病気

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病気(びょうき)、(やまい)は、人間動物に不調または不都合が生じた状態のこと。(本記事で後述)。一般的に外傷などは含まれない。病気の類似概念としての、症候群(しょうこうぐん)、疾病(しっぺい)、疾患(しっかん)は、本記事でまとめて解説する。

別の読みである、病気(やまいけ)は、病気が起こるような気配をいう。

概念

病気は曖昧な概念であり、何を病気とし、何を病気にしないかについては、様々な見解があり、政治的・倫理的な問題も絡めた議論が存在している。英語の illness(病気)は「不健康な状態」を意味し、disease(疾患、疾病)は「病気の原因」を意味するが、両者はしばしば混同される。

分布の数で判断しようとする試み

ひとつには、自然科学的な習慣をそのまま持ち込んで、「定量的な分析」を志向し、数的な側面に着目する考え方、別の言い方をすると「正常 / 異常」という概念で分けようとする見解がある。

ある性質の集団の中での数的な分布で線引きしてしまおうとする考え方であり、統計分析の正規分布母集団の分析における習慣を持ち込むものである。本当はどこまでが「正常」どこまでを「異常」とするかは統計学でも定義は無く、正式の統計学では、線引きの値は任意であり様々に設定可能、とされている。だが、そうした任意の値の中から便宜的・習慣的にしばしば用いられている設定「2×D」を(あまり確かな理由もなく、半ば強引に)採用しておいて、「標準値からプラスマイナス2×SDまでの差を正常、それ以上のずれは異常(なので疾患)」として、「疾患とは全体の5%未満に見られる形質・状態で、正常とは残りの約95%こと」と一律に定義してしまおうとする例がある。 しかしこのように「集団内での数的な分布」を「病気」の定義として流用してしまうと、日本で約1000万人が難儀している糖尿病や、数多くの合併症をもたらす肥満までも「正常」とすることになってしまい、また一方で、特に基礎疾患がなく偶然的に高身長となった人で元気に生活している人までが 「病気」に分類されてしまうという問題が生じる。すなわち、異常(統計的に数が少ない状態)であれば病気であるとも言えないし、病気であれば異常である、などとも言い切れず、統計的手法によって病気を定義しようとする試みには無理があるのである。

定性的に定義しようとする立場

逆に、質的な記述あるいは定性的な記述で病気を一般化して定義しようとする試み・立場がある。

ひとつには本人の認識している状態(あるいは本人の主観的経験内容)を重視し、病気の定義を「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」、あるいは「本人あるいは周囲[注 1] が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」とすることがある。

医師が疾患だと診断した人であっても、本人は生活上の問題を感じないことなどを理由に「自分は病気ではない。健康である」と述べていることがあり、あるいは「身体障害障害(広い意味で疾病の一種)ではなく個性である」と言われることがあり、これらはその意味でも一理あることともいえる。また、医療従事者の立場でも、本人または周囲が治療の必要性を感じなければ病院を受診に来ることも無いので、このような定義でも実際上の問題は生じにくい。

ただし、これも突き詰めて考えてみると、医師が依存症嗜癖骨粗鬆症などと診断するようなケースでも上記のような認識のズレが生じていることがあり、医学研究の立場では本人や周囲の判断・価値観に関わらずに病気を定義し診断できるようにすることへの要求は存在する。

医療関係者の主観を織り込もうとする試み

医師など医療産業に従事しそれで収入を得ている者の中には「病気とは心身に不調あるいは不都合がある状態のことであって、いわゆる医療による改善が望まれるもの」などと、“医療”という言葉を手前味噌的に、半ば強引に定義に盛り込んでしまう例も無いわけではない。(だが、医療とは病気を治すものであるから、病気の定義に「医療」を用いるのは一種の循環論法となりうる。また、病気には医療を必要とせず治癒するものも多いので、その意味でもかなり問題のある定義である(後述))

医療人類学での見解

医療の領域で起きていることを、医療関係者の立場からも患者の立場からも離れて、客観的そして学問的に研究する医療人類学では、「病気(sickness)とは疾患(disease)と病い(illness)をあわせたもの」とする定義も提出されている[1]。疾患(disease)を"生物学的なもの"とし、病い(illness)は"主観的な経験のこと"、とする説明である。この説明方法を採用した場合、例えば、上記の糖尿病の例では、疾患の定義に当てはまる者は1000万人いるかもしれないが、慢性疾患で自覚症状が少ない初期では本人が「病い」と捉える人はごく少ない、という理屈になる。

社会的状況

冒頭に説明したように、何が病気であるのか病気でないのかを決めるのは、容易なことではなく、各立場なりの見解があり、一般の人々は多くは自分が感じている感覚内容で病気か病気でないか判断していて、ちょうど「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」といった定義がそのまま当たるようなことが日常的には行われているが、医師の集団は医師の集団で医師なりの立場で生物学寄りの見方をしてみたり統計を見たりし、臨床医師では、一般論は脇に置いておいて、目前に現れた患者の個別的な症状と医学書に書かれている慣習的な判断基準を見比べて便宜的に判断する 等々等々、さまざまなことが行われている。それらの見解は様々に複雑に相互影響しあう[注 2]

現実の社会では病気に対する見解は立場ごと・文脈ごとに異なり、さまざまな見解が複雑にせめぎ合う。実際、臨床の現場では医師と患者の見解はしばしばずれたり対立することがある。上では周囲は病気と判定しているが本人は病気とは思っていない例をいくつか挙げたが、逆に本人が病気だと感じているのに医師の側がそう認識しない、しようとしない、というケースもある。たとえば本人が身体に激痛や異常な感覚などを感じ明らかに何らかの病気だと直感しそれを訴えているにもかかわらず、医師の側ではCTやMRIなどの画像を見て、そのその検査とその医師の技量との組み合わせではたまたま何も見つけられなかったことを根拠に、「("客観的に見て" あるいは"生物学的に見て")疾患ではないでしょう。気のせいでしょう」などと告げて放置し、すっかり悪化したり死亡してから、事後的に他の医師によって誤診だったと判定されるようなケースもある。またステロイド皮膚症や各種の公害病乳幼児突然死症候群の例に見られるように、その病気が存在するかどうか自体が学問的のみならず政治的にも問題となることもある。

分類

病気を分類することは容易ではなく、またその分類は医学の変化に伴い頻繁に変更される。医学においては、一般に以下のような観点によって病気は分類される。

医療の要・不要による分類

また、次のような分類が提唱されることもある[1]

  • カテゴリー1 : 医者がかかわってもかかわらなくても治癒する病気 (自然治癒力や本人の努力で治癒するもの)[1]
  • カテゴリー2 : 医者がかかわることによってはじめて治癒する病気[1] 
  • カテゴリー3 : 医者がかかわってもかかわらなくても治癒しない病気[1]

開業医や市中病院の医師が日常の診療で遭遇する「疾病」のほとんどは、上記で言えばカテゴリー1に属する[1](すなわち、医者・医療者がかかわらなくても治癒する病気である)。その比率は70〜90%ほどであるという。著者の岡本裕医師が実際に計数してみると95%がカテゴリー1だったという[1]

カテゴリー3に分類される病気、つまり「不治の病」もまだまだ多い[1]。(例えば神経変性疾患神経機能障害・・等々はそれに分類される)

(カテゴリー1と2の病気については)病気にも ①当人が自分の力で治すことができるもの、と ②自然治癒力も及ばず、医療従事者と連携をとり治癒をはかるとよいもの、の2種類があるということである[1]。①の当人が自分の力で治すことができる病気には、 高血圧[2]糖尿病高脂血症肥満病、痛風便秘症、不眠症[3]自律神経失調症・・・などが挙げられる。

病気と健康

病気の対義語は、一般に健康であると考えられている。

WHO(世界保健機関)は健康を次のように定義している。

身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない

西洋医学風の用語で言えば、健康というのは恒常性が健全に保たれている状態、と言い換えることも可能であろう[4]。そういう観点からは、病気(疾病)というのは、恒常性が崩れてしまって元に戻らなくなっているか戻りづらくなっている状態だと考えると理解しやすい[4]

さらに恒常性という概念を中国伝統医学の「未病」という用語で把握しなおしてみると、病気や健康という概念がより分かりやすくなる[4]

未病

伝統中国医学(中医)で「未病」と診断されるのは、検査で明らかな異常がなく、明らかな症状も無いが、少し調子の悪い状態で、病気になる前段階の、心身の微妙な変化を指している[4]。漢文訓読調でいえば「いまだやまいにあらざる」となる。「未病気」をキーワードにして、体の状態を分類してみると次のようになる。

  • 状態 1 :恒常性が健全に保たれている状態・・・健康[4]
  • 状態 2 :恒常性が崩れかけている状態・・・未病[4]
  • 状態 3 :恒常性が崩れ、そのままでは元に戻らなくなっている状態・・・病気[4]

これらの間にははっきりした境界はなく、連続的に移行している[4]。中国には昔から「上工治未病」(上工は未病を治す)という言葉がある。つまり良い医者というのは、発病してからではなく、未病の段階で異常を察知し対処するものだ、ということである[4]。一方、西洋医学では、未病を見過ごしてしまい、発病してからはじめて治療に取り掛かる[4]。病気を火事に喩えて言えば、中国医学が火事になりそうな危険な場所をあらかじめ点検したり、燃えそうな建材をあらかじめ不燃材にして無事に防ぐのに対し、西洋医学では火事が起きてしまってから対処しよう、という考え方である。確かに一旦発火してしまえば、とりあえず燃え盛る火の勢いを抑えなければならないのではあるが、それよりも火事の防止や再発を防ぐことも非常に大切であるように、西洋医学のように発病するまで放置しておいて発病してから対処するという考え方は得策とは言えず、中国伝統医学のように、未病気の段階でそれを的確に察知し、自己治癒力を高めることで早めに対処しておこうとする考え方のほうが適切であり重要である[4]

戦争による負傷で大量の死者が出ることが続いた20世紀前半には西洋医学が目覚しい進展を見せ、抗生物質ワクチンが開発され生命を脅かす感染症などを激減させることに成功はした。だがその後、疾患の状況はすっかり様変わりし、生活習慣や生活環境に起因した心疾患脳血管疾患アレルギー疾患、メタボリックシンドローム膠原病などの慢性疾患が急増し重大な課題となっている[4]。これらの慢性疾患は西洋医学的な治療法(その多くが対症療法)だけでは限界があり、根本治癒にはどうしても、生活習慣を是正しつつ自己治癒力を高めることが不可欠となるので、心と体を一体としてとらえ全体のバランスとリズムをとりもどし病を癒す、と考え、心身一如の思想に立つ東洋医学の考え方が必須となる[4]

周辺の語の概念

しばしば病気は、「症候群」「疾患」「疾病(しっぺい)」「障害」「怪我」「変異」等の語との概念上のオーバーラップがある。

病気の存在を前提として、その患者に共通する特徴のことを病態(びょうたい)あるいは病像(びょうぞう)という。病状(びょうじょう)は、ある特定の患者についてその臨床経過を指すことが多い。これらの単語はしばしば混合されて使われる。

病気と「疾患」・「疾病」

医学では、「病気」という単語はあまり使用されず、代わりにより厳密な疾患(しっかん)、疾病(しっぺい)を使うことが多い。病気という語では内因性の疾患しか含まないような印象を受けることがあるためである(事故による骨折は、一般的には病気とは言わないことが多い)。なお、精神医学の用語の精神疾患は「障害(disorder)という概念であり、医学用語の「疾患」(disease)とは異なる概念である。

英語の disease(疾患、疾病)は sickness(軽い病気)、illness(病気)の原因を示す語で、病名と症状が明らかな具体的な病気に用いられる。sickness、illness は"病気になっている状態"を指し、disease は感染などによる体内機能の異常を意味する。一般には、熱や風邪など生活上の病気には用いられず、伝染病や癌など深刻な病気に用いられ、命に関わるようなニュアンスがある。

疾患・疾病・病気と「症候群」

症候群(しょうこうぐん)とは、原因不明ながら共通の病態(自他覚症状・検査所見・画像所見など)を示す患者が多い場合に、そのような症状の集まりにとりあえず名をつけ、扱いやすくしたものである。

人名を冠した症候群の名前も数多く、原因が判明した場合にはその名前が変更されたり、時には他の病名と統合されたりすることがある。一方で原因判明後も長い間そのまま慣用的に使われている「症候群」は多く、逆に「〜病」の名を冠する原因不明の疾患も多くあり、実際には明確な区別がなされていないことが多い。

精神科領域においては、扱う疾患のほぼ全てが症候群と呼ぶべき疾患であるため、利便性の問題から症候群とは呼ばず○◯病・○○症と言った語を用いる。

疾患・疾病・病気と「症状」

症状(しょうじょう、symptom)は、病気によって患者の心身に現れる様々な個別の状態変化、あるいは正常からの変異のことである。病気にかかることを罹患(りかん)、症状が現れることを発症(はっしょう)または発病(はつびょう)という。患者本人によって主観的に感じられるものを自覚症状(じかくしょうじょう)、周囲によって客観的に感じ取られるものを他覚症状と呼んで区別する。単に「症状」といった場合、自覚症状のことのみを指す場合があり、この際は他覚症状のことを所見(しょけん)、徴候(ちょうこう)と呼んで区別する。

通常、「疾患」と「症状」は本来大きく違う概念だと考えられている。つまり、疾患が先にあって、それを受けて「症状」が生じる、というものである。しかし日常診療の場では、症状が確認されても、その症状を来たす原因がよく分からない場合が多く、この場合「症候群」での例と同様に、症状名と病名との境目が曖昧になることがある。

例えば、脱水という病名はないが、脱水が見られたら原疾患はさておき脱水の診断の元に治療を行うことがある。近視は症状の名前としても病名としても使われる。本態性高血圧という病名は、別の基礎疾患があって二次的に高血圧となっているものを除いて、原因不明で高血圧という「症状」を起こしているものをまとめて含めるための「病名」である。

ある臨床像が、原疾患に見られる症状のひとつであるのか、あるいは合併症として出現した別の独立した疾患なのかについては、医学の教科書を執筆する際の問題となるだけではなく、保険診療報酬や統計にも関わるため、軽視できない問題となる。

症状を研究する医学の一分野に、症候学がある。


病気と年中行事

日本では古くは病気はのせいだとか、キツネが人間に宿るためだとかと考えられていた。そのため病人が出ると、病気を治癒させるために祈祷師を呼んでお祓いをしてもらうということがあった。
現代の日本でも年中行事として、病気をしないように(鬼が来ないように)節分に豆まきをする、端午の節句に菖蒲湯に入るなどといった習慣が残っている。

注釈

  1. 「本人あるいは周囲が」としたのは、精神疾患や軽症の疾患の中には、本人は生活上の不都合を感じないが、周囲の人が生活上支障をきたすために治療の必要性を感じる場合があるからである。これは病気と類似概念の混同である。 精神疾患病気#病気と「疾患」・「疾病」も参照のこと。
  2. 一般の人々は、医師からの説明を聞いて、それを自分の考えとして採用することもある。また逆に医師の側も、患者から報告を聞いて、はじめて何かを「疾患」と認識し、そうした断片的情報が学会などで徐々に集約されて、あらためて大規模統計がとられる場合もある。マスコミで医師が語る内容も人々の病気観に影響を与える。

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 岡本裕 「はじめに~第1章」『9割の病気は自分で治せる』 中経出版、2009年、pp.1-46。
  2. ただし遺伝的背景と生活習慣が原因となる本態性高血圧症は高血圧の80〜90%であって、残りの10〜20%は高血圧の基礎疾患が明らかな二次性高血圧症である。二次性高血圧症では基礎疾患の早期発見・早期治療が重要である。『今日の治療指針2011年版』 医学書院、2011年、pp.339。
  3. 不眠のなかには、実は本当の原因として、周期性四肢運動障害、むずむず脚症候群、概日リズム睡眠障害、うつ病などが隠れている場合があるから、鑑別診断が重要である。『今日の診断指針第6版』 医学書院、2010年、pp.339。
  4. 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 4.12 岡本裕 「第3章」『9割の病気は自分で治せる』 中経出版、2009年、pp.121-138。

参考文献

  • 岡本裕『9割の病気は自分で治せる』 中経出版、2009年 ISBN 4806132772

関連項目

外部リンク