福岡藩

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福岡藩(ふくおかはん)は、筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。

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福岡藩領域図(慶長期)

略史

慶長5年(1600年関ヶ原の戦いの功により、筑前の一部を領有していた小早川秀秋備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津藩主の黒田長政が、同じく関ヶ原の戦功により、筑前一国一円52万3千余石の大封を与えられたことにより、当藩が成立した。国主、本国持の大名家である。

以後、徳川将軍家は福岡藩・黒田氏を優遇し、2代・忠之以降の歴代藩主に、松平の名字と将軍実名一字を授与した。江戸城、席次は大広間松の間、9代斉隆以降、大廊下上之部屋。松平筑前守黒田家として幕末に至る。[1]

筑前入府当初の居城は、小早川氏と同じ戦国武将立花鑑載が築城した名島城であったが、手狭であり交通にも不便であったため、慶長6年(1601年)から慶長11年(1606年)までの約6年をかけて、新たに広大な城郭・福岡城(別名:舞鶴城・石城)を築城した。同時に領内に於いて福岡藩と小倉藩の藩境に筑前六端城益増城鷹取城左右良城黒崎城若松城小石原城)を築き、黒田八虎で筆頭重臣の栗山利安井上之房を始めとする家臣らが城主となる。なお、長政は質素倹約を旨とする父の藩祖・黒田如水の教えにより藩内には豪壮な別邸屋敷、大名庭園などは築庭しなかった。黒田家は6代藩主継高が隠居屋敷、数寄屋庭園の友泉亭、(現・友泉亭公園)を建立した程度である。

2代・忠之は、父・長政の遺言により弟の長興に筑前秋月藩5万石、高政に筑前直方藩4万石を分知した。これにより石高は43万3千余石となった。忠之の時代には黒田騒動と呼ばれるお家騒動が起きた。後述。

3代・光之は、藩儒貝原益軒に命じて黒田家正史、『黒田家譜』を編纂させた。それまでの保守的な重臣を遠ざけて新参の鎌田昌勝立花実山を家老として新たに登用し、藩士の序列統制や幕末まで続く福岡藩の政治体制を整えたといえる。

4代・綱政は、東蓮寺藩主から福岡藩主となった。第二の黒田騒動と呼ばれる御家騒動が起きる。

5代・宣政は、生来病がちであり領地筑前に中々入ることができず、叔父の直方藩主・黒田長清が代理として藩政を助けた。

6代・継高は、直方藩より本藩の養嗣子となったため直方藩は廃藩となった。このため所領4万石は福岡藩に還付され、石高は47万3千余石となり廃藩置県までこれが表高となった。藩祖孝高の血統としては最後の藩主。

7代・治之は、御三卿一橋徳川家からの婿養子で、8代将軍徳川吉宗の孫にあたる。養父の継高は黒田一門、重臣達と協議の上、福岡藩の永続を優先に考え、徳川家から養子を迎えた。

8代・治高は、婿養子(末期養子)として多度津藩京極氏から迎えたが早世し、妻子も無く1代限りの藩主であった。

9代・斉隆は、御三卿・一橋徳川家からの婿養子。11代将軍徳川家斉は同母で実兄である。天明4年(1784年)修猷館(しゅうゆうかん)、甘棠館(かんとうかん)の藩校2校を興した。そのうち修猷館は福岡県立修猷館高等学校として現在も福岡県教育の主導的地位を誇っている。

10代・斉清は、江戸時代後期、蘭癖大名として世に知られ、肥前長崎の黒田家屋敷に何度も往来し見聞を広げている。

11代・長溥は、薩摩藩島津氏からの養継嗣。正室は斉清息女、純姫。父や養父と同じく蘭癖大名であった。

12代・長知は、伊勢津藩藤堂氏からの養継嗣。能楽を好み多くの能楽師達を支援した。最後の筑前福岡藩藩主。初代福岡知藩事となった。

幕末には、慶応元年(1865年)当初、第一次長州征討中止の周旋に奔走した筑前勤王党(尊皇攘夷派)を主とする勤王派が主力を占めるが、勤王派は同時に三条実美ら五卿を説得し太宰府に移したことで尊皇攘夷の雄藩の一角とされるようになったが、その事を藩主である黒田長溥が幕府に責められていた。さらに犬鳴谷に建設されていた犬鳴御別館が藩主を幽閉するための物と噂され、謀反の疑いがかけられた。そして幕府が第二次長州征討を決定した結果、勤王派の周旋は否定され、藩論が佐幕に傾き、勤王派の多くが逮捕され家老・加藤司書をはじめ7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首、野村望東尼ら15名が流刑となった乙丑の獄により筑前勤王党は壊滅した。その後、慶応4年(1868年)再び勤王派の巻き返しがあり藩論は勤王に転向と目まぐるしく変転した。

明治3年(1870年)、日田県知事松方正義が福岡藩士による太政官札偽造事件を告発。その後の明治政府の調査の結果、松方の告発が事実で福岡藩首脳部も関与していた事実が判明した。このため明治4年7月2日(1871年8月17日)、12代・長知知藩事を解任、後任には黒田家と縁のある有栖川宮熾仁親王が就任したが、廃藩置県までの12日間に過ぎなかった。とは言え、知藩事は江戸時代の藩主と同様に世襲が認められていたことから、嫡男が知藩事を継げない事態は江戸時代の改易に匹敵する厳罰であり、事実上の廃藩と言われている。この際、見せしめとして事件に関わった最高幹部である大参事立花増美矢野安雄、権大参事小河愛四郎、小参事徳永織人三隅伝八の5名が実行犯として処刑され、10人以上が閉門流罪などにされている。長知一族は福岡を離れ、東京に移住した。その後、廃藩置県により福岡県となった。この事件で名前を上げた松方正義は明治新政府で出世の道を掴んだ。

明治17年(1884年)長知の子、黒田長成は新政府の華族令により侯爵を叙爵、華族に列した。

黒田騒動

黒田騒動(くろだそうどう)は、福岡藩で発生したお家騒動栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。他の御家騒動では処分時に死者が出ているが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかった。

長政は世継ぎ継承にあたり長男忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決め忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士の嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じ豪華な大船・鳳凰丸を建造、さらに200人の足軽を新規に召し抱えるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。

大膳も寛永9年(1632年)6月、忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月、将軍徳川家光が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫も高野山に追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている。なお、この時に盛岡南部藩へ預かりとなった栗山大膳は、藩祖・黒田如水所用の兜も一緒に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。

この事件を森鷗外が小説『栗山大膳』において、改易を危惧した大膳が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色し描いている。十太夫は、島原の乱で一揆軍に加わり戦死したことになっている。

また、江戸時代中期には江戸中村座などにて黒田騒動を題材にした歌舞伎が数多く上演された。最初は瀬川如皐作、外題『御伽譚博多新織』。のちに河竹黙阿弥により狂言『黒白論織分博多』として加筆集約化された。また幕末には合巻としては最長編である『しらぬひ譚』も歌舞伎化されこちらも大好評を博した。

歴代藩主

黒田家(宗家)

外様 52万3千余石→43万3千余石→47万3千余石 (1600年 - 1871年)

  1. 長政
  2. 忠之
  3. 光之
  4. 綱政
  5. 宣政
  6. 継高
  7. 治之
  8. 治高
  9. 斉隆
  10. 斉清
  11. 長溥
  12. 長知

支藩

秋月藩

秋月藩(あきづきはん)は、福岡藩の支藩元和9年(1623年)黒田長政の三男・長興が福岡藩より5万石を分知され立藩した。藩庁秋月陣屋(福岡県朝倉市)。無城大名ではあるが城主格が与えられていた。4代藩主長貞の息女、春姫は高鍋藩秋月氏に嫁ぎ、次男は名君として名高い上杉鷹山である。

寛永年間に福岡藩の間で下座郡の一部と穂波郡・夜須郡の一部の所領交換が実施されたが、幕府の承認を得られなかったため、「御内證替」とも呼ばれた(一説には福岡藩から秋月藩につけられた重臣の所領をそのまま安堵されたからとも言う)。また、秋月陣屋の目と鼻の先にあった交通の要所である甘木宿を手放すことを福岡藩が拒否したため、秋月・福岡両藩の境界線は甘木宿が福岡藩領に含まれる形での複雑な線となった[2]

明治4年(1871年)の廃藩置県により秋月県となり、その後、福岡県に編入された。

明治2年に秋月黒田家は華族に列し明治17年(1884年)に子爵となった。

秋月藩家臣

  • 田代家(秋月藩家老)秋月藩筆頭家老、田代家の家老屋敷は近年、期間を決めて一般公開されている。
  • 戸波家(知行300石)
    戸波家は上級武士で戸波六兵衛定次を祖とし馬廻り組、知行300石を拝領。代々馬廻り頭鉄砲頭中老家老等の要職にあった家柄である。明治9年(1876年)秋月の乱のとき、戸波半九郎定夫は他の六士とともに江川谷で自刃するが、その後戸波屋敷は旧藩主黒田家に譲られ秋月の別邸として用いられた。その屋敷は秋月城の桜馬場にあり昭和40年郷土館を開設し、黒田家の遺品と共に寄贈され一般公開されている 
  • 林家(知行120石)
    林家は上級武士でその屋敷は今も戸波家の隣にあるが一般公開されていない
  • 久野家(知行100石)
    久野家は上級武士で馬廻組の家柄でその屋敷は今も久野邸として一般公開されてある。茅葺きの本屋と瓦葺きの二階建て離れ座敷、庭園と往時のままで保たれている蔵内に資料館がある。また久光製薬の会長の母方の実家で、今は久光製薬が管理している。

歴代藩主

黒田家(秋月家)

外様 5万石 (1623年 - 1871年)

  1. 長興
  2. 長重
  3. 長軌
  4. 長貞
  5. 長邦
  6. 長恵
  7. 長堅
  8. 長舒
  9. 長韶
  10. 長元
  11. 長義
  12. 長徳

東蓮寺藩(直方藩)

東蓮寺藩(とうれんじはん)、のち直方藩(のおがたはん)は、福岡藩の支藩。藩庁として東蓮寺(福岡県直方市)に陣屋が置かれた。

同藩は前後2期に分かれる。第1期は元和9年(1623年)、黒田長政の四男・高政が福岡藩より4万石を分知され立藩したことに始まる。3代・長寛の時代の延宝3年(1675年)この地が直方と改称されたことにともない直方藩と改称する。延宝5年(1677年)、長寛は実父の福岡藩3代藩主・光之の後継となり領地を本藩に返還した。のち長寛は福岡藩4代藩主・綱政となった。

第2期は元禄元年(1688年)、光之の四男・長清が5万石を分知されたことにより成立した。長清の嫡子・長好は福岡藩5代藩主・宣政に子がなかったため養嗣子(のちの福岡藩6代藩主・継高)となった。享保5年(1720年)長清が没し、長好の他に子が無かったため廃藩となり、所領は福岡藩に還付された。1891年(明治24年)、福岡藩最後の藩主・長知の四男の黒田長和が直方家を再興して男爵となり、華族に列した。

歴代藩主

黒田家(東蓮寺家)

外様 4万石 (1623年 - 1677年)

  1. 高政
  2. 之勝
  3. 長寛
黒田家(直方家)

外様 5万石 (1688年 - 1720年)

  1. 長清

大老

  • 三奈木黒田家(筑前三奈木領1万6205石・重臣筆頭)藩大老職世襲。代々、通称・三左衛門、美作、黒田播磨の名を世襲。

三奈木黒田家は荒木村重の家臣であった加藤重徳の次男、黒田一成黒田孝高の養子、幼名・玉松)を祖とする。 一成一任(*)-一貫(*)-一春一利一誠一興隆庸(*)=清定(*)-溥整(*)=一美一雄一義

維新後は黒田家筆頭家臣として黒田一義男爵となり、華族に列した。

(*2代・黒田一任は、久野重時と初代・黒田一成の娘との間に生まれた子、すなわち一成の外孫にあたる。)
(*3代・黒田一貫黒田長興の娘婿。子には4代・黒田一春のほか、鶴子(野村祐春室)がおり、鶴子の次男が黒田長貞である。)
(*8代・黒田隆庸、9代・黒田清定、10代・黒田溥整の三名は藩主の黒田斉隆黒田斉清黒田長溥より偏諱を受けている。)

中老

  • 野村家(筑前飯塚田川領6000石・重臣)筑前福岡藩、藩中老職世襲。
野村祐勝(太郎兵衛、母里友信の実弟、友信とともに黒田二十四騎の一人)―祐直(市右衛門・大学)―祐隆(太郎兵衛)―祐良(太郎兵衛)―祐春(太郎兵衛)(*)

(*野村祐春:弟の野村祐明(太郎兵衛)は黒田宣政期の家老。妻の鶴子(黒田一貫の娘)との間の子に黒田長貞(次男)らがいる。)


  • 加藤家(1000石→2000石→3000石→3800石→2800石・重臣)筑前福岡藩、藩中老職世襲。代々、又左衛門、内匠、半之丞を世襲。

加藤吉成(大老・黒田一成の実兄、元小西行長家臣)

有岡城に捕らえられた藩祖・黒田孝高の世話をした加藤重徳の功績により主君・小西行長亡き後、福岡藩に迎え入れられ、既に隠居していた重徳に代わり嫡男の吉成が中老職に列せられた。 吉成成忠重成重直重賢重武彌中徳隣徳裕=※徳蔵徳成徳行

(※徳蔵は三奈木黒田家からの婿養子、天保11年に家督を加藤家の嫡男の徳成に譲り、実家に復籍し三奈木黒田家の家督を継いだ)

幕末の領地

福岡藩

明治維新後に、嘉麻郡20村(秋月藩領)、後志国久遠郡奥尻郡が加わった。

秋月藩

  • 筑前国
    • 穂波郡のうち - 2村(残部はすべて福岡藩領。以下同)
    • 嘉麻郡のうち - 20村(福岡藩に編入)
    • 下座郡のうち - 11村
    • 夜須郡のうち - 38村

藩邸

ファイル:Gaimusho in early Meiji era.jpg
明治初期に外務省庁舎として使われていた頃の福岡藩江戸屋敷

江戸の藩邸は、現在の千代田区霞が関2丁目2番、外務省庁舎の位置に上屋敷があった。明治時代になってからは、創設されたばかりの外務省初代庁舎として使われていたが、1877年(明治9年)2月1日に焼失した。現在も外務省外周の石垣が残り、藩屋敷の面影が残っている。桜田屋敷と呼ばれ、隣接する芸州浅野家屋敷との間に見晴らしの良い坂があり、江戸霞ヶ関の名所とされた。歌川広重名所江戸百景中、「霞かせき」である。最後まで残った海鼠壁の長櫓は旧国宝に指定されていたが空襲で消失。尚、屋敷の巨大な鬼瓦(雲紋瓦)が東京国立博物館に常時屋外展示してある。他に赤坂に中屋敷、郊外には御鷹屋敷、下屋敷があった。長崎、京都、大坂にも屋敷があり、天王寺公園大阪市立美術館の横には中ノ島にあった黒田家蔵屋敷表門が、移築保存されている。また、秋月藩江戸屋敷の表門は、東京よみうりランドに移築保存されている。

菩提寺・縁寺院

関連作品

戦国時代から江戸時代の黒田家を舞台にした劇場映画
歌舞伎
  • 博多小女郎波枕
  • しらぬい譚
テレビドラマ
書籍

脚注

  1. 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年。
  2. 藤本隆士『近世匁銭の研究』吉川弘文館、2014年、P9、246-248

参考文献

関連項目

先代:
筑前国
行政区の変遷
1600年 - 1871年 (福岡藩→福岡県)
次代:
福岡県
先代:
福岡藩の一部
行政区の変遷
1623年 - 1871年 (秋月藩→秋月県)
次代:
福岡県