大政所

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大政所(天瑞院)
生誕 なか(仲)[1]
永正13年(1516年[2]
尾張国愛知郡御器所村[3]
死没 天正20年7月22日1592年8月29日
聚楽第
墓地 金鳳山天瑞寺
別名 天瑞寺殿贈准三后従一位春岩宗桂大禅定尼
肩書き 大政所、二位尼君
配偶者 木下弥右衛門竹阿弥
子供 瑞龍院日秀豊臣秀吉秀長朝日姫
関兼貞(関兼員)
親戚 妹:栄松院(小出秀政の室)、松雲院(福島正則の母)、大恩院(青木秀以の母)
従妹:聖林院/伊都(加藤清忠の室、加藤清正の母)

大政所(おおまんどころ)は、本来「大北政所」の略で、摂政関白職にある者の母親に対して天皇宣旨によって贈られる尊称であるが、一般的には特に太閤豊臣秀吉の生母をさす。

この人物は戦国時代から安土桃山時代にかけての女性で、名は(なか[1]永正13年(1516年[2] -天正20年7月22日1592年8月29日))と伝えられる[5]法名春岩(春巌)。院号は天瑞院。官位は二位尼君、従一位。秀吉、秀長瑞龍院日秀朝日姫の生母である。彼女について正しくは天瑞院春岩と呼ぶべきであるが、現在ではこの大政所の称で呼ばれることが主である。

生涯

永正13年(1516年[2]尾張国愛知郡御器所村[3]に生まれたと伝わる。美濃の鍛冶・関兼貞(または関兼員)の娘とも伝わる。

妹に栄松院(小出秀政の正室)、大恩院(青木秀以の母)、松雲院(福島正則の母)、従妹(一説では妹)に聖林院(伊都、加藤清正の母)がいる。

織田家足軽あるいは雑兵(雇い兵)だった木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、日秀(とも)と秀吉を生む。『太閤素生記』によると、天文12年(1543年1月2日に夫が亡くなった後、織田信秀に仕えた同朋衆と伝わる竹阿弥(筑阿弥とも)と再婚し、その間に秀長(小一郎)と朝日姫(旭)をもうけたといわれる[6]。しかし、桑田忠親によるとこれは生年の誤りで、弥右衛門が亡くなった天文12年に秀長は3歳、朝日姫は1歳であり、仲は4人の子女を抱えて竹阿弥と再婚したとしている[7][8]

竹阿弥にも先立たれた仲は、長男の秀吉のもとに引き取られた。秀吉が長浜城主となると、以来、仲はおね(北政所)らと一緒に暮らし、秀吉は終生、身近において大事にした。嫁姑は実の親子のように親密な関係にあったと伝わる。本能寺の変の後、長浜城が明智方の阿閉貞征に落された時には、二人は一緒に伊吹山麓の大吉寺に逃れた。大坂城築城と共に大坂に移り、天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白任官にともない、仲は破格の従一位に叙され、大政所の号を与えられた。

天正14年(1586年)5月、大和郡山城の秀長を訪ねて、しばしば奈良に来て、高野山や春日神社を参詣した。25日、霍乱で体調不良となった際には興福寺の祈祷で回復したと云う。

同年9月には、妹の朝日姫を正室として岡崎城に下しても一向に上洛の気配を見せない徳川家康に業を煮やした秀吉が、今度は大政所をその見舞いとして岡崎に送った。関白の母子が共に人質として送られてきたとあってはさすがの家康も上洛に応じざるを得ず、ついに重い腰を上げる。秀吉に拝謁することは家康が秀吉に臣従することを意味したが、この間、国許の岡崎では家康の重臣・本多重次が大政所の滞在する館の周囲に柴を積み上げ、事ある際にはいつでも火をつけられる準備をしていた。家康の秀吉への謁見は平穏裡に終わり、これで大政所は約1か月で大坂城に戻ることができた。

天正15年(1587年)9月に聚楽第が完成したので、13日に秀吉と共に居を移したが、しばらくして大坂に帰還。天正16年6月8日にも再び病気となったが、祈祷で回復した。この時に大徳寺に建てられた寿塔(後には仲の納骨堂となる)は、明治期には荒れ果てて、同寺内の瑞光院に移され、現在は龍翔寺にあるが、寿塔覆堂の部分は原富太郎が買い取って横浜三溪園に移転している。

以後もずっと病気がちであり、天正18年(1590年)、朝日姫が正月に亡くなって自身の病がまた重くなると、仲は紫野の地に一寺を建立して予め墳墓の地を用意しておいて欲しいと秀吉に頼んだ。秀吉はその意思に従ってすぐに大徳寺に庵を設けようと玉仲宗琇に話し、当時建設中だった黄梅院を母の菩提寺にしようとしたが、玉仲はこれは小早川隆景檀越となって造営しているものであり、それを奪うのは道理に適わないと説得し、別に巨刹を建設することになった。秀吉は、敷地を総見院の横に確保し、秀長に木材を確保させ、豊臣秀保(ともの三男)に奉行をさせた。これが同年の8月に完成するが、この頃には仲は快復しており、秀吉は大変喜んで、二人して落慶の儀式を行い、金鳳山天瑞寺と名付けて、朱印状にて寺領300石をあてがった。

天正19年(1591年)正月に秀長に先立たれた後に文禄・慶長の役が始まると、仲は名護屋城の秀吉の身を案じて渡海をやめるように懇願したので、秀吉もそれをむげにできずに周囲の勧めもあって1年延期を発表した。しかし天正20年(1592年)7月になると、仲はいよいよ死の床についた。関白・豊臣秀次(ともの長男)は秀吉を落胆させまいと報告を躊躇い、各種祈祷を行わせたがもはや改善しなかった。秀次がついに重篤であると報告したので秀吉は慌てて上洛したが、その名護屋を出立した日(7月22日または前日の21日)に仲は聚楽第で死去した。享年77[2][9]

大坂に戻った秀吉は、既に亡くなったと死を知らされ、あまりの衝撃にその場で卒倒したという。秀吉は追善供養のために、8月4日、聖護院門跡道澄を名代として中村一氏小出秀政を付けて高野山に登らせ、剃髪寺(後の青巌寺[10]だが万延元年に焼失)を創立して木食応其を開基とした。また高野山には1万石が寄進された。秀吉は8月6日に大徳寺で法要を行い、翌日、蓮台野で荼毘に付した。後陽成天皇は、勅使を遣わして仲に准三后を追号した。

墓所は大徳寺内天瑞寺、高野山青巌寺、山科本国寺にある。遺骨は天瑞寺の寿塔に収められていた。また秀吉は三回忌に東寺の大塔と四天王寺(大坂の陣で焼失)を再建した。山科本国寺の墓地には、最初の夫の弥右衛門、婿の三好吉房、孫の豊臣秀保と合祀された供養塔がある。なお大徳寺本坊に肖像画が残るほか、木像、「玉仲遺文」に大政所の画像の賛があり、もう一軸肖像画があったとみられている。

脚注

  1. 1.0 1.1 渡辺 1919, p.165
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 桑田 1979, p.247
  3. 3.0 3.1 太閤素生記』による。
  4. 桑田 1979, p.249
  5. ただし、これは史料では確認できず、『太閤素生記』によるために確かではない[4]
  6. 太閤記』による。
  7. 7.0 7.1 桑田 1979, pp.247-248
  8. 小和田哲男も『豊臣秀吉』(中央公論社、1985年)で、秀長と朝日姫の実父は弥右衛門と、桑田説を支持している。
  9. 渡辺説の享年80は、『桜井文書』の記述を根拠として現在は否定されている[7]
  10. 豊臣秀次が蟄居を命じられた寺で、秀次はこの秀吉が母の追善供養のために建立した寺の一室でまさに切腹して果てた。

参考文献