真臘

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テンプレート:カンボジアの歴史 真臘テンプレート:Lang-km、チャンラ /日本語読み: しんろう)は、初期のクメール人王国中国では真臘ベトナムではChân Lạpとして知られている。

歴史

扶南国の属民と考えられているクメール人は北のチャオプラヤ川からムン川渓谷を伝ってメコン川に到達した。真臘は扶南人の影響を吸収して扶南の外に作られた彼らの最初の独立国家であった。

古い中国の記録は現在のラオス南部からカンボジア東部に位置した真臘(王都はシュレシュタプラ、Shreshthapura)を統治した初代王シュルタヴァルマン(Shrutavarman、435年-495年)と二代王シュレシュタヴァルマン(Shreshthavarman、495年-530年)の2人の王に言及している。550年頃は扶南国従属国であり、その60年ほど後に独立を成し遂げ、最終的には扶南国を占領、人々と文化を吸収していった。このときの扶南国の弱体化はローマ帝国とその後の地中海と中国の間の通商路の崩壊から説明できる。

カンボジアの文化に大きな影響を与えたものは、現在のコンポントムEnglish版にあたるバーヴァプラ(Bhavapura)を首都とする扶南国で形作られた。遺産は、最も重要な支配者イシャーナヴァルマン1世français版(Ishanavarman I)による612年から628年にかけての扶南国の占領完了である。613年、彼はこの新しい国の最初の首都を現在のサンボー・プレイ・クックEnglish版にあたる(イシャーナプラ)にした。

681年ジャヤーヴァルマン1世français版(Jayavarman I)の死後、王国には混乱が起こり、8世紀の初め頃、王国は多くの小王国に崩壊していった。真臘(Shambhupura)の統治者であったプーシュカラクシャfrançais版(Pushkaraksha)は彼自身がカンボジャスの王であることを宣言した。

706年頃に真臘は、「陸の真臘」(陸真臘)として知られる北部と、「水の真臘」(水真臘)として知られる南部に分離した。現在ラオスチャンパーサック県とされる場所が北部の中心となり、メコンデルタと海岸地域は南部の一部になった。中国の年代書には8世紀に真臘が陸真臘と水真臘に分離した(706年 - 802年)としている。この時期プーシュカラクシャの息子シャンブヴァルマン(Shambhuvarman)は8世紀の間、マレーシア人とジャワ人が支配した多くのクメール小王国である水真臘の大部分を支配し、陸真臘はシャンブヴァルマンの兄弟ラージェンドラヴァルマン1世français版(Rajendravarman I)が支配した。

774年頃からジャワ王国のシャイレーンドラ朝の侵略が始まり[1]802年頃までその支配下に入っていた。この事件は10世紀の、アッバース朝とインド・中国・東南アジアとの交易の実体を記したアラビア語文献『中国とインドの諸情報-第二の書』にザーバジュのマハーラージュの王国がクマール国を襲撃した事件として記載されている[2]。ザーバジュはシャイレーンドラ、マハーラージュはインド古来の大王の称号マハーラージャ、クマールはクメール国であり、シャイレーンドラがクメール王を殺害してしばらくの間クメール国を属国とした事件を記したものと考えられている。

歴代君主

参考文献

  • 真臘風土記
  • The Treasures of Angkor. ISBN 88-544-0117-X
  • 家島彦一訳註『中国とインドの諸情報〈2〉第二の書』平凡社、2007年12月。ISBN 978-4582807691

関連項目

脚注

  1. チャンパーのポ・ナガル(Po-Nagar)碑文によれば784年、ヤン・ティクー(Pang TiKuh)碑文によれば787年にジャワの黒い肌の賊軍が来襲したとの記載がある。更に大越史記全書外紀巻五には767年の事件として安南都護府(現ハノイ)を崑崙闍婆の襲撃事件が記されている(崑崙はマレー系の人々、ジャワはジャワ、即ちシャイレーンドラ、若しくは占城(チャンパー(当時の南ベトナム)だと考えられている。チャンパー、ジャワのいずれであってもマレー系の人々だと考えられる))
  2. 家島彦一訳『中国とインドの諸情報-第二の書』pp48-54

外部リンク