日英同盟

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日英協約
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批准書署名原本
通称・略称 第1次日英同盟条約
署名 1902年1月30日
効力発生 1902年1月30日
条約番号 なし(明治35年2月12日官報掲載)
言語 日本語、英語
主な内容 イギリスの清国における特殊権益、日本の清国と大韓帝国における特殊権益を相互に承認し、第三国と戦争となった場合、他の一方は中立を守る。
条文リンク 日英協約 - 国立国会図書館デジタルレクション
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日英同盟(にちえいどうめい、: Anglo-Japanese Alliance)は、日本イギリスとの間の軍事同盟(攻守同盟条約[1])である。

1902年1月30日ロシア帝国の極東進出政策への対抗を目的としてイギリス外務省において日本駐英公使林董イギリス外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの間で調印された[2]

その後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新されたが、1921年ワシントン海軍軍縮会議の結果調印された四カ国条約成立に伴って、1923年8月17日に失効した[3]

歴史

清の利権争い

1895年日清戦争で清国が日本に敗れて以降、中国大陸をめぐる情勢は一変した。日本への巨額の賠償金を支払うために清国政府はロシア帝国フランスから借款し、その見返りとして露仏両国に清国内における様々な権益を付与する羽目になったが、これがきっかけとなり、急速に列強諸国による中国分割が進み、阿片戦争以来の清のイギリス一国の半植民地(非公式帝国)状態が崩壊したのである[4]

とりわけ、シベリア鉄道満洲北部敷設権獲得に代表されるロシアの満洲や北中国への進出は激しかった[5]。フランスもフランス領ベトナムから進出して雲南省広西省広東省四川省など南中国を勢力圏に収めていき、北中国を勢力圏とするロシアと連携してイギリスを挟撃してくる恐れが生じた(ロシアとフランスは1893年に露仏同盟を締結しており、三国干渉に代表されるように中国分割においても密接に連携していた)[6]

これに対抗してイギリス首相第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは、清国の領土保全を訴えることで露仏が中国大陸におけるイギリスの権益を食い荒らすのを防ごうとした。さらに1896年3月にはドイツ帝国と連携して露仏に先んじて清政府に対日賠償金支払いのための新たな借款を与えることで英独両国の清国内における権益を認めさせた[7]

また1896年1月にはフランスと協定を締結し、英仏両国ともメコン川上流に軍隊を駐屯させず、四川省と雲南省を門戸開放することを約定した。これによってフランスの北上に一定の歯止めをかけることに成功した[7]

独露の進出阻止

1897年に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世率いるドイツ軍が清に出兵し、膠州湾を占領し、そのまま同地を租借地として獲得した。これについてソールズベリー侯爵ははじめドイツがロシアの南下政策に対する防波堤になるだろうと考えて歓迎していたが、ヴィルヘルム2世が山東半島全体をドイツ勢力圏と主張しはじめるに及んでドイツへの警戒感も強めた[8]

1898年に入るとロシアが遼東半島旅順を占領し、さらに大連にも軍艦を派遣し、清政府を威圧してそのまま旅順と大連をロシア租借地とした[9]。これに対抗してソールズベリー侯爵はこれまでの「清国の領土保全」の建前を覆して、清政府に砲艦外交をしかけて、山東半島の威海衛を「ロシアが旅順占領をやめるまで」という期限でイギリス租借地とした。同時にドイツが露仏と一緒になってこの租借に反対することを阻止するために山東半島をドイツ勢力圏と認めたが、これはイギリス帝国主義にとって最も重要な揚子江流域(清国の総人口の三分の二が揚子江流域で暮らしている)にドイツ帝国主義が進出していくことを容認するものであり、イギリスにとって大きな痛手だった[10]

1899年に入った頃にはロシア帝国主義の満洲と北中国全域の支配体制はより盤石なものとなっていた。ロシアがこの地域に関税をかけるのも時間の問題だった[11]。さらに1900年に起こった義和団の乱に乗じてロシアは満州を軍事占領した[12]。ロシアは満州からの撤兵の約束したが、なかなか撤退しようとせず、むしろ南の朝鮮半島にも触手を伸ばすようになった。これにイギリスと日本は警戒を強め、両国の間に対ロシアという共通の紐帯ができた[2]

同盟締結

この頃、日本の政界では、伊藤博文井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていたが、山縣有朋桂太郎西郷従道松方正義加藤高明らはロシアとの対立は遅かれ早かれ避けられないと判断してイギリスとの同盟論を唱えた。

結局日露協商交渉は失敗し、外相小村寿太郎により日英同盟締結の交渉が進められた。伊藤ももはや日英同盟に反対はせず、1902年1月30日にはロンドンの外務省において日英同盟が締結された。調印時の日本側代表は林董特命全権公使、イギリス側代表はソールズベリー侯爵内閣の外務大臣第5代ランズダウン侯爵ペティ=フィッツモーリスであった[2]

第一次日英同盟の内容は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものである。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。条約締結から2年後の1904年には日露戦争が勃発した。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。

また日英同盟を契機として日本は金準備の大部分をロンドンに置き、その半分以上はイギリス国債に投下したり、またはロンドン預金銀行に貸し付けるようになった[13]

第二次同盟

ファイル:MeijiEmperorReceivingOrderOfTheGarter1906.jpg
第2次日英同盟後の1906年に英国使節コノート公アーサー王子からガーター勲章を献上される明治天皇

第一次同盟は1902年1月30日から起算して5年間の有効とされた。しかし、締結2年後に日露戦争開戦し、戦況が日本軍の優勢となったことが英国内で報じられると、英国では同盟拡張などの唱道者も現れた。第一次同盟に調印したランズダウン英国外相は、1905年3月下旬に在英国日本国大使館の林大使との介して、同盟継続について準備協議を希望する旨を日本側に打診した。これを受けた日本側は協議を進め、日本政府が同年5月24日に閣議で裁可した新交渉案を英国に提示し、両国の事前交渉が始まった。

イギリス側は同盟の適応範囲をインドまで拡大することを希望したが、新たな戦争に巻き込まれたくなかった日本は難色を示した[14]。両国間で更なる協議が進められた結果、第一次では適用範囲が東亜(清韓両国)とされていたが、第二次日英同盟では東亜にインドを加えた適用範囲に拡大された。また、大韓帝国については、国際情勢から第一次よりさらに踏み込んだ保護国化(第三條)で両国が妥結し、第一次日英同盟での防守を主軸とした内容が、第二次では攻防へ変更された。

英国側はランズダウン外相、日本側は小村外相がポーツマス条約の事前交渉で米国に渡米していたことから、在英国日本国大使館の林特命全権大使が出席調印し、8月12日ロンドンで第二次日英同盟が締結された。第二次日英同盟では、イギリスのインドにおける特権と、国に対する両国を含む列国の商業的機会均等を肯定し、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けた攻守同盟に強化された[14]。日本の大韓帝国保護国化をイギリスが承認する条件で妥協した。また、同盟の有効期限が10年間へと変更延長となった。同条約は、ポーツマス条約後の同年9月27日に両国で公表されている。

第三次同盟

1911年に更新された第三次日英同盟では、アメリカが交戦相手国の対象外に定められた。ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかったが、これは日本、イギリス、ロシアの3国を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。 さらに、同年に発生した辛亥革命に対する日本の行動にイギリスは同調せず官軍と革命軍の仲介を図ったため、日本側はイギリスに不信感を持ち、両国にとって条約の重要性は低下した[14]。 また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。

同盟解消

第一次世界大戦後の1919年に、パリ講和会議で日本とイギリスを含む「五大国」の利害が対立し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残り[15]、1921年に、国際連盟規約への抵触、日英双方国内での日英同盟更新反対論、日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑、日本政府の対米協調路線を背景にワシントン会議が開催され、ここで、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の更新は行わないことが決定され、1923年、日英同盟は拡大解消した[16]

「拡大」とはいってもこれは日英同盟の実質的弱体化であった。当時のイギリスの外相アーサー・バルフォアは「20年も維持し、その間二回の大戦に耐えた日英同盟を破棄することは、たとえそれが不要の物になったとしても忍び難いものがある。だがこれを存続すればアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける。この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」という心境を告白している[17]

関連年表

日露戦争

対露仏同盟

日本にとって、当時世界一の超大国であったロシア帝国の脅威は国家存亡の問題であった。それは、日本側は日清戦争勝利による中国大陸への影響力の増加、ロシア帝国側は外交政策による三国干渉後の旅順及び大連租借権、満州鉄道利権の獲得により顕著になった。両国の世論も開戦の機運を高めていった。

しかし、日清戦争に勝利しわずかばかりの植民地を得たに過ぎない新興国の日本の勝算は非常に低く、さらに軍備拡大のための資金調達に苦労していた。日英同盟はこの状況に少なからず日本にとって良い影響を与えた。

当時のロシア帝国は対ドイツ政策としてフランス共和国と同盟関係(露仏同盟)になっていた。日露開戦となると、当然軍事同盟である露仏同盟が発動し、日本は対露・対仏戦となってしまう危険性を孕んでいた。以上の状況に牽制として結ばれた日英同盟は、1対1の戦争の場合は中立を、1対複数の場合に参戦を義務づけるという特殊な条約であった(これは戦況の拡大を抑止する効果だと思われる)。結果、日英同盟は露仏同盟にとって強力な抑止力となった。上記の条約内容からフランスは対日戦に踏み込むことができなくなったばかりか、軍事・非軍事を問わず対露協力ができなくなった。

イギリスの対日協力

当時、世界の重要な拠点はイギリスとフランスの植民地になっており、主要港も同様であった。日本海海戦により壊滅したバルチック艦隊は極東への回航に際して港に入ることができず、スエズ運河等の主要航路も制限を受けた。また、イギリスの諜報により逐一本国へ情報を流されていた。

日本にとって日英同盟は、「軍事資金調達の後ろ盾」、「フランス参戦の回避」、「軍事的なイギリスからの援助」、「対露妨害の強化」といった日露戦争において大きな保証を得るという側面を持つことになった。

ちなみに日露戦争においては、モンテネグロ公国も日本に対して宣戦布告したとされる。その場合、日本は国際法上2国を相手に戦争したこととなり、イギリスに参戦義務が生じていたこととなる。結局、モンテネグロ公国の宣戦布告は無視され、モンテネグロは戦闘に参加せず、講和会議にも招かれていない。もっとも、モンテネグロが実際に宣戦布告していたか、宣戦布告が正規のものだったかどうかは、異説がある。(参考:外交上の終結まで長期にわたった戦争の一覧)

第一次世界大戦

太平洋派兵

日本は、日英同盟に基づき連合国の一員として1914年8月23日第一次世界大戦に参戦した。ドイツ帝国に宣戦布告したことにより、日清戦争後の三国干渉によってドイツが中国から得た膠州湾租借地、19世紀にスペインから得た南洋諸島を、日本は参戦後瞬く間に攻略して占領し、極東および太平洋におけるドイツによる軍事的脅威を一掃した 。

さらに、イギリスからの要請を受けて、イギリス帝国の一部であるカナダの太平洋沿岸部における、ドイツ海軍艦艇による通商破壊戦に対して警戒することを目的に、巡洋艦「出雲」を派遣した。

地中海派兵

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トランシルバニア号救出翌日の駆逐艦榊
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マルタ共和国旧英国海軍墓地 (現英連邦墓地) にある修復直後の日本海軍第二特務艦隊戦没者の墓

大戦後半欧州戦線で連合国側が劣勢になると、イギリスを含む連合国は、日本軍欧州への派兵を要請してきた。これに対して日本政府は遠隔地での兵站確保は困難であるとして陸軍の派遣は断った。

しかしながら、ドイツ・オーストリア=ハンガリー海軍Uボート及び武装商船の海上交通破壊作戦が強化され、1917年1月からドイツおよびオーストリアが無制限潜水艦作戦を開始すると連合国側の艦船の被害が甚大なものになり、イギリスは日本へ、地中海へ駆逐艦隊、喜望峰へ巡洋艦隊の派遣を要請した。

日本にとって脅威を受けるわけでもなく、さらに直接的に何の利益も生まないヨーロッパへの派兵を最初は渋っていた日本政府も、日本海軍の積極的な姿勢と占領した膠州湾租借地と南洋諸島の利権を確実なものとするべく、1917年2月7日から順次日本海軍第一特務艦隊インド洋喜望峰方面、第二特務艦隊地中海第三特務艦隊南太平洋オーストラリア東岸方面へ派遣した。

中でも地中海に派遣された第二特務艦隊の活躍は目覚ましかった。大戦終結までの間、マルタ島を基地に地中海での連合国側艦船の護衛に当たり、イギリス軍艦21隻を含む延べ船舶数計788隻、兵員約70万人の護衛に当たった。そして、被雷船舶の乗組員7,075人を救助している。日本海軍が護衛に当たった「大輸送作戦」により、連合国側はアフリカにいた兵員をアレクサンドリアエジプト)からマルセイユフランス)に送り込むことに成功している。

特に、地中海での作戦を開始した1917年4月9日から1か月と経たない5月3日、駆逐艦はドイツUボート潜水艦の攻撃を受けたイギリス輸送船トランシルヴァニア号の救助活動に当たり、さらに続くUボートの魚雷攻撃をかわしながら、3,266名中約1,800人のイギリス陸軍将兵と看護婦の救助に成功した(その他の特務船と漁船による救助で合計3,000人を救助)。これ以前、救助活動にあたったイギリス艦船が二次攻撃で遭難して6,000名の死者を出したことにより、たとえUボートにより被害を出した船が近くにいたとしても、救助しないということになっていた。そのような状況での決死の救助活動であり、以来、日本海軍への護衛依頼が殺到した。後に、両駆逐艦の士官は、イギリス国王ジョージ5世から叙勲されている。

ところが、それからまた1か月後の6月11日、駆逐艦榊はオーストリア=ハンガリー海軍のUボート(Smu-27)の攻撃を受け、魚雷が火薬庫に当たったため爆発で重油タンクより前部、船体の3分の1が一瞬のうちに、吹き飛んでしまった。この攻撃により、艦長以下59名が死亡した[19]

第二特務艦隊は、駆逐艦榊の59名を含み78名の戦没者を出した。これら戦没者の慰霊碑が、マルタの当時のイギリス海軍墓地に榊遭難から1年後に建立された。慰霊碑はイギリス海軍墓地の奥の一番良い場所を提供され、当時、日本海軍の活躍をいかにイギリス海軍が感謝していたかがわかる。

なお慰マルタの霊碑は、第二次世界大戦時のドイツ軍によるマルタ包囲作戦で爆撃を受け、上4分の1が欠けてしまった。長らくその状態で荒れていたが、1974年新しく慰霊碑を作り直して復元した。

日英同盟とヴェルサイユ条約

脚注

  1. テンプレート:Kotobank2
  2. 2.0 2.1 2.2 君塚直隆 2012, p. 136-137.
  3. 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 23.
  4. 坂井秀夫 1967, p. 233.
  5. 坂井秀夫 1967, p. 227-228/235-236.
  6. 坂井秀夫 1967, p. 234.
  7. 7.0 7.1 坂井秀夫 1967, p. 235.
  8. 坂井秀夫 1967, p. 239.
  9. 池田清 1962, p. 146.
  10. 坂井秀夫 1967, p. 254-255.
  11. 坂井秀夫 1967, p. 276-277.
  12. 坂井秀夫 1967, p. 284-285.
  13. 吉岡昭彦 『近代イギリス経済史』 岩波書店 1981年 p.276.
  14. 14.0 14.1 14.2 片山慶隆『日露戦争と新聞:「世界の中の日本」をどう論じたか』 <講談社選書メチエ> 講談社 2009年 ISBN 9784062584531 pp.179-191.
  15. MSN産経ニュース【グローバルインタビュー】 - ヒュー・コータッツイ元駐日英大使「日本の人種差別撤廃条項を米英が否決したのは誤り」
  16. 2007年2月18日 NHK BS特集『世界から見たニッポン 大正編 日本はなぜ孤立したのか』
  17. 波多野勝 1998, p. 83.
  18. アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(下),A diplomat in Japan』坂田精一訳、岩波書店(岩波文庫)1990年、260頁の解説文、サトウは、はじめ1862年から約6年間外交官として、日本に滞在しており、伊藤博文(伊藤俊輔)、井上馨(井上聞多)の両名とは1864年(元治元年)の馬関戦争以来の旧知の間柄であった。そして1895年に、日本駐箚公使として再来日したのである。(なお、両名は長州藩より英国に派遣されており、馬関戦争直前に帰国していた。)
  19. 大正6年6月11日第11駆逐隊第1小隊(松、榊)戦闘詳報

参考文献

  • 池田清 『政治家の未来像 ジョセフ・チェムバレンとケア・ハーディー』 有斐閣、1962年(昭和37年)。
  • 君塚直隆 『ベル・エポックの国際政治 エドワード七世と古典外交の時代』 中央公論新社、2012年(平成24年)。ISBN 978-4120044298。
  • 坂井秀夫 『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』 創文社、1967年(昭和42年)。
  • 波多野勝 『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』 草思社、1998年(平成10年)。ISBN 978-4794208217。
  • 『英米史辞典』 研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478。
  • Ian H. Nish, The Anglo-Japanese Alliance: The diplomacy of two island empires 1894-1907, 2nd Edition, The Athlone Press, London and Dover NH, 1985.
  • Ian H. Nish, Alliance in Decline: A Study in Anglo-Japanese Relations 1908-23, The Athlone Press, London, 1972.
  • Phillips P. O'Brien(ed.), The Anglo-Japanese Alliance, 1902-1922, RoutledgeCurzon, London and New York, 2004.
  • Anglo-Japanese Alliance - ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス STICERD Discussion paper, 2002.
  • Studies in the Anglo-Japanese Alliance (1902-23) - LSE STICERD Discussion paper, 2003.
  • 片岡 覚太郎 (著), C.W. ニコル (編集), 日本海軍地中海遠征記 若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦, 河出書房新社 2001.

関連項目


外部リンク