足利氏

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足利氏(あしかがし)

清和源氏源義家の子孫。義家の孫義康が下野足利に住して,足利氏を称した。その子義兼は源頼朝に従って御家人となり,北条時政の娘を妻とし,さらに義氏,泰氏も北条氏と通婚して鎌倉幕府に重用され,上総,三河の守護。尊氏のとき,後醍醐天皇の命に応じて六波羅探題を滅ぼして建武中興第一の功臣となったが,のち建武政権にそむき,光明天皇を擁立し京都に室町幕府を開き,延元3=暦応1 (1338) 年征夷大将軍に任じられた。3代義満は元中9=明徳3 (92) 年南北朝合一を成功させ,山名,大内などの有力守護大名を制圧して幕府権力を確立,対明貿易を盛んにした。6代義教も永享の乱で関東の足利持氏を討ち幕威をあげたが,赤松満祐に暗殺された。8代義政は,その継嗣問題から応仁の乱を起し,文明5 (1473) 年に子義尚に職を譲り,京都東山に銀閣を造り,東山殿と呼ばれた。応仁の乱を契機として次第に将軍の権力は衰え,管領,権臣などが実権を握り,天正1 (1573) 年 15代義昭が織田信長に追われて幕府は滅亡した。また尊氏の次男基氏は鎌倉公方として東国を管領し,氏満,満兼,持氏と代々鎌倉府にあったが,やがて幕府と対立するようになり,持氏は永享 10 (1438) 年関東管領上杉憲実を討とうとして幕府軍に敗れ,自殺。その子成氏は下総古河に拠って古河公方と呼ばれたが,幕府は義政の弟政知を伊豆堀越におき,成氏と対抗させた (堀越公方) 。政知の子茶々丸は北条早雲に攻められて自殺,堀越公方は滅びた。成氏の孫高基,その子晴氏はのち北条氏と結んで勢力の回復に努めたが失敗した。晴氏の孫国朝のとき,下野喜連川に移り喜連川氏を称した。その子孫は代々江戸幕府に仕え,明治にいたり足利姓に復した。支族に,斯波,畠山,細川,一色,吉良,仁木氏などがある。



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