奥羽越列藩同盟

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奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)

戊辰戦争に際して奥羽,北越の諸藩が,官軍に抗戦するために結んだ攻守同盟。会津藩鶴岡藩は,幕末の動乱期に最も強硬な佐幕活動を行なってきたが,江戸開城後,藩主らはそれぞれ藩地に戻って謹慎していた。しかし官軍側は,九条道孝を鎮撫総督に任じて会津,庄内両藩の追討を目指し,仙台藩米沢藩に使者を送って討伐を命じた。仙台,米沢藩重臣らは,会津,庄内両藩主の謹慎を官軍側に報告して,追討取消しの嘆願を行なった。官軍側がこれを却下すると,恭順の意を表わすものを討つのは不当であるとして,仙台,米沢両藩は総督府参謀世良修蔵を斬って抗戦の決意を表明し,慶応4 (1868) 年5月3日,奥羽 26藩の間に攻守同盟が成立した (奥羽列藩同盟) 。さらに会津藩と盟約を結んでいた新発田藩ら北越6藩がこれに加わり,30藩をこえる大同盟となった。同盟の大義名分は,「君側の奸」として薩摩藩を討つことにおかれ,彰義隊戦争で敗れ北走した輪王寺宮公現法親王を推戴し,白石に公議府,福島に軍事府を設置した。ところが,官軍が白河口,越後口から進攻すると,秋田藩をはじめ,脱退して官軍側に協力する藩が相次いだ。洋式軍備の点でまさっていた官軍がまず北陸を鎮定し,白河,棚倉,二本松を攻略したため,米沢,仙台両藩も降伏,同盟は瓦解した。最後まで抗戦した会津藩も9月 22日ついに降伏し,5ヵ月にわたる戦争は官軍の勝利に帰した。なお,同盟諸藩は,いずれも敗戦後,減封,処罰されたが,官軍側は特に寛大な処置をもってのぞんだ。 (会津戦争 , 五稜郭の戦い )  





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