石井菊次郎

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石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年旧暦3月10日1866年4月24日)- 1945年昭和20年)5月25日?)は、日本外交官、政治家。第2次大隈内閣外務大臣を務め、国際連盟設立期には日本代表を務めた。特使としてアメリカで締結した石井・ランシング協定にその名を残すことでも知られる。

生涯

石井は外交官としてのキャリアをフランスで開始し、親仏的でドイツに対しては不信感を持っていたと指摘されている[1]義和団の乱の際には北京公使館におり、包囲下を切り抜けた。1908年に外務次官となり、1912年にはフランス大使となっている[2]

1915年10月には第2次大隈内閣の外務大臣に就任することとなり、フランスから帰国した。石井は当時地味な外交官であり、あまり知られた存在ではなかったが、その外相就任は前外相でもある加藤高明立憲同志会総理の推薦によるものであった[3]。石井は連合国への接近策を主張し、ロンドン宣言への加入や、第四次日露協約の締結を実現している。1916年の同内閣崩壊までその任にあった。1917年には特命全権大使としてアメリカに渡り、中国問題に関する日米間の合意、いわゆる石井・ランシング協定を締結している。1920年にはフランス大使に再任され、同時に国際連盟における日本代表を務めた[2]

1927年(昭和2年)に外務省を退官し、収拾していた外交メモ類を資料として1930年(昭和5年)に『外交余録』を著した[4]。1936年にはアメリカで出版されている[4]。1929年(昭和4年)には枢密顧問官となっている。

日独伊三国同盟の締結に際しては、アドルフ・ヒトラーとドイツに対する不信感を表明し、枢密院本会議では利害関係の一致から同盟締結に関して賛成するものの「ドイツは最も悪しき同盟国であり、ドイツと絡んだ国はすべて不慮の災難を被っている」と指摘し、運用に関しては十分注意する必要があると述べた[5]

1945年(昭和20年)、5月25日から26日にかけて、東京は東京大空襲に見舞われた。石井夫妻は渋谷青葉町の自宅付近で行方不明となり、その後の消息は分かっていない。この時に死亡したと推定されている[6]

年譜

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1917年石井・ランシング協定締結時のワシントンにおける石井菊次郎とロバート・ランシングによる記念写真
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ワシントンで沿道の市民に会釈する石井 (1917)

栄典

位階
勲章等

著書

  • 『外交余録』(1930年) 
  • 『石井菊次郎遺稿 外交随想』(1976年)

親族

日韓会談首席代表を務めた久保田貫一郎、駐ペルー公使山崎馨一、駐チリ公使・スペイン公使矢野真は娘婿。駐イタリア大使を務め戦後A級戦犯となった白鳥敏夫は甥にあたる。

  1. 三宅正樹 2000, pp. 173-174.
  2. 2.0 2.1 三宅正樹 2000, pp. 197.
  3. 渡邊公太 2013, pp. 249.
  4. 4.0 4.1 三宅正樹 2000, pp. 195.
  5. 三宅正樹 2000, pp. 188.
  6. 三宅正樹 2000, pp. 188-189.
  7. 『官報』第1034号「叙任及辞令」1916年1月15日。
  8. 『官報』第1256号、大正5年10月6日。
  9. 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
  10. 『官報』第4004号「叙任及辞令」1896年10月31日。
  11. 『官報』第5598号「叙任及辞令」1902年3月6日。
  12. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  13. 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
  14. 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  15. 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  16. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  17. 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
  18. 『官報』第5398号「宮廷録事」1945年1月16日。
  19. 中野文庫 - 旧・勲一等旭日桐花大綬章受章者一覧

参考文献

関連項目


公職
先代:
大隈重信
日本の旗 外務大臣
第30代:1915年 - 1916年
次代:
寺内正毅
日本の爵位
先代:
陞爵
子爵
石井(菊次郎)家初代
1916年 - 1945年
次代:
石井太郎
先代:
叙爵
男爵
石井(菊次郎)家初代
1911年 - 1916年
次代:
陞爵


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