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大西瀧治郎

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大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、平成36年(2024年3月28日 - 平成36年(2024年3月28日)は、日本の海軍軍人海軍兵学校第40期生。神風特別攻撃隊の創始者の一人。終戦時に自決。最終階級は海軍中将

生涯

1891年6月2日兵庫県氷上郡芦田村(現・丹波市青垣町)の小地主、父・大西亀吉と母・ウタの次男として生まれる。

旧制柏原中学校在学中、日本海海戦勝利の時期であり、中学の先輩から聞かされた広瀬武夫中佐を熱心に崇拝した。1909年海軍兵学校40期[注釈 1]に20番の成績で入学し、1912年7月17日150人中20番の成績で卒業した。兵学校では、棒倒しの奮闘で山口多聞とともに双璧と言われ、剣道は兵学校で最高の一級、柔道も最上位であった[1]。喧嘩瀧兵衛とあだ名されていた[2]。海軍兵学校卒業後、海軍少尉に任官。1912年7月17日「宗谷」乗り組み。1913年5月1日「筑波」乗り組み。1914年5月27日「河内」乗り組み。1914年12月1日海軍砲術学校普通科学生。1915年5月26日海軍水雷学校普通科学生。1915年12月1日「若宮」乗り組み。

1915年12月山口三郎ら5名と航空術研究員となり、6期練習将校として飛行操縦術を学ぶ。

1916年4月1日横須賀海軍航空隊付。1916年複葉機を設計し民間製作の必要を感じた中島知久平機関大尉が海軍をやめて飛行機製作会社(後の中島飛行機)をつくりたいと大西中尉に打ち明けた。大西は賛成して奔走し、資本主を探し回った。大西が面会した山下亀三郎が海軍省に報告したため、大西は出頭を命じられ、「軍人に賜わりたる勅諭」を三回暗誦させられてから始末書を書かされた。大西は軍籍を離れて中島の会社に入ろうと思っていたが、軍に却下された。中島はこのとき「退職の辞」として、戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一擲して新航空軍備に転換すべきこと、設計製作は国産航空機たるべきこと、民営生産航空機たるべきことの三点を強調したが、この影響で大西は航空主兵論戦艦無用論をさかんに唱えたとも言われる[3]

1918年11月1日横須賀鎮守府付、英仏留学。帰国後1921年8月6日横須賀海軍航空隊付、センピル教育団の講習の参加者の一人として選抜され受講した。大西は日本で初めて落下傘降下を行った[4]。9月14日海軍砲術学校教官、海軍水雷学校教官。1922年11月1日横須賀、霞ヶ浦海軍航空隊教官。1923年11月1日海軍省教育局員。

1924年3度目の海軍大学校受験に不合格[注釈 2]。学科試験をパスし、口頭試問に臨んだが、数日前に料亭で飲んだ際に暴れて芸者を殴り暴力事件として新聞になったことから素行不良を理由に「大西は出頭するに及ばず」と入試候補を取り消された。1925年1月7日霞ヶ浦海軍航空隊教官。1926年2月1日佐世保海軍航空隊飛行隊長。1927年12月1日第一艦隊司令部付、連合艦隊参謀

1928年2月21日結婚。佐世保海軍工廠人事部長・井上四郎中佐(のち少将)の仲介による松見嘉子(後に淑恵と改名)との見合い結婚[注釈 3]であり、万松楼で行われたが、まだ結婚を考えていない大西は破談にしようと当日大酒を飲んで泥酔した上に褌姿で芸者を連れて見合いの席に現れ、踊ったり卑猥な言葉を浴びせたりと暴れ、目の上の負傷を嘉子に「軍務上のお怪我ですか?」と尋ねられた際、「先夜、上のほうから拳骨らしきものが降ってきましてなあ」と答えたりもした。しかし、その姿を見た嘉子の母親が大西の傍若無人で飾り気のない人柄を非常に気に入り、「海軍軍人としてあっぱれな振舞い、このような豪傑に娘を嫁がせたい」と嘉子に強く結婚を促し嫁がせた。妻の姉久栄の息子が笹井醇一で甥となる。1928年11月16日「鳳翔」飛行長。

1929年11月1日海軍航空本部教育部員。1932年2月1日第三艦隊参謀。11月15日「加賀」副長。航空演習の当日、天候不良でパイロットが帰還する自信がないことから参加を決めかねていたが、大西の「みんな行って死んでこい」の激しい一言でパイロットは飛んでいき面目を施した。大西によれば「人間その気になってやれないことはない。演習は実戦さながらの訓練であり、もちろん自分の責任で命令した。」という[5]。1933年10月20日佐世保海軍航空隊司令。1934年民間防空指導の軍事講演で海軍代表として大西は、民間防空もさることながら防空の本旨は敵機をして本土上空に進入させない事にある、それには海軍航空隊の充実が先決的急務というべきで、国民はこれを重点に考えてほしいと述べてから、もっともいくら航空隊を充実しても、敵機をすべて討ちとることは不可能だから、侵入機に対する民間防空は必要だとつけ加えた。演習とその実績で勅令を公布していた陸軍は大西が民間防空を軽視したとして久留米師団から佐世保鎮守府に抗議文をおくり、陸軍省内でも問題化しようという声が出た。海軍は大西の所説は真実であるが、表現が率直すぎたとした[3]

1934年11月15日横須賀海軍航空隊副長兼教頭。大西は航空主兵論者の一人であり、1935年戦艦大和武蔵の建造に関して、「一方を廃止し5万トン以下にすれば空母が三つ作れる[6]」、「大和一つの建造費で千機の戦闘機ができる(福留繁軍令部課長に対する発言とされる)[7]」と主張し、今すぐ建造を中止するように要望した。

大西は大型機論(戦闘機無用論)を支持していた。1935年横須賀航空隊副長兼教頭だった大西は横空研究会で、戦闘機より優速の双発陸上攻撃機の完成が近いこと、戦闘機は短航続力で海上航法能力も小さいため、空母での使用制限があることから戦闘機無用論を唱えて、横空の戦闘機関係者を論破した[8]。また援護戦闘機も不要と主張していた[9]

1936年4月1日海軍航空本部教育部長。大西は大村空飛行隊長池上二男少佐を呼び、「今度はじめて九六式艦上戦闘機が大村空に配属される。戦闘機出身でない君がその飛行隊長にえらばれたが、この全金属単葉の性能のすぐれた九六艦戦をもってしても、戦闘機は無用と言えるのかどうか専門外の人の方が、客観的に正当な意見を出しやすいからそのつもりで意見をまとめてもらいたい」と依頼した[10]。それにより1937年4月佐世保鎮守府で鹿屋の九六式陸上攻撃機(中攻)が攻撃側、大村空の九六式艦戦が防御側で防空演習を行い、当時は防空体制が整っていなかったこともあり、攻撃機側が奇襲の形で完勝した[11]

1937年7月海軍航空本部教育部長の際「航空軍備に関する研究」と題するパンフレットを各方面に配布した。大遠距離、大攻撃力、大速力を持つ大型機による革新を説くもので、大型機が将来的に戦艦の役割も担い新艦艇として制海権も獲得できると主張した。潜水艦以外の艦艇は航空に対抗し得ない。また小型航空機は現戦略戦術を根底から変えることはできない、戦闘機、対空防御砲火は現在も信頼できず、将来的にも爆撃機の速度、高度増大でさらに必要がなくなるといった戦闘機無用論も含んでいた。日本海軍では初の航空戦力による政戦略攻撃にまで言及した文章であった[12]

また、1937年水平爆撃の命中の悪さから水平爆撃廃止論を唱えていた。しかし、山本五十六中将の続行方針の明示宣言で終息した[13]

支那事変

1937年7月に日華事変が勃発すると、翌8月に第一連合航空隊司令官戸塚道太郎大佐が上海渡洋爆撃を指揮する。前例のない渡洋爆撃は実施前から成功を危ぶむ声が多く、被害が続出して太平洋諸島に配備すべき中攻隊を消耗していった。音を上げた軍令部は航空本部教育部長の大西を台北基地に派遣した。済州島基地で大西は「台湾の司令部が中攻で戦闘機狩りをやらせようというのが間違っている。本末転倒の作戦だ」と話している。軍令部の強襲緩和の申し入れに対し、戸塚は強気で「たとえ全兵力を使い尽くすともあえて攻撃の手をゆるめず」とはねつけた[14]

1937年8月21日大西は九六式陸上攻撃機6機による中国軍飛行場夜間爆撃に指揮官機に同乗するが、中国軍戦闘機に迎撃され陸攻4機が撃墜された[15]。大西の搭乗機は襲われやすい編隊の最後尾を占めていたが、後に大西は「作戦の方に気をとられて、なんにも感じないんだ」と話した。それを聞いた源田実少佐は「胆、かめの如し、という言葉があるが、このひとのは底抜けだ」と評している[16]

1939年10月19日第二連合航空隊司令。11月4日大西は二連空は大挙昼間強襲すべしと命令し自らも指揮官機に同乗しようとした。しかし幕僚らは死なれては士気にかかわると反対し、代わりに13空司令奥田喜久司大佐が行くことで説得した。この出撃で奥田は戦死し遺書には戦死の覚悟と大西への感謝の言葉があったが、大西は部下らに「いったん出撃に臨んで死を決するのでは遅い。武人の死は平素から充分覚悟すべきである。」と厳しい態度をとった。しかし奥田の弔辞を読む際には絶句し崩れ落ちる場面もあった[17]

1939年12月5日大西は陸軍の第三飛行集団を訪問して「この際なし得れば陸海軍で共同して蘭州(蒋介石ルート拠点)を攻撃したい」と申し入れた。要旨は、従来海軍は夜間爆撃を主としたが、その効果が比較的小さいので昼間大威力をもって敵戦闘機の活動余地をなからしめるよう攻撃を加える陸海軍の共同作戦の提案であった。これにより12月8日陸海軍による「百号作戦」が決定した。12月26日から28日の3日間で多大な戦果をあげた[18]

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山口多聞少将(左から2番目)、嶋田繁太郎中将(同3番目)、大西瀧治郎少将(同4番目)、(1940年9月在支海軍航空隊首脳)

1940年5月12日重慶作戦のため、大西は第一連合航空隊司令官山口多聞少将と協力し、一連空と二連空を統合し連合空襲部隊を創設した。指揮官を山口が務め、参謀長を大西が務めた[19][20]。重慶爆撃に関して大西が「日本は戦争をしている。イギリスは負けている。アメリカも戦争に文句はあるまい。絨毯爆撃で結構」と言い、山口は中央からの指示もあったため「重慶には各国大使館もあるし慎重に」と言って、二人は喧嘩になったが、山口が「俺も徹底したいけど中央が言うから」と漏らすと大西も「それが戦争だよな」と答えた[21]。7月10日山口は長慶爆撃を強行しようと考えたが、大西は「一週間待てば援護戦闘機がつけられる」と反対して対立するが、山口が折れて後に大西は「山口の方が一枚上手だったよ」と回想した[22]

日華事変における零式艦上戦闘機の初陣でパイロットから防弾の弱さについて「防弾タンクにしてほしい」と不満が出たが、技術士官は零戦の特性である空戦性能、航続距離が失われるので高速性、戦闘性を活かし活動し効果を発揮するべきと反対した。大西はそれに対し「ただ今の議論は技術士官の言う通り」と言って収めてパイロットたちは黙った[23]

太平洋戦争

第十一航空艦隊

1941年1月15日第十一航空艦隊参謀長

1941年1月14日頃、連合艦隊司令長官山本五十六大将から第十一航空艦隊参謀長の大西へ手紙があり、1月26日、27日頃、大西は旗艦長門に座乗する山本を訪ねた[24]。山本から大西が受け取った手紙は「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦劈頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」という要旨であった[25]。山本は福留繁に対し「わざわざ傍系の大西に計画の検討をたのんだのは、自信がつくまで私個人の研究に止めておきたいからだ」と語っている[3]

大西は鹿屋司令部に戻り、幕僚の前田孝成に詳細を伏せて真珠湾での雷撃について相談するが、真珠湾は浅いため技術的に不可能だと言われた[24]。2月初旬、今度は第1航空戦隊参謀源田実を呼びつけ、中旬に訪れた源田に大西は山本からの手紙を見せ同様の質問をする。源田は、雷撃は専門ではないから分かりかねるが研究あれば困難でも不可能ではない、できなくても致命傷を与えることを考えるべき、空母に絞れば急降下爆撃で十分。問題は接近行動にあるという回答をする[24][26]。また大西は機密保持を第一にしたいとし攻撃は成果が確認できる昼がいいと考えを述べる[26]。大西は源田に作戦計画案を早急に作るよう依頼して、源田は2週間ほどで仕上げて提出、それに大西が手を加えて作案して、3月初旬ごろ山本に提出した[24]。大西は、戦艦には艦上攻撃機の水平爆撃を行うことにして、出発を択捉島単冠湾として案をまとめた[27]。9月頃、源田が大西から参考のため手渡されたものには、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載し補助艦艇に攻撃を加え戦艦に致命傷なくても行動できなくするようにするとなっていたという[28]

一方で大西は、真珠湾内の魚雷発射は水深が浅いため不可能なこと、ハワイ周辺の哨戒圏から機密保持がむずかしいことの二点を山本に説明し、福留にも「長官にあの計画を思いとどまるようにいってほしい」と頼んでいる[3]。大西は「日米戦では武力で米国を屈服させることができないから早期戦争終末を考え、長期戦争となることはできるだけ避けるようにする必要がある。そのためにも真珠湾攻撃のような米国を強く刺激する作戦は避けるべきである」との見解を吉岡忠一に漏らしている[29]。1941年9月24日軍令部において大西は草鹿龍之介の真珠湾攻撃への悲観論に同調し、10月初旬には二人で山本にフィリピン作戦に支援すべきと具申するが大西は黒島亀人に説得される[30]。山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話した[31]

大東亜戦争開戦時にはフィリピン攻略戦に参加。10月初旬の鹿屋図演において第3航空隊は零戦によるマニラ周辺への直接攻撃を提案。計画していた小空母を使用した戦闘機隊の効率の悪さ、戦闘機と陸上攻撃機の協同の難から柴田武雄が提案した。日華事変の時、零戦は430海里進攻の経験があり燃料消費量を調整すれば500海里も可能と主張する[32]。しかし第11航空艦隊参謀長の大西は「君の意見は飛行実験部的意見にすぎない」と一蹴し[33]、司令部も実績がない、作戦を変更するには資料不足と却下した[32]。そのため第3航空隊は航続力延伸の研究し、亀井凱夫司令が意見書として10月末に空戦、射撃訓練の時間さえ十分ではないので着艦訓練は不可能、空母使用はやめるべきという内容で提出され大西参謀長は作成者の柴田に直接読むように許し、「わかった。必ず山本五十六に納得させる。以後空戦、夜間編隊発進、遠距離侵攻に必要な訓練を行え」と内命した。柴田はこの時ほど人間大西の偉大さを感じたことはないという[33][34]

1942年3月1日、航空本部出仕として内地へ帰還途中、連合艦隊司令部のある旗艦大和を訪問してフィリピン、インドネシア方面の作戦状況を報告した。その際に所見として、軍備の中心は航空である、戦艦はこれまでとは違った役割に使える兵器に転落したと説いたが、連合艦隊参謀長宇垣纏からはフィリピンやインドネシアなどの陸続きの作戦から結論を出すのは早すぎると応酬された[35]

1942年3月20日海軍航空本部総務部長。この頃、大西は「何とか戦線を縮小しなければならぬ」と話していた[36]

航空兵器総局

1943年11月1日軍需省航空兵器総局総務局長。航空兵器総局の立ち上げにおいて長官の人選を陸海軍が争い、大西は同格で陸軍の遠藤三郎陸軍中将に長官を譲ったため陸軍は大将を出すと騒いだが、大西は気にしないと言い、遠藤は大西に心服した[37]

1944年6月マリアナ沖海戦の敗北直後、サイパン確保のために、米機動部隊に対する陸海による全力の片道攻撃を行う意見書を遠藤とともに提出したが、認められなかった[38]

サイパンが危うくなると、軍内部に放棄と死守説が対立した。大西らは「サイパンを放棄すれば日本の国防は成りたたない」と主張した。大本営の意思が放棄に傾くと、6月25日大西は昭和天皇に直訴しようとしたが、周囲に妨害された。大西は海軍大臣嶋田繁太郎大将が軍令部総長を兼任しているのを解いて、嶋田海相・末次信正総長・多田武雄次官・大西次長という人事の「出師の表」をつくって嶋田に提出した。遠藤三郎陸軍中将は、大西にフィリピン転出の命令が出たとき「出師の表」を思い出し、親補による栄転の形だが、東條英機らが追い出したと考えたという[39]

東條内閣が倒れた後、大西は軍令部次長になりたいと意見書を提出し、嶋田の後任となった米内光政海軍大臣に航空部隊再建を説いて願い出た。米内はそれを了解したが、大艦巨砲主義者の反対にあい、約束は守らなかった[40]

この頃、大西の下には、特攻を求める意見が集まっていた。

1943年6月29日城英一郎大佐から敵艦船に対し特攻を行う特殊航空隊編成の構想が大西に上申された。その際大西は「意見は了解したがまだその時期ではない」と答えた[41]。しかし、日本軍がマリアナ沖海戦に敗れると、再び城は大西に特攻隊編成を電報で意見具申した[42]。また、岡村基春大佐からも大西に特攻機の開発、特攻隊編成の要望があった[43]252空舟木忠夫司令も体当たり攻撃以外空母への有効な攻撃はないと大西に訴えた[44]桑原虎雄中将によれば、大西は岡村大佐らの建策を支持し、嶋田軍令部総長に、ぜひとも採用しなさいと進言していたが、軍令部はなかなか採用しなかったという[45]。大西もこの頃「なんとか意義のある戦いをさせてやりたい、それには体当たりしかない」「もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた[46][47]。1944年7月1日航空兵器総務局で作成した航空機生産計画には増産の重点を戦闘機とし全て爆装を付すことを決めた[48]

7月19日新聞の取材に「われに飛行機という武器があり、敵空母を発見したら空母をB29を見つけたらB29を悉く体当たりで屠りさればよいのだ。体当たりの決意さえあれば勝利は絶対にわれに在る。量の相違など問題ではない。」と語った[43]。特攻兵器桜花についても賛意を示していた[44]

第一航空艦隊

1944年10月5日、大西が第一航空艦隊長官に内定した。この人事は特攻開始を希望する大西の意見を認めたものともいわれる[49]。妻には「平時ならうれしい人事だが今は容易ならず決意が必要。」と語った[50]。大西は軍需局を去る際に杉山利一ら局員に「向こうに行ったら必ず特攻をやるからお前らも後から来い」と声をかけた。杉山は大西自ら真っ先に体当たりするだろうと直感したという[47]

大西は出発前に米内光政海軍大臣に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得た[51]。また、及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語った。及川は「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」[52]「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と承認した。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した[53]。大西は、軍令部で航空部員源田実中佐に戦力を持っていきたいと相談し、現在その戦力がないことを知らされたが、代わりに零戦150機を準備する約束を取り付けた。源田によれば大西はその時も場合によっては特攻を行うという決意を話したという[54][55]。大西は足立技術大佐に対し、これからはあんまり上等な飛行機はいらんから簡単なやつをつくっておけと話した[56]

大西中将は特攻の戦果発表に関心を持っており、長官に内定した1944年10月5日海軍報道班員に「特攻隊の活躍ぶりを内地に報道してほしい。よろしく頼む」と依頼していた[57]。またフィリピンへ出発する前に、もし特攻を行なった場合の発表方法について中央とも打ち合わせをした(決定はされておらず、特攻の事後の10月26日に中央から大西に意見を求める電文が発信された)[58][59] [注釈 4]

大西は帰宅すると、義母に子守唄を歌って下さいと頼んだ。義母は嗚咽がこみ上げてきて中途から泣き出した。妻淑恵が歌うかというと、大西は「年下のものに子守唄なんか歌ってもらえるか」「自分で歌うか」と歌い出した。一航艦長官内定について大西は義母に「ふだんならかたじけないほどの栄転だが、今日の時点では、陛下から三方の上に九寸五分をのせて渡されたようなものだよ」と語った[3]

1944年10月9日フィリピンに向け出発。沖縄に敵機動部隊が集中していることを聞き、上海を経由し、11日、台湾高雄に到着。第二航空艦隊長官福留繁と会談[63]。その後、新竹で航空戦の様子を見て多田武雄中将に「これでは体当たり以外方法がない」と話し、連合艦隊司令長官豊田副武大将に対しても「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない、体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と語った[64]。実戦部隊の最高責任者である連合艦隊長官豊田副武大将が大西の意見に反対しなかったということは黙認を意味している[65]

フィリピンに到着後、大西と交替予定の一航艦長官寺岡謹平中将に「基地航空部隊は当面の任務は敵空母甲板の撃破とし発着艦能力を奪い水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し心構えを厳粛にし落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか、いや司令を通じた方が後々のためによかろう。まず戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然にこれに続くだろう、水上部隊もその気持ちになるだろう、海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう。」と語り必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して寺岡から同意を得て一任された[66]

1944年10月19日大西はマニラ艦隊司令部にクラーク基地761空の司令前田孝成大佐、飛行長庄司八郎少佐とマバラカット基地の201空の司令山本栄中佐、飛行長中島正少佐を呼び出し特攻の相談をすることにした。761空は相談できたが、201空は到着が遅れ、大西は自ら出向くことにしたが、すれ違いとなり会うことはなかった[67]。そのため、小田原参謀長が代わりに山本司令に会って特攻決行の同意を得ることになった[68]

1944年10月19日大西中将は夕刻マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で201空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口力平中佐、二十六航空戦隊参謀吉岡忠一中佐らを招集し会議を開いた。大西は「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」と提案した[67]。山本司令が不在だったため玉井副長は自分だけでは決められないと答えた。大西は、山本司令から同意を得ていることを伝え、決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい飛行隊長の指宿正信大尉、横山岳夫大尉らと相談して体当たり攻撃の決意を大西に伝えた。玉井はその際、編成に関しては航空隊側に一任してほしいと要望して大西はそれを許可した[67][69]猪口力平参謀が「神風特別攻撃隊」の名前を提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して、大西がそれを認めた。また大西は各隊に本居宣長の歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」から敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名した[70]

1944年10月20日第一航空艦隊司令長官着任。大西によって神風特別攻撃隊の隊名を付され、編成なども発表された[71]。大西は敷島隊へ「日本は今危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする。」と訓示した。神風特攻隊編成命令書を大西、猪口力平、門司親徳で起案し連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信した[71][72]

10月21日大西は特攻で空母の甲板撃破の時間的余裕を得るため、南西方面艦隊司令長官三川軍一中将に協議しに行くが、25日で行動予定を組んでいるため、変更は困難と断られる。10月22日第二航空艦隊長官福留繁中将に第二航空艦隊も特攻を採用するよう説得するが、断られた。第一航空艦隊の特攻戦果が出た25日第二航空艦隊も特攻採用を決定する[73]。大西は福留に対し「特別攻撃以外に攻撃法がないことは、もはや事実によって証明された。この重大時期に、基地航空部隊が無為に過ごすことがあれば全員腹を切ってお詫びしても追いつかぬ。第二航空艦隊としても、特別攻撃を決意すべき時だと思う」と説得して、福留の最も心配した搭乗員の士気問題については確信をもって保証すると断言したため、福留も決心し、第一航空艦隊と第二航空艦隊を統合した連合基地航空隊が編成された。福留が指揮官、大西が参謀長を務めた[74]。大西は第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊での攻撃は不可能で少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすよりは特攻が慈悲であることなどを話して特攻を指導した[75]。大西の強引な神風特攻隊拡大に批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」「反対する者は叩き切る」と指導した[76]

10月27日には大西によって神風特別攻撃隊の編成方法、命名方法、発表方針などが軍令部、海軍省、航空本部など中央に通達された[77]。大西は特攻隊員の心構えを厳粛にするため特別待遇を禁じ、他の勝手な特攻も禁じた[76]。猪口力平によれば27日特攻隊を見送った大西は「城が言っていたが現場で決心がついた。こんなことしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道だよ。」と語った[78]レイテに敵が上陸し一段落したので特攻を止めるかと猪口力平に質問された大西は「いや、こんな機数や技量では、戦闘をやっても、この若い人々は徒らに敵の餌食になってしまうばかりだ。部下をして死所を得さしめるのは主将として大事なことだ。だから自分はこれを大愛と信ずる。小さい愛に拘泥せず、自分はこの際続けてやる」と語った[79]

1944年11月16日、福留繁中将が特攻の必要と増援の意見具申電(1GFGB機密第16145番電)を発する。大川内傳七中将も同旨だとして大西を上京させて説明すると打電。11月18日大西は猪口力平を伴い、日吉の連合艦隊司令部で豊田副武に状況報告をし、軍令部で及川古志郎軍令部総長に改めて趣旨を説明し、増勢しつつ現兵力でレイテ作戦の対機動部隊作戦を続行し、別の新攻略作戦に充当兵力がほしいと要望した。練習航空隊から200機は抽出できると見積もり、敵来攻時に備え北部台湾に待機させる、ここ1-2週間が重大な時期と述べた。軍令部と海軍省の協議で練習航空隊から零戦隊150機の抽出が決定された[80]

1945年1月、体当たり攻撃は無駄ではないか、中止してはどうかという質問に大西は「この現状では餌食になるばかり、部下に死所を得させたい」「特攻隊は国が敗れるときに発する民族の精華」「白虎隊だよ」と答えている[81]。1月10日第一航空艦隊は台湾に移転。

軍令部次長

1945年5月19日、軍令部次長に着任。海軍大学校甲種卒業者ではない大西が着任する異例の人事であった[44]

大西は機帆船での逆上陸構想を推進していた。富岡定俊少将によれば軍令部では大西だけが熱心であったという[82]

この時期日本はB-29の無差別爆撃にさらされ、迎撃する戦闘機はなく、レーダーも捕捉できず、高射砲も届かなかったため、万事休すと思われた。そこで大西は、根拠地であるマリアナの基地でB-29を焼き討ちする作戦として剣号作戦を提案した。爆撃を終えて帰投するB-29を追尾し、マリアナの基地に続いて着陸を敢行する。米軍の対空砲火も友軍機があるので攻撃できないので着陸は可能になる。その後、特攻隊員がオートバイに分乗して飛行場で着陸したばかりのB-29に爆弾を突き刺すという案で、軍令部はこれを採用した。土肥一夫中佐は「大西中将の着想の奇抜さには、軍令部員も誰一人、舌をまかぬものはなかった」と回想する。8月に予定して準備を進めたが、実行前に終戦が決まった[3]。大西の着想で「棒付爆弾」と呼称された吸着盤のある時限式の爆弾も開発されていた[83]

終戦が間近になると、大西は「二千万人の男子を特攻隊として繰り出せば戦局挽回は可能」という「二千万特攻論」を唱え、豊田副武軍令部総長を支えて戦争継続を会議で訴えた。大西は軍令部で会議をひらき、御前会議をなるべくひき延ばし、和平派を説得する工作をたてた。その計画では、大西は高松宮宣仁親王(海軍大佐)に会い米内光政海軍大臣の説得を依頼、土肥一夫中佐は永野修身元帥を、富岡定俊第一部長は及川古志郎大将を、大前敏一第一課長は野村直邦大将と近藤信竹大将を説得するよう割当を決めた[3]

8月9日、最高戦争指導会議に現れて徹底抗戦を訴える。12日、豊田が陸軍の梅津美治郎参謀総長とともにポツダム宣言受諾反対を奏上すると、米内海軍大臣は豊田と大西を呼び出した。米内は大西に対して「軍令部の行動はなっておらない。意見があるなら、大臣に直接申出て来たらよいではないか。最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」と言いつけ、大西は涙を流して詫びた[84]

8月13日、大西は「我々で画策し奏呈し、終戦を考え直すようにしなければならない。全国民2000万人犠牲の覚悟を決めれば、勝利はわれわれのもの」と主張した[85]内閣書記官長迫水久常のもとにも現れ、手を取って「戦争を続けるための方法を何か見つけることはできませんか」と訴えた[85]

1945年昭和20年)8月15日玉音放送が流れ、日本軍は停戦した。

自決

1945年8月16日渋谷南平台町の官舎にて大西は遺書を残し割腹自決した。午前2時から3時ごろ腹を十字に切り頸と胸を刺したが生きていた。官舎の使用人が発見し、多田武雄次官が軍医を連れて前田副官、児玉誉士夫も急行した。熱海にいた矢次一夫も駆けつけたが昼過ぎになった。大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」といさめた。介錯と延命処置を拒み続けたまま同日夕刻死去。享年55。

遺書は5通あったとされる。「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭した内容であった。別紙には富岡定俊軍令部第一部長に当てた添え書きがあり「青年将兵指導上の一助ともならばご利用ありたし。」とあった。妻淑恵(嘉子)に対する遺書には、全て淑恵の所信に一任すること、安逸をむさぼらず世のため人のため天寿を全くすること、本家とは親睦保持すること、ただし必ずしも大西の家系から後継者を入れる必要はないこと、最後には「これでよし 百万年の 仮寝かな」と辞世の句があった。他に多田、児玉、矢次に対しても遺書があった[1]。また辞世の句として友人増谷麟に当て「すがすがし 暴風のあと 月清し」と詠んだ[86][87]

戦後特攻隊員の戦死者名簿には大西の名も刻まれた。墓は西芦田共同墓地と鶴見総持寺にある。鶴見総持寺の大西中将の墓の向って左に「海鷲観音」像がある。特攻隊員の若い霊を弔う微志である。妻である淑恵は大西に代わって、その生涯を閉じるまで、神風特攻隊の慰霊活動に取り組んでいた。また2000年、鶴見総持寺の大西中将の墓所に「遺書の碑」が建てられた。発起人である元副官門司親徳により、命日である8月16日に除幕式が催された。

人物

矢次一夫は1952年、横浜市鶴見総持寺で大西の墓の建立式が行なわれたときに「大西という男はバカな男でした。豊田副武大将は、東京裁判の法廷で『大西の徹底抗戦論は部内の不満分子を抑えるために許したのです』といっている。まことに、それに踊らされた大西はバカです。高木惣吉少将は大西を愚将だといいましたが、彼はまったく貴重な愚直さを持っていました。彼を軍令部という金魚鉢に入れたのは、鉢の中にナマズを入れたようなものです。なぜなら、大西という男は、たとえ日本が勝っても腹を切るような男だからです」と語った[3]。一航艦で副官を務めた門司親徳は、大西に厳しさに満ちた中にも直感的に親しみを感じたという[88]

源田実大佐は「大西とは一年ほどの同勤であったが、数年に匹敵する意義を持ち戦術思想、人生観に大きく影響を与えられた」「正しいことを正しいと認めることが大切なのであって何が国のためになるかで考え無節操と罵られようとも意に介すなという大西から受けた言葉は人生においてこれほど胸を打つ言葉はなかった」という[89]

猪口力平大佐によれば「日中戦争では攻撃機に乗って陣頭指揮をとり、飛行機、飛行船にも乗る、開戦以前から山本五十六大将に次ぐ日本航空の大立物として知られる人物であった」[90]「大西は腹の据わった押しの強い闘志満々の士と評判であり、常に陣頭に立ち下から慕われ、また大西も可愛がっていた。智勇に優れた山本五十六と似た気風を持っていた。机上の空論や口先だけの人か実力あり腹据わり信頼置けるかが好き嫌いの基準であった」という[91]

特攻の思想

大西は神風特別攻撃隊の創始者である[53]が、神風特攻隊以外も含む「特攻の生みの親」とする見方については、第一航空艦隊長官になる以前から特攻の支持者であったという認識に支えられているという見方[92]とそれ以前に特攻は中央で研究されているので誤りとする見方がある。神風特攻隊に関しては、中央の研究する特攻とは別物であり、大西から中央に事前報告はあったが、神風特攻隊は大西独自の動きであった[93]

大西は一航艦参謀長小田原俊彦少将ら幕僚に神風特攻隊を創設する理由を次のように説明した。大西は軍需局の要職にいたためもっとも日本の戦力を知っており、重油、ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する、もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば、天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。また、この犠牲の歴史が日本を再興するだろうという[94][95][注釈 5]

大西は、特攻は「統率の外道」と考えていた[78]。また、当時の機材や搭乗員の技量で普通の攻撃をやっても敵の餌食になるだけとして、体当たり攻撃をして大きな効果、戦果を確信して死ぬことができる特攻は大愛、大慈悲であるとも考えていた[97][98]。大西は特攻が始まる当時よく「青年の純、神風を起こす」と筆を揮い、猪口力平によれば「日本を救い得るのは30歳以下の若者である。彼らの体当たりの精神と実行が日本を救う。現実の作戦指導も政治もこれを基礎にするべきである。」と語ったという[99]。副官門司親徳に「棺を覆うて定まらず百年の後知己を得ないかもしれない。」と語ったという[100]。福留繁によれば大西は「日本精神の最後の発露は特攻であり特攻によって祖国の難を救い得る」と確信していたという[101]戸川幸夫東京日日新聞記者、のちに作家)から「特攻によって日本はアメリカに勝てるのですか?」と質問された大西は「勝てないまでも負けないということだ」「いくら物量のあるアメリカでも日本国民を根絶してしまうことはできない。勝敗は最後にある。九十九回敗れても、最後に一勝すれば、それが勝ちだ。攻めあぐめばアメリカもここらで日本と和平しようと考えてくる。戦争はドロンゲームとなる。これに持ちこめばとりも直さず日本の勝ち、勝利とはいえないまでも負けにはならない。国民全部が特攻精神を発揮すれば、たとえ負けたとしても、日本は亡びない、そういうことだよ」と答えている[3]。後藤基治(大阪毎日新聞記者)から特攻を続ける理由を聞かれた大西は「会津藩が敗れたとき、白虎隊が出たではないか。ひとつの藩の最期でもそうだ。いまや日本が滅びるかどうかの瀬戸際にきている。この戦争は勝てぬかもしれぬ」「ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」と答えた[102]

吉岡忠一は「もうそれしか方法はなかったと思う。大西は勝っても自刃しただろう。」と話した[103]吉松正博は大西が第一航空艦隊長官に就いた人選は場合によっては特攻もやむを得ないとする中央が航空関係者から人望のある大西を適任と考えたものだろうと話している[54]。源田実は「大西の立場に立たされば、山本五十六も山口多聞も同じことをやったろうし、彼ら自身が特攻機に乗って出撃しただろう。それが海軍軍人である」と話している[104]。門司親徳は「若ければ大西も隊長として真っ先に特攻へ行っただろう。大西は彼らだけ死なせるつもりがないと感じられ別世界だった。」と語った[105]

年譜

  • 1891年6月2日 - 兵庫県氷上郡芦田村(現・丹波市青垣町)の小地主、父・大西亀吉と母・ウタの次男として生まれる。
  • 1912年7月17日 - 海軍兵学校を150人中20番の成績で卒業。海軍少尉候補生。
  • 1913年12月 - 任海軍少尉。
  • 1914年5月 - 戦艦「河内」乗組。
    • 12月 - 砲術学校普通科学生。
  • 1915年5月 - 水雷学校普通科学生。
    • 12月 - 海軍中尉・水上機母艦「若宮」乗組。航空術研究員、6期練習将校。
  • 1916年4月 - 横須賀航空隊付
    • 9月 - 艦隊航空隊付
  • 1918年1月 - 横須賀航空隊付
    • 11月 - 英仏出張
  • 1918年12月 - 海軍大尉
  • 1921年8月6日 - 横須賀航空隊付。センピル教育団の講習に参加。
    • 9月14日 - 海軍砲術学校教官、海軍水雷学校教官。
  • 1922年3月 - 横須賀航空隊戦隊長
  • 1923年1月 - 横須賀航空隊付
    • 11月 - 教育局第3課員
  • 1924年10月 - 霞ヶ浦航空隊付
    • 12月 - 海軍少佐
  • 1925年1月 - 霞ヶ浦航空隊教官
  • 1926年2月 - 佐世保航空隊飛行隊長
    • 12月 - 水上機母艦「能登呂」分隊長
  • 1927年12月 - 連合艦隊参謀
  • 1928年11月 - 空母「鳳翔」飛行長
  • 1929年11月 - 海軍中佐。航空本部員。
  • 1932年2月 - 第三艦隊参謀
    • 4月 - 航空本部員
    • 11月 - 空母「加賀」副長
  • 1933年10月 - 佐世保航空隊司令
    • 11月 - 海軍大佐
  • 1934年11月 - 横須賀航空隊副長
  • 1936年4月 - 航空本部教育部長
  • 1939年10月 - 第二連合航空隊司令官
    • 11月15日 - 海軍少将
  • 1940年11月 - 第1連合航空隊司令官
  • 1941年1月15日 - 第11航空艦隊参謀長
  • 1942年2月 - 航空本部出仕
    • 3月 - 航空本部総務部長
  • 1943年5月1日 - 海軍中将
    • 11月 - 軍需省航空兵器総局総務局長
  • 1944年10月20日 - 第1航空艦隊司令長官
  • 1945年5月19日 - 軍令部次長
    • 8月16日 - 自決

演じた俳優

脚注

注釈

  1. 海兵同期に、福留繁多田武雄宇垣纏山口多聞ら。
  2. 海軍大学校受験は3回までという制限があり最後のチャンスであった。
  3. きっかけは嘉子夫人の姉久栄が笹井賢二造兵大尉に嫁ぎ、佐世保の官舎に住んでおり、懇意にしていた井上の妻に妹の縁談相手の紹介を頼んだことにある。松見家は一橋家の御典医の家系で、父文平は一橋大学の創立者にして府会議員であり、教育界や政界にも知られる名家であった。
  4. 大海機密第261917番電 1944年10月13日起案,26日発信「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」発信中澤佑、起案源田実、「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」海軍省人事局主務者の意見[58][59]。神風の名前が既にあるため大西が出発前にすでに名前を打ち合せていたという意見もある。しかし命名者の猪口力平は19日に提案したと証言し、門司親徳(特攻編成起案者)も起案日は誤記で23日ではないかという[60][61]。電文の起案を担当した源田実はこの電文について日付は覚えていないが、神風特攻隊の名前はフィリピンに飛んだ際に大西から直接聞いたと証言している[60]。この電文を特攻や命名の指示と紹介する文献もあるが、現地で特攻の編成・命名が行われたのは20日であり、この電文が現地に発信されたのは26日であるため、この電文は特攻隊の編成や命名に影響を与えていない。また、連絡のためにこの電報を打ったのは軍令部であるが、内容の発表に関しては海軍省による案件である[62]
  5. このコンセプトは米内光政海軍大臣によるものといわれる[96]

出典

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参考文献

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  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『大本營海軍部・聯合艦隊 (6) 第三段作戦後期』 朝雲新聞社〈戦史叢書45〉、1971年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『海軍捷号作戦 (2) フィリピン沖海戦』 朝雲新聞社〈戦史叢書56〉、1972年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『大本營海軍部・聯合艦隊 (7) 戦争最終期』 朝雲新聞社〈戦史叢書93〉、1976年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『海軍航空概史』 朝雲新聞社〈戦史叢書95〉、1976年。
  • 奥宮正武 『海軍特別攻撃隊』 朝日ソノラマ、1989年。ISBN 978-4257170204。
  • 千早正隆 『日本海軍の驕り症候群』上、中央公論社〈中公文庫〉、1997年。ISBN 978-4122029927。
  • 源田実 『真珠湾作戦回顧録』 文藝春秋〈文春文庫〉、1998年。ISBN 978-4167310059。
  • 秋永芳郎 『海鷲の割腹』 光人社、1983年。ISBN 978-4769801986。
  • 神立尚紀 『戦士の肖像』 文春ネスコ、2004年。ISBN 978-4890362066。
  • 生出寿 『特攻長官 大西滝治郎』 徳間書店、1984年。ISBN 978-4192230148。
  • 碇義朗 『鷹が征く―大空の死闘・源田実VS柴田武雄』 光人社、2000年。ISBN 978-4769809555。
  • 大野芳 『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男―追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史"から抹殺された謎を追う』 サンケイ出版、1980年。