および自身のブログで公表した[20]

人物

1980年代のアイドルの中で、中森明菜、小泉今日子、斉藤由貴に影響を受けていた。特に斎藤に関してはカルピスのCMで、セーラー服に赤いストールを巻いて雪の中にいるというシーンが綺麗に見え、デビュー前であった国生は非常に感銘を受けたという[7]。1980年代のアイドル業界については2017年の取材で「今は、何かをやろうとすると、その予算で売上げが立てられるか、最初に聞かれます。でも80年代って『それ面白いね』でやってしまう。後からいろいろくっついてきて、後の後でお金の話が出てくる。なんでも面白がってやった時代」と振り返っており、さらに「今は、どうしても時間の制約が出てくるので、私は懇切丁寧に教えてもらった世代だなと思います」と感謝の意を述べている[7]

陸上短距離走のインターハイ広島県代表選手であった[5][21]。100メートルのベストタイムは12秒8[21]。「12.8秒。これが私の青春です」と1987年3月のおニャン子クラブの卒業式の記念プロモにて自らが語るほどであった。また1986年2月、TBS系ザ・ベストテン』において(デビュー曲『バレンタイン・キッス』がランクインした時)司会の小西博之[注 1] と100メートル走の競走という企画があった[22]

おニャン子クラブに在籍していた時、本屋にいたら店の向こう側から自分を無断で撮影していたカメラ小僧を見つけたので、気付かれないように店を出るとカメラ小僧の後ろに回って相手を驚かせて、「何やってんだ、お前」と問い詰めた挙句、カメラ小僧の写真フィルムを全て没収して台無しにしたことがあった[23]

アイドル時代、毎日新聞に「当世風 美しき虚像」と題して取り上げられた際に、「アイドル青田買い時代の目立ちたがり娘は、テレビカメラに向かって確かめる。テレビよ、テレビよ、一番の器量よしはだれ?」「会ってみたら、ろくなあいさつもあらばこそ、人前かまわず髪をブラッシングするわ、足を投げ出すわ。ほおづえ突いて、“変に大人になりたくないしぃ”」「芸能界はアイドル人気の使い捨てばやり、美しい虚像も早々と“星屑”にならなければいいんですが」などと酷評されたことがあった[24]。後のインタビューで、「この当時はおニャン子クラブのメンバーを含めた他のアイドルを必要以上にライバル視していたことから、色々と疑心暗鬼に陥っていた。取材の時にいい顔しなかったのがいけないのに、ホント、ヤナ奴だよねー。マスコミに批判された時はすごいコタえたが、結局悪いイメージにしても何にしても自分が作ったものなんだよね。今にして思えばさゆりが蒔いた種なんだ」と語っていた[25]

タレントでは勝俣州和星田英利ココリコ遠藤章造ダイノジ大地洋輔などがファンだったと告白している。星田の証言によると、おニャン子クラブ時代の親衛隊のメンバーは、暴走族ヤクザ風の人間といった、いわゆる「気合の入った方達」ばかりだったとのこと[26]

前述の通り、高校を卒業しおニャン子メンバーになる前は、資生堂の美容部員での就職が決定していた[6]。しかしおニャン子メンバーになった後に、資生堂の競合他社であるカネボウの1986年秋のキャンペーンガールとしての話があった時、国生は「(カネボウに)選出していただいたのは光栄だが、資生堂に何か申し訳ない気持ちは多少有ります」と語っていた[27]

最近では女優業のほかに、NHK-BS2の番組『アニメ夜話』に3回にわたって出演した(『BSアニメ夜話スペシャル とことん!あしたのジョー』を含めると4回)。『ルパン三世 カリオストロの城』の回では唐沢俊一と討論した。

好きなアニメ監督は宮崎駿押井守ウォルト・ディズニーなど。『アニメギガ・スペシャル とことん!押井守』にも出演した。最も好きな押井守作品は『Avalon』である。

趣味はゴルフ。「週刊ゴルフダイジェスト」に隔週で対談の連載を設けていた(2006年〜2010年)。

日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会認定焼酎アドバイザーでもある。

かなり負けず嫌いな性格である。ロンドンハーツの企画で、腹筋を行った時には80回も腹筋をしたがインリンに僅差で負けた。そのことが非常に悔しかったため、「いつかインリンを抜こう」と毎日腹筋を行っていた。

出演

テレビドラマ

太字は主演作品

映画

テレビ番組

(レギュラー、準レギュラーのみ)

配信番組

  • 鳥肌怨読棺(2009年7月 - 9月、Bee TV) - パーソナリティー
  • 婚前特急 -ジンセイは17から-(2009年9月、LISMO Video
  • オシャレに恋したシンデレラ(2011年10月 - 12月、Bee TV) - 兼高朝子 役

オリジナルビデオ

  • 獣のように(1990年・1992年 全3作、東映ビデオ) - 桃子 役
  • 大災難(1995年、徳間ジャパンコミュニケーションズ) - マリ 役

ラジオ

アニメ

CM

音楽

シングル

  1. バレンタイン・キッス(1986年2月1日、作詞 秋元康、作曲 瀬井広明、編曲 佐藤準、c/w 恋はRing Ring Ring)
  2. 夏を待てない(1986年5月10日、作詞 秋元康、作曲 後藤次利、編曲 佐藤準、c/w サンバを躍らせて)
  3. ノーブルレッドの瞬間(1986年8月14日、作詞 秋元康、作曲 後藤次利、編曲 佐藤準、c/w もう一度走って恋人よ)
  4. あの夏のバイク(1986年12月3日、作詞 秋元康、作曲 後藤次利、編曲 佐藤準、c/w 夜明けまで"Happy Birthday")
  5. 星屑の狙撃手(1987年3月11日、作詞 秋元康、作曲・編曲 後藤次利、c/w こわれた太陽) - 「こわれた太陽」はエイス・ワンダー「浮気なテディ・ボーイ」のカヴァー
  6. ソレ以上、アレ未満(1987年5月28日、作詞 秋元康、作曲 小森田実、編曲 難波正司、c/w ノンフィクションしたい)
  7. 恋は遠くから(1987年10月1日、作詞・作曲 ポール・グレイ、日本語詞 秋元康、編曲 佐藤準、c/w コルドンブルー・ジェラシー風味(あじ))
  8. ガラスの森(1988年4月30日、作詞 森雪之丞、作曲 瀬井広明、編曲 難波正司、c/w WAIT!)
  9. Can't Stop My Heart(1996年4月17日、McKee名義、作詞 南々見一也、作曲・編曲 後藤次利)
  10. バレンタイン・キッス2008(2008年1月16日、編曲 多田三洋)

アルバム

  • PEP TALK(1986年7月16日)
  • BALANCE OF HEART(1987年2月1日)
  • TRANSIT(1987年8月1日)
  • SUMMERSNOW(1988年6月22日)
  • 愛執 -Still Loving-(1988年7月21日) - 8cmCDでリリースされた5曲入りベストアルバム
  • SAKANA(1989年10月21日) - 「さかな」「部屋(ルーム)」の2曲は自身が作詞
  • 国生さゆり ベストコレクション(1997年7月1日)
  • GOLDEN☆BEST 国生さゆり SINGLES(2002年11月20日)
  • ゴールデン☆アイドル デラックス 国生さゆり(2015年4月29日) - 全シングルレコードAB面16曲を収めたCDと、ビデオ・LDで発表されていた「HELLO! アメリカ」「ファーストコンサート DASH! KOKUSHO」の他、出演したCMなどの映像作品を収めたDVDとの2枚組[1]

参加作品

インターネット配信

  • バレンタイン・キッス2007(2007年1月17日、編曲 柳田しゆ) - PVも同時発表。

ビデオ・LD

  • HELLO! アメリカ(1986年12月12日、堤幸彦監督)
  • ファーストコンサート DASH! KOKUSHO(1987年4月1日)

※いずれも2004年にDVD化されている。

書籍

  • 国生さゆり EAGLE(渡辺達生・撮影、1986年、フジテレビ出版) - 写真集
  • THE BLUE HEARTS「1000の証拠」(月刊宝島編集部・編、1989年JICC出版局) - 寄稿
  • NHKドラマ・ガイド ぴあの(1994年NHK出版) - インタビュー収録。國生さゆり名義
  • CanCam別冊 噂の化粧品 売れてるコスメ大図鑑(1995年小学館) - インタビュー収録
  • 宮藤官九郎のビガーパンツはもう穿かない!(宮藤官九郎・著、2003年集英社) - 対談収録
  • ロンドンハーツ 魔性恋愛図鑑(2004年、テレビ朝日コンテンツ事業部) - 格付けメンバーの座談会収録
  • フォンチー写真集 FON FONCHI(河野英喜・撮影、2008年スコラマガジン) - オビ推薦文
  • 国生体操 身体を整えることは、心を整えること(2017年、トランスワールドジャパン)

CDマガジン

脚注

注釈

  1. 小西自身は、サイクリングボクシングスキー野球乗馬合気道と言ったスポーツの趣味や、特技を持っている。
  2. 番組の企画で、アトランタオリンピック聖火ランナーを体験。前走者はシェイプUPガールズ梶原真弓
  3. 単独で「懺悔花」「番町皿屋敷」、共同で「鈴の音」「もう半分」「雪女」を担当。

出典

  1. https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W93-1149
  2. 2.0 2.1 2.2 国生 さゆり プロフィール - Sony Music Artists
  3. 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載2〉上:東スポWEB
  4. 4.0 4.1 “広島県呉市”. 国生さゆりオフィシャルブログ. (2016年11月16日). https://lineblog.me/kokusho_sayuri/archives/13093233.html 
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「kokusa」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載3〉下国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載4〉上国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載4〉下
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 7.7 7.8 7.9 別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.6-9.
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載5〉上国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載5〉下
  9. 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載6〉上
  10. 10.0 10.1 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載7〉上国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載7〉下国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載8〉上国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載8〉下
  11. 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載11〉上国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載11〉
  12. 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載20〉国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載8〉下
  13. “【国生さゆり連載24】「思い出は冷蔵庫に」発言は本音”. 東京スポーツ. (2012年10月17日). https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/47660/ . 2018閲覧. 
  14. 14.0 14.1 長渕剛 元マネジャーが提訴!暴力裁判で噴出した「鉄拳制裁」タブー(1)意味不明な鉄拳制裁にスタッフが振り回され…”. 芸能. アサヒ芸能 (2014年7月1日). . 2014閲覧.
  15. 「国生さゆりがロンハーで自ら復縁同棲を報告」オリコン2007年6月13日9時40分配信
  16. 「国生さゆり03年離婚の元夫との再同居解消」日刊スポーツ2008年8月5日
  17. 若手アイドル、国生に怒られた!”. テレビ朝日 (2008年9月15日). . 2018閲覧.
  18. 「OZ新宿大会での尾崎軍セコンドに国生さゆりさんが登場した件につきまして」OZアカデミープレスリリース、2008年11月6日
  19. 国生さゆり バレンタイン入籍を報告「この日を待ってました」 - スポーツニッポン 2012年2月14日
  20. “国生さゆりが離婚「皆様、本当にごめんなさい」 元夫には「感謝」”. ORICON NEWS (オリコン). (2012年10月17日). https://www.oricon.co.jp/news/2028646/full/ . 2018閲覧. 
  21. 21.0 21.1 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載2〉下
  22. 別冊ザテレビジョン ザ・ベストテン 〜蘇る! 80'sポップスHITヒストリー〜(角川インタラクティブ・メディア、2004年12月、ISBN 978-4-0489-4453-3)p.186
  23. 「まいどおニャン子 卒業記念完全保存版」 扶桑社 132頁 ISBN 4-89353-142-5
  24. 「Look 国生さゆり」毎日新聞 1987年4月14日夕刊
  25. 「背のび強がりもうやめます!!」DUNK 集英社、1987年10月号、127-129頁
  26. 【国生さゆり連載21】推しメンめぐってファンが対立”. 東京スポーツ (2012年10月10日). . 2018閲覧.
  27. カネボウCM出演時のBGMは、国生本人の歌う『ノーブルレッドの瞬間(とき)』であった。

参考ウェブサイト

外部リンク

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