木下尚江

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木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日明治2年9月8日[1])- 1937年昭和12年)11月5日[1])は、日本社会運動家、作家。男性。尚江は本名。

生涯

信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士・木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。長野県中学校松本支校を経て、1888年(明治21年)、東京専門学校を卒業する[2]オリバー・クロムウェルの影響を受け、法律を学ぶ。松本に戻り、しばらくは地元でローカル紙「信陽日報」の記者や社会運動家、弁護士などの活動をする。25歳で松本美以教会中田久吉牧師より、キリスト教の洗礼を受ける。1899年(明治32年)に毎日新聞(旧横浜毎日新聞、現在の毎日新聞とは無関係)に入り、廃娼運動、足尾銅山鉱毒問題、普通選挙期成運動などで論陣を張る。

1901年(明治34年)には幸徳秋水片山潜堺利彦らの社会民主党の結成に参加する。日露戦争前夜には非戦論の論者として活躍。

1906年(明治39年)の母の死をきっかけに、社会主義から次第に離れるようになる。田中正造の死期に立ち会い、看護を行っている。後年は人間主義の著作活動を行う。

教文館より『木下尚江全集』全20巻が刊行されている。また、松本市の松本市歴史の里内に木下尚江記念館がある。

1937年(昭和12年)死去。享年69。

年譜

ファイル:Socialists of Japan in 1901.JPG
1901年の木下(中央)。向かって右隣は片山潜、左隣は幸徳秋水で、左端は安部磯雄

分県騒動とのかかわり

1876年(明治9年)に松本を県庁所在地とする筑摩県が廃止されると、以後、松本町民(当時)はことあるごとに「県庁が北に偏りすぎている」として松本への移転を叫ぶようになった。木下の帰郷後の1890年(明治23年)、「移庁建議書」が県議会に上程され、否決されると、町の世論は「移庁論」から、筑摩県の再設置を求める「県分割論」へと変わった。

木下は当初、移庁論を積極的に推進したが、斯様な世論のすり替わりに対しては痛烈な批判をした。旧筑摩県全体ではなく、松本のみの都合を考えた「我田引水」とみたからである。

彼の言論は反発を呼び、松本の民衆から石を持って故郷から追い出された。この事件は地元住民の視野や価値観の狭隘さが如実に現れたもので、石川安次郎宛の手紙でも「松本の人が木を見て森を見なかったのは、山河に隔てられて狭いところでしか物事を考えられなかったから」としている。しかしこのことは、木下を一地方都市に留まらせずに中央の言論界で活躍させるきっかけを作ったといえる。

作家としての作品

  • 『良人の自白』
  • 『火の柱』
  • 『懺悔』
  • 『墓場』
  • 『国家主義以前』

脚注

関連項目

外部リンク