東映

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東映株式会社(とうえい)は、日本映画の製作、配給、興行会社。2013年現在、直営の映画館2館、2つの撮影所東映東京撮影所東映京都撮影所)を保有。テレビ朝日ホールディングスの大株主で、同時にテレビ朝日ホールディングスが東映の筆頭株主になっている[1]

概要

劇場用映画の制作、配給、興行を行うほか、洋画の買い付けと配給、テレビ番組の制作、広報映画の制作や教育映画の制作販売を行う総合映像企業。子会社を通じ劇場用アニメーション、テレビ用アニメーションほか各種アニメーションの制作、テレビコマーシャルなど各種コマーシャルフィルムの制作、オリジナルビデオやカラオケビデオの制作販売も行う。また、現像所も持っている。
同業他社に比べて映像部門が多岐にわたる一方で、子会社を通じた事業多角化は古くから行い、かつてはプロ野球やボウリング、交通事業等を手掛け、現在もホテルやゴルフ場、不動産開発事業を行っている。また京都撮影所の一部をテーマパーク化した「東映太秦映画村」なる観光事業も行っている。

沿革

東京・大泉の旧新興キネマ東京撮影所を買収して貸スタジオ経営を始め、やがて映画製作に進出した太泉映畫1947年10月15日設立)と、1938年(昭和13年)東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄)の興行子会社として東急東横線の沿線開発を目的に設立され、東京渋谷横浜で映画館を経営していたが、戦後大映より京都第2撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)を賃借して映画製作に進出した東横映画(1938年6月8日設立)、双方で製作された作品配給のために1949年昭和24年)10月1日設立された東京映画配給株式会社が、制作会社2社を吸収合併。1951年(昭和26年)4月1日、社名を東映株式会社と改めて再出発した。東横映画を吸収した事からもわかるように、設立の背景には東京急行電鉄が大きく関与している。阪急電鉄創業者の小林一三東宝を作ったように、五島慶太は東映を作った[2]。東横映画には、マキノ光雄根岸寛一を中心に、大陸から引き上げた満州映画協会OBが製作スタッフとして参加しており、そのまま東映に移行した彼らは松竹、東宝、大映に継ぐ後発映画会社である「第四系統」として誕生した会社を担うことになる。上記のように企業としては戦後派であるが、東西撮影所は撮影所は坂妻プロ→帝キネ(以上は京都のみ)→新興→大映第二という流れを引き継いでおり、徹底して大衆娯楽路線を重視する姿勢も帝キネや新興の気風を受け継いでいる。

1950年代に入ると、戦前から活躍する時代劇スターの片岡千恵蔵市川右太衛門月形龍之介大友柳太朗らを擁し、さらに東映娯楽版によって若者に人気を得た中村錦之助東千代之介がデビュー。その後大川橋蔵や市川の息子・北大路欣也子役で加わり、東映時代劇ブームを巻き起こして、1956年(昭和31年)には松竹を抜いて配給収入でトップとなり黄金時代を築いた。しかし、明朗な勧善懲悪の東映時代劇は1960年代に入ると行き詰まり、末期にリアリズムの集団時代劇を生み出すものの終焉[3][4]。映画不況が始まった1960年代に入ると時代劇は客が入らなくなり、コストダウンのため1963〜64年にかけて、東映京都撮影所の大リストラを敢行し、東映テレビ・プロダクション、東映動画へ大半の従業員が配転される。また取締役俳優である片岡と市川は取締役の地位は留任するもの専属契約が切られ、市川は映画から引退。演出料が非常に高い渡辺邦男松田定次佐々木康などの時代劇の監督も東映を退社して行った。

現代劇は1950年代半ばから1960年代前半にかけて、中原ひとみ高倉健水木襄佐久間良子梅宮辰夫千葉真一主演スター東映ニューフェイスから輩出。1957年(昭和32年)には東映東京撮影所の隣に動画専用スタジオを建設し、前年に日動映画を合併して設立した東映動画を移転させた。1958年(昭和33年)には競合会社よりもいち早くテレビ映画の製作に着手。同年に大泉に東映テレビ・プロダクションとその撮影所を設ける。観客動員No.1となった東映は1960年(昭和35年)に第二東映を設立し、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指した。同年に第二東映が新東宝を吸収合併し、時代劇を新東宝が現代劇を第二東映が制作する新会社の新東映の設立が仮調印直前まで進むも頓挫[5]。翌1961年に第二東映はニュー東映と改称するが、うまくいかずに2年で解散した。

1963年(昭和38年)からは時代劇に代わって、明治期から昭和初期を舞台にし勧善懲悪の世界の時代劇の変種でもある仁侠映画[6]、両撮影所で量産し、1965年(昭和40年)から鶴田浩二・高倉健・藤純子らを擁し約10年続く。1973年の『仁義なき戦いシリーズ』でヤクザ映画が実録ものに切り替わる。格闘映画では千葉真一と志穂美悦子の作品がブレイクし、千葉の格闘映画は海外でも大ヒットした[7][8][9][10]プログラムピクチャーとしてのヤクザ映画路線は1977年に終了した[11][12]。1975年(昭和50年)に新たなジャンルであるパニック映画新幹線大爆破』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では大ヒットした。同年の『トラック野郎』は『新幹線大爆破』よりヒットしたため、シリーズ化された。

この間、1954年(昭和29年)にはプロ野球の東急フライヤーズの運営を東京急行電鉄から受託し、東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)とした。また、1959年(昭和34年)開局の日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に資本参加し同局番組の有力な供給源となるなど、来るべきテレビ時代に先手を打った。ところが、1964年(昭和39年)9月30日には資本面で東急から分離独立する。この背景には嫌々ながら東映の社長に派遣され、多重債務を抱え自転車操業で倒産寸前だった同社の再建を成功させた大川博と、東急本体を引き継ぎ東急グループの基本を沿線開発に据えた五島昇との間に確執があったと言われている。東映フライヤーズは引き続き共有の形を採った。ただし、2014年現在も東京急行電鉄は第5位株主であり、また関係会社ではある。

1966年(昭和41年)、日本教育テレビ持株の半数を朝日新聞社へ譲渡し、成績不振と黒い霧事件の余波で観客数が伸び悩んでいた東映フライヤーズを東急と共に1972年(昭和47年)オフに日拓ホームに売却。その一方で、シティホテル不動産分譲、撮影所余剰地の複合施設開発など新規事業を開拓して事業の再構築を行った。1960年代半ばから映画の斜陽化が顕著になると、ヤクザ映画で観客動員を保つ一方で、1971年(昭和46年)二代目社長に就任した岡田茂は、テレビに取り込まれない客層を狙い実録ヤクザものやエログロものを量産して興行収入で他社を圧倒した。 渡邊亮徳がテレビ事業部の責任者になってからは、多くのテレビ作品・アニメや仮面ライダー・戦隊シリーズ等の作品制作と同時にメディアミックスを盛んに展開することで、斜陽となった映画部門を支えて行く。 1972年に洋画配給部門を新設し、洋ピンと呼ばれる欧米のポルノ映画を配給したのを手始めに[13]1975年の『ドラゴンへの道』や1979年の『ドランクモンキー 酔拳』などブルース・リージャッキー・チェンといった香港映画を中心に配給[14]。東映洋画部ではその他にも1977年から『宇宙戦艦ヤマト』シリーズなどアニメ映画を配給して[15]、邦画部門の不振を補ったほか、劇場用映画以外にテレビ映画の制作にも積極的に取り組んだ。時代劇が斜陽になったことから1975年(昭和50年)に京都撮影所のオープンセットの維持を画して、一部を東映太秦映画村とした。

1978年正月公開の『柳生一族の陰謀』から従来の量産体制による2本立て興行に代わって、大作映画1本立て長期興行路線が定着。それとともに、子会社に東映セントラルフィルムを設立して同年に『最も危険な遊戯』を第1作として公開。1988年に解散するまで本社の大作路線を補完する中小規模予算のプログラムピクチャーの製作会社として、あるいは外注したピンク映画の配給会社として活動した[16][17][18]。1970年代後半から映画プロデューサーとして角川春樹と提携し、『悪魔が来りて笛を吹く』、『白昼の死角』、『魔界転生[19] を手始めに、角川映画を数多く配給し始める。1980年代に入ると提携作品や小屋(映画館)を貸すだけの買い取り作品などが増え、純然たる東映作品、純然たる東映育ちのスタッフ、キャストが作る作品が減った[20]

東宝は1943年の東宝争議の終結以来、ほぼ一貫して、左翼的な政治性を嫌い、エロチシズムを嫌い、暴力を嫌う『健全娯楽』路線を守ってきた[21]。東映が暴力を鮮やかに映画的な魅力に結晶させた時期に、東宝はずっと作品的にも興行的にも東映の後塵を拝していた[21]。東映の路線に乱れが生じ、行き詰ったとき東映は『健全娯楽』の東宝に抜かれることになる[21]

1960年代から始めていた東映まんがまつりは子供向け映画として定期興行をしていたが、1996年平成8年)からは凋落していった[22]。洋画配給についても1987年の『七福星』をもって中止となった[14]1980年代は角川映画のおかげで東宝と互角の勝負が出来ていたが、1990年代に入ると、アニメ映画とシリーズものが全盛期が過ぎたこと、『公園通りの猫たち』に代表される企画製作能力の機能不全、ヤクザ路線の行き詰まり、自社のブロックブッキングの強化が遅れたことなどにより、東宝と拮抗していた興行成績が引き離されていった[23]

1989年(平成元年)からは東映Vシネマというオリジナルビデオをリリースすることで映画の制作数を補うなど、スクリーン以外での映像展開を積極的に進めて対応を図っている。

2011年9月の『アジョシ』から、国際営業部が新レーベル「TOEI TRY△NGLE」(東映トライアングル)で約30年ぶりに日本国外映画の買い付けと配給を再開した[14][24]

社風

東映は、経理畑出身の大川博による徹底した予算主義と、徹底作品中心による大衆路線を採用した[25][26][27][28]。無駄なフィルムを使うと即座に始末書を書かされたと言われる[29]

スター・システム撮影所システムによって、特に時代劇全盛期には、序列化されたスターを頂点としてスタッフと俳優が派閥化されていた[30]。スターについても男性スターが中心で、女優はいわゆるお姫様女優であった[30][31][32]。時代劇ブームが終焉した1960年代半ばから、ヤクザ映画とアウトローによる暴力路線、アクション映画エログロなど犯罪・暴力をモチーフを中心としたことから「不良性感度」と標榜された[33]。しかし「不良性感度」に限定された路線は女優の受け皿を狭めることとなり、関根恵子は東映に誘われても断っている[34]。1970年代半ばからの実録路線以降から男性客がメインとなり[35]、対照的に女性客は離れていく[36]。この路線は1980年代後半の『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズまで続いた[37]

正社員の採用において学歴や縁故を大変重視しており、中島貞夫の著書によると日芸早大東大慶大、京都撮影所枠で京大同志社以外の学生は採用に至ることは縁故以外ではなかったという。しかしながら、近年、この傾向は弱くなりつつあり、上記の大学卒以外や専門学校卒からの採用も多くなってきている。また、東京撮影所こそ、佐藤純彌伊藤俊也降旗康男(東大)、野田幸男(京大)、内藤誠鷹森立一(早大)、と、上記の指定校出身監督の活躍が目立つものの(ただし最後の生え抜きエースともいえる澤井信一郎東京外大卒である)、京都撮影所の主力としては当の中島と山下耕作(京大)、工藤栄一(慶大)ぐらいであり、立命館大学中退の鈴木則文同志社大学中退の沢島忠、工業高校卒の関本郁夫が彼らに伍してエース級となっている。このように大卒でない採用社員を監督として活躍させた例は、戦後の大手他社ではほとんど見られない。東映採用ではないが新東宝から移籍した石井輝男早稲田実業学校中退)は東西の撮影所で大活躍した。また、日芸出身者は文芸学科卒の深作欣二、法文学部芸術学科時代の小沢茂弘が突出しているだけで、映画学科卒は倉田準二(京都)ぐらいしか目立たない。特に監督昇進後の活躍度に基準を置くと、東映はむしろ学閥や学歴主義を排した社風となっている。2010年代でも高卒の京都撮影所長(岡田茂はこの地位を離れてわずか3年後に社長就任し、その後任の高岩淡社長も輩出した重職である)が就任した。

俳優の専属制度も大手では最も維持された。千葉真一松方弘樹梅宮辰夫ら昭和十年代生まれ世代の俳優たちにまで「もと東映仲間」というカラーが現在も強く残っている。これも、1970年前後に自社製作も専属制も事実上白紙にしてしまった東宝や、同じころから渥美清ハナ肇ザ・ドリフターズ石坂浩二ら舞台、テレビ出身の社外俳優に依存するようになっていた松竹などと一線を画している。

大川親子、岡田親子ともに最初はサラリーマン的立場であった経営者が実質上のオーナーに近い立場で居座り事実上乗っ取り経営(大川家は最終的には社長の世襲までは至っていない)が続いており、背任罪すれすれで強烈な指揮権によってもっとも製作カラーの鮮明な映画会社であり続けている。これは、実質的親会社となる東映不動産の実権を握る事により乗っ取っていこうとする体質が、大川親子・岡田親子へと未だに引き継がれ私物化され続けている、ある意味非常に稀有な企業である。

おしゃれなデートコースとしての映画館という風潮とは対極に位置することもあり、早々に自社製作を事実上中止した東宝とは対照的にテレビ、アニメを含め徹底した自社製作を貫いてきた。

オープニング

東映映画のオープニングといえば3つの岩に荒波が打ち付け、三角形のロゴマークが飛びだすシーンである。3つの岩は、東映の前身である東京映画配給、太泉映画、東横映画の3社の統合と結束をイメージしている。社内での正式な呼び名は「荒磯に波」である。撮影場所は千葉県銚子市犬吠埼とされている。1955年(昭和30年)公開の『血槍富士』で初めてオープニングに登場し、1957年(昭和32年)公開の『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』から毎回使われるようになった[38]。現在使われているものは4代目になり、CG加工された画面が現れた後、一転して波飛沫が岩にかかるおなじみのシーンに変わる。そこにはすでにロゴマークがあり、かつてのように岩の合間から飛びだしてこない。

第二東映やニュー東映のオープニングは活火山噴火口をズームアップし、三角形のロゴマークが飛びだすシーンで、海と山を対極にしたものとなっている。

基本的に同時代に公開された作品は、全て共通のオープニングの映像が用いられている。例えば、深作欣二の『火宅の人』で作品内容に沿うように木村大作日本海で新たに撮影したオープニングを使おうとしたところ、岡田茂社長から「会社の顔を変えるとは何事だ」と一喝されて、却下された[39]。例外として、中島貞夫の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』は、当時スタンダード・サイズのオープニングが紛失していたため、銚子の灯台で撮り直されている[40]

1970年代のヤクザ映画全盛期には、莫大な興行収入を得ながらもスタッフやキャストへの金払いが悪かった事、強引なブッキングを強いた事などから、「東映の三角マークは義理欠く恥欠く人情欠くの三欠くだ」と揶揄され、アニメ・ゲームやバラエティでしばしばパロディにされる事もある。

テレビ

歴史

映画と並び会社の中核とされるのがテレビ向け作品である。

映画会社の中では東映がテレビに最も積極的であり、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)の設立にあたっては資本参加をし、1958年昭和33年)5月にテレビ課を設けた。さらに1958年(昭和33年)7月に東映テレビ・プロダクションを設立して、東京撮影所と京都撮影所でテレビ映画の制作を開始した。1959年(昭和34年)2月から放送開始の『風小僧』がその第1弾である。初期においては制作したテレビ映画は放送の3ヶ月後に劇場向けの添え物として再編集し、東映特別娯楽版として配給も行う再利用も行っていた。そして1961年(昭和36年)にNETとテレビ映画制作の業務提携を結び、1969年(昭和44年)には年に35シリーズ、826本を制作した。[41][42]

株式会社東映テレビ・プロダクションは、放送したテレビ映画を劇場向けに配給するために1959年(昭和34年)2月に東映テレビ映画株式会社と商号を変更し、さらに5月に第二東映株式会社となったため、1959年(昭和34年)11月に新たにテレビ映画制作業務を行う法人としてかつての社名と同名の株式会社東映テレビ・プロダクションを設立した[43]。1964年には、東映京都撮影所の敷地内に東映京都テレビ・プロダクションが発足[44]

東西の東映テレビ・プロは、NETが50%資本参加したために原則として筆頭株主であるNET専門の制作であった[45]。東映本体も、1960年代半ばまでは業界的にはNET系のプロダクションと見られていた(実際には東映の方が大株主)と、キャラクター作品担当のプロデューサーだった平山亨は後年、雑誌『宇宙船』で回顧している。逆にNETの側は基本的に外注は東映が独占するという取り決めがあった[46]。NET以外の他局には、東映東京撮影所内に新たに設けられた東映東京制作所と、京都では京都撮影所とは別機構として設けられた東映京都制作所の両制作所が制作を請け負うことになった。京都制作所は後に東映太秦映像と改称された[47]

東映京都テレビ・プロは時代劇や近代もの、京都が舞台の現代劇を、東映太秦映像は別会社の制作下請けを、東映東京制作所(大泉および生田スタジオ)は主に特撮キャラクターもの等子供向けの作品を、東映テレビプロ(大泉)は主に刑事ドラマ等大人向けの作品を、それぞれ鎬を削りながら量産を続けた。劇場映画においても早くから、時代劇をはじめ、『警視庁物語シリーズ』、『少年探偵団シリーズ』など、のちテレビで主流になるような娯楽分野で多くのノウハウを積んでいたことも大きな強みとなった。ライバルの東宝のサラリーマン物や喜劇、特撮物、松竹のホームドラマやメロドラマが、そのままテレビにスムーズに活用できているわけでない点と比較しても、同社のテレビ展開の速度は群を抜いていた。

テレビ参入当初からテレビ時代劇は、1959年(昭和34年)のNETの開局からレギュラー枠として制作が続けられて一時は大きな柱だったが、時代劇の減少に伴い、東映京都撮影所の本編スタッフが時代劇も手がけるようになり、1988年(昭和63年)の『名奉行 遠山の金さん』の第1シリーズが終了した時点で時代劇を主としてきた京都の東映京都テレビ・プロは解散[48]。さらに2007年平成19年)9月をもってテレビ朝日の東映制作のレギュラー時代劇は消滅している[49]

1964年(昭和39年)から映画館で上映されていたプログラム「東映まんがまつり」では子供向けのアニメや特撮などのテレビ作品はテレビからのエピソードがそのまま上映されていたが、1980年代頃からは新作が増えてテレビの再利用はなくなっていった。

放送枠

ここでは実写番組のみを記載し、アニメ枠は除く。

興行成績

1999年以前

ファイル:Distributors income in Japan.png
配給会社別年間配給収入

1999年までは、映画の興行成績は配給収入で発表されていた。

東映年間配給収入
年度 年間配給収入 前年対比 配給収入トップ番組 出典
映画タイトル 配給収入
1975 086億6082万円 104.0% トラック野郎・御意見無用 04.2億円 [50][51]
1976 091億6405万円 105.8% トラック野郎・爆走一番星 07.8億円 [52][53]
1977 080億4190万円 087.8% 人間の証明 22.5億円 [54][55]
1978 084億7860万円 105.4% さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち 21.0億円 [56][57][† 1]
1979 080億0250万円 094.7% 銀河鉄道999 16.5億円 [58]
1980 077億9284万円 097.1% 二百三高地 18.0億円 [59][60]
1981 071億8707万円 092.3% さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅 11.5億円 [61][62]
1982 110億0954万円 153.2% セーラー服と機関銃/燃える勇者 23.0億円 [63][64]
1983 127億1428万円 115.5% 探偵物語/時をかける少女 28.0億円 [65][66]
1984 132億7359万円 104.4% 里見八犬伝 23.2億円 [67][68]
1985 099億5733万円 075.0% Wの悲劇/天国にいちばん近い島 15.5億円 [69][70]
1986 108億2512万円 108.7% 野蛮人のように/ビー・バップ・ハイスクール 14.5億円 [71][72]
1987 090億7607万円 083.8% ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎行進曲 10.1億円 [73][74]
1988 090億7800万円 100.0% あぶない刑事 15.0億円 [75][76]
1989 099億7941万円 109.9% 魔女の宅急便 21.5億円 [77][78]
1990 109億9106万円 110.1% 天と地と 50.5億円 [79][80]
1991 085億3432万円 077.6% '91夏東映アニメフェア(『ドラゴンボールZ とびっきりの最強対最強』ほか) 14.0億円 [81][82]
1992 065億9035万円 077.2% '92春東映アニメフェア(『ドラゴンボールZ 激突!!100億パワーの戦士たち』ほか) 16.0億円 [83][84]
1993 063億8512万円 096.9% '93春東映アニメフェア 鳥山明 THE WORLD 2(『ドラゴンボールZ 燃えつきろ!!熱戦・烈戦・超激戦』ほか) 13.7億円 [85][86]
1994 070億2628万円 110.0% '94春東映アニメフェア(『ドラゴンボールZ 危険なふたり!超戦士はねむれない』ほか) 14.5億円 [87][88]
1995 064億0496万円 091.2% '95春東映アニメフェア(『ドラゴンボールZ 復活のフュージョン!!悟空とベジータ』ほか) 12.7億円 [89][90]
1996 047億4639万円 074.1% 劇場版美少女戦士セーラームーンSuperS

'96春東映アニメフェア(『ドラゴンボール 最強への道』ほか)


'96夏東映アニメフェア(『(超)劇場版!地獄先生ぬ〜べ〜』ほか)


わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語


X-エックス- / スレイヤーズRETURN

06.0億円 [91]
1997 080億1184万円 168.9% 失楽園 23.0億円 [92][93]
1998 056億7181万円 070.8% 不夜城

プライド・運命の瞬間

11.0億円 [94][95]
1999 052億6345万円 092.8% 鉄道員(ぽっぽや) 20.5億円 [96][97]

2000年以降

2000年からは、映画の興行成績は興行収入で発表されている。

東映年間興行収入
年度 年間興行収入 前年対比 興行収入トップ番組 出典
映画タイトル 興行収入
2000 109億8361万円 テンプレート:NA デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!
ONE PIECE
21.7億円 [98][99]
2001 125億3610万円 114.1% バトル・ロワイアル 31.1億円 [100][101]
2002 097億6418万円 077.9% 千年の恋 ひかる源氏物語 20.8億円 [102][103]
2003 100億2709万円 102.7% ONE PIECE THE MOVIE デッドエンドの冒険 20.0億円 [104][105]
2004 095億7816万円 095.5% 半落ち 19.0億円 [106][107]
2005 119億8586万円 125.1% 北の零年 27.0億円 [108][109]
2006 133億2192万円 111.1% 男たちの大和/YAMATO 50.9億円 [110][111]
2007 085億2444万円 064.0% 大奥 22.0億円 [112][113]
2008 119億7561万円 140.5% 相棒 -劇場版- 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン 44.4億円 [114][115]
2009 179億8025万円 150.1% 劔岳 点の記 25.8億円 [116][117]
2010 136億0332万円 075.7% ONE PIECE FILM STRONG WORLD 48.0億円 [118][119]
2011 167億3295万円 123.3% 相棒 -劇場版II- 警視庁占拠! 特命係の一番長い夜 31.8億円 [120][121]
2012 175億3889万円 104.8% 仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦 15.6億円 [122][123]
2013 168億1839万円 095.9% ONE PIECE FILM Z 68.7億円 [124][125]
2014 116億1122万円 069.0% 相棒 -劇場版III- 巨大密室! 特命係 絶海の孤島へ 21.2億円 [126][127]
2015 109億4340万円 094.2% ドラゴンボールZ 復活の「F」 37.4億円 [128][129]
2016 149億5933万円 136.7% ONE PIECE FILM GOLD 51.8億円 [130][131]
2017 108億9425万円 072.8% 相棒 -劇場版IV- 首都クライシス 人質は50万人! 特命係 最後の決断 19.2億円 [132][133]

主要映画

参照: [[東映の映画作品の一覧]]

主要テレビ作品

1950年代

1960年代

1970年代

1980年代

1990年代

2000年代

2010年代

海外作品

主な俳優(男性)

時代劇

現代劇

任侠

実録

特撮

主な俳優(女性)

主なプロデューサー

映画

テレビ

チームで活動し、一人の業績に出来ない場合は「八手三郎」。

主な監督

主な脚本家

主な音楽家

主なカメラマン

  • 飯村雅彦
  • 出先哲也
  • 仲沢半次郎
  • わし尾元也
  • 中島芳男
  • 吉田貞次
  • 坪井誠

その他の作品

その他

映画興行

子会社のティ・ジョイシネマコンプレックスを運営しているほか、直営で以下の2館を営業している。

  • 丸の内TOEI (東京都中央区、東映会館内)<2スクリーン、511席/360席>
  • 渋谷TOEI (東京都渋谷区、渋谷東映プラザ内)<2スクリーン、272席/191席>

系列会社

ほか数社

脚注

注釈

  1. 共同配給の『野性の証明』(21.8億円)は日本ヘラルド映画に計上されている。

出典

  1. 2013年現在、東映は朝日新聞社に次いで第2位のテレビ朝日株の16%を保有し、テレビ朝日は東映株の11%を保有。また系列局の朝日放送も2006年に東映が売却した自社保有株を0.5%取得している。
  2. 東急電鉄と阪急電鉄はお互いの子会社がライバルであり、特に百貨店やプロ野球球団では長年のライバル関係にあった。
  3. 関根忠郎、山田宏一、山根貞男『惹句術 映画のこころ 増補版』ワイズ出版、1995年、p.70.
  4. 山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.71
  5. 鈴木義昭『新東宝秘話 泉田洋志の世界』プラザ、2001年、pp.234-235
  6. 山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.154
  7. Variety1974年12月18日付。
  8. 「本家ブルース・リーをしのぐ千葉真一」 報知新聞、1974年12月27日朝刊
  9. 『SPORTS CITY』第1巻第2号、鎌倉書房、1981年8月、 32頁。
  10. 中村カタブツ 『極真外伝 〜極真空手もう一つの闘い〜』 ぴいぷる社、1999年、172 - 186。ISBN 4893741373。
  11. 大高宏雄『仁義なき映画列伝』鹿砦社、2002年、p.217.
  12. 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.178.
  13. 文化通信社編著『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、p.144
  14. 14.0 14.1 14.2 「東映が新レーベル発足 外国映画の配給を復活」『キネマ旬報』2011年9月上旬号、p.135
  15. 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年 東映会長・岡田茂』財界研究所、2001年、p.183
  16. 梅林敏彦『シネマドランカー 荒野を走る監督たち』仮縫室、1978年、p.31、p.131
  17. 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.184、p.357
  18. 高部務、若月祐二『もうひとつの「おくりびと」 滝田洋二郎監督の原光景』東邦出版、2009年、p.95
  19. 「あなたは魔界を信じますか? 角川春樹 山田風太郎 特別対談」、『パンフレット魔界転生』、角川春樹事務所 / 東映、1981年6月6日、 21頁。
  20. 『シネアルバム 日本映画1982 1981年公開日本映画全集』佐藤忠男山根貞男責任編集、芳賀書店、1982年、ISBN 4-8261-0088-4 pp.62-64
  21. 21.0 21.1 21.2 『シネアルバム 日本映画1982 1981年公開日本映画全集』佐藤忠男、山根貞男責任編集、芳賀書店、1982年、ISBN 4-8261-0088-4 p.88
  22. 大高宏雄『日本映画逆転のシナリオ』WAVE出版、2000年、pp.74-75
  23. 『日本映画逆転のシナリオ』p.200-201.
  24. “東映:新レーベル「東映トライアングル」発足 ジャッキーの大作など30年ぶりに外国映画配給へ”. 毎日新聞デジタル. (2011年8月11日). オリジナル2011年8月14日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110814081247/http://mantan-web.jp/2011/08/11/20110811dog00m200027000c.html . 2011閲覧. 
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  26. 山根貞男、米原尚志『仁義なき戦いをつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』NHK出版、2005年、p.102
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  28. 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、p.84.
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  30. 30.0 30.1 中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』河野真悟編、ワイズ出版、2004年、p.153
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  39. 木村大作、金澤誠『誰かが行かねば、道はできない 木村大作と映画の映像』キネマ旬報社、2009年、p.158
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  41. 古田尚輝『鉄腕アトムの時代 映像産業の攻防』世界思想社、2009年、pp.82-84.
  42. 田中純一郎『日本映画発達史IV 史上最高の映画時代』中央公論社、1980年、pp.272-273.
  43. 『東映十年史』東映株式会社、1962年、pp.254-261.
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  45. 能村庸一『テレビ時代劇史 ちゃんばらクロニクル1953-1998』東京新聞出版局、1999年、p.194.
  46. 『テレビ時代劇史』p.148
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  49. テレビ朝日 火曜時代劇を9月で打ち切り J-CASTニュース 2007年2月2日
  50. 「1975年度日本映画/外国映画業界総決算」、『キネマ旬報1976年昭和51年)2月下旬号、キネマ旬報社1976年、 111 - 118頁。
  51. 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』 キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2012-05。ISBN 978-4873767550。
  52. 「1976年度日本映画/外国映画業界総決算」、『キネマ旬報1977年昭和52年)2月下旬号、キネマ旬報社1977年、 109 - 123頁。
  53. 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』 キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2012-05。ISBN 978-4873767550。
  54. 「1977年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1978年昭和53年)2月下旬号、キネマ旬報社1978年、 118 - 125頁。
  55. 『キネマ旬報ベスト・テン全史: 1946-2002』 キネマ旬報社、2003年。ISBN 4-87376-595-1。
  56. 「1978年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1979年昭和54年)2月下旬号、キネマ旬報社1979年、 118 - 125頁。
  57. 『キネマ旬報ベスト・テン全史: 1946-2002』 キネマ旬報社、2003年。ISBN 4-87376-595-1。
  58. 「1979年度日本映画・外国映画業界総決算」、『キネマ旬報1980年昭和55年)2月下旬号、キネマ旬報社1980年、 122 - 124頁。
  59. 「1980年度日本映画・外国映画業界総決算」、『キネマ旬報1981年昭和56年)2月下旬号、キネマ旬報社1981年、 116 - 119頁。
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  61. 「1981年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1982年昭和57年)2月下旬号、キネマ旬報社1982年、 118 - 125頁。
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  63. 「1982年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1983年昭和58年)2月下旬号、キネマ旬報社1983年、 112 - 118頁。
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  65. 「1983年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1984年昭和59年)2月下旬号、キネマ旬報社1984年、 110 - 116頁。
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  67. 「1984年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1985年昭和60年)2月下旬号、キネマ旬報社1985年、 114 - 120頁。
  68. 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
  69. 「1985年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1986年昭和61年)2月下旬号、キネマ旬報社1986年、 122 - 128頁。
  70. 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
  71. 「1986年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1987年昭和62年)2月下旬号、キネマ旬報社1987年、 124 - 131頁。
  72. 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
  73. 「1987年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1988年昭和63年)2月下旬号、キネマ旬報社1988年、 191 - 192頁。
  74. 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
  75. 「1988年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1989年平成元年)2月下旬号、キネマ旬報社1989年、 167 - 172頁。
  76. 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
  77. 「1989年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1990年平成2年)2月下旬号、キネマ旬報社1990年、 175 - 176頁。
  78. 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
  79. 「1990年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1991年平成3年)2月下旬号、キネマ旬報社1991年、 143 - 144頁。
  80. 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
  81. 「1991年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1992年平成4年)2月下旬号、キネマ旬報社1992年、 143頁。
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  83. 「1992年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1993年平成5年)2月下旬号、キネマ旬報社1993年、 148頁。
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  85. 「1993年度日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1994年平成6年)2月下旬号、キネマ旬報社1994年、 155 - 156頁。
  86. 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
  87. 「1994年度日本映画・外国映画業界総決算--経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報1995年平成7年)2月下旬号、キネマ旬報社1995年、 155頁。
  88. 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
  89. 「1995年日本映画・外国映画業界総決算」、『キネマ旬報1996年平成8年)2月下旬号、キネマ旬報社1996年、 160頁。
  90. 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
  91. 「1996年日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報1997年平成9年)2月下旬号、キネマ旬報社1997年、 156頁。
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  93. 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。
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  96. 「1999年日本映画・外国映画業界総決算 日本映画」、『キネマ旬報2000年平成12年)2月下旬号、キネマ旬報社2000年、 154頁。
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  98. 「2000年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報2001年平成13年)2月下旬号、キネマ旬報社2001年、 150 - 151頁。
  99. テンプレート:映連興行収入
  100. 「2001年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報2002年平成14年)2月下旬号、キネマ旬報社2002年、 138 - 139頁。
  101. テンプレート:映連興行収入
  102. 「2002年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報2003年平成15年)2月下旬号、キネマ旬報社2003年、 140 - 141頁。
  103. テンプレート:映連興行収入
  104. 「2003年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報2004年平成16年)2月下旬号、キネマ旬報社2004年、 161 - 162頁。
  105. テンプレート:映連興行収入
  106. 「2004年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報2005年平成17年)2月下旬号、キネマ旬報社2005年、 153頁。
  107. テンプレート:映連興行収入
  108. 「2005年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報2006年平成18年)2月下旬号、キネマ旬報社2006年、 178頁。
  109. テンプレート:映連興行収入
  110. 「2006年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報2007年平成19年)2月下旬号、キネマ旬報社2007年、 185 - 186頁。
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  112. 「2007年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報2008年平成20年)2月下旬号、キネマ旬報社2008年、 165 - 166頁。
  113. テンプレート:映連興行収入
  114. 「2008年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報2009年平成21年)2月下旬号、キネマ旬報社2009年、 173 - 174頁。
  115. テンプレート:映連興行収入
  116. 「2009年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報2010年平成22年)2月下旬号、キネマ旬報社2010年、 172 - 174頁。
  117. テンプレート:映連興行収入
  118. 「2010年 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて」、『キネマ旬報2011年平成23年)2月下旬号、キネマ旬報社2011年、 188 - 189頁。
  119. テンプレート:映連興行収入
  120. 「2011年 日本映画・外国映画 業界総決算」、『キネマ旬報2012年平成24年)2月下旬号、キネマ旬報社2012年、 202 - 203頁。
  121. テンプレート:映連興行収入
  122. 「2012年 日本映画・外国映画 業界総決算」、『キネマ旬報2013年平成25年)2月下旬号、キネマ旬報社2013年、 205 - 206頁。
  123. テンプレート:映連興行収入
  124. 「2013年 日本映画・外国映画 業界総決算」、『キネマ旬報2014年平成26年)2月下旬号、キネマ旬報社2014年、 199頁。
  125. テンプレート:映連興行収入
  126. 「各社2014年の動向を見る」、『キネマ旬報2015年平成27年)3月下旬号、キネマ旬報社2015年、 88 - 92頁。
  127. テンプレート:映連興行収入
  128. 「各社2015年の動向を見る」、『キネマ旬報2016年平成28年)3月下旬号、キネマ旬報社2016年、 74頁。
  129. テンプレート:映連興行収入
  130. 「各社2016年の動向を見る」、『キネマ旬報2017年平成29年)3月下旬号、キネマ旬報社2017年、 70頁。
  131. テンプレート:映連興行収入
  132. 「各社2017年の動向を見る」、『キネマ旬報2018年平成30年)3月下旬号、キネマ旬報社2018年、 50頁。
  133. テンプレート:映連興行収入
  134. ダルタニアスを除き東北新社とともに制作協力

外部リンク

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