芝草宇宙

提供: miniwiki
移動先:案内検索

芝草 宇宙(しばくさ ひろし、1969年8月18日 - )は、埼玉県所沢市出身の元プロ野球選手投手)。野球解説者、野球指導者。

来歴・人物

プロ入り前

帝京高校高校野球大会に通算3回[1]出場。3年時の1987年は、春夏の甲子園に共にエースとして出場。春の59回大会は、前年の秋の成績が乏しくなかったこともあってそれほど注目されていなかったが、2回戦で優勝候補の一角で、近畿大会王者の京都西を完封。準々決勝で野村弘橋本清立浪和義片岡篤史らを擁するPL学園高校に延長11回、2-3でサヨナラ負け、2試合連続で好投したことで、一躍注目を浴びることとなった。夏の第69回選手権大会では2回戦・対東北高校戦でノーヒットノーランを達成(選手権大会史上20人目)するなど、3試合連続完封して準決勝に進出したが春夏連覇したPL学園に打ち込まれ、5-12で再び敗れた。

同年秋のプロ野球ドラフト会議日本ハムファイターズに6位指名され入団。同期入団の島田直也とともにSSコンビと呼ばれた。ドラフト指名の時、当時パ・リーグ広報部長だったパンチョ伊東が「日本ハム、芝草宇宙」と彼の名を会場に呼び上げた際、「“ひろし”は宇宙、大宇宙、コスモ(と漢字を説明する)」と発表し話題になった。なお、『宇宙』の名前の由来は、生まれた年に行われたアポロ計画アポロ11号の月面着陸)から来ており、それに感銘を受けた父親が名付けたものである[2]

プロ入り後

1991年に入団三年目にして初めて一軍に昇格し、初登板初先発で完封勝利を達成した。しかしその後は谷間の先発と中継ぎを兼任する。1996年1998年に年間通してほぼ先発ローテーションを守り自己最多の7勝を挙げ規定投球回もクリアしたが2シーズン共に負け越し入団から一軍のでの成績でも勝ち越しが1度しかなく伸び悩んでいた。

1999年は4月7日の東京ドームでの西武ライオンズ戦において、プロ入り初登板初先発の松坂大輔と投げ合ったが、敗戦投手となった。この年はシーズン途中から中継ぎで投げ、24試合で3勝4敗の成績で終わった。以降は投球フォームをオーバースローからサイドスローに変え先発から中継ぎに本格転向した。

2000年はわずか20試合の登板にとどまったが、防御率2.93と安定した投球を見せた。

2001年は56試合に登板し、6勝4敗2セーブ、防御率3.57の成績を残した(中継ぎ投手に本格転向後年間成績で負け越しが一度も無く転向は成功した)。

2002年は抑えも任されたこともあり、11セーブを挙げたが、防御率は前年とそれほど変わらなかった。

2003年9月28日、この前年に球団本拠地の北海道移転が決定していた日本ハムの「東京ドーム本拠地最終戦」で最終回のマウンドを踏んだ。しかし結果は四球による押し出しが決勝点となり、東京時代最後の敗戦投手となる。2004年から2006年まで北海道の緑をイメージした緑色のグラブを愛用しており、日本ハム時代に同僚の入来祐作から「バッタ」と呼ばれていた。自身の公式ブログのバナーにもグラブの写真を載せている。この年は58試合に登板し、3勝2敗、防御率4.02と安定感に欠けた。

2004年も50試合に登板したが、2勝2敗、防御率5.43と前年より防御率が悪化した。

2005年は一軍登板なしに終わり、オフに投手コーチ就任を要請されるもこれを固辞、戦力外通告を受け、自由契約となった。その後、12球団合同トライアウトに参加し、福岡ソフトバンクホークスにテスト入団した。

しかし、ソフトバンクでは故障により一軍登板の機会がなく、2006年10月3日に再び戦力外通告を受けた。2年連続で12球団合同トライアウトを受け、オランダフーフトクラッセから誘いが来るも断り、2007年台湾興農ブルズのテストを受け合格した。

しかし、2007年5月20日、興農から戦力外通告を受け、現役を引退した。

引退後

2007年10月13日パ・リーグ・クライマックスシリーズ第2ステージ第1戦の中継(テレビ埼玉制作)で野球解説者としてデビューした。2008年GAORA日刊スポーツにて本格的な解説業を開始した。

2009年1月30日社会人野球かずさマジックのコーチに就任することが発表された。同年11月2日、かずさマジックからの退団がブログで発表された。

2010年北海道文化放送GAORAの野球解説者に就任。

2012年に東日本大震災復興支援ベースボールマッチで投手コーチを務めた。

2011年から2012年まで日本ハムの一軍投手コーチを務め、2013年からは同球団のチーム統轄本部アマスカウトを担当している[3]

2017年12月27日、日本ハムから今シーズン限りでの退団が発表された[4]

2018年4月より、母校である帝京高校の投手陣の指導を行うことが報道された[5]

詳細情報

年度別投手成績

1991 日本ハム 8 4 1 1 0 1 1 0 -- .500 137 30.1 28 1 28 0 0 17 1 0 16 14 4.15 1.85
1992 10 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 134 32.0 30 2 12 1 2 16 2 0 12 12 3.38 1.31
1993 27 2 0 0 0 4 1 2 -- .800 191 43.0 40 2 25 1 1 21 6 0 19 18 3.77 1.51
1994 34 1 0 0 0 4 5 1 -- .444 376 89.2 94 14 24 1 3 50 4 0 41 35 3.51 1.32
1995 17 5 0 0 0 1 4 1 -- .200 204 47.0 50 6 26 0 1 30 1 0 25 25 4.79 1.62
1996 26 22 3 0 0 7 9 0 -- .438 560 130.0 134 17 49 1 3 67 7 0 62 55 3.81 1.41
1997 20 15 4 1 0 3 9 0 -- .250 384 87.1 93 16 33 0 8 30 4 0 53 51 5.26 1.44
1998 25 21 6 1 0 7 11 0 -- .389 620 145.1 144 18 42 0 11 44 10 0 71 63 3.90 1.28
1999 24 7 0 0 0 3 4 0 -- .429 275 57.0 86 9 21 1 3 27 4 0 47 46 7.26 1.88
2000 20 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 71 15.1 19 1 6 0 3 11 0 0 5 5 2.93 1.63
2001 56 0 0 0 0 6 4 2 -- .600 354 85.2 73 12 32 5 7 52 1 0 36 34 3.57 1.23
2002 55 0 0 0 0 4 3 11 -- .571 252 60.1 62 10 13 1 5 50 1 1 26 24 3.58 1.24
2003 58 0 0 0 0 3 2 0 -- .600 277 65.0 71 7 17 2 4 39 1 0 31 29 4.02 1.35
2004 50 0 0 0 0 2 2 0 -- .500 231 53.0 59 8 12 0 4 40 1 0 34 32 5.43 1.34
2007 興農 16 1 0 0 0 2 2 1 3 .500 117 24.2 36 3 6 1 6 12 0 0 18 16 5.84 1.70
NPB:14年 430 77 14 3 0 46 56 17 -- .451 4066 941.0 983 123 340 13 55 494 43 1 478 443 4.24 1.41
CPBL:1年 16 1 0 0 0 2 2 1 3 .500 117 24.2 36 3 6 1 6 12 0 0 18 16 5.84 1.70

記録

NPB
CPBL

背番号

  • 29 (1988年 - 2005年)
  • 12 (2006年)
  • 20 (2007年)
  • 77 (2011年 - 2012年)

関連情報

出演

脚注

関連項目

外部リンク

テンプレート:日本ハムファイターズ1987年ドラフト指名選手