朝鮮戦争

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朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)

朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) と大韓民国 (韓国) の間で 1950年6月に始った紛争で,およそ 300万人が命を落した。米軍を主体とする国連軍が韓国側に立って戦争に参加し,また中国が最終的に北朝鮮支援に動いた。戦況は目まぐるしく変化した末,戦争は 1953年7月,決定打のないまま終結した。

1950年6月 25日,北朝鮮はソ連の暗黙の了解のもと,38度線の南部に対する綿密な攻撃計画を発動した。国連安全保障理事会 (安全保障理事会 ) は緊急会議を開き,北朝鮮の侵略を押しとどめるためすべての国連加盟国に支援を要請する決議を採択した。6月 27日,トルーマン米大統領は議会にはかることなく,宣戦を布告し,国連の警察活動の一環として韓国を支援するよう米軍に命じた。この間,韓国軍は北朝鮮軍に圧倒された。不十分な装備のまま応援に駆けつけた米陸軍の4個師団も南へと後退し,朝鮮半島の南端に押込められた。しかし,米軍は大量の援軍を得,さらに9月 15日,マッカーサー将軍率いる部隊が 38度線の南方およそ 160キロの仁川に上陸作戦を敢行した。主要戦線のはるか北方で上陸作戦を行なったことで,国連軍は北朝鮮軍の分断に成功し,北朝鮮軍は南北からの挟撃を受けて,完全に粉砕され,12万 5000人以上が捕虜となった。

国連軍が北上して 38度線まで押返したとき,中国は国連軍が北朝鮮に存在することは国家安全保障にとって受入れがたく,この戦争に介入せざるをえないと警告した。しかし,国連軍は警告を無視し,南北統一の意図を表明するとともに,北朝鮮に進軍した。 11月半ばまでに,国連軍部隊は北朝鮮と満州 (中国東北部) の国境である鴨緑江に接近しつつあった。 11月 24日,マッカーサーは「クリスマスまでには帰国」を実現するとして一大攻勢を発表,彼が率いる部隊は勇躍,鴨緑江まで進軍するはずだった。翌日,およそ 18万人の中国義勇軍が参戦し,冬季の苦しい戦闘と悲惨な退却のあと,国連軍は 12月 15日までに再び南の 38度線まで押返されてしまった。 50年 12月 31日,共産勢力はおよそ 50万人の将兵とともに2度目の韓国侵攻を開始したが,国連軍の絶え間ない空爆を受けて攻撃が鈍り,前線は最終的に 38度線沿いで動かなくなった。一方,マッカーサーは中国沿岸部の封鎖と満州の基地に対する空爆を当局に要求したが,それはソ連の参戦を招き,世界規模の紛争にいたると恐れるトルーマンはこの要求を却下。 51年4月,トルーマンはマッカーサーを国連軍司令官,極東軍司令官から解任し,リッジウェー将軍を後任に据えた。

51年7月,停戦交渉が開始され,52年秋にアイゼンハワーが米大統領選挙に勝利するまで続いた。アイゼンハワーは北朝鮮,中国とひそかに連絡をとり,和平合意がならない場合,核兵器を使用する用意があり,対中戦争も辞さないと伝えた。 53年7月 27日,休戦が成立し,そのときの前線が南北間の事実上の国境として受入れられた。この戦争で,およそ 130万人の韓国人 (その多くは民間人) が死亡し,中国人の死者は 100万人,北朝鮮人は 50万人,アメリカ人は約5万 4000人が死亡したほか,連合軍側ではイギリス人,オーストラリア人,トルコ人の犠牲者も少数ながら出ている。数百万人の南北朝鮮国民が一時的に難民となり,韓国の工業施設の大半が被害を受け,北朝鮮はアメリカの空爆作戦により徹底的に破壊された。

脚注