大山 (神奈川県)

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大山(おおやま)は、神奈川県伊勢原市秦野市厚木市境にある標高1,252mである。丹沢山などの丹沢の山々とともに丹沢大山国定公園に属し、神奈川県有数の観光地のひとつである。日本三百名山関東百名山のひとつでもある。

概要

大山は、丹沢表尾根の東端にあり、富士山のような三角形の美しい山容から、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた(大山信仰)。「大山」の名称は、山頂に大山祇神を祀ったためとされるが、大山祇神はかつては「石尊大権現」と呼ばれていた[1]。大山の山頂には巨大な岩石を御神体(磐座)として祀った阿夫利神社の本社(上社)があり、中腹に阿夫利神社下社、大山寺が建っている。また、大山は別名を「阿夫利(あふり)山」、「雨降(あふ)り山」ともいい、大山および阿夫利神社雨乞いの神ともされ、農民の信仰を集めた。

ファイル:Mount Ōyama (Kanagawa) Relief Map, SRTM-1.jpg
大山の地形図。山頂は中央上

江戸時代の中ごろ(18世紀後半)から、大山御師(明治以降は先導師)の布教活動により「大山講」が組織化され、庶民は盛んに「大山参り」を行った[1]。各地から大山に通じる大山道や大山道標が開かれ、大山の麓には宿坊等を擁する門前町が栄えることとなった[1]

大山では、天狗信仰も盛んであり、阿夫利神社には大天狗、小天狗の祠がある。そして大山には日本の八天狗に数えられた大山伯耆坊が伝わっている。元々は伯耆大山の天狗であり、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峯に行ってしまったために、相模大山に移り、富士講の人々に信仰されたという。現在でも阿夫利神社の下社の近くに伯耆坊の石碑があり、大山寺の側には伯耆坊を祀った祠がある。

歴史

平安時代まで

大山信仰が始まった時期は不明だが、発掘により、縄文時代後期中葉の加曽利B式土器片や、古墳時代の土師器片・須恵器片、平安時代の経塚壺・経筒などが発見されており、信仰開始の時期はかなり古い時代にまでさかのぼることができると推定される[1]。ただし、縄文土器等については、後世になってから修験者が持ち込んだ可能性を指摘する説もある[1]

『万葉集』の東歌で、大山は「相模峰の雄峰見過ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾を哭し泣くな」と詠われた[1]

10世紀前期の『延喜式』神名帳には、相模国十三座の一つとして、大山の「石尊大権現」を祀る「阿夫利神社」の記載があり、神名帳の原本である神祇官の台帳が天平年間の完成とされることから、8世紀前半に阿夫利神社が創建されたとすることもできる[1]

神仏習合の時代の後、修験道が隆盛を迎え、不動明王像を本尊とする大山寺が建立され、阿夫利神社の別当寺とされると、大山そのものへの信仰と「石尊大権現」への信仰とが一体化していったとされる[1]。なお、『續群書類從』第27輯下釋家部の『大山寺縁起』(真名本)には、天平勝宝7年(755年)、東大寺初代別当の良弁僧正が大山寺を開創したとの記載がある[1]。大山寺は、聖武天皇により国家安穏を祈願する勅願寺とされ、天平宝字5年(762年)には行基の命により、光増が不動明王像を製作して本堂に奉納したとされる[1]。元慶2年(878年)の大地震と大火により大山寺は焼失したが、元慶8年(884年)安然が再興し、天台宗系の修験の場として栄えていった[1]

平安時代の末に、大山は糟屋氏が支配する糟屋荘に編入されたが、久寿元年(1154年)12月に糟屋荘は安楽寿院に寄進された[1]。その後、大山は藤原得子(ふじわらのなりこ。鳥羽法皇の皇后。美福門院)の領地となり、さらに、得子の子である暲子内親王(あきこないしんのう。八条院)の領地とされた[1]

鎌倉時代から戦国時代まで

鎌倉時代には、糟屋氏が源頼朝の御家人となったため、大山寺は鎌倉幕府の庇護を受けることとなった[1]。『吾妻鏡』には、大山寺が源頼朝や源実朝から寄進を受けた旨の記載がある[1]。その後、一時荒廃した大山寺だが、真言宗の願行房憲静(けんじょう)の手で復興された[1]。このとき、願行は蒙古を降伏させる秘法を修得するため大山に登り、百日間の苦行を行い、師匠・意教房頼賢が提供した鉄造の不動明王像の前で祈り続けると、怒り狂った不動明王の姿がみえ、その後、不動明王像の目が見開かれたという[1]。願行は、この時の不動明王の姿をもとに、二体の鉄造の不動明王像を製作し、その一体が大楽寺の不動明王像(「試みの不動」と呼ばれる。現・覚園寺蔵。神奈川県重要文化財)となり、もう一体が大山寺の不動明王像(国の重要文化財)となったとされる[1]

室町時代においても、当初、大山寺は室町幕府の庇護を受けることとなったが、同時代の末になると、大山寺は、幕府の衰退に伴い、外部からの侵入や管内の修験道の勢力に悩まされるようになった[1]。文明18年(1486年)の冬に大山に登った道興准后は、『廻国雑記』に「その夜の大山は寒くて眠れなかった」と記しており、当時の大山寺の衰退がうかがわれるという[1]。なお、室町時代の後期のころに、『大山寺縁起絵巻』が成立した[1]

戦国時代に、大山は小田原の北条氏の支配下に入り、北条氏が修験道の勢力を利用しようとしたことから、大山における修験道は天台宗・本山派玉瀧坊の傘下とされた[1]。天正18年(1590年)に徳川家康に与する軍勢が小田原を攻略した際には、大山の修験道の勢力は北条氏に与して、激しい戦いを繰り広げた[1]

江戸時代

ファイル:大山道.png
大山道(主要8道)。

江戸時代に入ると、徳川家康は敵対していた大山の勢力に厳しい姿勢で臨み、大山の修験道の勢力を全て下山させ、山内の居住は清僧(学僧)のみで25口に限定して許可することとし、さらに大山寺を天台宗から古義真言宗へと改宗させ、初代学頭に成事智院の住持であった実雄法師(古義真言宗)を任命し、定住させることとした[1]。そのうえで、慶長13年(1608年)には御朱印地等を寄進するなどし、経済的な援助関係を強めた[1]。特に徳川家光は、大山寺の「寛永の大修理」の際に、造営費として1万両を与え、落成の祝賀等に春日局を代参として二度参詣させた[1]

下山させられた修験道の信者たちは、大山の麓に居住し、御師として、布教活動を行うとともに、宿坊や土産物屋の経営をするなどし、その結果、大山門前町(蓑毛町、坂本、稲荷、開山、福永、別所、新町)が成立した[1]。御師たちの活動により、宝暦年間(1751年 - 1764年)から行われた信仰による登山は大山と呼ばれ、各地から通じる道は「大山道」(「大山街道」ともいう現在の国道246号を含む)と呼ばれた。江戸の庶民にとっては、大山詣と江ノ島詣のセットが娯楽の一つとなった。古典落語の演題にも『大山詣り』が登場した。明治初期の『開導記』には、大山講の総講数は15700であり、総檀家数は約70万軒との記載がある[1]。このように大山信仰が流行することとなった要因として、『大山寺縁起』(正確には『大山寺縁起絵巻』)の内容が民間に伝わったことが指摘されている[1]。寛政4年(1792年)には、『大山不動霊験記』が出版された[1]

明治以後

明治維新以後、明治元年(1868年)3月の神仏分離令と、それに伴う廃仏毀釈の運動により、大山寺は取り壊しとなり、その跡に阿夫利神社の下社が建立された[1]。明治18年(1885年)に、大山寺は現在地(来迎院の跡地)に明王院として再建され、大正4年(1915年)に観音寺と合併し、再び「大山寺」を称することとなった[1]

史料

大山寺縁起絵巻

『大山寺縁起絵巻』によると、相模国の国司であった大郎大夫時忠という人物が、子供に恵まれないため、如意輪観音像を製作して祈ったところ、夫婦の夢の中に高齢の僧が現れ、「弥勒菩薩の化身」という法華経一巻を与えて姿を消した[1]。その後夫婦の間に男の子が生まれ、仏の化身とされて、国中から祝福を受けたが、誕生から50日後、野外で赤ん坊が湯浴みしているときに、金色の鷲にさらわれてしまった[1]。夫婦は嘆き悲しんだが、金色の鷲の巣に連れ去られたその子供は奈良の覚明という僧に引き取られ、「金鷲童子」と名付けられた[1]。童子は出家して「良弁」を名乗り、聖武天皇に認められて東大寺(金鐘寺)の初代別当となり、華厳宗を確立したが、良弁の噂を聞いた時忠は奈良に行き、子である良弁と再会した[1]。話を聞いた聖武天皇は、良弁が相模国に帰国することを許したが、当地で仏法を広めたらすぐに帰京することを命じた[1]

相模国で、良弁は大山の山頂から光が放たれているのをみた[1]。なお、ここにみられる「放光山伝説」は修験道と関連の深い山岳の縁起によくみられるものであるという[1]。良弁は大山に登り、山頂の地面を掘って、不動明王の石像を発見した[1]。そのとき、不動明王が、この山は弥勒菩薩の「兜率天浄土」であると語った[1]。良弁は山中でみいだした霊木で不動明王の像を製作し、その像の前で21日間祈ると、弥勒菩薩の化身である四十九院が現れるなどした[1]。なお、仏像を霊木で製作するという部分に、霊木信仰の存在が指摘される[1]

良弁が山中にある岩窟の下の池の端で、7日間祈ると、池の中から震蛇大王を名乗る大蛇が現れ、「自分は大山を守護しているが、仏の教えを無視していたため、このような姿になってしまった。上人のおかげで兜率天の内院に変わることができたので、今後は大山に垂迹して大山寺を守護したい」と語った[1]。ここには、本地垂迹説による、神仏習合の典型的なかたちがみいだされる[1]

良弁が参拝人のため、水が出るようにして欲しいと大蛇に依頼すると、岩窟の上から水がしたたり落ち、「二重の滝」となった[1]。ここで、絵巻には、詞書には記載がない役小角が二鬼神とともに描かれており、絵巻の成立背景に修験道の影響があることがうかがえる[1]。また、大山信仰の根幹の一つとされる、「大山寺」と「水」との関係(水垢離をする修行者など)が鮮明に描写されているとされる[1]

こうして、大山寺を開山すると、良弁は、天皇との約束に従い、帰京していったとされる[1]

大山不動霊験記

『大山不動霊験記』は全131話から成り、大山の不動明王の霊験がもたらされるにはどうすればよいか、が説話の中で語られており、ただ願うだけではなく実際に行動することを訴えていて、大山信仰の発展に一定の役割を果たしたと指摘される[1]

『大山不動霊験記』には神奈川県内に関する説話が66話あり、全体の50%強となる[1]。特に、大住郡(現在の伊勢原市・平塚市・秦野市)に関する説話は32話あり、県内全体の48%になる[1]。県外では、59話のうち江戸関連が21話、武蔵国関連が11話、下野国関連が11話と多く、他は僅少である[1]。これらの事実は、当時の大山信仰の分布を考察するうえで重要視すべきものとされる[1]

説話の中に登場する年代についてみると、寛永年間(1624〜1644)から寛政4年(1792年)までが128話と最も多く、その中でも明和・安永年間(1764〜1781年)の説話が約58%になる[1]。特に安永年間の説話は44話であり、全体の約34%である[1]。このことは、大山信仰の最盛期が宝暦年間(1751〜1764年)以降とされることを裏づけているとされる[1]

また、説話の登場人物では、百姓が57人であり、全体の約47.5%となっており、大山信仰が百姓を中心とした庶民の信仰であったことを示すとされる[1]。また、人々が大山に祈願したこととして、最も多いのは、病気平癒(45話)で全体の36%であり、ついで災難除け(34話)で、全体の27%である[1]。なお、大山古川柳にみられるような「借金逃れ」の説話はみられない[1]

観光

大山からの眺め

山麓のケーブル駅までは、小田急小田原線伊勢原駅鶴巻温泉駅からバスを利用する。市街地を抜けてからケーブル駅までは細い一本道のため、初詣紅葉シーズンは渋滞が激しくなる。ケーブルカーは大山寺最寄りの大山寺駅を通って阿夫利神社の下社最寄りの阿夫利神社駅まで通じている。下社から山頂までは徒歩1時間半ほど。

丹沢山系から流れる良質な水を使った豆腐作り、民芸品としてのこま作りも行われており、ケーブル駅バス終点からケーブルカー大山観光電鉄大山鋼索線)の山麓側の駅である大山ケーブル駅までの石段沿いには宿坊の面影を残す旅館、豆腐料理店、民芸品店が軒を並べる。

イベントとしては、「大山とうふまつり」と伊勢原駅から下社まで9km、高低差650mを一気に駆け上がる「大山登山マラソン」(いずれも3月)がある。

登山口は、ケーブルカー終点、日向薬師、蓑毛、ヤビツ峠などがある。

FMラジオ放送送信施設

放送局名 周波数 コールサイン 空中線電力 実効輻射電力 放送対象地域 放送区域内世帯数 放送開始日
FMヨコハマ
横浜エフエム放送[2]
84.7MHz[2] JOTU-FM[2] 5kW[2] 21kW[2] 神奈川県 - 2013年平成25年)6月24日

神奈川県内一部地域の難聴取解消のため2013年6月24日の放送開始より、主送信所を円海山から移転し放送開始。円海山は大山から送信できなくなった場合の予備送信所に移行した[2]。送信所は大山山頂付近の秦野市側[2]にある。

大山の風景

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク