日野茂

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日野 茂(ひの しげる、1945年1月11日 - )は、長野県松本市出身の元プロ野球選手内野手)、指導者、監督

来歴・人物

県立船橋高から中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは2回優勝。2年生からレギュラーとなり、リーグ通算86試合出場、308打数81安打、打率.263、5本塁打、33打点。1964年春季リーグでベストナイン(遊撃手)に選出された。大学同期に高橋良昌(善正)高畠導宏(康真)がいる。また遊撃手として、2年先輩の武上四郎と二遊間を組んだこともある。

大学卒業後は、社会人野球松下電器に入団し、1967年都市対抗に出場。

1967年にドラフト外中日ドラゴンズへ入団。1968年は主に一枝修平の控え遊撃手として43試合に出場。その後はあまり出番が無く、1972年途中に西鉄ライオンズ1973年より太平洋クラブライオンズ)へ移籍。同年は25試合に遊撃手として先発出場。翌1973年も開幕戦から先発で起用され、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍、しかし1974年には出場機会がなく、同年限りで引退。

引退後は太平洋・クラウンライター・西武で一軍守備・走塁コーチ(1975年, 1977年, 1981年)、二軍守備・走塁コーチ(1976年, 1982年 - 1984年, 1987年 - 1991年)、二軍監督(1985年 - 1986年)、三軍守備・走塁コーチ(1992年)、スカウト(1978年 - 1980年)を歴任。1998年横浜ベイスターズ二軍ヘッドコーチに就任。1999年から2003年シーズン途中の7月6日までは二軍監督を務めた(2000年は二軍の球団名を湘南シーレックスに変更[1])。2003年シーズン途中(7月7日)は江藤省三と配置転換される形で一軍ヘッドコーチに就任し、シーズン終了まで務めた。

ライオンズ時代には真弓明信田邊徳雄、ベイスターズ時代には金城龍彦を育てた。

2004年球界再編騒動ではライブドアが設立した新規プロ野球参入球団「仙台ライブドアフェニックス」に参加し、スカウティングディレクターを務めた[2]

現在は、ZEROベースボールアカデミー顧問とヒーローズベースボールアカデミーの特別顧問を務めている。

詳細情報

年度別打撃成績


















































O
P
S
1968 中日 43 64 59 2 8 0 0 0 8 1 0 3 3 0 2 0 0 15 1 .136 .164 .136 .300
1969 12 8 7 5 3 0 0 0 3 0 0 1 0 0 1 0 0 1 0 .429 .500 .429 .929
1970 24 21 18 2 2 1 0 0 3 0 0 0 1 0 1 0 1 4 1 .111 .200 .167 .367
1971 24 7 7 5 1 0 0 1 4 1 2 2 0 0 0 0 0 3 0 .143 .143 .571 .714
1972 西鉄
太平洋
50 91 86 10 22 5 0 2 33 11 4 5 1 1 3 0 0 21 1 .256 .278 .384 .661
1973 62 89 80 8 15 2 0 1 20 5 3 0 2 0 6 0 1 15 4 .188 .253 .250 .503
通算:6年 215 280 257 32 51 8 0 4 71 18 9 11 7 1 13 0 2 59 7 .198 .242 .276 .518
  • 西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブライオンズ)に球団名を変更

背番号

  • 6 (1968年 - 1970年)
  • 5 (1971年 - 1972年途中)
  • 8 (1972年途中 - 1974年)
  • 75 (1975年 - 1977年、1981年)
  • 89 (1982年 - 1992年)
  • 71 (1998年 - 2003年)

脚注

  1. この時誕生した湘南シーレックスのマスコットキャラクターのうち、監督役のシーノンのモデルになったとされている。なおシーノンの背番号は当時の日野と同じ「71」であった。
  2. スポーツ報知【あの時・幻の新球団ライブドア】(4)お金なかった…漫喫で資料作成」、2016年1月25日付

関連項目

外部リンク