温家宝

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温 家宝
各種表記
繁体字 溫家寶
簡体字 温家宝
拼音 Wēn Jiābǎo
和名表記: おん かほう
発音転記: ウェン・チアパオ
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  • テンプレート:中華人民共和国

温 家宝(おん かほう、ウェン・チアパオ、1942年9月15日 ‐ )は、中華人民共和国政治家。第6代国務院総理首相)、第16期・第17期中国共産党中央政治局常務委員を務めた。中国共産党の第4世代では最高指導者胡錦濤党総書記とともに重要な位置を占め、胡錦濤体制における党内序列は胡錦濤、呉邦国に次ぐ第3位であった。

経歴

中国共産党入党と甘粛省での活動

1942年9月、中華民国天津郊外教員の家に生まれる。天津南開中学卒業後、1960年に北京地質学院(現・中国地質大学)へ入学。1965年4月、中国共産党に入党し、1968年に研究生課程を卒業、地質関係の技術者として働き始める。1968年から1978年までの間、甘粛省地質局に配属され、地質鉱産部門の技術員・行政指導員として業務に従事。1979年には甘粛省地質局副局長に就任。後に党総書記・最高指導者となる胡錦濤と同様に、当時の甘粛省委員会書記だった宋平によって抜擢された温家宝は、1982年国務院の地質鉱産部政策法規研究室主任となる。

中央政界へ

温家宝が甘粛省から北京の国務院に移った当時、共産党総書記であった胡耀邦は、若手の有能な人物の登用を進めていた。地質鉱産部長(大臣)の孫大光の賞賛を受けた温は、1983年10月、地質鉱産部副部長(次官)に就任。その後、胡耀邦によって抜擢され、1986年5月に党中央弁公庁主任となる。1993年に中央財経領導小組秘書長に転出するまで、温家宝は胡耀邦、趙紫陽江沢民の3代の総書記の下で中央弁公庁主任を務めた。温は、この3人の総書記に仕えた唯一の人物である[1]1987年11月には党中央委員に選出され、党中央書記処候補書記となる。

趙紫陽に同伴する温家宝(1989年5月19日・写真中央右)

1989年5月19日、民主化を要求して天安門広場を占拠した学生たちと対話を試みるため、趙紫陽は彼らの下へ向かった。温家宝は趙に同行した(天安門事件を参照)。この趙の行動は「重大な反抗」とされ、趙は総書記を解任されて失脚、2005年1月の死まで自宅軟禁に置かれた。しかし温は、当時の立場や自己批判が考慮されたことで、天安門事件の余波を受けて失脚することもなく政治的に生き残った。

その後、1992年10月に党政治局候補委員・中央書記処書記となり、1997年には党政治局員となった。そして、1998年朱鎔基内閣が発足すると、温家宝は金融・農業担当の国務院副総理に任命された。朱内閣において、温は経済、農業、財政、防災政策を監督し、中国の重要方針である世界貿易機関への加入の準備活動に従事した。温は1998年から2002年まで中央金融工作委員会(Central Financial Work Commission)の書記を務めた。

国務院総理

第1期

2002年11月15日、第16期党中央委員会第1回全体会議(第16期1中全会)において、胡錦濤指導部が発足。温家宝は政治局常務委員に選出された。政治局内での序列は第3位で、翌年3月に正式に発足する胡錦濤政権において温が国務院総理(首相)に指名されることが確実なものとなった。

2003年3月に開催された第10期全国人民代表大会第1回会議にて、温家宝は正式に国務院総理に就任した。共産党員や官僚の腐敗に対しては厳しい態度で臨んでいる。

総理となった温は改革開放を監督し、国家目標を、ほかの社会的目標(公衆衛生や教育など)とともに平等主義の富を重視した成長から何としてでも中国経済を成長させようという目標に転換した。加えて、中国政府は温の指導のもとで、環境や労働者の健康への被害を含む経済発展の社会的費用に焦点を合わせ始めた。この、より包括的な定義は「小康社会」(xiaokang society)に要約された。温の広範な経験と専門知識は、改革による過去20年間で除外された地方の経済を活性化させようという朱鎔基の農業政策のもとで議長を務めるあいだに培われた。当初寡黙で出しゃばらないと思われていた温は、「良き伝達者」、そして「人民の味方」として知られた。温は20年間の経済成長(とくに地方や中国の西方)で除外されたかに見えた人々に手を差し伸べるために多大な努力をしたと思われている。温家宝と胡錦濤の両者は、江沢民および中央政治局常務委員会で彼の保護下にある者、いわゆる「上海幇」を結成していた者たちとは異なり、広漠な中国国内での政治的基盤を強化した。人々は、「人民の味方」こと温家宝と胡錦濤、対する江沢民との対比に注意した。

頑健で直接的にものを言う前任の朱鎔基に比べ、穏やかで融和的な温は、合意に基づく政権運営を旨としていた。これは大きな信用を得たが、より厳格な政策決定を支持する者は、温の政権運営を批判した。温は中央政府の方針と一致しない上海市党委員会書記(当時)の陳良宇と衝突していたことが知られている[2]

温は総理に就任すると、まず公衆衛生問題に力を注いだ。総理就任直後に中国で発生したSARSの危機では、中国当局の怠慢を厳しく批判し、SARSの伝染防止に尽力した。また、雲南省河南省で拡大していたエイズを中国発展にかかる大きな負担と捉え、同年11月から、中国の総理として初めてエイズの撲滅に公式に取り組みはじめた。2004年5月、温はエイズの被害に遭った地域を訪問し、その訪問の様子は全国のマスコミによって大きく報じられた。そして薬物依存症の問題にも取り組み、同年3月、中国南方にある複数の薬物依存治療施設を訪問して、国内のエイズが、性交渉よりもむしろ薬物乱用と皮下注射器の再利用によって蔓延しやすいことを認めた。

さらに温は地方の貧困の解決にも取り組んだ。温は頻繁に地方の比較的貧しい区域を視察したが、地方当局がしばしば行う貧困の事実の隠蔽を防ぐために、温の訪問先の決定は無作為に行われた。温は国務院の会議で、地方の経済格差の問題に取り組むことを明らかにした。党総書記の胡錦濤とともに、温は農業、農村地帯、農民のいわゆる三農問題について、研究と発展を要する分野であると強調した。胡温政権は、2005年に農業税を完全に廃止した。これは地方の経済モデルを大きく変えた大胆な手段であった。

外交では、台湾独立運動チベット独立運動、そして中国の人権問題といった政治的に敏感な難題にしばしば直面した。2003年12月、温はアメリカ合衆国を初めて訪問した。この訪問では、大統領ジョージ・W・ブッシュに対して中華民国総統陳水扁(当時)に対する非難を訴えた。続くカナダオーストラリアへの訪問では、経済問題が主要議題に上った。なお台湾問題について、2005年3月15日、全国人民代表大会で2896の過半数(棄権2)であった反分裂国家法が可決された際、温は「我々は外国からの干渉を望まないが、それを恐れない」と述べ、アメリカの姿勢を言外に批判した。温は中国の標準にしては珍しく長い拍手を受けた。

2007年3月5日、温は軍事予算を増やすことを発表した。2007年末までの軍事予算は、前年の450億ドルと比較すると17.8%増加している。これはアメリカ国内で緊張状態を生んだ[3]

2007年の第17回党大会を前に、温が引退することと、陳良宇との衝突があったという噂が立った。一部の情報源では、温が疲労による引退を請うつもりであったことを示唆していたが、結局、温は総理の座にとどまり続けた。この党大会で胡錦濤が中国の今後5年間の方向性を示す政治報告を行ったが、温はその草稿を作成する責任を負った。

温は中国国民との直接対話を進めた。2005年の旧正月、温は山西省の炭鉱で炭鉱作業員の一団と過ごした。また、2008年1月の旧正月直前、大雪による雪害が中国を襲った。温は長沙広州の鉄道駅を訪れると、帰省のために列車を長時間待っていた市民たちの怒りを鎮めるために演説した。このように国民との対話を重ねる温は、多くの人から、「国民の総理」であり、「人民主義者」であり、そして「一般人の需要を知り、理解している普通の国民」であると評価されている[4]。彼の態度は一見誠実であり、温和であり、かつての周恩来と比較されることがある。

第2期

2008年3月16日、国務院総理に再選された温家宝は、急激に進行するインフレーションの抑制と、北京オリンピックの成功による中国の国威発揚に努力した。一方、同年にアメリカ合衆国で発生した経済危機(リーマン・ショック)が世界中に影響を及ぼすと、中国もそれを免れることはできず、温は深刻な経済問題に直面した。そのため、社会の安定に力を入れたが、2008年3月にチベットで発生した暴動では、政策面で大きな集中力が要求された[5]。チベット騒乱のさなかの温は、「ダライ・ラマとその追随者が全ての分離独立活動を断念することを選ばない限り、彼らとの協議を拒否する」として、共産党政府の報道官として動いた。温が総理に再選された第11期全国人民代表大会第1回会議閉会後の記者会見(2008年3月18日)の場で、温はチベットでの暴動を受けてダライ・ラマ14世とその支持者を非難し、「ダライ・ラマが『チベット独立』を放棄し、『台湾を中国不可分の領土と認める』なら対話してもいい」と発言した[6]

2009年2月28日、温家宝は中国共産党政府の公式ウェブサイト『gov.cn』と『新華社ネット』が主催したビデオ会議でオンラインによる質問に答えた。温は政府の透明性と見解について公然と述べた。多数の中国人ネットユーザーから広範囲に亘る質問を受けた温は、大きな経済問題(世界的な財政破綻など)についての質問を選び、それに答えた。同年3月の第11期全人代第2回会議で、温は中国の経済成長が2009年には8%を割ることはないという声明を伝えた。温は、新しい景気刺激策を導入せず、中央政府の支出額1兆1800億人民元の一部が財政出動に充てられなかったという考察を重視しなかった。温は中国が保有するアメリカの財務省の負債について懸念を表明した。温はより変わった身振りで台湾訪問への関心も示し、「歩けなければ這ってでも行く」と述べた[7]

2011年1月24日、全国からの陳情を受け付ける北京市内の国家信訪局を訪問し、賃金の未払いや土地の強制収用などを巡る陳情者の訴えを直接聞いた。これは、中華人民共和国が建国されて以来初めてのことである。温は陳情者の切実な訴えに「私たちの政府は人民の政府であり、私たちの権力は人民が付与したものだ。人民の困難や問題を解決する責任がある」と述べ、対策を取る方針を示した。また、「すべての行政行為は社会からの監督を受ける必要があり、一切の行政権力は白日の下にさらされて運営されるべきだ」と、政治改革について踏み込んだ発言もした[8]。かねてから温は言論の自由の緩和など、中国版ペレストロイカとも言える政治改革の必要性を主張してきた。しかし、一方で温は党内の保守派や既得権益を重んじる層(上海閥太子党)から批判の矢面に立たされており、そして最終的には政治改革を訴える温家宝は権力闘争に敗れ、改革派とされる李克強を中国の次期党総書記(最高指導者)に据える事に失敗し、軍部や保守派が推したとされる習近平胡錦濤の後継者に確定したという経緯が日本のマスメディアで報道されている[9]

2012年3月14日、全人代閉幕後の記者会見で、薄熙来への批判と思われる発言を行った[10]

四川大地震への対応

2008年5月12日四川大地震が発生した際、地震発生からわずか数時間で地震の被災地に向かったことで、温の人気はさらに上昇した。彼は災害後、直ちに地震救援活動事務局長に指名された。温の被災地への訪問を受けて、その姿は全国のマスコミに映され、「人民の総理」と呼ばれた周恩来と温家宝とを比較した多数のビデオが中国国内のブログアップロードされ、その人気は著しく高まった。中国の指導者たちが、堅く、じっと動かずに座っているように見える姿が国営テレビに映し出されると、温の現場での姿と率直な性格は、中国国民から大きな支持を得た[11]。海外メディアと同様にこの大地震の科学的予測の有効性がインターネットフォーラムにて考察された。温は科学的予測を発表しようとした唯一の中国の指導者として伝えられ、それを公表したが、強大な権限を持つ共産党常務委員会のほかの委員によって防がれた[12][13]

政治的見解

温家宝の政治的見解に関して、香港と台湾のジャーナリストと同様に、中国国内でもいくつか論争がある。記者会見の場では胡錦濤よりも多く姿を見せるため、彼らの全てを評価することは困難だが、温の観点を識別するのは胡よりも容易である。通常、中国内外のメディアは、温を普通の人々の要求に触れる「人民主義者」と信じている。最大の社会問題には、温の政策の種類として、社会調和に基づく政権の主要なイデオロギーである科学発展観Scientific Development Concept)を規定している。政治改革に関する温の見解が何なのかは明らかにされてはいない。温は「中国では今後100年、社会主義制度が続くでしょう」と述べた[14] にもかかわらず、のちに第十回全国人民代表大会2007 National People's Congressにて「民主主義は、社会主義制度の基本的な狙いの1つです」と述べた。

2008年9月のインタビューにて、温は独立した司法制度の構築を通して、人々からの批判を受け入れる政府のために、「本当に人々に属した」権限のために、中国の民主主義制度は改善する必要があることを認めた[15]

台湾に関しては、温は世評によれば段階的な交渉を信じている。新華社は2007年の早期に、温の名前で国家の発展についての記事をいくつか発表している。温は党の公式見解とは若干異なる視点を持っている徴候であると疑われた。

2007年9月、温は全国紙で詩を創作した。中国の将来についての彼の微妙に空想的な認識が紹介され、海外メディアで称賛された。

マスコミでの温の誠実な物腰にもかかわらず、指導者間の明快な分裂はない。知識人の一群は、温の人民主義的アプローチについて警告を発しており、中国の経済発展に影響を及ぼすと主張した[16]

2013年3月5日に開催された全人代で習近平の政治路線に批判的な発言を行った[17]

日本との関係

靖国神社参拝問題で温家宝は小泉純一郎との関係は悪く会談を拒否しており、2006年9月にヘルシンキでアジア欧州会議(ASEM)での小泉首相との接触の有無について言及し、「小泉首相が自らあいさつしてこられたので、私もあいさつしたが、接触はしていない」と述べた。

2007年4月11日、温家宝は日本を訪問した。温はこの訪日を「融氷之旅(日中の冷えきった政治的関係を氷に例え、その融解への旅)」と位置付け、「政冷経熱」の日中関係を打開する道筋をつけようとした[18]4月12日国会での演説では「日本の過去への謝罪」を評価する一方で「それを行動で示すように」とした(靖国神社参拝の自粛を求めている)。また、温が演説原稿にあった「戦後、日本が平和発展の道を歩んだことを中国人民は評価する」内容の一節を読み飛ばしたこと[19] について、日本の議員たちの間では「わざと抜いたのではないか」と憶測も飛んだ。中国外交部は後日「その直前にあまりに拍手が大きく沸き起こったので、うっかり読み飛ばしてしまった」と説明した[19]。温は首相の安倍晋三(当時)とともに、日中国交正常化35周年イベントの歓迎レセプションに参加し、靖国神社参拝を肯定した安倍とは難なく友好ムードをアピールした。

今上天皇との会見では、「北京オリンピック開会式に招待したい」と述べ[20]、日本政府を困惑させた[19]。さらに皇太子夫の北京オリンピック開会式への参加を招請した[21]。しかし、江沢民時代からの愛国教育によって中国で反日感情が高まっていることを警戒した日本政府は、温家宝の要求を断っている[22]

主要政党の首脳や創価学会池田大作とも会談している[23]。最終日の4月13日には、日本で初めて孔子学院が開設された立命館大学を訪問し、「四庫全書」を寄贈した[24]

立命館大学を訪問した際、温家宝は学生と野球に興じたが、高山正之はこれを「自国向け」のパフォーマンスと見ている。すなわち、中国のテレビ局が温家宝の振る舞いを繰り返し放送することによって、反日感情が高まっている中国国民に対し、「日本と中国は本当は仲良しなのだ」ということを知らしめることを目的としたものだという[25]

2010年5月、温家宝は再び日本を訪れ、首相(当時)の鳩山由紀夫と会談した。

2011年5月21日に来日。東京で日本のアイドルグループSMAPと会談し[26]、日中友好のための北京講演が実現された[27]

尖閣諸島における漁船衝突に対して

2010年9月7日、中国の漁船が日本の領海である沖縄県尖閣諸島付近で操業中に日本の海上保安庁の巡視船に発見され、停船を勧告されるも漁船は無視して逃走した。逃走の際、中国の漁船は海上保安庁の巡視船に衝突を繰り返し、巡視船2隻を破損させ、同漁船の船長は公務執行妨害逮捕された。

日本の対応について中国側は激しい怒りを見せた。温家宝は、「不法拘束中の中国人船長を、即時無条件で釈放することを日本側に求める」と発言、中国人船長の即時・無条件解放を日本に要求した。国の首脳がこの問題に触れたのは初めてとされる。さらに温家宝は、「日本側が釈放しなければ、中国はさらなる対抗措置を取る用意がある。その結果についてすべての責任は日本側が負わなければならない」と日本を恫喝し、「日本側が早急に過ちを正し、中日関係を正しい道筋に戻すことは、両国人民の根本利益に合致するだけでなく、平和、協力という世界の潮流とも一致する」と述べた[28]。また、アメリカ・ニューヨークで開かれた国連会議に出席した温家宝は、2010年9月21日の夜、現地の華僑や中国人留学生らとのレセプションの席で、漁船衝突事件で拘留されている中国人船長を直ちに無条件で釈放するよう求める談話を発表。温家宝は「最近日本は釣魚島で操業していた漁船と船員を拘留し、現在に至るまで船長を釈放せずに日本の国内法で処理しようとしている。これは違法かつ不条理であり、船員やその家族を大いに傷つけ、国内外の中華子女による強い憤りを引き起こした」「われわれは数度にわたって正しい道理のもとに日本に対して交渉を行ってきたが、日本側は聞く耳を持たない。このような状況では、われわれは然るべき対抗措置を採らざるを得ない。この場を借りて、私は日本政府に対して直ちに中国人船長を無条件で釈放することを強く求める」と改めて主張した。尖閣諸島を「釣魚島は中国の神聖な領土である」と強調し、「日本がわれわれの意見を聞かないのであれば、われわれは更なる行動に出る。これによってもたらされる一切の重大な損失は、日本がすべてその責任を負わなければならない」と、中国共産党政府による声明の内容をほぼ踏襲するもので締めくくった[29]

2010年10月5日の未明、ベルギーブリュッセルにて菅直人と会談した際、菅が尖閣諸島について「わが国固有の領土であり、領土問題は存在しない」としたのに対して、中国の外務省は、温家宝が「中国固有の領土だ」と主張したことを発表した[30]

ケンブリッジ大学での出来事

2009年1月末から2月初めにかけて、温はヨーロッパを訪問した。2月2日イギリスケンブリッジ大学にて講演していたところ、会場にいた男から靴を投げつけられる騒ぎがあった。男は「ここに独裁者がいるぞ。彼が語る嘘をよく聞いていられるな。反論もしていないじゃないか」[31]「どうして大学は独裁者に身を売ることができたのか?」[32] などと叫んでいた。講演は中断し、靴を投げた男は他の聴衆から非難され、会場から排除されたあとに地元警察に逮捕された[33]。講演再開後、温は「我々は平和にやっている。男の行為が中英の友好を妨げることはない。調和は武力によって妨害されないと歴史が証明している」と述べ[32]、講演の会場内の学生たちが拍手で応えた。拍手していたのは中国人留学生であった[31][32]。中国国内では事件に関する報道を抑制していたが、インターネット上では温家宝支持とイギリス批判の書き込みが盛んにおこなわれた[34]2月3日、中国外交部は公式に批判声明を出した[35]。ケンブリッジ大学は事件について公式サイトで謝罪表明を行った[36]

人物像

趣味ランニング。外遊に出た際も早朝のランニングは欠かさず行っている。また、以前は野球をやっていたとのことで2007年の来日の際に、立命館大学学生と野球を楽しんでいた(ちなみに左投左打)[37]。事故などの災害時に現地視察の際に、よく泣く姿が映し出されるため、しばしば「泣きの温家宝」と評される。「宝宝(宝ちゃん)」の愛称で呼ばれることもある[34]。特権階級であるが中国内外において庶民的な人物というイメージを持たれており、「人民の総理」と評される[38]。また、メディアに向かって優しい老人の姿を見せて国民の人気を得る一方で、政府の政策が国民の望むようなことを必ずしもしていないことから、「温家宝がメディアで見せる表情は芝居である」という意見が出され香港では2010年には『中国影帝温家宝』という評伝が出された。題名の「影帝」とは「電影の帝王」つまり「映画スター」・「名優」という意味であるが、「影の皇帝」という意味とも取れる。

幼い孫とテレビを一緒に視聴することがあるが、それに関して「孫と一緒に見るのはウルトラマンなど外国のアニメばかり。国産のアニメを育成しないといけない」と記者たちの前で発言した[39]。日本や韓国のアニメ制作の下請けをしてる無錫市アニメ制作会社を視察した際もオリジナルアニメの制作を奨励し[40]、日中合作アニメ『チベット犬物語』の制作も支援した[41]

温は、ソーシャル・ネットワーキング・サービスFacebookにプロフィールを持っていた。このサイトでの温は、プロフィールが2008年6月16日ごろに削除されるまでは有名な政治家上位5人のうちの1人であった。

胡耀邦との関係

温家宝は、六四天安門事件のきっかけにもなった胡耀邦元総書記を「師」と仰いでいる。2010年4月15日、温家宝は人民日報に胡耀邦を偲ぶ回想記を発表した。「胡氏が現場の状況を理解しようとしていたことは明白であり、『(指導者は)民衆の苦しみを子細に観察し、直接の資料を把握しなければならない』という胡氏の言葉が耳に残る」「清廉潔白で親しみやすかった姿が今でも懐かしさとともに思い浮かぶ」とした。温家宝は胡耀邦の死去の際に、入院先に真っ先に駆けつけたという。また、温家宝は毎年旧正月の時期になると胡耀邦の居宅を訪問し、胡耀邦の肖像画を見ることで仕事の原動力になる、と語った[42]

語録

  • 温は中国の早い経済成長、社会正義、そして公正さについて「艦隊の速さが測定されるのは、もっとも速い船ではなく、むしろもっとも遅い船であります」と述べている[43]
  • 2003年3月、普段は控えめな温が『「私の脳はコンピューターのようだ」「実に多くの統計を私は記憶できる」と述べた』と、スイスの前駐中大使が伝えた[44]

家族

夫人の張培莉との間に一男一女を儲けた。長男の温雲松優創科技(中国)有限公司(Unihub Global Network)創業者、現在は中国衛星通信集団有限公司会長。

エピソード

脚注

  1. ::温式微笑将给中国带来什么?温家宝的中国命题::
  2. VOA
  3. China's Wen pledges stronger military(2007年3月8日時点のアーカイブ
  4. BBC: 透视中国官员的施政个性
  5. Wen gets second term as China's premier(2008年3月16日時点のアーカイブ
  6. 温総理:ダライとの対話の条件はチベット独立の放棄 - 人民網日本語版 2008年3月18日(2008年3月20日時点のアーカイブ
  7. Chinese Premier says would "crawl to Taiwan" even if he could not walk - Xinhua 2009年3月13日
  8. “中国:温首相、陳情者と初の面談 弱者配慮をアピール”. 毎日新聞. (2011年1月27日). http://mainichi.jp/select/today/news/20110127k0000e030018000c.html 
  9. “【国際情勢分析】習路線へかじ切る外交”. 産経新聞. (2010年12月5日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/110114/chn11011401140001-n1.htm . 2011-1-27閲覧. 
  10. 温家宝国務院総理、国内外記者と会見 2012年全国両会 - 新華社(2012年3月14日)
  11. IHT: China's 'Grandpa Wen' widely admired for work to rally victims in hard-hit earthquake areas(2008年5月19日時点のアーカイブ
  12. “Google translation:Open journal: concealment of the CPC Political Bureau of Sichuan earthquake early warning”. Sina BBS. http://translate.google.com/translate?hl=en&sl=zh-TW&u=http://bbs.sina.com/viewthread.php%3Ftid%3D46065%26extra%3Dpage%253D1&ei=5u-oSfPNAonOtQOWxeDWDw&sa=X&oi=translate&resnum=9&ct=result&prev=/search%3Fq%3D%25E6%25BA%25AB%25E5%25AE%25B6%25E5%25AE%259D%25E6%25B1%25B6%25E5%25B7%259D%25E5%259C%25B0%25E9%259C%2587%25E9%25A0%2590%25E5%2591%258A%26start%3D90%26hl%3Den%26sa%3DN . 2009閲覧. 
  13. 中央社记者王曼娜 (2008年7月2日). “In Chinese:开放杂志:中共政治局隐瞒四川地震预警. DWNEWS.com. http://app2.dwnews.com/view-article.php?url=/gb/MainNews/SinoNews/Mainland/cna_2008_07_02_11_04_14_599.html . 2009閲覧. 
  14. China promises socialism for 100 years Richard Spencer, The Daily Telegraph 2007年2月28日(2007年3月2日時点のアーカイブ
  15. Interview with Wen Jiabao, CNN, September 28, 2008.
  16. The Economist: Populist Politics in China Retrieved June 2008
  17. 温首相、「遺言」で習路線を批判 改革路線への回帰訴える - MSM産経新聞(2013年3月6日閲覧)
  18. 温家宝総理 4月の日本訪問を「氷を溶かす旅」に 人民網日本語版2007年3月16日
  19. 19.0 19.1 19.2 <取材日記>温家宝首相「老獪な外交術」に振り回された日本 - 中央日報 2007年4月14日(2009年1月23日時点のウェブ魚拓
  20. 温家宝首相 北京五輪に天皇陛下を招待 日テレNEWS24 2007年4月13日
  21. [1]
  22. チャンネル桜による天皇訪中の経緯
  23. 温家宝首相、日本の各政党党首と会見 中華人民共和国駐日本国大使館 2007年4月12日(2007年5月5日時点のアーカイブ
  24. “氷をとかす旅”各地で歓迎 子どもたちの漢詩の朗読に耳を傾ける。中国温家宝首相、関西地区を訪問 学生たちと本音の交流<立命館大学> 関西華文時報
  25. 高山正之著『変見自在 サダム・フセインは偉かった』182ページ
  26. “温家宝総理、SMAPメンバーと面会”. 人民網. (2011年5月23日). http://j.people.com.cn/94473/7388581.html . 2016閲覧. 
  27. “歴史に残るであろうSMAPの北京公演”. 人民網. (2011年9月16日). http://j.people.com.cn/94475/7597827.html . 2016閲覧. 
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関連項目

中華人民共和国の旗中華人民共和国
先代:
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2003年 - 2013年
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次代:
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