長安

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長安
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長安の位置
各種表記
繁体字 長安
簡体字 长安
注音符号  ㄔㄤˊㄢ
発音: チャンアン
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中国地名の変遷
建置 殷代
使用状況 陝西省西安市
豊邑
鎬京
春秋鎬京
戦国鎬京
咸陽
前漢長安
常安
後漢長安
三国長安
西晋長安
東晋十六国長安
南北朝長安
大興
長安
西京
五代大安
京兆
北宋/陝西
永興
南宋/京兆
京兆
安西
奉元
西安
西安
中華民国西安
現代西安

長安(ちょうあん、中国語: 長安拼音: Cháng'ān)は、中国古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。

漢代長安と命名され、前漢北周などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した[1]シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。

西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。

歴史

西周

長安の都市としての歴史は西周の都豊邑(本来の字体は豐邑、ほうゆう)(または豊京(ほうけい))に始まる。豊邑は文王の時代まで周公の都であった。武王紂王を滅ぼしたのち、灃水(ほうすい、さんずいに豐、現在は灃河。似た字である澧水(れいすい)とは別の川)をはさんで豊邑の対岸にあった鎬京(こうけい)に遷都した。この豊・鎬の地は現在の西安市の西南近郊に相当する。

紀元前350年は都を雍(現在の陝西省鳳翔県の南)から、咸陽(現在の陝西省咸陽市の東北)に移した。渭水の北岸に位置する咸陽は、始皇帝のときに大幅に拡張され、渭水の南岸に興楽宮や甘泉宮が造営されて、渭水を渡す横橋で咸陽宮と連結された。渭南西郊の上林苑に朝宮の建造が計画され、その前殿として阿房宮が営まれた。

前漢から北周

秦滅亡後の戦乱の結果漢朝を建てた劉邦は、婁敬張良の進言により破壊された咸陽の郊外に新たな都城を建設、長安と命名、蕭何が宮殿を造り、恵帝の時代には城壁が建築されている。長安城の南側は南斗、北側は北斗の形をしていたため、当時は長安城の別称として「斗城」が誕生した。長安城には九市、十二門が設けられ、城内には未央宮長楽宮、北宮、桂宮といった宮殿があった(『三輔黄図』)。漢代の長安はいびつな形をしていた。その後前漢後漢(滅亡前の数年間)、前趙前秦後秦西魏北周首都を設置している。

隋・唐

北周を滅ぼした隋朝を立てた楊堅は、生活環境の悪化や政治的思惑からこれまでの長安を廃止し、その郊外である龍首原に新たな都城を造営した。新たな都城造営を担当したのは、宇文愷555年 - 602年)である。初め大興城(だいこうじょう)と称された都城が、唐代の首都・国際都市としての長安の都である。中央の朱雀門街を挟んで、左街に54坊と東市、右街に54坊と西市、総計110の坊市から構成される条坊都市であった。後述される日本の平安京とは異なり、長安城内では、各坊の四囲にも高い牆壁が取り囲んでおり、それら門は夜間は閉門され坊外との通行は禁止された。また、龍首原は、北から南に向かって、6段に分かれた台地状の丘陵であった。設計者の宇文愷は、それを周易の六爻になぞらえて都市計画がなされたと考えられている。天子の位に相当する九二に宮城を置き、九三の君子の位には皇城を配置した。さらに、周易においては九二よりも上の最上位とされる九五の丘には、庶人を住まわせると災いの元と考え、国寺である大興善寺道観玄都観とを置いて、国家の安泰をはかったという。

最盛期で人口100万人とも言われる大都市に発展した長安であったが、同時に食糧問題という致命的な問題を内包していた。関中地域のみで長安の膨大な人口を支えるだけの食糧生産は不可能であり、江南から大運河を通じて大量輸送を行うか、朝廷そのものを食糧搬入が容易な場所に一時的に避難させる(洛陽副都を置いた理由の一つである)ことによって対応していたが、安史の乱以後は政治的不安定から大運河の管理が次第と困難となり、大運河が通航不可能となるとたちまちのうちに長安での食糧価格の高騰に発展、貧困層の中には餓死するものも相次ぐようになる。唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う朱全忠によって都が洛陽に移された後、長安が再び都になることは無かった。

五代以降

長安は唐末の戦乱で荒廃したため、首都は東の洛陽に移された。唐を滅ぼして後梁を建てた朱全忠は首都をさらに東の開封に移した。これにより首都機能を失った長安の城壁は縮小され、一地方都市となった。明代に、長安への遷都論が唱えられた事があったものの、既に唐代には食料問題を内包する長安への遷都は実現せず、名称を西安(せいあん)と改称され地方都市として発展していった(現在の西安については西安の項目を参照のこと)。

他国の都市計画への影響

日本

長安城は当時における周辺諸民族の模範的な都市であった。碁盤の目状の道路、南北を貫く大通り、北の政庁の位置、河川の配置といった特徴は平城京平安京にも強い影響を与えている。ただし平安京を初めとする日本の都城には長安城と異なり、羅城門の左右を除いて城壁が建築されなかった(日本では、大陸とは違い騎馬民族など夷狄の侵攻の恐れが無かったためである。但し、豊臣秀吉は京都にお土居を築いている)。その規模も長安の三分の一程度、それでも人家が京域を埋めつくすことはなかった。平安初中期の詩文に、平安京を指して「長安城」と呼んだ例が見られる。[2]

渤海

渤海上京龍泉府も、長安を模して築かれた。

ギャラリー

脚注

  1. Matt T. Rosenberg. “Largest Cities Through History”. About.com. . 2009.1.14閲覧.
  2. 日本で漢風名称が採用された時代に、平安京右京の別名を長安、同じく左京洛陽と定めたとの説が広く行われているが、平安期の史料・文献にそのことは見えない。(「洛中」の項参照)

参考文献

関連項目

外部リンク