山下奉文

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山下 奉文(やました ともゆき、1885年明治18年)11月8日 - 1946年昭和21年)2月23日)は、日本陸軍軍人。最終階級陸軍大将位階勲等従三位勲一等功三級高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身。

経歴

1885年(明治18年)11月8日開業医である父・佐吉、母・由宇の次男として高知県に生まれる(兄・奉表海軍軍医となり最終階級は海軍軍医少将)。

海南中学校広島陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校(第18期、兵科歩兵)卒業。見習士官を経て1906年(明治39年)6月26日に陸軍歩兵少尉に任官(広島歩兵第11連隊附)。1916年(大正5年)11月25日には陸軍大学校を優等の成績で卒業(第28期、御賜の軍刀組)。

参謀本部部員、陸軍省軍務局課員を務めるとともに、スイスドイツオーストリアにも駐在。帰国後は歩兵第3連隊長、陸軍省軍事課長を歴任し、1934年(昭和9年)8月1日に陸軍少将へ昇進、翌1935年(昭和10年)には陸軍省軍事調査部長となる

妻は永山元彦陸軍少将騎兵第2旅団長)の長女・久子。永山少将が佐賀県の出身で、宇都宮太郎真崎甚三郎荒木貞夫へとつながる、いわゆる「佐賀の左肩党」の系譜に属したため、女婿である山下も皇道派として目されるようになった。1936年(昭和11年)2月に発生した二・二六事件では、皇道派の幹部として決起部隊に理解を示すような行動をとった[注釈 1]。山下は決起部隊の一部の将校が所属していた歩兵第3連隊長を以前務めていて彼らと面識があり、同調者ではないかと周囲からは見られていた。このため、山下宅の電話は事件前から逓信省と陸軍省軍務局(事件後は戒厳司令部)によって傍受盗聴を受けている。

決起部隊が反乱軍と認定されることが不可避となった折に、山下の説得で青年将校は自決を覚悟した。このとき山下は陸軍大臣侍従武官長を通じて、彼らの自決に立ち会う侍従武官の差遣を昭和天皇に願い出たが、これは昭和天皇の不興を買うことになった。この件に関して『昭和天皇独白録』には「本庄武官長が山下奉文の案を持ってきた。それによると、反乱軍の首領3人が自決するから検視の者を遣わされたいというのである。しかし、検視の使者を遣わすという事は、その行為に筋の通ったところがあり、これを礼遇する意味も含まれていると思う。赤穂義士の自決の場合に検視の使者を立てるという事は判ったやり方だが、背いた者に検視を出す事はできないから、この案を採り上げないで、討伐命令を出したのである」とある。また『木戸幸一日記』にも「自殺するなら勝手になすべく、このごときものに勅使なぞ、以ってのほかなり」とあり、青年将校を擁護する山下に対し、天皇や元老の評価は極めて低かった。事件収拾後、山下は軍から身を引く覚悟も固めたが、川島義之陸軍大臣が慰留につとめ、朝鮮・竜山の歩兵第40旅団長への転任という形で軍に残った。しかし、事件の影響で陸軍の主流派コースからはずれ、陸軍省や参謀本部・大本営のエリートポストにつくことはなかった。このように二・二六事件は山下の人生に最後まで大きなマイナスをもたらすことになった。

日中戦争支那事変)勃発間もない、支那駐屯混成旅団長時代の1937年(昭和12年)11月1日には陸軍中将へ昇進。1939年(昭和14年)9月23日、大阪第4師団長

1940年(昭和15年)7月22日には、陸軍航空部隊の要職である航空総監航空本部長に就任。また、1941年(昭和16年)1月8日から4ヶ月間、同盟国ドイツへの視察団(陸軍遣独視察団)の団長として訪独。ドイツの先進兵器を調査し情報を収集するとともに(超短波警戒機乙)、アドルフ・ヒトラー総統との面談や、戦車戦戦術の専門家であったハインツ・グデーリアン上級大将との懇談を果たしている。

マレーの虎

ファイル:Tomoyuki yamashita malaya.png
マレー作戦における山下(中央)
ファイル:Yamashita e Suzuki.jpg
シンガポールにおける山下(左より2人目)

太平洋戦争大東亜戦争)開戦を控えた1941年11月6日には第25軍司令官を拝命しマレー作戦(E作戦)を指揮。マレー作戦は日本軍による一連の南方作戦の第一発目であり、(海軍によるアメリカハワイへの真珠湾攻撃に先立つこと約1時間20分前である)1941年12月8日午前1時30分(日本時間)、隷下の第18師団イギリスコタバルへの上陸作戦を開始しているため、いわゆる太平洋戦争はこのマレー作戦によって開始されたものである。

第25軍は各地でイギリス軍撃破し快進撃を続けマレー半島(イギリス領マラヤ)を制圧。続くシンガポールの戦いの終結時に敵将イギリス軍司令官のアーサー・パーシバル陸軍中将に対して「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話は一躍有名になったが、実際にはより落ち着いた紳士的な文言・口調の会話だったという(後述)。この巷に伝わる交渉時の山下の「イエスかノーか」の場面を表した蝋人形が、セントサ島にあるシンガポールの歴史に関する展示をしているImages of Singaporeの蝋人形館や、現在は博物館となっているシロソ砦に展示されている。

統治に際しては「バナナ・ノート」と呼ばれる軍票を発行したり、宝くじを発売するなどして財源確保に努めている。一方で、第25軍作戦主任参謀辻政信陸軍中佐が強硬に主張した華僑粛清を承認するなどといった汚点も残した。、山下の責任を否定する見解も存在する。山下の辻に対する印象は否定的であり、「我意ばかり強く、国家の重大事を任せることのできない小人、こすい(ずるい)奴」だと辻のことを評していた[1]辻は陸軍士官学校事件で容疑者の皇道派グループをスパイし摘発を求めるなど、統制派としての動きが顕著な人物でもあり、皇道派の山下との相性はそもそも悪かったと思われる。

日本の新聞はその勇猛果敢なさまを「マレーの虎」と評し(「マライのハリマオ」は別人(谷豊)の異名)、マレー・シンガポールの早期攻略により山下は国民的な英雄となったが昭和天皇は山下に拝謁の機会を与えなかった。これは二・二六事件の時の山下の行動を天皇が苦々しく思っていたためだとも、皇道派の山下に対する統制派の東條英機首相兼陸相が軍状奏上の機会を与えなかったためだともいわれている。ここに至っても二・二六事件は山下の人生に暗い影を投げかけていた。

フィリピン防衛戦

山下はシンガポール攻略という大きな戦績をあげたが、その後は満州第1方面軍司令官となりしばらく大きな作戦を任されることはなかった。1943年(昭和18年)2月10日、任陸軍大将

しかし大戦末期である1944年(昭和19年)9月26日、フィリピン防衛のため再編成された第14方面軍司令官として起用され、フィリピンの戦い (1944-1945年)を指揮することとなった。なお参謀長には山下の希望により近衛第2師団長であった武藤章陸軍中将が任ぜられている。

第14方面軍はダグラス・マッカーサーらの指揮するアメリカ軍に対して善戦するが、台湾沖航空戦での誤った戦果報告に基づいて立案されたレイテ決戦を大本営から強いられ、本来予定していたルソン島での決戦を行うことはできなかった。飛来する敵航空機がまったく減らないことから、山下は台湾沖航空戦の戦果発表を誤報と考え、このレイテ決戦に反対していた。このとき山下の部下には、敵の意図や行動を正確に予測することから「マッカーサーの参謀」というあだ名をつけられていた名参謀堀栄三陸軍中佐がおり、あらゆる困難を排して状況把握に成功していた。捕らえられたアメリカ軍パイロットの尋問からもそれは裏付けられたが、南方軍総司令官寺内寿一元帥陸軍大将は命令を変えなかった。このためレイテ決戦に多くの兵力が投入されたが、制海権制空権を敵に握られていたため輸送船の大半が撃沈された。

続くルソン島の戦いでは、ルバング島小野田寛郎少尉からの「敵艦見ゆ、針路北」との報告で、マニラ湾からリンガエン湾への迅速な陣地転換に成功するが、徐々に兵力差で圧倒され、最終的には山岳地帯へ退いての持久戦に追い込まれている。山下は民間人が多く残る首都マニラオープン・シティとするつもりであり、実際に第14方面軍部隊の大半をバギオ方面の山中へ撤退させているが、マニラ死守に固執する海軍や大本営の反対を受け、無防備都市宣言は頓挫。マニラ海軍防衛隊を中心にマニラの戦いが行われ民間人約10万人が死亡している。

敗戦後の1945年(昭和20年)9月3日、山下は第14方面軍司令官としてバギオにて降伏した。この持久戦の中の食糧難は第14方面軍司令部も例外ではなく、降伏時、巨漢で有名だった山下はすっかりやせ細ってしまっていた。

軍事裁判

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マニラにおいて、降伏後にアメリカ軍憲兵とともに撮影

降伏時は捕虜として扱われたが、すぐに戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられる。

1945年(昭和20年)10月29日審理開始。法廷ではシンガポール華僑虐殺事件マニラ大虐殺等の責任を問われ、12月7日に死刑判決を受けた。死刑判決後、アメリカ陸軍の法務将校からなる山下の弁護団は、判決を不服としてフィリピン最高裁、アメリカ連邦最高裁判所に死刑執行の差止めと人身保護令の発出を求める請願を出した。しかし米最高裁は6対2の投票で請願を却下し、山下はロスバニョス刑務所で絞首刑に処せられた。刑の執行は軍服の着用も許されず、囚人服のままで行われている(当時、ほとんどの将校の死刑が囚人服で絞首刑という軍人の名誉を重んじない死刑方法であった。ただし、同じくマニラ軍事裁判で死刑判決が下された本間雅晴陸軍中将の場合は軍服の着用が認められ、名誉を重んじての銃殺刑であった)。遺体は刑場付近に埋められ、現在も所在は不明である。

1959年(昭和34年)、処刑された他のBC級戦犯とともに靖国神社に合祀された。

1970年(昭和45年)には処刑場跡地に辞世を刻んだ慰霊碑が建立された。その後劣化が進んだが、現在はチャンネル桜などにより修復されている。

山下のものとされる軍刀高知縣護國神社に伝わっている。ただ、本当に山下の物なのかどうかは不明な点もあり、神社は情報提供を求めている[2]

逸話

「イエスかノーか」の趣旨

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降伏交渉を撮影した映像の一場面

前述のように、太平洋戦争緒戦のシンガポール攻略時に「イエスかノーか」と強圧的に降伏交渉を行ったと言われるが、実際は「降伏する意思があるかどうかをまず伝えて欲しい」という趣旨を、菱刈隆文の通訳が分からないことに苛立って放った言葉であり、これが新聞等で脚色されたと山下は日記で書いていた[3]。話が一人歩きしていることに対し山下本人は気にしていたようで、「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」と否定したという。また、情報参謀として同席し、菱刈隆文に代わって通訳を行った杉田一次も含めて全員この出来事を否定している。

この時の交渉を撮影した映像は、山下の迫力に満ちた表情と、パーシバルがしきりに目を瞬かせるのが印象的である。これは交渉を行った部屋が暗かったため、撮影フィルムの回転速度を落とした結果、通常再生でも早回しのようになったためである。

巨杉

故郷・大豊町には杉の大スギという「日本一の大杉」があり、山下はこのにちなんで雅号を「巨杉」とした。実際の山下も雅号に負けない堂々とした体格の持ち主であった。戦後、この大杉がある八坂神社の宮司が、山下を祀る「巨杉神社」を建立した。一時荒廃していたが、現在は「巨杉の杜」と改称して現在に至る。なお、この杉は美空ひばりにも縁がある。

山下大将の遺言

山下奉文は、処刑前に教誨師の森田正覚に日本人へ向けた遺言を残した。彼が最後に伝えたかったことは、戦時中の彼の行いに対する自責の念と自由を尊び平和を追求する新しい日本に対する理想であった。(遺言の全文は『山下奉文の追憶:三十年祭に際して』(山下九三夫 1976.2)に掲載されており、奈良県立図書情報館などで閲覧できる。なお、文字の欠落等があるが、ほぼ全文のリンクはこちら: [1] [2]、英語:[3]

彼は、「新日本建設には、私達のような過去の遺物に過ぎない職業軍人或は阿諛追随せる無節操なる政治家、侵略戦争に合理的基礎を与えんとした御用学者等を断じて参加させてはなりません。」と言明し、日本再建の方向性について、「丁独戦争によって豊沃なるスレスリッヒ、ホルスタイン両州を奪はれたデンマークが再び武を用いる事を断念し不毛の国土を世界に冠たる欧州随一の文化国家に作り上げたように建設されるであろう事を信じて疑いません。」と述べた上で、第二次世界大戦の廃墟の中から日本が立ち直っていくときの4つの要素を示した。

  • 1つ目は、日本人が倫理的判断に基づいた個人の義務履行。
    この倫理観の欠如が、日本が世界からの信用を失ってしまった根本的な原因だと主張した。さらに日本人が間もなく得る自由が、この義務の観念を気づかせるのを難しくさせてしまうかもしれないと予測した。
    「自由なる社会に於きましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成して頂きたいのであります。此の倫理性の欠除という事が信を世界に失ひ醜を萬世に残すに至った戦犯容疑者を多数出だすに至った根本的原因であると思うのであります。
    此の人類共通の道義的判断力を養成し、自己の責任に於て義務を履行すると云う国民になって頂き度いのであります。
    諸君は、今他の地に依存することなく自らの道を切り開いて行かなければならない運命を背負はされているのであります。何人と雖も此の責任を回避し自ら一人安易な方法を選ぶ事は許されないのであります。こゝに於いてこそ世界永遠の平和が可能になるのであります。」
  • 2つ目は、科学教育の振興。
    彼は優れた科学が優れた兵器を生み出すことを認めながらも、核戦争の不安材料を恐れ、破壊よりも科学の平和的発展を主張した。
    「敗戦の将の胸をぞくぞくと打つ悲しい思い出は我に優れた科学的教養と科学兵器が十分にあったならば、たとへ破れたりとはいへ斯くも多数の将兵を殺さずに平和の光輝く祖国へ再建の礎石として送還することが出来たであらうといふ事であります。私がこの期に臨んで申し上げる科学とは人類を破壊に導く為の科学ではなく未利用資源の開発或は生存を豊富にすることが平和的な意味に於て人類をあらゆる不幸と困窮から解放するための手段としての科学であります。」
  • 3つ目は、女子の教育。
    日本人の女性は、新しい自由と地位を尊び、世界の女性と共に平和の代弁者として団結しなければならないということ。「従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人のそれと何等変る所のものではありませんでした。この虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました。そこには何等行動の自由或は自律性を持ったものではありませんでした。皆さんは旧殻を速かに脱し、より高い教養を身に付け従来の婦徳の一部を内に含んで、然も自ら行動し得る新しい日本婦人となって頂き度いと思うのであります。平和の原動力は婦人の心の中にあります。皆さん、皆さんが新に獲得されました自由を有効適切に発揮して下さい。自由は誰からも犯され奪はれるものではありません。皆さんがそれを捨てようとする時にのみ消滅するのであります。皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮して下さい。もしそうでないならば与えられたすべての特権は無意味なものと化するに違いありません。」
  • 4つ目は、次代の人間教育への母としての責任。
    「私のいう教育は幼稚園或は小学校入学時をもって始まるのではありません。可愛い赤ちゃんに新しい生命を与える哺乳開始の時を以て始められなければならないのであります。愛児をしっかりと抱きしめ乳房を哺ませた時何者も味う事の出来ない感情は母親のみの味いうる特権であります。愛児の生命の泉としてこの母親はすべての愛情を惜しみなく与えなければなりません。単なる乳房は他の女でも与えられようし又動物でも与えられようし代用品を以ってしても代えられます。然し、母の愛に代わるものは無いのであります。
    母は子供の生命を保持することを考へるだけでは十分ではないのであります。
    子供が大人となった時自己の生命を保持しあらゆる環境に耐え忍び、平和を好み、協調を愛し人類に寄与する強い意志を持った人間に育成しなければならないのであります。
    ………これが皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります。」

辞世の句

待てしばし勲のこしてゆきし友 あとなしたいて我もゆきなむ

尚、妻に宛てた辞世は 「満ちて欠け晴れと曇りにかわれどもとわに冴え澄む大空の月」 と伝えられる。

山下財宝

フィリピンで終戦時に作戦行動のための資金を密かに埋めたという伝説(山下財宝)があり、たびたび探索話が出て、M資金のような詐欺事件の舞台になっている。

年譜

栄典

登場する作品

脚注

注釈

  1. 二・二六事件の一報の電話を受け取った山下の義妹は、山下がそれを見て「何!……やったかッ」と大声で叫び、そのあとは沈黙したとNHK特集「戒厳指令『交信ヲ傍受セヨ』二・二六事件秘録」(1979年2月26日放映)の中で証言した。彼女によると山下は「陛下の軍隊を使うなんて、自分たちの目的のために使うなんてもってのほかだ」といかにも悔しそうであったともいう(出典:中田整一『盗聴 二・二六事件』(文藝春秋社、2007年)P222)。

出典

  1. 『蒋介石の密使 辻政信』渡辺望 祥伝社新書
  2. 最上和喜 (2014年5月30日). “山下奉文将軍:軍刀を出身地の高知で初公開”. 毎日新聞. http://mainichi.jp/select/news/20140530k0000m040010000c.html . 2014-6-1閲覧. 
  3. 田々宮英太郎『参謀辻政信・伝奇』芙蓉書房、1986年、134-135頁
  4. 『官報』1942年09月16日 敍任及辭令

関連項目

外部リンク