郡衙

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郡衙(ぐんが)は、日本の古代律令制度の下で、の官人(郡司)が政務を執った役所である。国府とともに地方における官衙施設で、郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ・こおりのみやけ)とも表記され、考古学では郡衙、史料上(歴史学)では郡家と表記される傾向がある[1]

概説

郡衙施設は郡司が政務にあたる正殿・脇殿のほか、田租・正税出挙稲を保管する正倉、宿泊用の建築などから構成される。

国司の所在する国府から間接支配程度の統制が行われ、郡司は旧国造などの在地有力豪族であることが多い。国府が整備されるまでは、郡衙がその地域の行政の中心であった。また、郡域が広域にわたる場合には別院の政治的拠点が存在していたと考えられている。

郡衙は国府所在地と異なり、郡衙所在地は立郡事情や政治的変遷により移転していることもあり、その特定がなかなか進んでいない。近年は考古学における発掘調査の進展や既知の遺跡の再検討により、官衙施設に関係する大型建築跡や墨書土器祭祀遺物木簡などの出土遺物により、多数の官衙関係遺跡が発見されている。

これらの成果により、国府と郡衙間、または郡衙と郡衙間を結ぶ古代の交通体系や、9世紀後半頃、国司の権限が大幅に強化され、受領化するとともに、郡司の権限は大幅に縮小され、全国的に郡衙が衰退したことがわかってきている。

なお、1878年郡区町村編制法によって編制された近代(明治・大正期)の郡の役所は郡役所と称する。

各地の郡衙

常陸国の11郡衙跡は11郡のうち2不明を除いて大体比定されている。新治郡は真壁郡協和町古郡、白壁郡は不明(真壁郡…真壁郡真壁町古城・源法寺)、筑波郡はつくば市平沢、河内郡はつくば市金田台、信田郡は不明、行方郡は行方郡玉造町内(?)、鹿島郡は鹿島市神野向、那賀郡は水戸市渡里、久慈郡は常陸太田市大里町・薬谷町、多珂郡は高萩市内(?)、茨城郡は石岡市茨城に比定されている。 このうち常陸国新治郡の郡衙である新治郡衙(にいはりぐんが)については、古くから知られており[注 1][2]、1946年(昭和16年)から1943年(昭和18年)に発掘調査され、古郡の台地上に51棟の建物郡が確認されている。北部に25棟、西部に9棟、東部に13棟、南部に4棟。西部に庁屋、東部に不動倉が配置されている。これら建物跡の平面形は大小が見られ、12~13メートル×9~10メートルの大きさも建物が東部で8軒、北部で7軒、南部で4軒で最も多い。北部群中には48×14メートルの東西棟がある。西部では同一のものはなく、17×17メートル(方5間)と14×14メートル(方4間)がみられる。これらの建物配置から西部群に住宅風の庁屋、厨家と推測できる建物であり、あとの3郡は2列から4列に規則正しく並び、正倉・不動倉・倉庫などと考えられている。 さらにこの郡衙跡に隣接して新治廃寺跡(氏寺=郡分寺か)、瓦窯跡、工房跡、須恵器窯跡などが確認されている[2][3]

志太郡衙は、駿河国志太郡の郡衙で、静岡県藤枝市南駿河台一丁目に所在する。別称を御子ヶ谷(みこがや)遺跡という。この郡衙は、大井川の形成する扇状地の北辺丘陵地帯にあり、東・西・南の三方を囲まれ、およそ130×120メートルほどの小さな谷地形のなかに位置している。1977年(昭和52年)御子ヶ谷地区の水田地で多量の遺構(板塀で囲まれた区画の中に掘立柱建物群(30)・井戸・門・道路遺構、地名「志太」・官職名「大領」などを記した269点の墨書土器・木簡など)が発見され、地方官衙の可能性が出てきた。1980年(昭和55年)10月、「志太郡衙跡」として国の史跡に指定された。遺跡の建物群は南北・東西に方位をそろえ整然と配置され、西・東の二グループに分けられる。西半分には規模の大きい東西とを中心に井戸をもつ広場や南北棟が近接しており、中枢部分であると推定されている。東半分には倉庫・雑舎様の建物が密集しており、これを囲むように土塁状施設や杉板による板塀が設けられている。[4]

嶋上郡衙は、摂津国島上郡の郡衙で、大阪府高槻市川西町・清福寺町・郡家(ぐんげ)新町に所在する。別称は郡家川西遺跡である。1970年(昭和45年)5月から翌年にかけての緊急発掘で、奈良時代の大型掘立柱建物群が検出され、井戸の底から「上郡」と記された墨書土器(土師器)数点が出土した。続いての範囲確認調査で約三町の郡家域が想定され、1971年(昭和46年)5月に国の史跡に指定された。西側に伝継体天皇陵の今城塚古墳が存在する。8世紀には郡衙が成立し、10世紀後半頃には崩壊していったと推定されている。[5]

京都府城陽市正道官衙遺跡は、山背(山城)国久世郡の郡衙と推定されている。大規模な正殿が広場に面して建ち、何棟かの建物が建ち並び、築地塀で囲まれている。8世紀の造営で、9世紀前半まで存続した。

広島県の郡家遺跡として唯一発掘調査で確認されたのが三次市にある下本谷遺跡である。東西54メートル、南北114メートルの区画内に庁屋(ちょうのや)・副屋(そうのや)・向屋(むかいや)があり、倉庫群跡も確認された。奈良時代後半から平安初期までに4回の変遷があった。遺跡は大部分破壊されてしまっている。

東山道・東海道の結節点に位置する甲斐国では4郡の郡衙がおむね比定されており、東海道から甲斐国府を結ぶ官道である甲斐路、甲斐国府から巨摩郡衙を経て東山道を結ぶ伝路を中心に各郡と信濃・駿河・武蔵の郡衙を結ぶ交通体系が存在していたと考えられている。

脚注

注釈

  1. 水戸藩の学者中山信名は、『新編常陸国誌』で礎石・瓦多い所が昔の郡庁があったところであると述べている。

出典

  1. 岡本厚『岩波講座 日本歴史 第2巻』岩波書店 p185
  2. 2.0 2.1 阿久津久「新治郡衙跡」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版 1991年 91-92ページ
  3. 糸賀茂男「常総のまつりごと 文化のあけぼのから兵の世へ」 長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司『茨城県の歴史』山川出版社 1997年6月 33-37ページ
  4. 八木勝行「志太郡衙跡」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版 1991年 95-97ページ
  5. 堀江門也「嶋上郡衙跡」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版 1991年 98-99ページ

関連項目