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(いん、拼音: Yīn紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年

中国最古の王朝 (?~前 1122/1027) 。商ともいう。姓は子。『史記』などの伝えによると,帝こくの妃,簡狄が玄鳥の卵を飲んで生んだ契 (せつ) を始祖とする (卵生説話) 。以後 14代目の湯王 (天乙) までの間,河南,山東,河北方面を8回にわたり遷都した。湯王は河南の亳 (はく) に都をおき,の桀王を滅ぼして殷王朝を建てた。それから 19人の王が続き,都も5遷したが第 19代の王盤庚 (ばんこう) にいたって再び亳に都を定めた (現在の殷墟) 。盤庚より8代 12王が続いたが,最後に紂王 (ちゅうおう。帝辛) が現れて暴政を行い,周の武王に滅ぼされた。 20世紀に入り,甲骨文字の研究や殷墟の発掘により殷王朝の実体が明らかになった。その結果『史記』に伝えられる殷王朝の系図は,(1) 初期の神話的諸王,(2) 十干の順に並ぶ祖先神,(3) 湯王以後の祖先神,(4) 盤庚以後の殷墟に都をおいた諸王,に区分され,さらに殷墟の時代は5期に時代を分けて考えうることがわかった。祭祀をはじめ社会の状態もかなり明らかになり,暦も復元されている。殷の政治は祭祀権をもつ王によって支配され (神権政治) ,王族,特に王子たちの集団 (多子族) やその妻たちの集団 (多婦族) によって支えられた血縁的な性格が強く,地方にいる異族は「方」と呼ばれ,殷王室を盟主として服属していたらしい。なお王位は血縁的秩序に基づく兄弟相続制により受継がれていたが,末期には父子相続に変る傾向にあった。王族の配下には軍事や祭祀の集団,あるいはその他の職能的集団が服属し,そこには多くの奴隷も付属していた。殷墟の文化は青銅器時代の最盛期とみられるが,これは殷の後期の文化であり,さらにそれ以前の文化が河南の鄭州市二里岡において,また殷代早期と思われる遺跡も河南の偃師県二里頭などで見出されている。



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