日米通商航海条約

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日米通商航海条約(にちべいつうしょうこうかいじょうやく)とは、日本アメリカ合衆国とのあいだの通商航海の自由内国民待遇を原則とする条約で、以下の諸条約が知られる[1]

  1. 1894年明治27年)11月22日調印、1899年(明治32年)7月17日発効の通称「陸奥条約」(むつじょうやく)。
  2. 1911年(明治44年)2月21日調印、同年4月4日発効の通称「小村条約」(こむらじょうやく)。1940年昭和15年)1月26日失効。[2]
  3. 1953年昭和28年)4月2日調印、同年10月30日発効の日米友好通商航海条約(にちべいゆうこうつうしょうこうかいじょうやく)。

とくに、2.は日本が米国に対して関税自主権を完全に回復し、不平等条約の改正に成功した条約として有名である。

「陸奥条約」

安政五カ国条約の一つとして結んだ日米修好通商条約にかわり、陸奥宗光外相時代(第2次伊藤内閣伊藤博文首相)の1894年明治27年)11月22日栗野慎一郎駐米公使とウォルター・グレシャム国務長官のあいだで日米通商航海条約が調印され、5年後の1899年(明治32年)7月17日に効力が発生した[1]。陸奥外相時代に締結されたため、日本が他の国とむすんだ通商航海条約とともに「陸奥条約」と通称される。これによって日本・アメリカ間で、両国の通商航海の自由と内国民待遇が原則となり、アメリカが日本に対し保有していた領事裁判権が撤廃され、日本は関税自主権の一部回復も果たした[1]。ただし、この条約にあっても、その第2条においてアメリカは日本人移民入国旅行居住に対して差別的立法をなしうる規定を有した[3]。なお、日本の法権回復は、この年の7月16日イギリスとのあいだで調印された日英通商航海条約をその嚆矢としており、1899年7月の発効以後、日本における外国人居留地は廃止され、日本は内地雑居の状態となった。

「小村条約」

新通商航海条約の締結

小村の条約改正のなかでは列国中もっとも早く締結された通商航海条約であり、日本はこの条約により税権(関税自主権)を回復した。

1899年(明治32年)7月17日に発効した陸奥条約は、12年後の1911年(明治44年)7月16日が満期日にあたっており、1909年(明治42年)8月、第2次桂内閣桂太郎首相)はそれに向けて条約完全改正の方針を閣議決定した[4]1910年(明治43年)には桂内閣の外務大臣小村壽太郎が条約の規定にしたがって、満期日の1年前にあたることからアメリカも含めて13か国に廃棄通告をおこなった[5]

改正交渉は1910年1月にイギリスとの交渉が開始され、4月からはアメリカ合衆国との交渉がおこなわれて列国との交渉がつぎつぎに始まった[4]日露戦争の勝利により日本の国際的地位は格段に向上しており、日本における立憲政治の充実が海外にも知られ、日本の法体系への不信感も薄れていたので、列国との交渉は比較的順調に進行した[4]。首相桂太郎も、専任の大蔵大臣をおかず、これを首相兼任として小村の条約改正をみずから全面的にバックアップした[5]

1911年(明治44年)2月21日、アメリカのワシントンD.C.で日本の内田康哉駐米大使とフィランダー・C・ノックスアメリカ合衆国国務長官のあいだで新しい日米通商航海条約が調印された[3]。陸奥外相時代の旧通商航海条約には日本人移民をアメリカ政府が国内法で制約できる留保条項が設けられていた[1]が、日本人移民はアメリカによるハワイ併合後の1900年以降さらに顕著に増加しており、日本政府は移民に対する差別的法律が合衆国内で制定されるのを防ぐため、1907年(明治40年)および1908年(明治41年)に日米紳士協約(en)を結び、自主的に移民を制限した[1]。しかし移民問題は解決されなかったので、日本政府は日本人労働者のアメリカ移住に関し過去3年間実施してきた移民の制限と取締りを今後も維持することをアメリカ側に宣言し、旧条約の失効と同時に発効する新しい通商航海条約を結び、従前の留保条項を削除したうえで関税自主権を完全に回復することに成功した[1][3]アメリカ上院は新条約の批准にあたり、1907年の日本人移民ハワイからアメリカ合衆国本土への転航禁止令の有効性について日本側に確認を求めたが、日本はそれに同意した[3][6]

新条約は1911年4月4日に発効し、日本は同年中、イギリス、フランスドイツなどとも関税自主権の回復をともなう同様の改正通商航海条約をむすんで、税権の回復を成し遂げ、外交上、列国と完全に対等の立場に立つこととなった。しかし、アメリカは1924年大正13年)、ジョンソン=リード法(通称「排日移民法」)により紳士協約を一方的に廃棄している[1][注釈 1]

日米通商航海条約廃棄通告

自動車製造事業法が徐々に国際問題化し、続いて日中戦争が勃発、拡大する中、1939年昭和14年)7月26日[7] ルーズベルト政権のコーデル・ハル国務長官が日本の堀内謙介駐米大使をワシントンの国務省に呼び、「日本の中国侵略に抗議する」として本条約の廃棄を通告した[1]。6月には天津にある英仏租界を封鎖した。この問題について東京で有田八郎外相とクレーギー駐日イギリス大使との会談が開かれた。日本は日中戦争の遂行と占領地の経営にアメリカからの物資・資財・原料の輸入を必要としていたため経済面で打撃を受け、アメリカの破棄通告は、外交的にはイギリスの対日譲歩を牽制するうえで大きな影響があった。阿部内閣野村吉三郎外務大臣はジョセフ・グルー駐日アメリカ合衆国大使とのあいだに暫定協定締結を試みたが成功せず、通告6か月後の1940年(昭和15年)1月26日に失効した[1]。これにより、日米間は「無条約時代」に入って不安定性がいっそう拡大することとなった。野村はこののち、駐米大使として太平洋戦争開戦まで日米交渉にあたった。

日米友好通商航海条約

日本敗戦後の1951年(昭和26年)9月8日、49カ国がサンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)に署名し、1952年(昭和27年)4月28日に発効した。これにより、国際法上、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結したものとされ、日本は主権を回復した。

日本の主権回復にともない、1953年(昭和28年)4月2日東京において日米友好通商航海条約が調印された[1]。ときの内閣は第4次吉田内閣であり、外務大臣は戦後の対米協調外交を担ったひとりである岡崎勝男、アメリカ側全権は駐日大使のロバート・ダニエル・マーフィーであった。本条約は、日米間の通商および投資交流の促進のための最恵国待遇および内国民待遇の原則を基礎としており、日本が第二次世界大戦後に旧連合国と締結した最初の通商条約となった[1]。なお、翌年には岡崎外相とジョン・M・アリソン駐日アメリカ大使とのあいだで日米相互防衛援助協定(MSA協定)が結ばれている。

関連項目

脚注

注釈

  1. ジョンソン=リード法は本来、日本人移民のみを排除した法律ではなかったが、東欧南欧アジアからの移民を厳しく制限、特にアジア出身者については移民を全面的に禁止する条項を設け、結果として、当時アジアからの移民の大部分を占めていた日系移民が排除されることとなったため、日本では「排日移民法」と呼ばれてきた。

出典

参考文献

  • 内川芳美松島栄一監修 『明治ニュース事典第8巻(明治41年-明治45年)』 枝松茂之・杉浦正・鈴木利人ほか、毎日コミュニケーションズ、1986年1月。ISBN 4-89563-105-2。
  • 臼井勝美 「条約改正」『国史大辞典第7巻 しな-しん』 国史大辞典編集委員会、吉川弘文館、1986年11月。ISBN 4642005072。
  • 臼井勝美 「日米通商航海条約」『国史大辞典第11巻 にた-ひ』 国史大辞典編集委員会、吉川弘文館、1990年9月。ISBN 4-642-00511-0。
  • 藤村道生 「日米通商航海条約」『日本大百科全書』 小学館、小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459。
  • 佐々木隆 『日本の歴史21 明治人の力量』 講談社、2002年8月。ISBN 4-06-268921-9。

外部リンク