小野道風

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小野 道風(おの の みちかぜ/とうふう[1])は、平安時代中期の貴族能書家参議小野篁で、大宰大弐小野葛絃の三男。

それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれる。

経歴

尾張国上条(現在の愛知県春日井市松河戸)の出身とする説がある[2]。史実としては確認できない、あくまで伝承の類であるが、18世紀(江戸時代)には既にこの説が広まっていた。

道風は中務省に属する少内記という役職にあり、宮中で用いる屏風に文字を書いたり、公文書の清書をしたりするのがその職務であった。能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷貴族の間では「王羲之の再生」ともてはやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っている[3]。没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。

一方で気性が激しく、「空海筆のを批判した」[4]などという不評も同時に伝わっており、晩年はたいへん健康を壊し、随分苦しんだという[5]

官歴

※ 日付=旧暦

系譜

  • 父:小野葛絃
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
    • 男子:小野奉時
    • 男子:小野長範
    • 男子:小野奉忠
    • 男子:小野奉明
    • 男子:小野公時

主な作品

道風の作品は、雄渾豊麗、温雅で優れ、草書は爽快で絶妙を極め、その筆跡を「野跡」という。醍醐天皇は深くその書を愛好され、醍醐寺の榜や行草法帖各一巻を書かせた。

真跡

ファイル:Gyokusen jo ONO MICHIKAZE.JPG
玉泉帖』(巻頭部分、三の丸尚蔵館蔵)
白氏文集を楷行草の各書体で揮毫したもので、八紙を一巻として、巻第五十三の詩六首分が現存する。ちょうど二首分ずつ、楷・行・草の順に調巻されるが、禄禄二年(1529年)の伏見宮貞敦親王の識語によれば、当時すでに、楷書二首、行書二首、草書二首という現在の形であったことが分かる。
  • 智証大師諡号勅書(ちしょうだいししごうちょくしょ) - (国宝)東京国立博物館
寛平3年(891年)、少僧都法眼和尚位で寂した延暦寺第5世座主円珍が、36年後の延長5年(927年)、法印大和尚位を賜り、「智証大師」と諡されたときの勅書である。文は式部大輔藤原博文の撰、道風34歳の書で、藍の檀紙に行草を交えて太い弾力性のある文字である。
  • 屏風土代(びょうぶどだい) - 三の丸尚蔵館蔵
土代とは「下書き」の意で、内裏に飾る屏風に揮毫する漢詩の下書きである。
延長6年(928年)11月、道風が勅命を奉じて宮中の屏風に書いたときの下書きで、大江朝綱が作った律詩八首と絶句三首が書かれている。署名はないがその奥書きに、平安時代末期の能書家で鑑識に長じていた藤原定信が、道風35歳の書であることを考証しているので、真跡として確実である。巻子本の行書の詩巻で、料紙は楮紙である。処々に細字を傍書しているのは、その字体を工夫して様々に改めたことを示している。書風は豊麗で温和荘重、筆力が漲り悠揚としている。
  • 玉泉帖(ぎょくせんじょう) - 三の丸尚蔵館蔵
白氏文集の詩を道風が興に乗じて書いた巻子本で、巻首が「玉泉南澗花奇怪」の句で始まるのでこの名がある。楷行草を取り混ぜ、文字も大小肥痩で変化に富む。
  • 絹地切 - 東京国立博物館ほか分蔵

伝承筆者

古来、道風を伝承筆者とするが、疑問視されているもの

  • 継色紙(つぎしきし) - 東京国立博物館蔵
寸松庵色紙(伝紀貫之筆)、升色紙(伝藤原行成筆)とともに三色紙といわれ、仮名古筆中でも最高のものといわれる。色紙型の料紙二葉を継ぎ合わせたものに、古歌一首を散らし書きしたのでこの名がある。紫、藍、赭(赤色)、緑などに染めた鳥の子紙に、白もまじえた粘葉本の断簡(だんかん、切れ切れになった文書)である。
  • 秋萩帖 - (国宝)東京国立博物館蔵
「安幾破起乃(あきはぎの)…」の書き出しによりこの名がある。草仮名随一の名品であり、平仮名へ変遷する過渡期のものとして大変貴重である。10世紀末頃の作とされている。
  • 本阿弥切
  • 愛知切
  • 綾地切
  • 小嶋切
  • 大内切
  • 八幡切

その他

  • 集古浪華帖 (道風の消息を集めて、木版で模刻刊行したもの)

逸話

道風が、自分の才能を悩んで、書道をあきらめかけていた時のことである。あるの日のこと、道風が散歩に出かけると、が飛びつこうと、繰りかえし飛びはねている姿を見た。道風は「柳は離れたところにある。蛙は柳に飛びつけるわけがない」と思っていた。すると、たまたま吹いたが柳をしならせ、蛙はうまく飛び移った。道風は「自分はこの蛙の努力をしていない」と目を覚まして、書道をやり直すきっかけを得たという。ただし、この逸話は史実かどうか不明で、広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃小野道風青柳硯』(おののとうふうあおやぎすずり : 宝暦4年〈1754年〉初演)からと見られる[7]。その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられ、多くの人に広まった。戦後の道徳の教科書にも採用されている。

この逸話は多くの絵画の題材とされ、花札の札の一つである「柳に小野道風」の絵柄もこの逸話を題材としている[8]。また現在では東名高速道路上での春日井市カントリーサインの絵柄にこの絵が採用されている。

脚注

  1. 名前の読みは「みちかぜ」だが、現代では「とうふう」と有職読みすることが多い。
  2. 『麟麟抄』巻6
  3. 『源氏物語』「絵合」の巻
  4. 古今著聞集』によると「美福門は田広し、朱雀門は米雀門、大極殿は火極殿」と非難したという。
  5. 道風は65歳ぐらいの頃からが悪くなり、67歳ぐらいの頃には言語までが不自由になったという。その頃からの道風の文字はのびのびした線ではなくなり、後世ではこれを「道風のふるい筆」といっている。
  6. 山本[2013:38]
  7. 寛延3年(1750年)9月の跋がある随筆『梅園叢書』(三浦梅園著)にこの話が記されているが、『梅園叢書』が刊行されたのは安政2年(1855年)のことである。
  8. 花札の絵柄に小野道風が採用されたのは明治時代からと見られる。

参考文献

関連項目

外部リンク