鈴木宗男

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鈴木 宗男(すずき むねお、1948年昭和23年〉1月31日 - )は、日本政治家。元衆議院議員(8期、懲役刑確定に伴い2010年平成22年〉9月15日に失職)、新党大地代表。衆議院議員の鈴木貴子は長女[1]

かつては国務大臣北海道開発庁長官や国務大臣沖縄開発庁長官内閣官房副長官などを歴任。地方や弱者を軽視する新自由主義経済政策を強く批判し、ニューディール政策的な公共事業発注により地方経済を回す政策を重視する。また、北海道の自立、アイヌ民族の権利の確立、雇用の確保、北方領土問題の解決等を訴えている。

鈴木宗男事件において最高裁上告していたが、2010年9月7日付で上告が棄却され、異議申し立ても9月15日付で退けられたため実刑が確定し、議員資格を失いちょうど1年間収監された(詳細は鈴木宗男事件)。

日本の政治家の中でも特に、ロシアとの関係が深いことで知られる。

来歴・人物

自由民主党時代

十勝支庁足寄町大誉地出身で保守系がひしめいていた旧北海道5区選出の衆議院議員であった、中川一郎の秘書を務める。立会演説会では中川の代理で登壇するほどに中川から信頼を寄せられ、「中川の金庫番」とも言われた。

1983年に中川が死去すると、第37回衆議院議員総選挙で中川が生前に立候補していた中選挙区時代の北海道5区(定数5)から、自民党の公認を得られず保守系無所属で出馬。中川の長男である昭一と骨肉の争いを演じ、激戦の末共に初当選(当選同期には田中直紀熊谷弘二階俊博野呂田芳成衛藤征士郎金子原二郎田中秀征尾身幸次北川正恭町村信孝自見庄三郎大島理森野呂昭彦甘利明など)。期間中、支持者に対して車窓から箱乗りして手を振る姿は有名である。初当選後、自民党の中曽根康弘総裁から追加公認され、自民党に入党した。鈴木の事前公認に反対したのは党総務局長だった小沢一郎で、鈴木はそれを知ると後々まで恨んだというが、現在は和解している。

魚住昭の『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社)によると、昭一が立候補していたため、読売新聞グループの渡邉に立候補を断念するよう迫られ、鈴木が断るとマスメディアに大々的に鈴木批判の記事が掲載されたという。また同書によれば、鈴木側は「中川先生は世襲に否定的だった」という大義を下に出馬を決断したとしている。

中選挙区時代の北海道5区は、定数5に対し日本社会党が(単独推薦を含め)最後まで3人の候補を立て続けた唯一の選挙区(3人当選する場合もあった)であった。社会党は3人に地盤を三分させ、釧路市を地盤にした候補には岡田利春がいた。昭一との遺恨、自ら「中川一郎先生の応援をえて最年少道議として政界デビュー」と語る保守系無所属の武部勤の参戦もあって、毎回自民3候補(鈴木が当選してからは4候補)対社会党3候補の激戦が、日本一面積の広い選挙区(都道府県面積第2位の岩手県よりも広く、四国一島に相当)で繰り広げられた。

当選後当初は田中派竹下派幹部の金丸信を、金丸信の引退後は当選回数の近い衆院議員である野中広務を師と仰ぎ、「野中・鈴木ライン」で政界を叩き上げた。叩き上げの手法の中には、大蔵省への陳情の際に北勝海を同席させたり、リクルート事件竹下登が辞意を表明した後に後継総裁選定が難航した際に、早くから宇野宗佑が後継であると断言するなど、従来の政治家の常識を超えた行動が目立っていた。

1996年の小選挙区制導入で旧5区11区十勝支庁)、12区網走支庁・その後区域変更)、13区釧路支庁根室支庁現在は「7区」に区域名変更)に分割され、11区は中川、12区は武部の地盤となった。13区は北村直人の地盤だったが、北村は当時の新党ブームに乗り、羽田孜小沢一郎らと新生党結成〜新進党の結党に参加していた。鈴木は自民党候補者が不在となっていた13区に国替えした。

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2001年3月、森喜朗首相、小池百合子議員らとウラジーミル・プーチン・ロシア大統領に会う鈴木宗男(中央)

鈴木にとって中選挙区時代から小選挙区移行後の今日でも十勝支庁は地盤として強固であったが、国替えに伴い、それまで縁の薄かった釧路市に家を構えたことに関し、嫌悪感を持った釧路市民も多いと伝えられる。国替え直後の総選挙では、釧路市を大票田とする北海道13区では自民党を離れながらも酪農業を中心に保守層を押さえた北村に敗れ、重複立候補していた比例代表北海道ブロック復活当選した。

選挙区の国替え後、基本的には十勝支庁の土建業者の支持を中心に受けつつ、補助的には自民党代議士が永く不在なため基盤整備の遅れた道東の中心都市・釧路市を含む釧根(釧路支庁・根室支庁)、特にこれまで独自の国会議員を持ったことがない根室支庁では建設業界に支持が根強い。ライバルの北村が酪農家を地盤としたのに対し、鈴木は岡田利春の基盤であった漁業関連へと食い込み、「海関連」で強固な人脈を築いた。

1997年9月発足の第2次橋本改造内閣北海道開発庁長官沖縄開発庁長官として初入閣。1998年6月には現職閣僚として初めて国後択捉両島を訪問した。同年7月発足の小渕内閣では閣僚経験者ながら内閣官房副長官に抜擢された。

疑惑・逮捕・落選

2002年2月4日、NGO出席問題を巡って田中眞紀子外務大臣と対立する形で衆議院議院運営委員長を辞任。9日後の2月13日国後島の「日本人とロシア人の友好の家」(いわゆるムネオハウス)の建設をめぐる疑惑を発端として、数々の疑惑が浮上。2月20日参考人招致、3月11日証人喚問を受けたが明白な答弁は避けた。一切の疑惑に対して曖昧な釈明に終始したことより、社民党辻元清美議員から「もう、ど忘れ禁止法を適用したい」「あなたはねぇ、疑惑のデパート言われてますけど疑惑の総合商社なんですよ!」と批判を受けた(辻元は7年後の2009年外務委員会で「(自分が追及した案件については)裁判でもその事実は出ておらず、確証がなかった。そのような言葉遣いをしたことを反省している」と陳謝している)。3月15日、自民党を離党。さらに3か月後の6月19日、やまりん事件のあっせん収賄容疑を理由として衆議院本会議にて逮捕許諾請求が可決され逮捕された。21日、衆議院本会議で議員辞職勧告決議が可決されたが議員辞職はしなかった。7月20日、あっせん収賄罪で起訴。証人喚問において島田建設事件とモザンビーク事件に絡んだ証言が偽証として9月13日議院証言法違反で、また、政治資金規正法違反の罪でも併せて起訴された。

2003年9月、衆議院選挙の直前に保釈(2002年12月と2003年4月に保釈を申請しているが「罪証隠匿の恐れがある」として却下された)。その後衆議院本会議に出席。議員辞職勧告決議がされた国会議員が決議を無視して登院したのは初めてのことであった。同年10月、胃癌を手術。2004年参議院選挙に北海道選挙区で無所属で出馬するも落選(得票数48万5382票)。2004年11月5日東京地方裁判所での第一審で受託収賄・あっせん収賄・政治資金規正法違反・議院証言法違反の4件で有罪となり「懲役2年実刑追徴金1,100万円」の判決が下された。鈴木は一連の事件を全て否定した上で「国策捜査」と批判し即日控訴した。2008年2月26日に東京高等裁判所においても控訴棄却となり、即日最高裁判所上告した。

新党大地代表

2005年8月18日、松山千春とともに新党大地を結成し代表に就任。9月の第44回衆議院議員総選挙に北海道ブロックでの比例1位候補として立候補して当選、衆議院議員復帰を果たした(2004年参議院選挙で鈴木の獲得票数から勘定すれば新党大地は北海道比例ブロックでの1議席の確保が見込まれていた。2005年衆院選は自民党による刺客候補が世間を騒がせた選挙であったため、鈴木が逆に刺客として中川昭一北海道11区武部勤北海道12区等の自民党大物議員の選挙区に立候補することも浮上したが、新党大地が公職選挙法上の政党でなかったために鈴木は重複立候補ができず、比例名簿1位記載の比例単独候補となった(新党大地ではなく、自民系反郵政民営化政党であり北海道比例ブロックに候補者を一人も擁立していなかった国民新党であれば政党要件があるため、北海道比例ブロックでの比例1位と選挙区での重複立候補が可能ではあった)。

当選後の特別国会での首班指名選挙では小泉純一郎に投票、再提出された郵政民営化法案には反対票を投じた。その当時再び胃癌となり、再手術したと2006年9月19日の『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学』で告白した。

2006年9月26日の首班指名選挙では民主党代表小沢一郎に投票。また10月22日には30分間小沢と会談し統一地方選や参議院議員選挙での協力を約束したが、2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で民主党の支援を受けた新党大地推薦候補が落選したことから民主党との選挙協力を白紙に戻し、自民・民主両党との間で是々非々のスタンスを取ると表明。

2008年9月19日、国民新党と統一会派「国民新党・大地・無所属の会」を結成。10月3日に札幌市事務所の会見で、新党大地代表として軸を置いて政党間協議を見ながら最終的に判断するとした上で国民新党や民主党からの重複立候補をした上での小選挙区立候補を示唆する発言をしていた。最終的には第45回衆議院議員総選挙では前回同様新党大地として北海道比例ブロックに立候補、前回同様1議席を獲得し、新党大地代表として2期目の議員生活を送る。

2009年9月16日、新党大地が衆議院で民主党の統一会派「民主党・無所属クラブ」に参加する形で与党会派入り、9月17日に衆議院外務委員長に就任。有罪判決を受けて上告中の刑事被告人が与党会派入りして国会常任委員長に就任するのはきわめて異例である。自民党公明党共産党野党は「一、二審で有罪判決を受けて上告中の刑事被告人なので、委員会を代表して円滑かつ公平な運営にたずさわる役職にふさわしくない」として鈴木宗男の外務委員長就任に反発し、与党の民主党は「推定無罪の原則がある」「直近の民意で当選している」と反論。常任委員長は慣例として全会一致で議長指名として選出されるところ、本件については異例の起立採決で議長指名となり、横路孝弘衆議院議長が鈴木宗男を外務委員長に指名した。この国会人事については民主党が北海道で圧勝した鈴木宗男の影響力を考慮した論功行賞的な人事とする向きもある[2]。鈴木は自身の刑事訴訟と外務委員長就任について2009年11月18日に岩屋毅から質問を受けた際には「司法は司法の判断。立法府は立法府の判断があっていい」と述べた[3]

2009年10月3日、ライバルだった中川昭一が逝去し、記者会見で号泣した。

その後、2009年12月4日に鳩山由紀夫首相首相官邸で元駐日ロシア大使と北方領土問題で会談をした際に同席したり、2010年1月17日に新党大地代表として民主党大会に来賓として招かれた。2010年5月、8年ぶりにロシアを訪問し、11日にモスクワのロシア外交アカデミーで講演、「鳩山首相の時に北方領土問題解決、平和条約締結ができなければ、未来永劫解決できない」と演説した。

失職・収監

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2013年12月20日参議院議員丸川珠代(左端)、チェリーブロッサムインターナショナル代表取締役佐野美和(左から2人目)、ナック名誉会長西山由之(中央)らと

2010年9月7日、最高裁判所が上告棄却を決定した[4]。鈴木議員側は異議申し立てを行う一方で衆議院外務委員会が9月9日に理事懇談会を開催し、鈴木の外務委員長としての職務を停止し、筆頭理事の小宮山泰子が委員長代行に就任する決定を行った[5]。9月15日に異議申し立てが却下されたため[6]、「懲役2年の実刑、追徴金1100万円」の第一、二審判決が正式に確定した。これにより鈴木は公職選挙法の規定により被選挙権を失ったため、国会法の規定に基づき衆議院議員及び衆議院外務委員長を失職した。なお、第二審で「未決勾留日数220日を算入する」とされたため、刑期はそれを差し引いた期間(約1年5ヶ月)となる。

また公職の収賄罪で実刑確定となったため、公職選挙法の規定に基づき刑期満了から5年間は公民権停止となる。判決時の2010年時点では公職の収賄罪の実刑確定は刑期満了から5年間の選挙権停止と10年間の被選挙権停止の規定であるが、この規定は1999年9月2日以降に起こした事件の規定であるのに対し、収賄罪が認定された最後の事件は1998年8月の事件のため、憲法遡及処罰禁止規定(39条前段)により、法改正前の当時の公民権停止規定である刑期満了からの5年間の公民権停止となった。

失職に伴い、既に離党していた比例第二位の八代英太を飛び越え比例3位の浅野貴博繰り上げ当選。同年12月6日に収監された[7]

収監中は喜連川社会復帰促進センターにて服役していることを、関係者を通じて自らのメッセージを発表する形で明らかにした[8]

2011年12月6日に収監からちょうど1年で仮釈放された[9]。刑期満了は2012年4月、公民権停止満了はさらに5年後の2017年4月となった。

公民権停止

2011年12月28日に、新党大地の浅野貴博、元民主党松木謙公石川知裕衆議院議員3名と元民主党の横峯良郎無所属会派は民主党・新緑風会所属・元新党日本)の平山誠参議院議員2名。計5名の国会議員とともに新党大地・真民主(当初の党名は「大地・真民主党」)を結党し、党首に就任した。新党大地代表時代は政党交付金廃止を主張していたが、新党大地・真民主メンバーの多数派の意見として新党大地・真民主は政党交付金を受け取ることを発表し、2012年4月に政党交付金を受け取った。収賄罪政治資金規正法違反、議院証言法違反(偽証罪)で有罪が確定して公民権を有しない者が党首の政党に政党交付金が支給されるのは極めて異例。

2012年12月の第46回衆議院議員総選挙、2013年7月の第23回参議院議員通常選挙では新党大地代表として政治資金規正法違反で有罪が確定して選挙運動ができない中で選挙戦に臨むことになった[10]。2014年12月の第47回衆議院議員総選挙では候補者を立てなかった。

公民権回復後

2017年4月に公民権が回復したため、同年10月の第48回衆議院議員総選挙では新党大地より比例北海道ブロックに名簿順位1位で出馬したが落選した。

略歴

エピソード

ロシア連邦との関係

自民党時代から森喜朗と同じく親露派であり、プーチン政権のクリミア併合にも肯定的だった。安倍晋三に対しても長門市での日露会談を高く評価するなど、親露的姿勢を評価しており、日本の技術力でシベリア・ロシア極東を開発する事を提唱している。

人物像

  • 歌手の松山千春は、同郷の後輩かつ足寄高校の後輩であり親友でもある。松山のコンサートに顔を出すことも多い。
  • 新人議員の頃から激情的傾向が強く、国会内でよく野次を飛ばしていた。一時期浜田幸一松田九郎と共に「自民党の三大野次将軍」とも呼ばれていた。鈴木は浜田・松田とは非常に仲が良かった。
  • 1991年10月、国交正常化の政府特使としてバルト三国を訪れたとき、杉原千畝の名誉を回復した。ただし、杉原千畝は大臣訓令に背いてクビになった外交官であるため、日本の外務官僚とはぶつかる形になった。この件をきっかけとして、モサドからイスラエルなどの機微に触れる情報が入ってくるようになった[11]
  • 2005年9月の選挙で当選して以降、逮捕前まで深い関係にあった外務省との対決姿勢を鮮明にした(鈴木自身外交族でもあった)。国会では外務委員会で政府の対ロシア外交を失敗であると追及したり、外務省に矢継ぎ早に質問主意書を出して職員の不正を追及している。国会以外でもテレビ・雑誌などのメディアにも頻繁に登場し、外務省批判を繰り広げている。特に『週刊新潮』に5回にわたって連載された手記「『外務省の犯罪』を暴く!」では、現役の外務省キャリア職員のスキャンダルを実名で暴露して大きな波紋を呼んだ。
  • 佐藤優同様、親イスラエルの姿勢を見せている。2009年のイスラエルによるガザ侵攻に際しては、3度にわたって質問主意書を提出した。ガザ地区実効支配するハマースをテロ組織とする見解から、パレスチナへの1000万ドルの緊急人道支援は「我が国はテロ支援をし、テロに担する国であるというアピールをすることに等しく、我が国の国益を損なうことに繋がるのではないか」(2回目)と質問している。政府は麻生太郎首相の名で、ハマースを「テロリスト等一団体と認識している」こと、人道支援は「国際機関を通じて実施するものであり、御指摘は当たらない」とする回答を出した。「武力紛争が起きた原因はハマス側にあるとするイスラエル政府の右認識は、政府の認識と同じものか」(3回目)に対しては、「個別具体的原因を特定することは困難」と政府側は答弁した[12]
  • また、佐藤優のインタビューに答えるかたちで、官房副長官在任当時、沖縄県名護市長選挙で与党推薦候補者に官房機密費から多額の資金支援を行ったと証言している。
  • 北海道ではいまだに「宗男詣で」をしている建設業者が多い。また、次に挙げるものでは「口利き」をした(便宜を図った)とされている。

その他

  • 名前の由来は、宮城県の郷土の英雄、伊達政宗から一字を取っている。なお、命名した父は宮城県栗原郡志波姫町(現:栗原市)の出身である[13]
  • 伊吹文明とは83年初当選同期で現在に至るまで公私に渡り親しい。若手時代は将来の目標を「伊吹総理の下での自民党幹事長」と公言していた。鈴木が勾留中、伊吹は拘置所に接見に訪れ激励していた。第21回参議院議員通常選挙、道選挙区・大地新人の多原香里が民主党推薦候補ながら民主党の協力不十分で落選。鈴木は一時期、伊吹が幹事長就任した自民党との次期衆院選での選挙協力も視野に入れた。
  • 馬を売って大学の学費に充てた苦学生という話がある一方で、地元の素封家、豪農という話もある。東京に出ずに道内の大学に進学していれば馬を売る必要はなかったと指摘する声もある[14]
  • 1973年金大中事件が発生、当時鈴木が秘書をしていた中川一郎宇都宮徳馬がテレビの生番組で顔をあわせた際、金大中シンパシーを持っていた宇都宮が中川に向かって「お前は韓国から金をもらっているだろう」と発言。これに怒った中川はコマーシャル中に宇都宮を追い掛け回し、鈴木も同調、さらには宇都宮の首をネクタイで絞めた。
  • 1994年、自民党と社会党連立政権に合意した。その首班指名選挙直前、議運理事だった鈴木は、自民党代議士会で「村山富市の『いち』は市場の『市』ですから間違わないで下さい」「村山達雄さんもおられるので、村山富市とフルネームで書いてください」と自民党議員たちに投票における注意点を説明していたが、鈴木自身は直後の本会議で村山の対抗馬として新生党など連立与党が擁立した海部俊樹に投票し、造反した。1回目も「海部」、決選投票も「海部」と書き、造反したのは一人だけであり、役職停止処分となった[15]
  • 無派閥時代が長かった鈴木が1993年に経世会(小渕派)に所属した訳を聞かれると「経世会には自分の世代が極端に少ないんだ。あとは(鈴木と当選同期の)額賀福志郎くらいで、これはどうにでもなる」と答え、鈴木は額賀を軽く見ていた[16]。しかし、1994年6月の首班指名で鈴木が党議に逆らって海部俊樹に投票して党内と派閥内で孤立した際、額賀は孤立した鈴木の擁護に回った。そのことで鈴木は額賀に恩義を感じ、一目を置くようになった。
  • 「野中氏が白を黒と言えば、自分も黒」と公言したことがある。
  • 官公署の一般職員などに威圧的な態度をとる事で知られていた。国際交流基金に電話をかけた際、電話口に出た高円宮憲仁親王(当時、嘱託職員として勤務)を受付係と勘違いして怒鳴りつけたが、殿下だと判ると蒼ざめて、慌てて直接謝罪したいと申し出たものの丁重に断られてしまい、謝罪を受け付けてはもらえなかった。
  • 1996年衆院選前に執行部への公認の橋渡し、資金援助、後援企業の紹介などでシンパを増やしつつ、大半を当選させた。その後に鈴木による派閥横断「ムネムネ会」を結成し、薄く広く全国から集めた政治献金を会員に配ることで政界での影響力を増大させた。
  • 1998年のこと。鈴木は訃報を聞くまで、映画監督黒澤明を知らなかった。それまで映画館に行ったこともなかった。秘書が黒澤の実績を説明すると、突然首相になったばかりの小渕恵三に電話し、「総理、黒澤監督は国民栄誉賞に値すると思います。ぜひ、ご検討ください」と言った。黒澤には後に国民栄誉賞が贈られている。
  • 2001年に運行された北斗星まりも札幌~根室間運行の誘致に積極的に関与しており、本人も運行日にA個室ロイヤルに乗車し終着まで乗車している。
  • 国会での証人喚問の頃「ムネオハウス」に掛けたパロディー音楽が、インターネット上で流行した。その後2004年5月に札幌で行われた「ムネオハウス」のクラブイベントに「MCムネオ」名義で出演した他、2006年2月23日に東京都渋谷区のクラブ「シムーン」で「100%ムネオナイト」なるイベントに招かれて(自分の主催ではない)、自らラップに挑戦した。
  • 高校の後輩である元プロ野球選手西武三井浩二投手が、現役時代に独自の変化球を先輩に敬意を表して「ムネオボール」と命名したが、その後名称変更(三井浩二#人物)。
  • 保釈後、再当選してからは、テレビのバラエティー番組などのゲストに呼ばれている。ライブドア前社長、堀江貴文が逮捕された際には、かつて経験した拘置所内の生活についてインタビューされ、「手帳も携帯電話も全て没収されました。堀江さんのように、情報を扱う仕事に就いていた人にとっては、情報がシャットアウトされることが一番辛いでしょうね」「私は生まれが貧しかったので、あの頃に比べればここ(拘置所)はまだマシだと思って辛抱しました」などと、コメントしていた。
  • フジテレビめちゃ×2イケてるッ!」の企画で鈴木宗男のそっくりさんとして、坂田利夫が登場するはずだったが、坂田の仕事のため、「そっくりさんの代役」として鈴木本人が登場した。
  • 2006年5月3日に空き巣の被害に会い、警視庁赤坂署捜査したところ、1階応接室の窓ガラスが割られ、2、3階の部屋が物色されていた。夫人愛用の装飾品が数点盗まれた。
  • ジョギングを日課としており、海外出張先でも怠らないほど。2007年2月18日の東京マラソンにも抽選の結果、当選して一般ランナーとして出場し、59歳ながら見事4時間7分40秒で完走した。元気に回復した姿を他のがん患者たちに見てもらって勇気付けたい、という想いからである。完走の後、ランナー姿[17] のまま車で空港に直行し、その日の18時には北海道で行われた会合に参加した。2007年5月20日に、翌年の先進国首脳会議の開催地でもある北海道洞爺湖町で開催された「洞爺湖マラソン2007」の10kmの部に出場し、47分52秒で完走した。2008年2月17日には健康を心配する家族の反対を押し切って、再び東京マラソンにエントリーした。結果、抽選に当選し出場する事となり、前年の記録を上回る3時間57分11秒で完走を果たし、政治家では東国原英夫を上回るタイムであった。2009年3月22日の東京マラソンでは3時間49分2秒で政治家では東国原に次ぐタイムで完走した。日頃のトレーニングにより、還暦ながら大変引き締まった身体をしている。
  • 松岡利勝とは酒席を共にして種々の相談をする等、文字通りの師弟関係にあったとされる。政界では「東に鈴木宗男、西に松岡利勝」と揶揄された時期もあった。
  • 2007年7月の参議院選挙では、姫井由美子の応援に駆けつけ「岡山の虎(片山虎之助)を退治しに、北海道からクマが参りました」と演説した。
  • 多数の質問主意書を提出しており、その提出数は断トツである(2005年9月から2009年7月までの累計は1800通を超える)。外務省の不祥事を追及する内容が大半だが、警察検察に対する内容も多い。括弧内は当該会期で衆議院に提出された質問主意書の総数(撤回を含む)。
  • 2008年10月30日には、「麻生太郎内閣総理大臣の自宅を見に行こうとしたデモ隊の逮捕勾留に関する質問主意書」を提出し、警視庁によれば麻生邸見学ツアー主催者は事前に許可を得ていなかったとする答弁を引きだした。
  • 鈴木の選挙では、移動する車の窓を開け、そこから身を乗り出して座る「ハコ乗り」が北海道の選挙の名物ともなっている。
  • 2009年5月に『内閣として法曹資格を有していない者を「最高裁裁判官」に指名または任命しているのなら、それは適切か。法曹資格を有していない者が「最高裁裁判官」の任に就くことは、我が国の司法の水準向上、裁判の適正な執行等に鑑みて適切であるか』『かつて行政官の職責に就いていた者が「最高裁裁判官」の任に就くということは、「最高裁裁判官」の身分が行政官の天下り先となっているとも受け止められるのではないか。』とする質問主意書を出し[18]、法曹資格を有していない者や行政官経験者が最高裁判所裁判官に就任することについて懐疑的な質問をした。なお、鈴木宗男はかつて北海道開発庁長官時代の1997年9月に法曹資格を持っておらず行政官である内閣法制局長官の経験がある大出峻郎の最高裁判所裁判官任命について橋本内閣の一員として同意した過去がある。
  • 2009年の鈴木の選挙中には学校の先輩後輩の仲である松山千春が唄って応援する姿が報道で流れた。歌手が特定の候補者を唄って応援するのは公職選挙法違反にあたる可能性がある。
  • 2009年9月4日のムネオ日記に、櫻井よしこが「昭和天皇戦争責任を取って退位すべきだった」と述べた事に反論している。
  • 死刑廃止を推進する議員連盟の発足以来からのメンバーである[19]在日韓国人への参政権付与に賛成の立場を示している[20]
  • 2010年1月16日、民主党大会の挨拶で、小沢一郎民主党幹事長における陸山会事件に対し「検察が正義と思ったら大間違いである。間違った権力とは断固戦っていこう。」と語った(検察の不当行為については、2010年9月10日に一審で無罪判決が出た厚労省元局長の村木厚子も判決直後の会見でほぼ同様の批難をした)[21]
  • 2010年1月18日、フォーラム神保町と現代深層研究会主催の緊急シンポジウム「『新撰組』化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!」に、青木理魚住昭大谷昭宏、岡田基志、木村三浩郷原信郎佐藤優田原総一朗平野貞夫宮崎学らとともに参加した[22][23]
  • かつては世襲議員を批判していたが、2012年12月16日実施の第46回衆議院議員総選挙に長女の鈴木貴子が立候補し、落選。2013年5月に石川知裕が議員辞職したことに伴い、惜敗率で2位だった貴子が繰上当選した。自らの子供が世襲したことについては肯定するコメントをしている。
  • 2013年に実施された、第23回参議院議員通常選挙では、新党大地の比例代表候補者として、十数年の付き合いがあるという同姓同名千葉県のNPO法人代表、鈴木宗男を名簿登載。公民権停止によって選挙運動のできない自身に代わって「政策理念が一致している」同氏の出馬を勧めた。代表と誤認して投票する可能性についても「間違って投票してもらっても結構」としている。しかし同候補者は党内でトップの62902票が入ったものの、議席獲得には至らず、落選した[24]。同姓同名の鈴木宗男の擁立を決めたのが公示前日で、名前入りの選挙カーとタスキを用意する時間がなかった。選挙後、鈴木は「タスキをかけておれば(同姓同名の鈴木候補は)あと10万票は上積みできた」と悔やんだという[25]
  • 「ムネオ先生」が4コマ漫画のキャラクターとなって連載される。2015年3月30日発売の『週刊大衆4月13日号』からスタート[26]
  • 漫画『勇午』の「洞爺湖サミット編」に、鈴木宗男をモデルにした「山田三根夫」という政治家が登場する。ロシアとの天然ガス事業に奔走する人情味にあふれた人物として、好意的に描写されている。

主な役職

TV出演

タイトル 放送日
宗男よ、北海道を背負って単独決起せよ 2009年3月7日

著書

  • 『世界が変わる日本が変わる―これからの日本外交と国際貢献を考える』 (講談社、1992年)ISBN 4062058588
  • 『宗男の言い分』 (飛鳥新社、2002年)ISBN 4870315130 〈インタビュー集 聞き手歳川隆雄・二木啓孝
  • 『反乱』 (ぶんか社、2004年)ISBN 4821108690
  • 『100%ムネオマガジン―鈴木宗男、とことん丸裸』 (イーストプレス、2005年)ISBN 4872576217
  • 『闇権力の執行人』 (講談社、2005年)ISBN 4062129213 - 2007年文庫化。
  • 『鈴木宗男の国会質問主意書 全255本』(にんげん出版、2006年)ISBN 493134416X
  • 『北方領土「特命交渉」』 (講談社、2006年、佐藤優との共著)ISBN 406213666X - 2007年文庫化。
  • 『反省 私たちはなぜ失敗したのか?』 (アスコム、2007年、佐藤優との共著)ISBN 4776204355
  • 『ムネオ流マラソン術 ~仕事人間でも走れる42・195 km~』 (講談社、2008年、鈴木彰監修)ISBN 4062146738
  • 『汚名 国家に人生を奪われた男の告白』(講談社、2009年)ISBN 9784062151061 - 2010年文庫化、『汚名 検察に人生を奪われた男の告白』に改題。
  • 『政治の修羅場』(文藝春秋、2012年)ISBN 9784166608645
  • 『ムネオの遺言 逆境から立ち上がる37の方策』(講談社、2015年)ISBN 9784062197502

脚注

  1. “鈴木貴子氏が初登院 新党大地、繰り上げ当選”. 北海道新聞. (2013年6月3日). http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/471011.html . 2013年6月4日閲覧. 
  2. 朝日新聞2009年9月19日記事、新川敏光京都大大学院教授の見解
  3. 衆議院外務委員会2009年11月18日議事録
  4. 鈴木宗男議員失職、収監へ 最高裁、実刑維持し上告棄却 共同通信 2010年9月8日閲覧
  5. “鈴木外務委員長の職務停止” (日本語). 時事通信. (2010年9月9日). http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010090900365 . 2010年9月9日閲覧. 
  6. 鈴木宗男議員が失職 最高裁、異議申し立て棄却
  7. “宗男氏、6日に収監へ 「送り出す会」に200人” (日本語). 産経新聞. (2010年12月2日). http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/101202/stt1012022234011-n1.htm . 2010年12月2日閲覧. 
  8. 東京スポーツ 2011年1月6日付発行 1面参照
  9. 鈴木宗男元議員を仮釈放 収監から1年産経新聞 2011年12月6日
  10. 大地代表、選挙運動は不可=公民権停止で-衆院選公示【12衆院選】 時事通信 2012年12月4日
  11. 鈴木宗男 『政治の修羅場』 文藝春秋、2012年6月ISBN 4166608649 
  12. パレスチナのガザ地区を実効支配しているハマスに対する政府の認識等に関する質問主意書パレスチナのガザ地区を実効支配しているハマスに対する政府の認識等に関する再質問主意書パレスチナのガザ地区を実効支配しているハマスに対する政府の認識等に関する第三回質問主意書
  13. ムネオ日記2010年10月27日より
  14. 加藤昭『鈴木宗男研究』 新潮社
  15. 鈴木宗男 『政治の修羅場』 文春新書、2012年。ISBN 978-4166608645。
  16. 1992年東京佐川急便事件で派内が小沢一郎羽田孜支持グループと小渕恵三支持グループに分裂した際、当時当選3回の議員だった熊谷弘二階俊博は小沢を支持し、額賀と野呂田芳成は小渕を支持した
  17. http://www.sankei.co.jp/sports/marathon/pages/GRA00163G070218T_jpg.htm
  18. 最高裁判所裁判官の指名等に関する質問主意書
  19. 喜八ログ 鈴木宗男・保坂展人トークライブ
  20. 在日本大韓民国婦人会中央本部創立60周年記念式典
  21. 宗男氏「検察が正義の人だと思ったら大間違い」 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
  22. フォーラム神保町=「『新選組』化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!」〜1.18緊急シンポジウム開催〜=
  23. 青木理魚住昭大谷昭宏・岡田基志・木村三浩郷原信郎佐藤優・鈴木宗男・田原総一朗平野貞夫宮崎学. File:01 国民不在の権力ゲーム. Infoseek 内憂外患編集部.. http://opinion.infoseek.co.jp/article/721 . 2010閲覧. 
  24. 『朝日新聞』 2013年7月22日
  25. 『東京スポーツ』2013年7月27日 「“影武者”鈴木宗男氏が悔やんだ“タスキリレー”の失敗 2013年07月27日 11時00分
  26. 『週刊大衆』&日刊大衆にて4コマ漫画「ムネオ先生が行く!」連載スタート!”. 日刊大衆 (2015年3月26日). . 2015年3月30日閲覧.

関連項目

外部リンク


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