林家小染 (4代目)

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テンプレート:落語家 4代目 林家 小染(はやしや こそめ、1947年6月11日 - 1984年1月31日)は、大阪府大阪市出身の上方噺家。本名: 山田 昇(やまだ のぼる)。出囃子は『たぬき』。

来歴・人物

大阪市立天王寺第二商業高等学校を2年を持たずして中退。笑福亭鶴光とは同級であり、ともに演劇部に籍を置いていた。1964年11月、高校1年の時に実家の近所に3代目林家染丸が住んでいたために頼み込んで弟子入りし、4代目林家小染を名乗る。翌年春、京都花月で初高座。

当初、毎日放送の番組『ヤングおー!おー!』で結成された、若手落語家ユニット「ザ・パンダ」(小染、月亭八方桂きん枝桂文珍)の一員として、マスコミに登場。その愛嬌ある個性により、多くのレギュラー番組でお茶の間の人気を博す。その後、1979年より大阪毎日ホールなどで積極的に独演会を開催、タレント活動より落語活動に比重を置くようになり林家染丸一門がやらないような大ネタを下ろした。

本業の落語も、若くして本格派で『堀川』『景清』『らくだ』『猿後家』『鍬潟』『禁酒関所』『三十石』などを十八番としていた。染丸の名跡を継ぐべく将来を嘱望された。

酒豪で酒癖が悪く、楽屋で休息している大先輩で厳格であった人生幸朗に対して、酔っ払っていた小染は「オイ、オッサン、こんなとこで何寝てんねん」と足蹴りし、周囲を凍りつかせた[1]、また6代目笑福亭松鶴に対しても酔った勢いで罵倒したり、2代目桂春蝶2代目桂枝雀と3人で呑んだ時も揉めたこともあった[2]。ほかにも電柱に上ったり、自宅の押し入れで用を足したり[1]したこともあった。酒癖の悪さは本人も自覚しており、「ワシ、きっと酒で死ぬやろナ」と言ったこともあるという[3]。一方で「酒が入っていなければ、実に礼節をわきまえた芸人であった」と前田五郎は評している[3]

また、年がら年中同じ着物で風呂にも入らないという生活であった。風呂に入らないのをよく「風呂に入ると風邪を引く」と言って拒んでいた。酔った勢いで中央市場のトロ箱で一夜を過ごし、そこから楽屋入りすることも度々で「その時の臭さと言ったら…」と前田は評している[3]

好角家で、よく大阪場所の最中になんば花月の楽屋に訪れた力士と仲良くなり、タニマチになったり懸賞金を出したりしていた。

1984年1月29日、大阪府箕面市の飲食店で酒を飲んだ後、酔った勢いで発作的に外へ出て国道171号線へ飛び出し、走ってきたトラックに轢かれてしまう。生前親しかった笑福亭鶴瓶によると、酒に酔った小染が「トラックと相撲を取る」といって車道に飛び出して事故になったという。翌々日に36歳で亡くなった(『笑いの文化人講座』(後述)に、詳細が投稿されている)。法名は「淨樂院釋染華」。通夜では、当時破門されていた桂きん枝が泣きながら参列し、6代目笑福亭松鶴はその姿を見て3代目桂小文枝(のちの5代目桂文枝)にきん枝を許すように諭し、その結果きん枝は破門も解かれ、落語会復帰もかなったという。 2009年に、DVD+CDボックスが発売された。2010年の命日の1月31日には京橋花月で27回忌追善落語会を開催、ゆかりの噺家が多数出演した。『鍬潟』の映像を流した。

弟子には5代目(当代)林家小染(入門時は林家染八)、染久(廃業)がいる。弟弟子は4代目林家染丸で、一緒に軽口を演じたこともあった。

関連書籍

主な番組

出典

  • 『古今東西落語家事典』(諸芸懇話会・大阪芸能懇話会編、平凡社、1989年)
  • 『上方落語家名鑑』(やまだりよこ著、出版文化社、2006年)
  1. 1.0 1.1 「いいたい放題 上方漫才史」(足立克己1994年)p197
  2. 「上方タレント101人」(新野新1975年)p169-170
  3. 3.0 3.1 3.2 前田五郎『芸能界み~んなホントのことでっせ!』(日本文芸社刊、1993年)P118-P119。