小川浩一

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小川 浩一(おがわ こういち、1965年5月10日 - )は、佐賀県佐賀市東与賀町[1]出身の元プロ野球選手内野手)。

1995年から1999年までの登録名小川 皓市(読みは同じ)。

来歴・人物

佐賀学園高時代は、1981年に1年生ながら6番打者として夏の甲子園に出場[1]。高校卒業後、社会人野球日本鋼管福山を経て、1987年プロ野球ドラフト会議日本ハムファイターズから2位指名を受け入団[1]

広角打法のシュアなバッティングで、主に右投手先発の時に二塁手三塁手としてスタメン出場し、左の代打の切り札としても活躍した。内野全ポジションおよび外野を経験したユーティリティープレイヤーではあったが守備はあまり得意ではなく、小川に代わってよく守備固めをしていたのが、後にキャプテンとなる遊撃手広瀬哲朗である。

打撃フォームは独特で、テニスのドライブショットのようなテイクバックをしていた。

1990年のオープン戦でルーキーの野茂英雄から本塁打を打ち、「野茂? たいしたことないね」という発言がマスコミにとりあげられたが、本人はその発言を否定している。

1990年5月9日の対西武ライオンズ戦(東京ドーム)で、西武先発の渡辺久信が9回まで日本ハム打線をノーヒットに抑えていたが、味方も点を取れず0対0のまま延長に突入。延長11回1アウトから、渡辺のノーヒットノーランの夢を打ち砕くヒットを放った。なお、村田兆治の200勝達成時の最後の打者でもある。1998年オフに戦力外通告を受け[2]1999年福岡ダイエーホークスにテスト入団するが、一軍出場は無く、同年限りで現役引退[1]

その後、社会人野球・クラブチーム佐賀魂」のコーチを務めていたが、退団した[3]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1988 日本ハム 99 348 302 34 76 13 1 3 100 24 3 3 15 0 30 2 1 51 8 .252 .321 .331 .652
1989 91 233 209 24 64 14 1 2 86 21 8 3 1 0 20 2 3 32 3 .306 .375 .411 .786
1990 104 380 334 43 97 18 0 4 127 34 8 5 1 2 40 2 3 63 5 .290 .369 .380 .750
1991 98 302 263 28 64 8 0 7 93 20 9 4 3 2 32 0 2 52 12 .243 .328 .354 .681
1992 50 129 111 16 28 7 0 0 35 13 3 0 3 2 12 0 1 22 3 .252 .325 .315 .641
1993 85 185 163 17 33 5 1 3 49 19 3 2 0 2 19 0 1 48 6 .202 .286 .301 .587
1994 55 136 121 17 32 3 2 3 48 7 1 1 0 0 13 0 2 22 5 .264 .346 .397 .743
1995 62 126 107 7 16 5 1 0 23 9 4 0 2 0 16 1 1 28 3 .150 .266 .215 .481
1996 56 84 73 9 15 1 0 2 22 9 2 0 2 1 7 0 1 17 2 .205 .280 .301 .582
1997 31 46 41 3 9 0 0 0 9 5 0 1 0 1 4 0 0 11 0 .220 .283 .220 .502
1998 41 45 37 5 5 0 0 1 8 6 0 0 1 1 6 0 0 9 3 .135 .250 .216 .466
通算:11年 772 2014 1761 203 439 74 6 25 600 167 41 19 28 11 199 7 15 355 50 .249 .329 .340 .669

記録

背番号

  • 25 (1988年 - 1998年)
  • 53 (1999年)

登録名

  • 小川 浩一 (おがわ こういち、1988年 - 1994年)
  • 小川 皓市 (おがわ こういち、1995年 - 1999年)

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、122ページ
  2. 同年西武から移籍して来た奈良原浩、当時若手だった小笠原道大の台頭に伴う。
  3. 佐賀魂 選手・スタッフリスト”. . 2014閲覧.

関連項目

テンプレート:日本ハムファイターズ1987年ドラフト指名選手