紀州征伐

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紀州征伐(きしゅうせいばつ)または紀州攻め

天正十三年(一五八五)豊臣秀吉が紀州雑賀・根来を中心に行なった征伐。紀ノ川下流の雑賀荘一帯は蓮如以来本願寺の門徒化が進み、鉄炮を装備する雑賀衆は本願寺が最も頼みとする武力集団であった。一方葛城山系の一角に位置する根来寺の行人方も鉄炮の操作にすぐれた専業武力集団として著名であった。織田信長は天正五年二月、根来杉ノ坊らを先導として雑賀に侵入し、鈴木・土橋ら七氏を降したが、信長の死後も根来・粉河寺僧徒、雑賀・和泉下郡一揆の活動は続き、特に小牧・長久手の戦では、織田・徳川両氏に応じて羽柴秀吉の本拠大坂を衝く形勢を示した。秀吉は和泉岸和田城に中村一氏を置き、僧徒・一揆に備えたが、同十二年織田・徳川両氏と講和すると翌十三年三月二十一日、約十万の兵を率いて岸和田に進み、僧徒・一揆などが籠る和泉の千石堀・畠中・積善寺・沢諸城と対峙し、まず根来寺の精鋭が籠る千石堀を攻撃し、多大の犠牲を払いながらその日の内に陥したので、畠中城の百姓はその夜四散、二十二日には積善寺城の僧徒が、二十三日には沢城の雑賀衆が開城、粉河寺衆徒は二十四日寺を焼いて四散、雑賀衆は二十二日内紛を起して自滅した。秀吉は二十三日根来寺に進んだが、抵抗はなくその夜寺は焼けた。そこで二十四日軍を雑賀に進め、翌日土橋種治の城に入り、ついで太田二郎左衛門ら一揆勢が籠る太田城を水責めにして四月二十二日これを降し、首領五十人を自殺させた上で百姓の武器を没収し、農耕に専心することを命じて還住させ、二十五日凱旋の途についた。



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