広沢真臣

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広沢 真臣(ひろさわ さねおみ、天保4年12月29日(1834年2月7日) - 明治4年1月9日(1871年2月27日))は、日本の武士長州藩士)、政治家。初名は直温。障岳、向山とした。維新の十傑の1人。賞典禄大久保利通木戸孝允と同等の1,800石で、長州藩の旗手であった。

来歴

長州藩士柏村安利の四男として誕生する(幼名は季之進)。弘化元年(1844年)12月、同藩士・波多野直忠の婿養子となって波多野金吾と称した。

藩校・明倫館に学び、嘉永6年(1853年)の黒船来航時には大森台場警衛のために出張。安政6年(1859年)には藩の軍政改革に参画するなど、尊攘派として活躍した。以後、藩世子毛利定広と共に入洛し、桂小五郎久坂義助の下、京都詰の事務方として尽力した。

元治元年(1864年)、長州藩は禁門の変下関戦争第一次征長と厄続きであったため、藩内の政権闘争で主戦派(主に正義派)が恭順派(主に俗論派)に敗れた結果、波多野も投獄されたものの、正義派でなかったために処刑を免れた。慶応元年(1865年)、高杉晋作伊藤春輔山縣狂介ら正義派がクーデターによって藩の実権を掌握すると、中間派であった波多野が政務役として藩政に参加することとなった。同年4月4日、藩命によって広沢藤右衛門と改名し、更に翌月の5月6日には広沢兵助と改名した。

慶応2年(1866年)8月末の第二次征長の講和交渉では、幕府側の勝海舟安芸厳島にて交渉し、また、坂本龍馬薩摩藩五代才助と会談して「商社示談箇条書」を作成するなど、木戸の代理人かつ同僚として奔走し、慶応3年(1867年)10月には大久保利通らと共に討幕の密勅の降下にも尽力するなど倒幕活動を推進した。

維新政府の発足後は、参与海陸軍務掛東征大総督府参謀を務め、その後、内国事務掛京都府御用掛、参議を歴任。戊辰戦争では、米沢藩宮島誠一郎と会談して会津藩「帰正」の周旋を建白させるなど、木戸と同様に寛典論者であった。明治2年(1869年)、復古功臣として木戸や大久保と同じ永世禄1,800石を賜り、民部大輔や参議の要職を務めた。

明治4年(1871年1月9日東京府麹町富士見町私邸での宴会後の深夜、刺客の襲撃によって暗殺された。享年39。死後、正三位を贈位される。

明治12年(1879年)には維新の功を賞し、先に没した木戸・大久保の遺族とともに、広沢家は華族に列せられた。因みに、当時の華族は旧藩主と公家に限定されており、華族令制定以前にこの3例を除いて士族から華族に昇ることはなかった。明治17年(1884年)、嫡子金次郎伯爵が授けられた。

『広沢真臣日記』は、木戸や大久保の日記と並んで幕末維新史の一級資料として評価が高い。

暗殺事件

医師の検視によれば、傷は13ヶ所で咽喉には3ヶ所の突き傷があった。犯行後、同室にいた妾は捕縛されていたものの軽傷を負っただけで、現場の状況など不自然な点が多々見られた。横井小楠大村益次郎に続く維新政府要人の暗殺であり、広沢を厚く信頼していた明治天皇は「賊ヲ必獲ニ期セヨ」という犯人逮捕を督促する異例の詔勅が発せられた。

広沢家の家令に対する苛烈な捜査の結果、両者の密通や広沢家の私金流用の事実も判明した。明治8年(1875年)には陪審員列席による裁判が行われたものの、結局、両者は無罪となり釈放された。

多くの者がこの暗殺事件を迷宮入りと観念する中、木戸孝允だけは捜査を督促し続けた。捜査に関しては、小河一敏雲井龍雄、その残党など、80数名が暗殺の容疑者として取り調べられたものの、下手人の特定にさえ至らず、真相は今日に至るまで不明である。

未解決事件であるため、暗殺の下手人・黒幕に関しては諸説あり、維新政府を快く思わない旧幕府側の不平士族や旧幕府軍の残党によるものとする説が一般的である。

同じ長州出身の高官である木戸と広沢の折り合いが悪かったとして、当時から木戸やそれを支援する大久保などが暗殺の黒幕であるとする説があった[1]。しかし、当時政府の枢要士族(木戸孝允大久保利通西郷隆盛板垣退助山縣有朋たち)は、廃藩置県の準備として御親兵を東京に集めるため、また自藩の藩政改革を更に推し進めるため、参議広沢真臣らに留守の東京を託して自藩や京、大坂などにしばしば赴くという状態であり、必ずしも広沢と木戸ら政府高官との折り合いが悪かったとはいえず、広沢の殺害を企てたとは考えにくい(なおこの2年前に襲撃されて死亡した同じく長州藩出身の大村益次郎の遭難の場合は薩摩や長州の不平分子が関与していた)。

また、この事件の捜査の過程で新政府に不満の外交方針の転換に反発した過激な攘夷派が同じ考えを持つ公家や久留米藩を担ぎ出してクーデターを計画した二卿事件も発覚している。

評価

  • 松平春嶽 「頗る人物なれども、大久保、木戸の比にあらず。しかしながら、地方のことには大いに注意、大功労ある人なり」[2]
  • 西郷隆盛 「廣澤は温厚篤実の君子なり。他人の為、怨みを買うが如きなし。恐らく誤殺ならん」[3]

一族

  • 長男:金次郎(妻は子爵山尾庸三の娘)
  • 兄:柏村数馬(別名・信。山口藩権大参事[4]。藩主毛利敬親の世子元徳の側近であったことから広沢が世に出るきっかけを作った[5]
  • 甥:柏村庸之允(別名・庸。数馬の子。広沢の尽力により兵部省陸軍兵学寮派遣留学生に選抜され明治3年から5年間フランス・ベルギーで学び、帰国後陸軍学校教官を経て在独日本公使館附少佐として渡独、現地女性と結婚し軍を辞す[6]。明治21年設立の「有限会社品川硝子会社」初代社長を務めたのち、晩年はベルリンで妻と宿屋を営む[7][6]

栄典

参考文献

  1. 徳富蘇峰 『近世日本国民史 西南の役(一)』 講談社学術文庫、1980年、61p。
  2. 『逸事史補』
  3. 『維新百傑』
  4. 広沢真臣旧宅跡山口市文化政策課
  5. 広沢真臣 ひろさわさねおみコトバンク
  6. 6.0 6.1 『国際結婚第一号』小山騰、講談社 (1995/12), p192-196
  7. 日本のガラス/明治時代一般社団法人東部硝子工業会
  8. 『官報』第2568号「叙任及辞令」1921年2月25日。
  • 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』(神一行 著、角川文庫、2002年、76-90頁)

関連作品

関連項目

外部リンク