大久保利通

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大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日1830年9月26日) - 明治11年(1878年5月14日)は、日本武士薩摩藩士)、政治家位階勲等従一位勲一等

明治維新元勲であり、西郷隆盛木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。

初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった[1][2][3]

生涯

生い立ち

文政13年8月10日1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳のニ女・福の長男として生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士であった。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、下加治屋町の郷中藩校造士館で、西郷隆盛税所篤吉井友実海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となった。武術は胃が弱かったため得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたという[4]

天保15年(1844年)、元服し、通称を正助(しょうすけ)、は利済と名乗るが、後に改名する。

幕末

弘化3年(1846年)より、藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動では父・利世とともに連座して罷免され謹慎処分となる。以後、大久保家は貧しい生活を強いられ、この時の借金依頼の手紙や証文が現在残る大久保の文書で最も古いものとされている。島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年(1853年)5月に記録所に復職し、御蔵役となる。

安政4年(1857年10月1日、西郷とともに徒目付となる。精忠組の領袖として活動し、安政5年の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教(後の久光)に税所篤の助力で接近する。篤の兄で吉祥院住職・乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。

万延元年(1860年3月11日、重富邸にて忠教と初めて面会し、3月、勘定方小頭格となる。文久元年(1861年10月23日、御小納戸役に抜擢され藩政に参与(去る10月7日には堀仲左衛門も御小納戸役に抜擢)、家格も一代新番となる[注釈 1]

文久元年12月15日1862年1月14日)から同2年(1862年)1月中旬までの間に久光から一蔵(いちぞう)の名を賜り通称を改める。

倒幕・王政復古

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志士時代の大久保利通(明治元年頃)

文久2年(1862年)に久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜将軍後見職、福井藩主・松平慶永政事総裁職就任などを進めた。同年5月20日、御小納戸頭取に昇進となる。この昇進により、小松清廉中山中左衛門と並んで久光側近となる。文久3年(1863年2月10日には、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進する[注釈 2]慶応元年(1865年)1月下旬から5月の間に利通と改諱する[注釈 3]

慶応2年(1866年)、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。慶応3年(1867年)、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、四侯会議を開催させる。しかし四侯会議は慶喜によって頓挫させられたため、今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなる。

小松、西郷とともに公議政体派である土佐藩後藤象二郎寺村道成真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟、浪人の坂本龍馬中岡慎太郎との間で将軍職の廃止、新政府の樹立等に関する薩土盟約を三本木の料亭にて結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。

武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は8月14日に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明け、それを機に9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣品川弥二郎広島藩辻維岳が会し出兵協定である三藩盟約を結んだ。なお、この三藩盟約書草案は大久保の自筆によって書かれたもので、現在も残っている。

10月14日、正親町三条実愛から倒幕の密勅の詔書を引き出した(ただしこの密勅には偽造説もある)大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功した。しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古クーデターを計画して実行する。王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張した。

明治維新後

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珍しい帯刀姿の写真。右が大久保利通、左側は堺県知事時代の税所篤。大久保の日記(明治四年五月六日条)に「今日税所子同行写真所等江参」とある。

慶応4年(1868年1月23日太政官にて大阪への遷都を主張する。

明治2年7月22日1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。

明治4年1871年)には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させた。

明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制地租改正徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。

明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。また台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に渡った。交渉の末に、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。また出兵の経験から、明治8年(1875年)5月、太政大臣三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出した[注釈 4]

大久保が目標としていた国家はプロイセンドイツ)であるとも、イギリスであるともいわれる[注釈 5]。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。

明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。また自ら総裁となり、上野公園8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。

その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。

暗殺

明治11年(1878年5月14日石川県士族島田一郎長連豪杉本乙菊杉村文一脇田巧一および島根県士族・浅井寿篤により、紀尾井坂東京都千代田区紀尾井町)にて殺害された(紀尾井坂の変)。享年49〈数え年〉、満47歳没。墓所は東京都港区青山霊園にある。

人物・逸話

仕事ぶり

  • 金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、それどころか必要だが予算のつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めていた。そのために死後の財産が現金140円に対して8,000円もの借金が残り、所有財産も全て抵当に入っていたが[10]、大久保の志を知っていた債権者たちは借財の返済を遺族に求めなかったという。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。
  • 寡黙で他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人間は少なかったと言う。桐野利秋も大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一瞥されただけでその気迫に呑まれ、すぐに引き下がったといわれる。
  • 大久保の部下だった河瀬秀治は、大久保の没後の内務省で後任の内務卿である伊藤博文の部屋で西郷従道中井弘が盛んに夕べの宴会の話をしたり、用もないのに中井弘が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。
  • 今日でいう風光関係の問題にも関心があった。明治6年(1873年)に五代友厚浜寺公園へ案内された大久保は、県令・税所篤が園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするのを知り、「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」と反対する歌を詠んだ[注釈 6]。税所はこの歌を知り開発計画を撤回した。なお、浜寺公園の入り口付近にこの時に詠んだ歌が、「惜松碑(せきしょうひ)」として顕彰されている。

嗜好

  • 家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。出勤前のわずか10分か15分の間を、唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、三男の大久保利武ら子ども達が争って、玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。平生は公務が忙しく、家族と夕食を摂ることもままならなかったが、土曜日は自らの妹たちも呼んで家族と夕食を摂るようにしていた。大久保はこの土曜日の家族との夕食を無上の楽しみにしていたという。
  • 趣味は囲碁。碁好きの島津久光に接近するために碁を学んだといわれるが、それ以前の嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述があり、損得を抜きにして好きであったと思われる。また大の負けず嫌いで、さすがに対戦相手に当り散らすようなことはなかったが、碁で負けたときは露骨に機嫌を悪くした。
    • 大隈重信 「(碁に関しては)岩倉と大久保は両人ともなかなか上手であった。どちらかと云うと大久保の方が少し上手であった。ところが大久保は、激し易い人であったので、岩倉はその呼吸を知って居るから、対局中常に大久保を怒らせて勝ちを取った」[11]「道楽の少ない男で、碁が一番大好きであった。何処へ往くにもお高と云う女碁打(三段)を連れて歩いた。我輩の宅などへ遊びに来るにも、先づお高を先き案内に寄越すと云う風である。大久保は碁に負けると厭な顔するけれども、決して其塲では腹を立てない。併し家に帰ると家人や書生に当り散らしたそうだ。ナンでも碁に負けて帰ると、玄関から足音が違ったという評判であった」[12]
    • 本因坊秀栄 「大久保公の碁は珍しい品の好い碁であって、永年の間相手となったが、一度も手許の乱れたことはなかった」
    • 伊藤博文 「公の一番好きなのは碁じゃ。余程好きで能くやって居った。詩もチョイチョイあるが、詩人としては成功しない方だが、自分の志を云うだけのことは出来た」[13]
  • ヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用し、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった。また、朝用と夜用のパイプをそれぞれ分けて使っていた(そうしなければならないほど、年中煙草を吸っていた)。
  • 茶は京都宇治玉露を濃く淹れたものを好んだ。
  • 漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。
  • 朝食には珈琲と、ブランデーを少し垂らしたオートミールを好んだ[14]
  • 写真嫌いだった西郷隆盛とは対照的に、写真が好きで多くの肖像写真がある。
  • 青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用し、当時としては非常に洋風な生活をしていた。また頭髪をポマードでセットしていた。
  • 頭頂部に大きな禿があり、それを髪で隠していたため、早朝に邸宅を訪問しても髪をセットするまで応対に現れなかったという。
  • 明治8年(1875年)から1年かけて、麹町三年町(旧丹羽左京大夫邸及び旧佐野日向守邸跡)に白い木造洋館を建てた(建築費用は恩賜金と盟友の税所篤からの借金で賄ったとされる。後にこの邸はベルギー公使館となった)。当時は個人の家としては珍しい洋館であったが、金をかけたものではなかった。また、これとは別に高輪に純和風の別邸を所有していた。

士族反乱〜最期

  • 征韓論で対立した江藤新平との確執で知られ、佐賀の乱で江藤が死罪となった際には日記に「江藤の醜態笑止なり、今日は都合よく済み大安心」と江藤への罵倒ともとれる言葉を残している。このことから「江藤を死罪にした裁判長の河野敏鎌は大久保から1,000円で買収された」[15]「上京していた江藤の弟・江藤源作を見て江藤の亡霊を見たかのように驚いた」[16]など当時から現在に至るまで様々な創作、風説を生み出している。
  • 鹿児島が暴発したときには、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と鹿児島の暴徒を一掃できるとし、また西郷については、これでは私学校党に同意せず「無名の軽挙」をやらかさないだろうと書き送っている(明治10年2月7日付書簡)。しかし西南戦争前に西郷が参加していることが分かると、西郷と会談したいと鹿児島への派遣を希望したが、大久保が殺されることを危惧した伊藤博文らに朝議で反対されたため、希望は叶わなかった。
  • 西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いたという[17])。西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んでいたりしていた。また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている。
  • 明治11年(1878年)に暗殺される日の朝、福島県令・山吉盛典に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ」と将来の構想を語ったという[18]
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大久保神社(郡山市安積町)
  • 大久保利通を水神として祀る「大久保神社」が、福島県郡山市にある。また、地元の人々によって「大久保様の水祭り」が毎年9月1日に執行されている[19]
  • 地元鹿児島では「西郷どんの敵」とされ、彫刻家の中村晋也が制作した銅像が建てられたのも昭和54年(1979年)、西南戦争百周年の機会による。

評価

  • 西郷隆盛
    • 「もし一個の家屋に譬ふれば、われは築造することにおいて、遥に甲東(大久保)に優って居ることを信ずる。然し、既に之を建築し終りて、造作を施し室内の装飾を為し一家の観を備ふるまでに整備することに於ては、実に甲東に天稟あって、我等の如き者は雪隠(鹿児島の方言・便所)の隅を修理するも尚ほ足らないのである。然しまた一度之を破壊することに至っては甲東も乃公(おれ)に及ばない」[20]
    • 「大久保は予の畏友で実に予の手駒である。予若し事に死することあらば、予に代わって起つべきは大久保である」
  • 千坂高雅 「大久保卿が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返った」
  • 福地源一郎 「大久保公は渾身これ政治家である。凡そ政治家に必要である冷血の多きこと、私は未だ公の如き人を見なかったのである。公の顔色をのぞみ、その風采を仰ぐごとに、私は恰も北洋の氷塊に逢ふが如き威を覚えた。(中略)公が政治家としては最上の冷血たるに似ず、個人としては懇切なる温血に富んでおられたことがわかるのである」
  • 大隈重信は大久保を「維新時代唯一の大政事家」と評し、意思の堅固と冷静で決断力に富んでいる点を挙げている。さらに同じく維新の三傑の一人木戸孝允とともに「維新時代の二大英傑」と評している(大隈は西郷を評価していなかった)。
    • 「大久保は辛抱強い人で、喜怒哀楽顔色に現はさない。寡言沈黙、常に他人の説を聴いて居る、『宜かろふ』と言ったら最後、必ず断行する。決して変更しない、百難を排しても遂行すると云ふのが特色であった。(中略)大久保は一見陰湿な方で、且つ武骨無意気な風であった」[21] 
    • 「彼の頭脳が明晰で、その判断が嘗て正鵠をあやまらなかったのは、畢竟この沈着の態度を失わなかったところに基づいている。或る場合には、彼の性格は如何にも頑固に見えて、甚だ才略に乏しいように受け取られたが、之れ畢竟極めて強固なる意志の力と執着力の甚だ猛烈なるものありしことと、赫々たる政治的熱心の絶えず活動していた結果である。假令彼に対する反対の声が、四方に起っても、彼は毫も恐れず、騒がず、怨まず、決して愚痴も零さなかったのである。(中略)決して彼は機敏な人ではなかった。併し全く自らを恃む人であって、常人が狐疑逡巡して居る間に、どしどし断行して行ったのであるから、その執る仕事には非常な成績が挙った。素より彼は、意思の人であって、感情の人ではなかった。その冷ややかなることは、鉄の如くであって、毫も温かみのない人のように見えた。或場合には、甚しく保守的の思想を表わすことがあったが、さりとて頑冥な保守党の因循家ではなかった。例えば、学者の説を聞いても容易に同意しない、黙考し再考し三考するという風で、沈思黙考の結果善いと確信したならば、彼は猛然進んで毫も余力を残さないという遣方であったから、彼の進行の前路に立ち塞がり得る者は、殆ど無かった」
    • 「大久保は意思の代表的人物であり、木戸は感情の代表的人物である。木戸は頴敏で磊落な才子の方で、大久保は堅剛の君子人である」
    • 「殊に彼の偉大であった一つは、彼が斯の藩閥的関係を以て、身を立てたるにも拘らず、殆んど藩閥的偏見に超脱していた点である。如何にも同藩の者を多く採用したことはあるが、之れとて其間に偏見のあった訳では毫もない。この大見識は彼の人物を見る上に就て、最も深く注意すべき点である」
    • 「大久保公は、沈着で喜怒色に顕れない。知らぬ人は近づく能はず、知る人も狎るるを得ずという風で、木戸公はリベラル、大久保公はコンサバチーブ、両公相俟って大政維新を成就し、維新後の難局を処理して、開国進取の基を開かれた」[22]
  • 山本権兵衛 「西郷さんのところにいくといつも喜ばれて、『自分は落語家でないから話が聞きたければ物事を尋ねてくれ』という風で、有益なる談話に時のうつるを覚えず、あたかも春風に触れるよう長閑な気持ちになり、辞して門を去るときは、誰も心中に云うに言われぬ愉快を感じたものである。然るに、大久保さんの前へ出るとこれと反対で、いかにも怖い顔をしておられた。言葉は少なく、ただその威厳にうたれて、この方から言いたいことも言われず、小さくなって帰るので、人気は自然に西郷さんの方に集まった。我輩も西郷党であったのである」
  • 伊藤博文
    • 「木戸公は(中略)忍耐の力は大久保公に一歩を譲っておった。その代わり識力の方は大久保公も一歩を譲っておった」
    • 「岩倉、木戸、大久保三公はとにかく度量といい決断といい胆力といい時流に卓絶しておった。我輩の先輩として見る所では彼の三人には一人も及ぶものはない」[23]
    • 「大久保さんの威厳は一種天稟であった。兎角人間の威厳は傲岸偏狭をともなうものであるが、大久保さんは全く違っていて、誠に珍しい度量の広大なる方で、しかも公平無私で、誰でも人を重んずる風がある、非常に広い大きな人物であった」
    • 「大久保さんは、誠に度量のひろい大きな方であった。かの西郷の如きは、誠に竹馬の友として幼少のときから親しい間柄であったにもかかわらず、我輩などに対して話されるときでもつねに、老西郷、老西郷といわれ、また先代木戸公に対しては、木戸先生と鄭重に尊称しておられた。これは単に表面上ばかりでなく、殊更につくられた態度でもなく、実際に心中に敬意を表せられ、推称しておられたように思われる。それに、平生、誰の系統とか、何藩人とかの区別を設けず、何人に対しても推すべきは心中からこれを推し、用いるべきは心中から敬して用いておられた。それゆえ大久保さんにはみんな心から服し、喜んで力を致したのである。ゆえに天下に志ある者は、多く大久保さんの知遇を得んことを欲したのも、決して偶然ではない。それで、明治の世となって以来、大久保さんほどに国家の難局を処理し、また事業を多く遂行された方は、維新の諸先輩中他に類例を見ないのである」
    • 「わが国憲法制定の歴史中、(板垣が)民選議員の建白に尽力されたことは宜しいが、しかし大久保さんが極端なる専制主義の人で、盛んに圧制政治を行い、立憲政治のことなどは、少しもその念頭になかったように述べてあるが、これは全然間違った話である。(中略)大久保さんは永らく政府の枢軸に立ち、国政上の盤根錯節を一身に引き受けて切り開かれたために、民間の政客に敵が多く、誤解も多かったが、おおよそ大久保さんほど誤解された人も少ないのである」
    • 「世間には大久保公を目して圧政家のように思う者もあるようだが、それは甚だしい間違いである。大久保公は早くより立憲政体を主唱された有力な一人である」
  • 長州閥の総帥である木戸孝允とは、維新後は政治的に対立することが多かったが、公人としては互いに認め合っていた。木戸は大久保に多くの不快を持ちながらも、政治家としての大久保については「大久保先生の人物には毫も間然するところこれ無く敬服つかまつり候」と評価し、大久保も参議を辞任した木戸の慰留に何度も努めるなど、政治的な同僚としての木戸を強く必要とした。
  • 松平春嶽 「大久保利通は、古今未曾有の英雄と申すべし。威望凛々霜の如く、徳望は自然に備へたり。力量に至っては、世界第一ならん。余が大久保をかくのごとく稱讃するは、他人の稱讃とは違へり。支那の談判、江藤の討伐、其の他公の事業に種々あれども、余の見る所は御維新也。(中略)日本全国の人心を鎮定して、その方向を定む。皆大久保一人の全国を維持するに依り、維新の功業は大久保を以て第一とするゆえなり。御一新の功労に、智勇仁あり。智勇は大久保、智仁は木戸、勇は西郷也。此の三人なくんば、如何に三条、岩倉の精心あるも貫徹せざるべし。大久保は豪傑なれども、どこ迄も朝廷を輔賛するの心ありて、倒れて止むの気象也。余の見る所にては大久保、木戸、西郷、廣澤、この四人なくんば御一新は出来まじ」
  • 後藤象二郎 「余は従来議論においては多く人に譲らぬ自信があった。ただ大久保という人に向っては、誠に議論の仕悪い困った人であると思うて閉口していた。大久保は弁説の滔々として爽かな人ではなかったが、しかし一度大久保と議論を上下するときは、丸で岩石にでもぶつかるような心地がして、実にこの人だけは、議論のしにくい人であった」[24]
  • 佐々木高行 「彼、椅子に凭れ、端然として事務を執る。同僚あるいは外国公使が試みに大久保を壓服せんと欲して、その室に入るや、彼『なんですか』と中音にて云う。来りし者はその威儀に打たれて贅語を発すること能はず、要談を了りてそうそう去るなり。その官房の煙草盆の清潔なりしは、人の長談せざりし証拠なり」[25]
  • 山縣有朋 「大久保と云う人は薩人の中にても一種特別なる性格あり。云わば当時文明流の政治家なり。故に動もすれば薩人中には大久保を目して、彼は驕奢に長じたる者なりとか、金殿玉楼を造れりとか云うて誹毀する者あり。大久保の所に往きては茶一つ飲まぬと云う様なる傾きありし。現に今の侯爵大山などもその一人なりき。加うるに征韓論以来二派に分れ、一方は西郷に属して野に下り、一方は大久保に属して朝に留まることとなりしより、自ら政府の為す事は大久保一身に責任を負い、西郷と大久保と確執せしとはなかるべしと雖も、総て反対者より怨を受くるように為りたるなり」[25]
  • 鳥尾小弥太 「大久保の理想は主して維新の大成に在り。木戸の眼光は宇内列国に注ぎ、外海を禦ぐを主としたりしと雖も、大久保は専ら維新当初の志に基き、内政を整え、国礎を建て、以て尊王の業を大成せんとするの精神なりき」[25]
  • 前島密 「よく人にも計り、人の言も容れた人で、一事を裁断するにも念には念を入れる流儀だったが、ただ裁決した以上は、もう何事が起こっても気が迷うの、躊躇するのということはなかった」[26]
  • 牧野伸顕 「父は相談には頭から反対したり、いけないと言って止めたりはせず、あまり賛成しない時は、ただもっとよく考えてみたらよかろうと言うのが常であった」
  • 林董
    • 「大久保は明治年間における唯一の大宰相であった。社稷の臣、宰相の器として其右に出づる者はない。(中略)事務の裁決などということを以て大久保を論じては大変な間違である。裁決流るるが如しとか何とかいうのは、ヤリ手とか才子とかいうもので、畢竟それは刀筆の吏である。大久保はそんなものを超越して居る。彼の人そのものが国家の柱石であったのである」
    • 「一の建議案が諸参議の間に全部賛成を得てから大久保の処へ出ると、その場合大久保がもう一遍よくお考えになったらいいでしょうと言ったら、その案はもう潰れてしまったことにされた。(中略)よく考えたらいいでしょうの一言で以て諸参議の賛成案もたちどころに潰れた威重は、要するに、あの人の至誠国に尽くすの心、己を空しくして国のためにした、あの人格の力である。だから、あの人のいた間は天下はピリッともしなかった」
  • 高橋新吉 「大久保公は部下に対しては大変親切な人でした。親切で大変よく世話もされたが、しかし決して礼譲を疎そかにされなかった。私どもを呼ぶのでも決して呼び捨てにはせず、また高橋君とさえも言われなかった。何時も、『高橋さん、あなたが』と言う風の物の言い振りで、私どもが行って辞儀をしても、先方はやはり丁寧に頭を下げて、畳へ二、三寸ばかりのところまで俯いて辞儀される。帰る時は玄関まで送って出て、シッカリと辞儀をされた。この点は大西郷がよく似ていた」
  • 久米邦武 「なにしろ大久保さんは無口な人で、(洋行中の)汽車の中でも終始煙草ばかり吹かしていた。(中略)大久保さんの煙草のみは非常なもので、大久保さんが汽車におると、外から戸をあけて這入った時、煙が濛々としているくらいだった。(中略)大久保さんの笑い振りはどこか親しげな微笑が浮かぶのみで、そう愛想笑いをするのでもなく、ただなんとなく打ち解けた笑い方で、恐ろしい中にも心から信頼のできる親に対するような気持ちがされた」
  • 佐藤進 「公の風貌は他諸君の談話にも尽くされてある如く、眼光炯々として鋭く輝き、頬より頤にかけて漆黒なる髭を厳しく垂れ、一見人をして覚えずその権威に畏敬の念を懐かしめ、しかのみならず寡言沈黙いやしくも口を開かざるため、善く言えばますますその権威が加わり、悪口をするとなおなお窮屈と畏怖が増すのであった」
  • 速水堅曹 「士族授産はつまらぬと言ったら、大久保公は私をギロリと睨んで『すでに勅が出た』とただ一言いわれた。ピシリと頭に応えて、私は黙って還ったが、イヤもう恐ろしい威厳で、私は生涯あんな怖いことはなかった」
  • 松方正義
    • 「実に果決断行の人であったが、しかし怒るときは常よりも声低く、落着いて物を言い、頗る沈着の態度を取られた。そこで、西郷さんも大久保が声を低くして語り出すときには、用心ものだと言われたことがある」
    • 「非常なる精力家であって、あれほどの位置にあるひとであるから、座っていて部下を駆使して万事を慮理されたように思われるが、決して左様ではなく、何か事件があると自分で手紙を書き、自分で出かけて活動された。実に機敏なるものであった」
  • 石井省一郎 「大久保公が今少し永く朝廷に立って居られたらば、世の中も今日の如きものではなかったであろう。公の如きは誠に国家棟梁の臣であった」
  • 武井守正 「大久保さんは未だ嘗て一度たりとも『之は困った』と云ったことがないとて有名な話になっていた」
  • 副島種臣 「胆は泰山の如く、量は大洋に如く、識見高邁才幹古今に絶して居る。洵に前代未聞の豪傑である」
  • 安場保和 「余が驚いたのは、欧米巡廻の旅行によって公の人品が変化していたことであった。従前は、只豪邁沈毅の気象のみに富んだ人であったが、巡廻後はそれに洒落の風を交え、加うるにその識見が大いに増進せるを感じたのである。初は全く政治の大體のみに心を傾けて、餘り些細な事には留意されない人であったが、帰朝後は、我帝國をして宇内萬邦に対峙せしめんには、必ず富国の基礎を強固ならしめなければならないと語られ、施政方針は、専ら教育、殖産、工業、貿易、航海等の事業にあって是等を盛んに奨励せられたのであった」
  • 河瀬秀治
    • 「公は部下を使わるるに、よく其心を人の腹中において其力を信認され、部下に遣れるだけのことを遣らせるという風であった。(中略)『各部の専任者は、決して私一己に使われるとか、薩長に使われるとか思わずに、国家の役人である、国家の事務を掌るというつもりで自任してやって貰わなければならない。且また細かい事は自分は不得手である、事務の方は、万事諸君に一任するから力を盡して遣って貰いたい。其代り、責任は我輩が引受けてやる。顧慮せずに遣って貰いたい』と云われた。(中略)殊に公に敬服すべきは、人に任しておいて動かなかったことである」
    • 「大久保公の内務卿時代には、内務卿の室は、神聖なものと見做されていた。何時行ってもシーンとしたもので、大久保公の所へ何か一つ議論でもしようと押しかけて行く者があっても、内務卿の室へ入ると、議論を始めるどころか縮み上って還って来るという風であった。卿の室には粛然として声が無かった。仕事の上の事でも唯黙って聞いて居られた。自分でも議論はされず、伺い書があると呼び付けて聞いて、『ヨシ』と言ってポツンと印形を押して、黙って返してよこすという風であった」
    • 「大久保公はそういう厳格な人ではあったが、しかし人を叱るというようなことは決してされなかった。私はたった一度叱られたことがある。恐らく、あれくらい烈しく叱られた者は、私一人であろうと思う。(中略)一旦やりかけた事を、不詮索の結果、後になって変更するようなことは、ひどく嫌いであった」
  • 金原明善 「(天竜川の)治水の問題で、伊藤内務卿の時代は三ヶ月を費し、大久保内務卿の時には僅に一日にて慮断された。たとひ時代の推移はあるにせよ、その人物の等差も隔りがあるものである」
  • 渡辺昇 「木戸公が(地方官会議の)議長席に着き、議場整理の任に当られたけれども徹底しなかった。そこへ大久保公が入って来、議長の外側に着席されると、満場水を打ったように静粛となり、議論好の議員達も、成るべく発言を遠慮し、殊に寡言な大久保公が簡単な説明でもされようものなら、分からぬでもわかったような顔をして引下ったものであった。木戸公に粛清な風があれば、大久保公には慥に雄大な趣があった。大久保公をして明治二十三年まで長命せしめ、帝国議会に臨ましめたならば、堂々たる一国の大宰相として議政府三百の頭顱、恐らく正面より戦う者なかったであろう」
  • 渡辺国武 「沈毅果断の人で、天稟により国家の大臣たる資格を備えて居られたというてよろしい。多弁でもなければ事を軽々しく決断もされなかった。また大久保さんは随分信義を重んぜられた。その一諾には実に千金の値があった」
  • 多田某(内閣吏員) 「大久保氏は極めて寡言のひとなり。然れども始終黙するにもあらず。普通の事は役所にてもよく笑いし事あり。しかして公務につきては多く口を開かず、黙して人の言う所を聴き居たり。明治八年より開きたる地本官会議において、府知事県令はいずれも当時の豪傑にして、容易に屈服するの人あらず。然るに大久保内務卿の前においては、議場粛然あたかも水を打ちたる如く、その言はただ命これ従うの状なりき。沈黙なる代りに一たび引き受けたる事は百礙を除き、万難を排して遂行するの概あり。よって地方官は皆大久保氏に信を置き、一諾千金より重しとは大久保の事をいうなりと感歎する者ありき」
  • 河島醇 「世人は動もすれば甲東の謹厳にして沈黙なるが為に、青年書生の如き葉軽視して引見することが尠かったように考える。しかし甲東は決してそんな人ではなかった。青年輩が相携えて其邸に到り教を乞うことがあれば、熱心と親切とを以て諄々として誨へ導くのを常とせられた」

系譜

藤巴紋
大久保氏
明確ではないが藤原氏末流を称している。家紋は左三つ藤巴。戦国時代末に京都から薩摩に移るというが、系図は貞享年間に市来郷川上に中宿(城下に籍を残したまま他郷へ移住すること)した大久保仲兵衛より始まる。暗殺後の遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、木戸孝允の遺族とともにただ2家のみであった。

家族・子孫

安政4年(1857年)12月、薩摩藩士・早崎七郎右衛門の次女・満寿子と結婚。満寿子との間には長男・大久保利和[注釈 7]、次男・牧野伸顕、三男・大久保利武、五男・石原雄熊、長女・芳子が生まれた(芳子の夫は後の外務大臣伊集院彦吉)。また、大久保には妻の外におゆう(京都祇園お茶屋一力亭の9代目主人杉浦治郎右衛門の娘。芸妓か?)という寵妾が居り、おゆうとの間に四男・大久保利夫、六男・大久保駿熊、七男・大久保七熊、八男・大久保利賢が生まれた。

孫の大久保利謙は日本近代史家、国立国会図書館憲政資料室の成立に寄与した。もう一人の孫・大久保利春丸紅専務で、ロッキード事件に際しては贈賄側の一人として逮捕・起訴され有罪判決を受けた。「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったという。

曾孫に吉田健一(作家)、大久保利晃放射線影響研究所理事長、元産業医科大学学長)、玄孫に寛仁親王妃信子牧野力通産事務次官)、麻生太郎(第92代内閣総理大臣)、武見敬三参議院議員)がいる。

父・利世の沖永良部島時代の島妻の子孫に植村花菜がいる[27]

官位及び栄典の履歴

脚注

注釈

  1. 御小納戸役は6人扶持以上の職であるので、小姓与格が就任すると、一代小番になれる。なお、この職についた御小姓与クラスの人物に大山巌の玄祖父である大山綱栄調所広郷がいる。
  2. 市来四郎の日記に、「速なる昇進にて、人皆驚怖いたし物議甚しく候」と書かれるほどの異数の大抜擢だったという。
  3. 久光の七男・真之助が元服し、久済と名乗ったため、「済」の字を避諱したという[5]
  4. これが、管船政策の濫觴となった[6][7]
  5. [8]
  6. 小倉百人一首祐子内親王家紀伊「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ」の本歌取り
  7. 岩倉使節団に同行、1890年帝国議会開設とともに貴族院議員となる。1881年岩倉具視と共に日本鉄道設立に参画、1888年には甲武鉄道社長となる。

出典

  1. 『伊藤博文』羽生道英 PHP研究所 2004 133頁
  2. 『日本人の覚悟』嶌信彦 実業之日本社 2014 58頁
  3. 『早わかり幕末維新 ビジュアル図解でわかる時代の流れ!』外川淳 実業之日本社 2009 297頁
  4. 毛利敏彦『大久保利通』(中公新書)、5頁
  5. 大久保利通日記1
  6. 寺島成信『帝国海運政策論』巌松堂書店、1923年、第二篇「本邦海運政策の沿革」第一章「海運政策の変遷」第一期「本邦海運の萌芽発育時代(明治維新より日清戦役に至る)」二「本邦海運政策の濫觴」に、「八年五月大久保内務卿の建議」「八年九月三菱に対する政府命令書と航海補助金」「本邦近代的海運政策の起原」「三菱と米英船との競争」の項。
  7. 逓信省『逓信事業史 第6巻』逓信協会、1941年、第十篇「管船」第三章「海運及造船事業に関する政策及法令」第一節「明治前期」第三款「大久保内務卿の海運政策樹立建白」。
  8. 勝田政治 『“政事家”大久保利通―近代日本の設計者 』講談社選書メチエ、2003年、第五章「征韓論政変」3「国家目標としての民力養成論」イギリスをモデルに
  9. 勝田(2003) p.19/127
  10. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)58頁
  11. 『大隈侯一言一行』近代デジタルライブラリー『大隈侯一言一行』
  12. 『大隈伯百話』近代デジタルライブラリー
  13. 『伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談』近代デジタルライブラリー
  14. 司馬遼太郎翔ぶが如く』より
  15. 司馬遼太郎『歳月』
  16. 鈴木鶴子『江藤新平と明治維新』
  17. 中西進監修『実はこの人こんな人』 四季社、2002年4月10日、ISBN 4-88405-126-2 C1023
  18. 『済世遺言』
  19. 佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家(日本史リブレット 人072)』 山川出版社、2009年
  20. 『甲東逸話』
  21. 『大隈伯百話』近代デジタルライブラリー
  22. 『大隈伯演説座談』近代デジタルライブラリー
  23. 『伊藤公元勲談』近代デジタルライブラリー
  24. 『甲東逸話』近代デジタルライブラリー
  25. 25.0 25.1 25.2 『大久保利通之一生』近代デジタルライブラリー
  26. 『大久保利通』講談社学術文庫
  27. 植村花菜のルーツは大久保利通!祖母の故郷で知る”. スポニチAnnex. 2015年3月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2011-3-10閲覧.

参考文献

  • 勝田政治 『“政事家”大久保利通―近代日本の設計者』 講談社〈講談社選書メチエ273〉、2003年(平成15年)。ISBN 978-4062582735。
  • 『大久保利通日記』全2冊 本史籍協会叢書、1927年。復刻北泉社、1997年。
  • 『大久保利通文書』全10冊 本史籍協会叢書、1927年-1929年。東京大学出版会、1983年に復刻。
  • 『大久保利通関係文書』全5冊 立教大学文学部史学科日本史研究室編 吉川弘文館、1965年、復刻マツノ書店、2005-2008年。
  • 勝田孫弥 『大久保利通伝(上中下)』 同文館、1910年-1911年、1921年。
  • 勝田孫弥 『甲東逸話』 冨山房、1928年。
  • 清沢洌 『外政家としての大久保利通』中公文庫、1993年、初版は中央公論社、1942年。
  • 佐々木克監修 『大久保利通』 講談社学術文庫、2004年。※関係者による大久保の実像を伝える証言集。
  • 牧野伸顕 『回顧録』 新版・中公文庫(上下)、1978年。 ※牧野は大久保の次男。 
  • 毛利敏彦 『大久保利通』 〈維新前夜の群像5〉中公新書、1974年
  • 佐々木克 『大久保利通と明治維新』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、1998年。
  • 佐々木克 『志士と官僚 明治を「創業」した人びと』 講談社学術文庫、2000年。
  • 佐々木克 『大久保利通―明治維新と志の政治家』 山川出版社〈日本史リブレット 人072〉、2009年。
  • 加来耕三 『不敗の宰相 大久保利通』 講談社+α文庫、1994年。
  • 笠原英彦 『大久保利通』 〈幕末維新の個性3〉吉川弘文館、2005年。
  • 落合功 『大久保利通 国権の道は経済から』 日本経済評論社〈評伝日本の経済思想〉、2008年。
  • 大久保利泰監修 『大久保家秘蔵写真 大久保利通とその一族』 国書刊行会、2013年。
  • 徳富蘇峰『近世日本国民史 明治三傑』 講談社学術文庫、1981年。
  • 木戸孝允『木戸孝允日記 全三冊』 東京大学出版会、1985年。

大久保利通を主題とした作品

史論
小説
テレビドラマ

関連項目

外部リンク


公職
先代:
創設
木戸孝允
伊藤博文
日本の旗 内務卿
初代:1873年11月29日 - 1874年2月14日
第3代:1874年4月27日 - 同8月2日
第5代:1874年11月28日 - 1878年5月15日
次代:
木戸孝允
伊藤博文
伊藤博文
先代:
伊達宗城
日本の旗 大蔵卿
第3代:1871年6月27日 - 1873年10月12日
次代:
大隈重信