禁酒運動

提供: miniwiki
移動先:案内検索

禁酒運動(きんしゅうんどう、英語: temperance movement)とは、共同体内部あるいは社会全体で消費する酒類アルコールの量を減らそう、あるいは無くそうという運動である。酒類の生産と消費そのものを全面的に禁じようとする場合もある。

禁酒運動の動機は運動により様々であり、政治的理由や宗教的理由などが考えられる。政治的理由としてはアルコールによる健康への害を減らそうというもの、人心や家庭や社会の荒廃を防ごうとするもの(特に社会改良社会福祉の一環として、労働者や農民などの階層で起こる様々な問題をアルコールによるものとみて禁酒を呼び掛けるもの)、家庭や社会の無駄な出費を減らそうというものなどがあり、一方ではキリスト教イスラム教など宗教上の信念に基づくものなどがある。

欧米の禁酒運動

19世紀末から20世紀前半にかけては欧米諸国で社会改善運動や道徳立て直し運動が起こると同時に禁酒運動も盛り上がりを見せた。ヨーロッパでは1829年アイルランドで禁酒運動団体が発足し、1830年代にはスカンジナビア諸国、スコットランドイングランドでも団体が発足した。英国では1835年に「全国絶対禁酒教会」が発足、プロテスタント教会が集会を開き、アルコールの代替として紅茶を勧め、紅茶が広まった[1]。19世紀後半にはスイスやドイツ、フランス、ロシアなどでもキリスト教の教職者らによる禁酒団体が成立している。アメリカ合衆国では1869年に政党として禁酒党Prohibition Party)が結成され、大統領選挙では当選の見込みがないにもかかわらず度々20万票台を集めている。1873年にはキリスト教婦人矯風会Woman's Christian Temperance Union)が発足し翌年には全国的に活動を始め、キャリー・ネイションら熱心な活動家が現われた。

ロシアの禁酒運動

ファイル:1985 CPA 5686.jpg
「しらふが正常」と書かれたソ連の切手
ファイル:1985 CPA 5687.jpg
「しらふが正常」と書かれたソ連の切手

ウォッカ大国であるロシアでも、禁酒運動は展開されていた。ソビエト連邦時代末期の1980年代にユーリ・アンドロポフが「労働生産性向上」のために、ミハイル・ゴルバチョフは「ペレストロイカ」の一環として禁酒運動を指導した。特にゴルバチョフは「しらふが正常」を合言葉に禁酒運動を展開したが、結局はウォッカの密造にソ連国民を駆り立て、酒税収入が激減。ソ連崩壊のきっかけの一つになってしまった。ただし、ロシアにおける禁酒運動は、完全な禁酒ではなく、過度の飲酒を戒め、「適度な飲酒」を呼び掛けるものであった。[2]

日本の禁酒運動

日本では、明治6年(1873年)にイギリス公使ハリー・パークスが後援し外国船員禁酒会が横浜に組織され、それに刺激された形で明治8年(1875年)に奥野昌綱らによって日本初の横浜禁酒会が組織された。その後、前述のアメリカのキリスト教婦人団体の日本支部として1886年に東京婦人矯風会が結成され、1893年に全国組織の日本キリスト教婦人矯風会となり、広範囲な禁酒運動が始まった。ハワイ国の初代総領事だった外交官の安藤太郎が帰国し、横浜禁酒会と合流して明治23年(1890年)に東京禁酒会が発足した。第二次大戦後、日本禁酒同盟と改名し[3]、矯風会同様、現在も運動を続けている。[4]

公衆衛生

19世紀末には公衆衛生の立場からアルコール中毒による健康への害を防ぐために酒類の生産・消費の禁止を訴える運動も起きた。1900年代からは優生学の一環としての禁酒運動も出現し、これはナチスによる優生学・民族衛生・禁煙禁酒運動へとつながっている。

立法措置

20世紀前半には各国で禁酒令が打ち出されているが、特に1920年代アメリカ合衆国における禁酒法憲法修正第18条ボルステッド法)は名高い。

脚注

参考文献

  • 『日本キリスト教婦人矯風会百年史』日本キリスト教婦人矯風会編、ドメス出版、1987年
  • 『婦人新報』日本キリスト教婦人矯風会編、不二出版、1985-1986年 (1895年~1958年分の機関誌復刻)

関連項目

歴史
飲酒による負の作用

外部リンク

no:Måteholdsbevegelse