李鴻章

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李 鴻章(り こうしょう、拼音: Lǐ Hóngzhāng リー ホンチャン、1823年2月15日道光3年1月5日) - 1901年11月7日光緒27年9月27日))

[生] 道光3(1823).2.15. 安徽,合肥

[没] 光緒27(1901).11.7. 北京

中国,清末の政治家。安徽省合肥の人。字は少荃。号は儀叟。諡は文忠。道光27(1847)年の進士。初め翰林院に入り,太平天国軍の南京進出により帰郷,安徽巡撫福済の幕僚となり,咸豊8(1858)年湘軍を率いる曾国藩の幕僚となった。同治1(1862)年,曾の推挙で江蘇巡撫となり,淮軍を編制して上海救援に活躍。同 4年両江総督となり,翌年から同 7年まで欽差大臣として捻軍討滅にあたった。のち湖広総督を経て同 9年に直隷総督となり,以後光緒21(1895)年まで 25年間その職にあった。その間北洋大臣も兼ねた。また外交を一手に引き受け,日清戦争後の下関条約では全権大使として調印している。同 22年使節としてロシアに赴き,同 25年両広総督となり,同 26年直隷総督に再任されたが,翌年病没。洋務運動(洋務派)を推進する漢人官僚の第一人者として近代的軍隊の創設,海軍の建設,軍事工業の推進,鉱山の開発,鉄道の敷設など各方面に活躍。外交面でも直隷総督就任以降,義和団事変までのほとんどの問題に対処した。主著『李文忠公全書』(165巻)。