安政の大獄

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安政の大獄(あんせいのたいごく)は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。当時は「飯泉喜内初筆一件」または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」とも呼ばれていた。

江戸幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊皇攘夷一橋派大名公卿志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。。

経緯

江戸時代後期の日本には、外国船が相次いで来航した。朝がアヘン戦争に敗れると、日本国内でも対外的危機意識が高まり、幕閣では海防問題が議論される。老中阿部正弘幕政改革を行ない、黒船来航後の1854年にアメリカ合衆国と日米和親条約を、ロシア帝国とは日露和親条約を締結した。

黒船が来航した1853年には、第12代将軍徳川家慶が死去し、第13代将軍に家慶の四男・徳川家定が就任するが、病弱で男子を設ける見込みがなかったので将軍継嗣問題が起こった。前水戸藩徳川斉昭の七男で英明との評判が高い一橋慶喜を支持し諸藩との協調体制を望む一橋派と、血統を重視し、現将軍に血筋の近い紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を推す保守路線の南紀派とに分裂し、激しく対立した。

その頃、米国総領事タウンゼント・ハリスが、日米通商航海条約への調印を江戸幕府に迫っていた。この時、江戸幕府は諸大名に条約締結・調印をどうしたらよいか意見を聞いていた。そして、条約締結はやむなし、しかし調印には朝廷の勅許が必要ということになり、幕府も承認した。このため、勅許を受けに老中・堀田正睦が京に上った。当初、幕府は簡単に勅許を得られると考えていたが、梅田雲浜ら在京の尊攘派の工作もあり、元々攘夷論者の孝明天皇から勅許を得ることは出来なかった。

正睦が空しく江戸へ戻った直後の安政5年(1858年)4月、南紀派の直弼が大老に就任する。直弼は、無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行した。前水戸藩主・徳川斉昭は、一旦は謹慎していたものの復帰、藩政を指揮して長男である藩主徳川慶篤を動かし、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平慶永(春嶽)らと連合した。彼らは(条約調印自体は止むを得ないと考えていたが)「無勅許調印は不敬」として、直弼を詰問するために不時登城(定式登城日以外の登城)をした。直弼は「『不時登城をして御政道を乱した罪は重い』との台慮(将軍の考え)による」として彼らを隠居・謹慎などに処した。これが安政の大獄の始まりである。

一橋派であった薩摩藩の藩主・島津斉彬は直弼に反発し藩兵5000人を率いて上洛することを計画したが、同年7月に鹿児島で急死、出兵は頓挫する。斉彬死後の薩摩藩の実権は、御家騒動で斉彬と対立して隠居させられた父・島津斉興が掌握し、薩摩藩は幕府の意向に逆らわぬ方針へと転換することとなった。1858年8月には朝廷工作を行なっていた水戸藩らに対して戊午の密勅が下され、ほぼ同じ時期、幕府側の同調者であった関白九条尚忠が辞職に追い込まれた。このため9月に老中間部詮勝、京都所司代酒井忠義らが上洛し、近藤茂左衛門、梅田雲浜、橋本左内らを逮捕したことを皮切りに、公家の家臣まで捕縛するという激しい弾圧が始まった。そして、吉田松陰が最後の刑死者となった。

京都で捕縛された志士たちは江戸に送致され、評定所などで詮議を受けた後、死罪、遠島など酷刑に処せられた。幕閣でも川路聖謨岩瀬忠震らの非門閥の開明派幕臣が処罰され、謹慎などの処分となった。この時、寛典論を退けて厳刑に処すことを決したのは井伊直弼と言われる[1]

安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変において直弼が殺害された後、弾圧は収束する。

文久2年(1862年)5月、勅命を受け慶喜が将軍後見職に、春嶽が政事総裁職に就任する。慶喜と春嶽は直弼が行なった大獄はなはだ専断であったとして、

  1. 井伊家に対し10万石削減の追罰[注釈 1][注釈 2]
  2. 弾圧の取調べをした者の処罰[注釈 3]
  3. 大獄で幽閉されていた者の釈放
  4. 桜田門外の変・坂下門外の変における尊攘運動の遭難者を和宮降嫁の祝賀として大赦

を行なった。

幕閣では一橋派が復活し、文久の改革が行なわれ、将軍家茂と皇女・和宮の婚儀が成立して公武合体路線が進められた。

安政の大獄は、幕府の規範意識の低下や人材の欠如を招き諸藩の幕府への信頼を大きく低下させることとなり、反幕派による尊攘活動を激化させ、江戸幕府滅亡の遠因になったとも言われている。

受刑者

死刑・獄死

隠居・謹慎

隠居・差控

御役御免・差控

永蟄居

譴責

甲府勝手

甲府勤番への左遷

遠島

重追放

中追放

所払

永押込

国許永押込

押込

  • 津崎矩子………近衛家家臣(9月28日に免除)
  • 飯田忠彦………有栖川宮家臣
  • 豊島泰盛………有栖川宮家臣
  • 高橋俊璹…………鷹司家家臣
  • 山田時章………青蓮院宮家臣
  • 富田織部………三条家家臣
  • 大沼又三郎……下田奉行手付出役
  • 飯泉春堂………飯泉喜内の養子
  • 大竹儀兵衛……水戸藩士
  • 岩本常助………幕臣
  • 藤田忠蔵………幕臣
  • 筧承三…………岡部豊常家臣
  • 勝野保三郎……勝野正道の弟
  • 勝野ちか………勝野正道の妻
  • 勝野ゆう………勝野正道の娘
  • 三木源八………水戸藩士
  • 荻信之介………水戸藩士
  • 菊池為三郎……水戸藩士

急度叱り置き

  • 山本とよ………山本貞一郎の妻
  • 山本さい………山本貞一郎の娘
  • 山本うめ………の娘

手鎖

  • 伊十郎…………江戸小網町名主
  • 源助……………江戸神田町の町人
  • 源左衛門………信濃国松本町の町人

その他

  • 若松永福………三条家家臣、洛中洛外江戸構い(追放)
  • 世古恪太郎……伊勢松坂の酒造屋であり、紀州徳川家の御用達を務めた豪商の息子。江戸構い(追放)、紀伊殿領分所払い
  • 楢崎将作………医師。長女の楢崎龍坂本龍馬の妻。

捕縛前に死去

朝廷への処分


脚注

注釈

  1. 徳川四天王を祖に持ち、家康時代以来の家として、譜代大名筆頭を自他共に認めていた井伊家の減封は、聖域に手を入れるに等しい大処断である。直弼のもとで、安政の大獄で活躍した彦根藩士の長野主膳宇津木景福は藩主井伊直憲の命令で処刑された。
  2. 譜代筆頭の井伊家と親藩筆頭越前松平家福井藩)の間には、江戸時代を通して家格や席次を巡る因縁があり、また両者は領地替えを画策された因縁があった。
  3. 当時の五手掛など。文久2年(1862年)度中期から後半に一斉に処分されている。大獄の当時の老中の間部詮勝は隠居謹慎と1万石減封寺社奉行松平宗秀京都所司代職を朝廷の圧力により罷免および溜詰格に昇進していた家格の剥奪。江戸北町奉行石谷穆清は公職罷免および隠居謹慎。勘定奉行池田頼方寄合肝煎だったが、桜田門外の変に際して大老直弼の死を隠蔽した罪により肝煎を罷免され寄合になった。大目付久貝正典は2000石減封の上、免職隠居となった。京都町奉行小笠原長常は文久2年(1862年)時点では江戸北町奉行と政事改革御用掛を兼任する重用ぶりであったが、書院番頭に左遷された上で免職および隠居処分となった。

出典

  1. 松平春嶽「逸事史補」松平春嶽全集編集刊行会『松平春嶽全集(1)』原書房、昭和48年(1973年)