日活

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日活株式会社(にっかつ)は、日本映画製作、配給会社である。

社名は創立時の名称である「日本活動冩眞株式會社」の略称に由来する。

概要

本社は東京都文京区本郷3-28-12。調布市日活撮影所を有している。撮影所内ではかつて日活芸術学院(1975年 - 2013年)を運営していたが、城西国際大学に事業譲渡している。ミニシアターシネリーブル池袋、シネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸(三宮)、シネ・リーブル博多駅(福岡県)を所有し、千葉県印西市シネマコンプレックスシネリーブル千葉ニュータウンを所有していたが、2009年4月から、東京テアトルとの業務提携により、運営を東京テアトルに委託している。また、スカパー!プレミアムサービスケーブルテレビ局向けにチャンネルNECOレインボーチャンネルを、スカパー!(東経110度CS放送)向けにチャンネルNECOを放送している。

かつては東宝東映松竹と並び称される映画会社だった時代もあり、一時は映画館のほかホテル・ゴルフ場・ボウリング場をもつ総合レジャー企業を志向していた時期もあったが、設立当初から経営危機・和議申請・会社更生法申請・様々な企業に買収・転売されるなど苦難の歴史をたどり続けた。1970年代 - 1980年代後半には経営の苦しい中日活ロマンポルノの名称で映画製作業務を続け、助監督の採用を続けていた。当時採用した助監督は、その後監督に昇進し、今日の日本映画を支えている。

会社自体は日本最古の歴史を誇るが、戦時中に新会社の大映に製作部門を譲渡し、日本の大手撮影所建設としては現時点で最後である1954年(昭和29年)に撮影所を建設し、ゼロから製作を再開したこと、その際に五社協定包囲網に抵抗しながら新人発掘で乗り切ったこと、その際に青春映画アクション映画を得意としたことなどから、老舗としてよりはニューパワーとして位置づけられ語られることが多い。これは、遥かに後発の大映が、実質的に旧日活の製作部門を継承しているために「伝統」の文字を冠させられることが多いのと対照を成している。

沿革

創業 - 戦前

1912年(明治45年)3月、国家当局の要請を受けた京都横田商会の横田栄之助の尽力により、資本金1000万円をもとに[1]横田商会吉沢商店福宝堂エム・パテー商会の国産活動写真商社4社が合併して「日本活動フィルム株式會社」として創立(初代社長は後藤猛太郎)。

この「日本活動フィルム株式會社」は、株式市場で「活フイ」と略称されたため、「これから発展しようという会社が“フイ”になってはいかん」と縁起を担ぎ、元号が大正へと変わった後の9月10日に、社名を「日本活動冩眞株式會社」と改称し、略称を「日活」とした[2]。以後、時代劇の名門映画会社として、京都の撮影所で尾上松之助を看板スターとした。

1913年(大正2年)、東京向島水神に、ガラスステージを備えた現代劇(新派)の撮影所を建設。

1914年(大正3年)10月、ロシア文学を原作とする『復活』が公開され大ヒット。女弁士が「カチューシャの唄」を歌い、大評判となった。現代劇映画だったが、カチューシャ役は歌舞伎女形役者である立花貞二郎が演じるものであり、まだ映画女優は存在しなかった。

病弱だった立花が死去すると、向島撮影所では大阪の舞台から東猛夫を招いて女役に当たらせるが、やがて「写実を本位とする映画劇に女形は不適当である」との声が高まり、舞台女優中山歌子が「映画女優」として加入することとなる。

1922年(大正11年)、この年暮に向島撮影所の女形を交えた新派役者10数人が、国活(国際活映)に移籍。日活はこれを機に向島から女形を一掃、新劇の舞台協会と提携して「ピカ一スタア」と呼ばれた岡田嘉子を時代劇女優に迎え、ほかに瀬川つる子ほか数人の女優に加え、溝口健二阿部豊ら新進監督が腕を振るい始める。

1926年(大正15年)、尾上松之助が死去。以後京都撮影所では、山本嘉一河部五郎大河内傳次郎らが人気を博すが、サイレントからトーキーに移行した辺りに日活を去り、独立プロを追われた阪東妻三郎片岡千恵蔵嵐寛寿郎入江たか子らが参入。この時期業績が下降し、経営権を巡る争奪戦が勃発。東宝・松竹両社が株式の相当数を抑え、かつ両社から一定数の重役を迎えるなど両属状態に陥った[3]

1942年(昭和17年)、戦時統合により製作部門が切り離され、新興キネマ大都映画とともに大映(大日本映画製作株式会社)に移管、映画製作から一旦撤退。業績の良かった配給部門だけが残った。

映画会社としての再生 - 映画黄金時代

1945年(昭和20年)には大映の興行権を継承し、「日活株式会社」に社名変更[4]1954年(昭和29年)に映画製作を再開。前年締結された五社協定により他社の映画俳優を一切使えなかったなか、月丘夢路三国連太郎水島道太郎森繁久彌三橋達也南田洋子小林桂樹北原三枝芦川いづみ新珠三千代などの俳優を移籍で獲得に成功、更に新国劇の俳優も起用して、時代劇、文芸映画を製作する。

しかし、それまでカラーの外国映画を公開していた日活系劇場はいきなり白黒の日本映画に切り替わるというギャップと(この過ちはのちにロマンポルノ→ロッポニカで繰り返している)、五社協定の煽りを受け興行的に苦戦。

その為に新人のニューフェイスなどを登用せざるを得なくなり、宍戸錠名和宏長門裕之らを起用。やがて石原慎太郎原作の「太陽族」映画が当たると、石原裕次郎小林旭浅丘ルリ子待田京介赤木圭一郎二谷英明岡田真澄川地民夫和田浩治葉山良二中原早苗笹森礼子清水まゆみ小高雄二青山恭二筑波久子らを起用した若者向けの低予算のアクション映画中心の会社に路線変更した。また劇団民藝と提携し俳優を確保した。興行収益が好調な上に事業多角化を推進したため、業績は堅調。これによって石原、小林、赤木、和田による「日活ダイヤモンドライン」と中原、芦川、浅丘、笹森、清水、吉永小百合による「日活パールライン」を看板に掲げた。

斜陽時代

本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、北原の引退、赤木の急逝、アクション映画のマンネリ化、企画不足、裕次郎・旭の二大スターの肥満等による人気低下、堀久作社長のワンマン体質からくる過剰な不動産投資、1967年(昭和42年)には堀に反発した江守専務ら映画製作の中枢者を強引に退陣させる等、放漫経営などが次々に災いして1960年代には業績は急激に悪化していった。

その頃に浜田光夫高橋英樹松原智恵子和泉雅子といったいわゆる「日活グリーンライン」と呼ばれる新人スター達を生み出し、青春映画路線は後のアイドル映画の礎を築いたが、退潮を食い止めることは出来ず、主要劇場・事業所を次々と売却してしまう。1965年入社の渡哲也を軸とするアクション路線の立て直し(裕次郎主演作のリメイクが多い)、さらには新人監督を多く起用してのニューアクション路線も、業績下降の歯止めとはならなかった。

日活黄金時代の立役者となったベテランスタッフも多くが退社、独立し、日活を離れた。1969年(昭和44年)には撮影所を、1970年(昭和45年)には日比谷の本社ビルをも明け渡した後、同じ不採算で同根の大映と配給部門を合体してダイニチ映配を設立する。しかし、この弱者連合はすぐに行き詰まり、翌1971年(昭和46年)には堀社長が退陣し、息子の堀雅彦が社長に就任する。

にっかつ時代、ロマンポルノ路線

1971年(昭和46年)8月、『八月の濡れた砂』(同時上映『不良少女魔子』)を最後に日活アクション映画(1968年以降は、日活ニューアクションと呼ばれた)は終焉。ダイニチ映配を解消し大映と袂を分かった後は、9月18日から日活系独自で『朝霧』(和泉雅子主演、撮影は1968年)を封切、これを以って映画製作を一時中断する。

その後、労働組合との協議により、採算面から低予算の成人映画(ポルノ映画)製作に踏み切り、同年11月から正式に、「日活ロマンポルノ」と銘打った成人映画路線をスタートさせた(路線第1弾の作品は『色暦大奥秘話』、同時上映『団地妻 昼下りの情事』)。 大手の映画会社が本格的なポルノ映画に着手するのは世界にも例がない。これにより、これまでの上述の日活映画スターたち及び一部のスタッフは事実上フリーになった(フリーになったプロデューサーたちが設立したのがNCP=ニュー・センチュリー・プロデュースである)。 なお、裕次郎はポルノ路線転換前に石原プロモーションを立ち上げ、日活とは決別している。

1975年(昭和50年)に堀雅彦が社長を辞任し、副社長の村上覚が社長に就任する。これによって、戦前より会社経営を担ってきた堀親子が退陣となった。この時期に、日活労働組合出身の根本悌二がいきなり専務取締役に就任する。

1978年(昭和53年)7月、東京証券取引所一部に上場していた日活株は、資本金を上回る累積赤字を出し債務超過に陥ったため、上場廃止の危機に直面した。そこで同社は、当時宮尾すすむ出演のCMで知られ、安売り紳士服チェーンとして一世を風靡していた「流通卸センター(ROC)」と提携。同社の系列会社や香港の投資会社「キャリアン・インベストメンツ」、落合莞爾の経営していた東京債権ファイナンス等に対して第三者割当増資を行うことで債務超過を脱し、上場廃止に直面していた難局を乗り切った。その余勢で同年9月には調布の撮影所を買い戻し、それを機に社名を株式会社にっかつに変更する[5]

アダルトビデオの隆盛に押され、1980年代後半にはロマンポルノ上映館に足を運ぶ人は右肩下がりとなり、にっかつはロマンポルノに見切りをつけ、1988年(昭和63年)7月1日、これまでのロマンポルノ上映館を「ロッポニカ」に改名し、配給会社のにっかつ映画配給株式会社を「株式会社シネ・ロッポニカ」に変更した上で「ロッポニカ」レーベルで一般向け映画の製作・配給を再開する。ロッポニカの名称は当時六本木に本社があったことに由来する。

1989年(平成元年)、ケーブルテレビ(CATV)向けのコンテンツ供給会社「にっかつ映像コミュニケーションズ」を設立。「ロッポニカ」終了後、にっかつが経営していた成人映画専門上映館(以下、成人館)新日本映像作品を上映していたが、ロッポニカ金沢、シネロマン博多、ロッポニカ旭川、シネロマン千葉、シネロマン名古屋、ロッポニカ帯広、ロッポニカ秋田、ロッポニカ下関、ロッポニカ佐賀などを閉館して徐々に撤退、整理の方向に進んでいった。2008年(平成20年)4月、シネロマン池袋、ロッポニカ高松の2館の営業を譲渡し、ロマンポルノ開始以来所有していた成人館、全て他社に譲渡もしくは閉館となった。現在、旧日活直営館で「ロッポニカ」の名が残るのは高松市と三重県四日市市の成人館のみである。

経営母体流転時代

1992年(平成4年)、創立80周年を記念して製作した超大作『落陽』が記録的な不入りとなり、翌1993年(平成5年)、会社更生法の適用を申請し事実上倒産。大手ゲーム会社ナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)会長兼社長の中村雅哉が経営支援に乗り出した。更生計画認可後の1997年(平成9年)、社名を元の日活株式会社に戻した。

2005年(平成17年)4月21日、ナムコが日活株式のUSENへの譲渡を検討していることを発表するが、USENの企業体質に対して日活労働組合が難色を示し、USENは買収を断念する。同年9月7日インデックス・ホールディングス(以下インデックス)がナムコ保有の日活株式の取得を発表、インデックスが労働条件の維持を表明し、日活労働組合も同意し、同年9月中に日活はインデックスグループ傘下の子会社となった。同年11月1日をもってインデックスの会長・落合正美が日活会長に、ナムコの中村雅哉は非常勤の名誉顧問になった。中村は、2008年10月に名誉顧問も退任した。 社長には、徳間グループ傘下だったころの大映のプロデューサーから、譲渡合併後の角川大映映画(後の角川書店(映像事業)。旧・角川映画)に転じ、大映労組の副委員長から製作担当の取締役となっていた佐藤直樹が名乗りを挙げた。

日テレ資本参加 - 現在

2009年(平成21年)1月23日、インデックス・ホールディングスは保有株式の34.00%を、日本テレビに譲渡した。これにより、日活はインデックスの子会社から持分法適用会社になった。その後、インデックスはアミューズメントメディア総合学院にも、保有株式を譲渡した。その後、スカパーJSATにも譲渡するなどして、保有していたすべての株式を譲渡した。現在は日テレが筆頭株主、スカパーJSATが27パーセントを保有する第二位の株主となっており、日テレとスカパーJSATホールディングス持分法適用関連会社である[6]

タカラトミーがメインスポンサーとなり、2009年4月から放送開始したテレビ番組『レスキューファイアー』では、『電撃!! ストラダ5』以来35年ぶりにテレビ特撮ドラマの映像制作を手がけている[7]

2014年7月、日活と東宝東和がゴールデン・アジアレーベルを設立。第1弾はチャウ・シンチー監督の『西遊記〜はじまりのはじまり〜』が2014年11月21日に公開された。

年譜

大正年間

  • 1912年(明治45年) - 「未成熟な映画産業の活性化」を標榜した国家当局の通達により、梅屋庄吉エム・パテー商會横田永之助横田商會福寶堂吉澤商店の4社が統合し、「日本活動フィルム株式會社」が発足(初代社長は後藤猛太郎)。9月に「日本活動冩眞株式會社」(日活)と名称を変更。
  • 1913年(大正2年) - 東京府南葛飾郡隅田村(後の墨田区堤通二丁目、墨田区立堤小学校跡地)に向島撮影所が開所。内紛があり、結果的に横田商会系列が会社内の実権を掌握、横田永之助が社長に就任。
  • 1920年(大正9年) - 溝口健二入社。
  • 1922年(大正11年) - 当時の日活の看板監督・牧野省三退社。
  • 1923年(大正12年) - 向島撮影所が震災により機能停止。京都の大将軍撮影所(1918年開所。京都市北区大将軍一条町)に製作機能を集中させる。
  • 1924年(大正13年)- 永田雅一(後の大映社長)、大将軍撮影所に庶務課見習として入社。
  • 1926年(大正15年) - 後の名脇役・菅井一郎が日活に入社。当時の日活の看板俳優であり、国民的スター・尾上松之助が心臓病のため死去。享年52。社葬が執り行われる。

昭和戦前

  • 1928年(昭和3年) - 京都太秦撮影所が完成し、大将軍撮影所は閉鎖。
  • 1932年(昭和7年) - 太秦撮影所の従業員1400人の内200人を解雇し、残る者も1割減俸という「日活大旋風」が起こる。「馘首減俸絶対反対期成同盟」が結成され、永田雅一が委員長に納まる。結局、150人が解雇されるが減俸は逃れて幕を閉じる。騒動の渦中で横田社長が辞任して、専務の中谷貞頼が社長に就任する。
  • 1934年(昭和9年) - 東京調布の多摩川撮影所(後の角川大映撮影所)が完成し、現代劇部を東京に再移転。永田雅一退社。
浅草公園六区の根岸興行部の残党である根岸寛一(映画監督根岸吉太郎の大叔父にあたる)が多摩川撮影所の所長に就任。
東京有楽町の日本劇場(日劇)を直営するが、失敗し撤退。この一件で大株主の福田英助都新聞社主)が経営陣に突きつけた経営責任を巡り社内は紛糾し、中谷社長が辞任。
この一件で堀が推し進めていた東宝との提携は無効となる。大株主の福田一派の告発によるものだが、松竹はこれに乗じて、堀の資金源だった千葉銀行より日活債権の買取へ動く。
逮捕後程なく、松竹が日活分裂のために元日活京都撮影所長の永田雅一に出資していたダミー会社の第一映画社が解散。永田は同じく松竹系の新興キネマ京都撮影所所長に就任。
経営陣はこうした松竹、東宝の動きに対し中立的な立場から大阪の興行主・森田佐吉を社長に、東京の興行主・大蔵貢を常務に据えた。しかしながら、大蔵が松竹と通じていたため、利益相反行為で問題となる。
  • 1938年(昭和13年) - 債権者と和議が成立。これにより東宝・松竹両社による日活株式争奪戦に発展。森田は暴力団を連れて多摩川で根岸所長の排斥へ動く森田は野田卯太郎ら大物をバックにつけた右翼団体の幹部でもある。根岸寛一は職を辞し、マキノ満男満映へ移籍した。根岸・マキノは、戦後に東宝、松竹、大映と対抗する第四系統の東映に満映から人材を送り込むことになる。
  • 1939年(昭和14年) - 東宝・松竹両社の関連会社となる。
  • 1942年(昭和17年) - 製作部門一切を大日本映画製作株式会社(大映)へ現物出資、日活は興行専業の会社となる。

1940年代

  • 1945年(昭和20年) - 社名を日活株式会社に変更。
  • 1946年(昭和21年) - 映画興行を再開、大映系列劇場となる。
  • 1947年(昭和22年) - 東宝・松竹両社が所有していた日活株式が経営陣に譲渡され、両属状態から解放。独立会社となる。一方、逆に大映株式については大映経営陣他へ譲渡を余儀なくされる。堀久作が正式に社長に就任。劇場経営を邦画(大映系)から洋画系に転じる。
  • 1949年(昭和24年) - 東京・港区に「日活スポーツセンター」を開設。アイススケート場を運営。経営多角化を推進。

1950年代

  • 1950年(昭和25年)- 日活国際会館の地鎮祭が執り行われる(1月30日)。
  • 1951年(昭和26年) - 静岡県伊豆地区の天城湯ヶ島に「天城日活ホテル」(現在は独立)を建設。ホテル業に進出。
  • 1952年(昭和27年) - 新東宝の社長佐生正三郎の要請を受け、経営難に陥っていた同社の株式を購入。同社の救済合併を画策し、映画製作復活を目指した。しかし、結局、東宝の横槍が入って失敗に終わり、日活は自力で映画製作再開を目指す事になった。同年、東京日比谷交差点角に「日活国際会館」を建設、ビル内に日活国際ホテルを開業するとともに、本社を同会館内に移転し賃貸ビル業を開始した(このビルは1970年に三菱地所に売却され日比谷パークビルとなるも2003年に解体され、跡地は2007年よりザ・ペニンシュラ東京となっている)。「日活四十年史」を発行。
  • 1954年(昭和29年) - 五社協定の圧力に屈せずに、各社のスター、スタッフを大量に引き抜き、そして東京・調布市日活撮影所を建設し、映画製作を再開。6月29日に『国定忠治』、『かくて夢あり』が封切られる。神奈川県片瀬海岸に江の島水族館を開館。
  • 1956年(昭和31年) - 石原裕次郎入社。
  • 1957年(昭和32年) - 六社協定締結。既存大手5社(東宝・松竹・大映・東映・新東宝)との対立関係に終止符を打つ。映画製作再開時の資金未回収を含む業績不振で無配に転落。「江ノ島マリンランド」開場。10月から12月にかけて、賃金遅配。日本テレビに対する映画貸出を中止。
  • 1958年(昭和33年) - 日本教育テレビ(後のテレビ朝日)へ東映・新東宝と共に出資。
  • 1959年(昭和34年) - 石原裕次郎の活躍や「南国土佐を後にして」のヒットもあり、復配に成功。映画興行も好調で、配収が東映に次ぐ業界2位に躍進(1964年まで)。

1960年代

  • 1960年(昭和35年) - 吉永小百合入社。4月5日、株式会社天城カントリー倶楽部創立。
  • 1961年(昭和36年) - 2月14日、赤木圭一郎が日活撮影所内で乗り回していたゴーカートで事故を起こし重傷を負う。21日死去。
11月3日「天城日活カントリー倶楽部」を開設。18ホールのゴルフ場とホテルでオープンし、ゴルフ場事業に進出。
  • 1962年(昭和37年) - 映画興行部門は堅調ながら、不動産部門の多額の赤字損失計上により、無配に再転落。「日活五十年史」発行。
  • 1963年(昭和38年) - 千本日活館を田中不動産に3,990万円で売却、名古屋日活劇場を竹中工務店に7億5,000万円で売却。天城カントリー倶楽部に9ホールの里見コースが開設され、27ホールとなる。
  • 1964年(昭和39年) - 基幹劇場だった丸の内日活劇場を14億2千万円で三菱地所に売却(後の新有楽町ビルヂング北東角)。日活ホテルの総料理長である馬場久東京オリンピック男子選手村の料理長に就任する(なお、女子選手村の料理長は帝国ホテル村上信夫であった)。
  • 1965年(昭和40年) - 配収大幅減で東宝、東映に次ぐ業界3位に転落。 映画『黒い雪』(監督武智鉄二)が摘発され、裁判沙汰に。製作再開時からの山崎辰夫撮影所長を更迭、後任は山根啓司製作部長が就任。堀久作の実子・堀雅彦が入社。希望退職を募集し、150名が応募。
  • 1967年(昭和42年) - 製作再開以来の映画担当重役だった、江守清樹郎専務、山根啓司撮影所長、石神清宣伝部長らが総退陣。後任は堀雅彦副社長が映画担当に、配給部長だった村上覚が撮影所長に就任。この騒動で現場も混乱。業績も急激に悪化の一途を辿る。両国日活映画劇場を勧銀土地建物株式会社に1億4,700万円で売却。前年同様に東映、東宝、大映に次ぐ、業界4位。
  • 1968年(昭和43年) - 映画『殺しの烙印』の作品内容を理由に、監督した鈴木清順を解雇。千葉県市原市ボウリング場開場。郡山日活劇場を1億600万円で個人に、神田日活館を1億6000万でタキイ種苗に売却。
  • 1969年(昭和44年) - 博多日活ホテルを4億6,985万円で城山観光に、日活撮影所を15億5,600万円で電気通信共済会に、立川日活劇場を2億6,000万で安田生命に、芝日活アパートを5億7,200万で秀和レジデンスに、藤沢日活劇場を1億7,600万円で美矢川商事にそれぞれ売却。業績不振で深刻な局面に突入。松竹にも抜かれ、業界最下位に転落。浦山桐郎監督作品「私が棄てた女」9月に公開される。

1970年代

  • 1970年(昭和45年) - 大映と配給網を統合し、ダイニチ映配を設立(社長は大映の松山英夫専務、副社長は日活の壷田十三常務が就任)。8月15日「戦争と人間 第一部」松竹洋画系にて公開。日活国際会館を70億円で三菱地所に、池袋日活劇場を5億5,000万円で竹中工務店に、鶴見日活劇場を6,000万で個人に、それぞれ売却。
  • 1971年(昭和46年) - 春闘では会社側が大幅に譲歩して要求以上の5ケタのベアアップ回答も、日活労組側は「それでは会社が危うい。職場が無くなっては、元も子もない」とそれに反対するという逆転現象が起こる。

5月、ダイニチ映配、松山社長病気を理由に社長を辞任。壺田副社長が社長に就任する。 そんな会社側の逃げ腰を象徴するように、6月2日には「日活のワンマン」堀久作社長が電撃退陣し(その後秋の株主総会で会長就任予定だったが、そのまま引退。壺田専務は取締役常務を解任、ダイニチ社長に専念させられ大映と運命を共にする)、後任社長は実子の堀雅彦が就任する。同月には「戦争と人間 第二部」をダイニチを通さずに日活独自で配給し、松竹洋画系で公開すると大ヒット。すると堀雅彦新社長は、ブロックブッキングを捨て、フリーブッキングの大作主義を行うと発表。 7月には映画製作を中断し、再建委員会と機構改革委員会を設置、労使の歩み寄りで協議を始める。ここに日活労組の経営参入が実現する。8月末公開の『不良少女魔子』同時上映『八月の濡れた砂』を最後にダイニチ映配を離脱する。その間、大作主義の一環として、五木寛之原作の「青春の門」映画化を企画するが、紆余曲折の挙げ句、その後東宝が企画を買い取る。また今村昌平監督作品として「ええじゃないか」を企画するも製作される事は無く、大作主義は掛け声のみで終わる。晩夏に至っての労使の機構改革委員会は、一般映画を廃し、低予算の小型映画(=成人映画)の製作に特化、転向する、それが日活が生き残る最後の方策だとの結論に達する。そして10月半ばより撮影開始、11月下旬より公開された作品群が、「日活ロマンポルノ」との名称でスタートする。その過程で306名の希望退職を募集。

堀雅彦社長、ボウリング事業の拡大策が裏目に出た経営責任を取って辞任。堀一族は退陣し、江の島水族館を分離する。後任社長は村上覚。
  • 1976年(昭和51年) - 1月「新・どぶ川学級」読売ホールにて特別ロードショー公開。6日間で延べ2万人が来場。

8月「嗚呼!!花の応援団」大ヒット。児童映画第四作「四年三組のはた」完成。

  • 1977年(昭和52年) - 黒澤満撮影所長らプロデューサー一派が岡田茂に引き抜かれ、東映へと移籍(後にセントラル・アーツを設立)。日活撮影所を電気通信共済会から買い戻す和解が成立。児童映画第五作「先生のつうしんぼ」完成。
  • 1978年(昭和53年) - 株式会社日活撮影所、株式会社日活美術、株式会社日活芸能、株式会社日活ビデオフィルムズ、株式会社日活スタジオセンター、日活児童映画株式会社、日活興業株式会社の7社を分社。
債務超過による東証一部上場廃止を回避すべく増減資を行う一方、株式会社流通卸センター(ROC) との提携話等で一連の株価操作を行い、問題となる。
東京地裁でロマンポルノ裁判の被告9名全員が無罪の判決(6月23日)。検察側は判決を不服として東京高裁に控訴趣意書を提出(7月4日)。
株式会社にっかつと改称。
  • 1979年(昭和54年) - 日活労組委員長だった根本悌二が社長に就任。4月、本社を、撮影所から港区赤坂九丁目6番24号の「東京スタジオセンタービル」跡地に新しく建てた「日活スタジオセンタービル」へ移転。1990年10月まで本社として使用。

1980年代

  • 1980年(昭和55年) - 18年ぶりに復配。ロマンポルノ裁判、無罪が確定。
  • 1981年(昭和56年) - 「日本フィル物語 炎の第五楽章」公開。
  • 1982年(昭和57年) - 9月1日、にっかつ創立70周年記念パーティがホテルニューオータニで催される。
  • 1988年(昭和63年) - 5月28日、堀雅彦、葛飾区金町のアパートで死後数日経過しているところを発見される。享年56。「にっかつロマンポルノ」終了。最終作の「ラブゲームは終わらない」で金沢克次、「ベッドパートナー」で後藤大輔の2名が監督デビューを果たす。7月 一般映画製作を「ロッポニカ」ブランドで再開し、「噛む女」「メロドラマ」の二本立てが上映されるが、不入りが続いたことで「首都高速トライアル」「リボルバー」をもって打ち切りが決定される。
  • 1989年(平成元年) - 2月 東北新社のCMを撮影中の日活撮影所第5ステージで火災が発生し、フリースタッフ1名死亡。「ロッポニカ」終了。若松正雄副社長が社長昇格。根本は会長に就任。 8月、ロマンポルノのプロデューサー有志が独立し、別資本の会社新日本映像を設立。「エクセスフィルム」のレーベル名でピンク映画を作り始める。

1990年代

  • 1990年(平成2年) - 2月20日、「チャンネルNECO」「レインボーチャンネル」放送開始。 10月、日活本社は文京区本郷三丁目28番12号の元プリント倉庫跡に移転。にっかつビデオ、にっかつ児童映画、にっかつ映像コミュニケーションズも同時に本郷に移転。
  • 1992年(平成4年) - にっかつ80周年記念超大作『落陽』制作。監督を原作者に任せ、宣伝プロデューサーに水野晴郎を迎え、30億といわれる巨額の制作費にかかわらず、記録的な不入りで、にっかつ倒産の引き金を引いたと言われる。9月8日創立80周年記念パーティがホテルニューオータニで催される。財津和夫作詞作曲の80周年記念歌が披露され、司会は草野仁が務めた。
  • 1993年(平成5年) - 7月1日、株式会社にっかつのほか、100%子会社の株式会社にっかつ撮影所、にっかつビデオ株式会社、にっかつ中央興業株式会社、にっかつ芸能株式会社、株式会社函館にっかつゴルフクラブ、株式会社にっかつ映像コミュニケーションズの七社が東京地方裁判所民事第八部に会社更生法の適用を申請し倒産。7月6日に保全管理命令が下り、保全管理人に三宅省三弁護士が選任される。9月30日に更生手続開始決定がなされ、三宅省三弁護士が法律家管財人ナムコ中村雅哉会長兼社長が事業管財人となり、再建活動に入る。後ににっかつ児童映画は破産申立を行ない、清算する。函館ケーブルテレビ放送株式会社(現・ニューメディア函館センター)の経営から撤退する。三宮にっかつ閉館。
  • 1995年(平成7年) - 「ロッポニカ」の一本として製作後、オリジナルビデオシリーズとして好評を博していた「首都高速トライアル」シリーズが、撮影時に制限速度を超過したという道路交通法違反の嫌疑のため、本社、撮影所が警視庁の家宅捜索を受ける。ムービーランド建設予定地として購入していた千葉県市原市の土地を売却。阪神淡路大震災で被災した神戸国際にっかつ劇場閉館。
  • 1996年(平成8年) - 更生計画認可。倒産当時145億2537万7950円あった資本金を100%減資し、新資本金30億円とし、事業管財人の中村雅哉が社長に就任。名実共にナムコグループ入りする。社名を日活株式会社に戻す。本店所在地を港区赤坂9丁目6番24号から文京区本郷3丁目28番12号に移転。
  • 1997年(平成9年)- 3月15日日活ホームページ開設。6月より社章が変更される(ナムコカラーの臙脂色をバックにNマークを筆で描いたようにデザインし、社名をやや幅広の明朝体表記としたもの)。10月に日活復活第一作「愛する」が封切られる。
  • 1998年(平成10年)- 8月1日シネロマン博多が「シネ・リーブル博多」と館名変更。
  • 1999年(平成11年) - 5月1日シネ・リーブル博多駅オープン。

2000年代

  • 2000年(平成12年) - 2月28日従業員持株会発足する。キャッチフレーズは「第二のヤフー株を目指して」だった。4月29日 シネ・リーブル池袋オープン。12月 シネ・リーブル梅田オープン。
  • 2001年(平成13年)- 2月「日活ロマンポルノ館」オープン。7月東京地裁にて更生手続終結決定。9月15日 シネ・リーブル神戸オープン。
  • 2002年(平成14年)- 1月30日横浜市中区伊勢佐木町所在の横浜オスカー横浜オスカー2閉館。
  • 2003年(平成15年) - 8月大宮東映オスカー閉館。
  • 2005年(平成17年) - 佐藤直樹が社長に就任。早期退職優遇制度(希望退職)を実施。また、赤坂九丁目6番24号のロッポニカビルが、株式会社マルから株式会社ヤング・コミュニケーションに売却される。 この他、シネリーブル千葉ニュータウン開場(8月6日)。ナムコ保有の日活株式が一部を除き売却され、インデックスグループに入る。その後スカイパーフェクト・コミュニケーションズ(後のスカパーJSAT)が発行済株式の15%をインデックスから取得。
  • 2006年(平成18年)- 10月より社章を現行デザインのものに変更。
  • 2007年(平成19年) -2月 同じインデックスグループにあった映画配給会社メディア・スーツを日活の子会社化後吸収合併。10月 フェイスアミューズソフトエンタテインメントが設立した映画製作会社「デスペラード」との共同出資により「株式会社ジャンゴフィルム」を設立。
  • 2008年 (平成20年) - 12月に東京テアトル株式会社との間で映像事業における業務提携について合意に達し、翌年4月から3年の間、全映画館の経営を委託することが決定される。
  • 2009年 (平成21年) - 「ヤッターマン」を製作し、3月松竹と共同配給。30億円を超えるヒットを記録するも、2009年7月期決算では12億を超える赤字を計上する。また、ジャンゴフィルムのパートナーであるデスペラード社が同じフェイスグループの「ギガネットワークス」と合併しフェイス・ワンダワークスとなり、映画製作から撤退したことにより、ジャンゴフィルムが日活の100%子会社となる。4月 インデックスの所有していた株式が日本テレビ放送網などへ売却されたことで、日テレの関連会社となる。12月 美術子会社の「アートインプレッション」、撮影所管理業務の「日活スタジオサービス」設立。

2010年代

  • 2010年 (平成22年) - 日本映画初の「海外公開専用」レーベル「SUSHI TYPHOON」を立ち上げ、第1弾作品「エイリアンVSニンジャ」を公開。
  • 2011年 (平成23年) - 3月11日の東日本大震災でシネリーブル千葉ニュータウンが被災。第6・第7シアターの天井が崩落して、営業休止[8]。5月13日 シネ・リーブル博多駅 閉館。9月 アートインプレッション解散。美術業務は日活スタジオサービスに引き継がれる。
  • 2012年 (平成24年) - 会社創立100周年を迎える。100周年を記念して日活に所縁のある俳優、監督らの手型モニュメントが制作され、9月10日に除幕式が行われた。11月1日、シネマックス千葉ニュータウンが正式に千葉興行に営業譲渡される。
  • 2013年 (平成25年) - 7月1日にシネ・リーブル神戸が東京テアトルに譲渡される。譲渡にかかわった社員は表彰された。
  • 2014年 (平成26年) - 日本テレビ100%子会社の日テレアートが、撮影所の美術部門を担当。
  • 2016年(平成28年) - 1月26日、ゲームレーベル「SUSHI TYPHOON GAMES」を立ち上げ、ゲーム事業に参入することを発表[9]

主要邦画

参照: [[日活の映画作品の一覧]]

社長

主要プロデューサー

戦後

主要監督

戦前

戦後

主要脚本家

戦前

戦後

主要音楽家

戦前

戦後

主要カメラマン

戦前

戦後

主要男優

戦前

戦後

主要女優

戦前

戦後

参考資料

  • 根本悌二「映画産業論」(「映画論講座1」 合同出版 1977年 所収)
  • 小沼勝『わが人生わが日活ロマンポルノ』国書刊行会 ISBN 9784336055187
  • 鈴木義昭『日活ロマンポルノ異聞』社会評論社 ISBN 978-4-7845-0937-9
  • 井戸幸一『裸・はんなり ロマンポルノ』京都書院 1991年 ISBN 4-7636-4050-X C0395
  • 斎藤正治『権力はワイセツを嫉妬する』風媒社 1978年
  • 板持隆『日活映画 興亡の80年』日本映画テレビプロデューサー協会 1999年
  • 松本平『日活昭和青春記』WAVE出版 2012年 ISBN 978-4-87290-582-3

出典・脚註

  1. 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)
  2. 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社)
  3. 日活五十年史(日活株式会社)
  4. 会社案内:沿革 - 日活
  5. にっかつの名前がスクリーンに登場するのは1979年(昭和54年)以降である
  6. 日テレのニュースリリース日活のニュースリリース
  7. レスキューファイアー日活制作担当に関するソースはタカラトミーのニュースリリースより http://www.takaratomy.co.jp/company/release/press/pdf/p090114.pdf
  8. その後千葉興行株式会社に経営委託され「シネマックス千葉ニュータウン」と改称し再開業している。
  9. 日活、ゲーム事業参入へ 新レーベル「SUSHI TYPHOON GAMES」始動”. シネマトゥデイ (2016年1月26日). . 2016閲覧.

関連項目

外部リンク

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