庄川

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庄川(しょうがわ)は、岐阜県北部および富山県西部を流れる、庄川水系の一級河川である。

流域には、合掌造りで知られる白川郷五箇山などがある。古称は雄神川(おがみがわ)で、これは、谷口(谷の入口の意)付近にある雄神神社に因むものとされている。流域の地域を「雄神の庄」と呼んでいたことから、河川そのものが「雄神の庄の川」と呼ばれ、庄川という名前になった。

地理

庄川は、岐阜県高山市南西部の山中峠(1,375m)の湿原を水源としている。ただ、庄川水系の幹川は高山市荘川町一色で合流する一色川で、飛騨高地にある烏帽子岳(1,625m)が水源である〔国土交通省『庄川水系基本整備計画』(平成19年7月制定)より〕。厳密にいえば、鷲ヶ岳(1,671m)と烏帽子岳の間の谷が水源である。一色川と合流した庄川は、高山市荘川町牧戸で御手洗川と合流し、御母衣湖から白川村を経て北上し富山県に入る。庄川峡を経て、砺波市庄川地区で平野部に出て北流し、砺波平野射水平野を潤し、射水市新湊地区の市街地の西側で富山湾に注ぐ。上流部は電源開発が進み、御母衣ダムを始めとしてダムが多い。

なお、庄川支流の御手洗川の水源は岐阜県郡上市高鷲町ひるがののひるがの高原の湿原で、この湿原が中央分水嶺になっており、分かれているもう一方は長良川となって太平洋まで繋がっている。

富山県の七大河川(黒部川片貝川早月川常願寺川神通川、庄川、小矢部川)の一。

歴史

古代には、谷口から西流して現在の小矢部市付近で小矢部川(当時の呼称は射水川)に合流していた。砺波平野は庄川と小矢部川による複合扇状地である。往古より庄川は氾濫を繰り返し、庄川扇状地の西から東を何度もその流れを変えてきた。庄川というのは「雄神の庄」あたりの呼び名で、下流では「野尻川」「中村川」「千保川」「中田川」など、それぞれ分流の名で呼ばれていた。

1586年天正地震の際には、富山湾津波が発生。遡上した津波により庄川流域での被害が多かった[1]

後に谷口から北流するようになり、高岡市街地を通る現在の千保川が最も水量が多い本流となった。現在の庄川の流れは、分流の一つの中田川であった。1654年瑞龍寺の寺地を千保川が削ったのを受けて、加賀藩主の前田利常が千保川の水を中田川へ移すことを命じたが、庄川左岸地域の住民の反対によってすぐには実施されなかった。

1670年前田綱紀によって庄川扇状地扇頂部の弁才天前で千保川などの各分流を中田川へ一本化する大工事が行われ、44年後の1714年に完成した。これによって、庄川は河口付近まで別の流路となり、現在の高岡市吉久で合流するようになった。1900年から1912年までにかけて、現在の射水市川口から直に富山湾へ流れるように工事が行われ、小矢部川と流路が完全に分けられた。小矢部川の支流の地久子川および高岡市吉久の貯木場が昔の庄川の名残である。

流域の自治体

岐阜県
高山市郡上市大野郡白川村
富山県
南砺市砺波市高岡市射水市富山市

岐阜県内(旧飛騨国)の庄川流域は白川郷と、富山県の山間部の庄川流域と利賀川流域は五箇山と呼ばれる。庄川の中流から上流までは険しい谷が続くため、その流域は明治時代に国道が開かれるまで「陸の孤島」となっており、加賀藩の流刑地とされたこともあった。五箇山には平家の落人伝説もある。

庄川が岐阜県と富山県の県境となっている箇所があり、そこを国道156号が直線状に通っているため、県境を7回連続で跨いでいる。またそこに架かる7つの飛越七橋と言われている。

流域の観光地

支流

括弧内は流域の自治体

主な橋梁

並行する交通

鉄道

道路

脚注

  1. (富山県)上市町史編纂委員会 『上市町史』 上市町、1970年。

関連画像

関連項目

外部リンク