関白

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関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称殿下

概略

天皇が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行する摂政とは異なり、関白の場合、成人の天皇を補佐する立場であり、最終的な決裁者はあくまでも天皇である。従って、天皇と関白のどちらが主導権を取るとしても、天皇と関白が協議などを通じて合意を図りながら政務を進めることが基本となる。大抵の場合、摂政が引き続き関白となる例が多い。また、このような地位に照らし、慣例として、摂政関白は、天皇臨席などの例外を除いては、太政官の会議には参加しない(あるいは決定には参与しない)慣例があり[1]太政大臣左大臣が摂政・関白を兼任している場合にはその次席の大臣が太政官の首席の大臣(一上)として政務を執った[2]。ただし、関白は内覧の権限(後述)を有しており、天皇と太政官の間の政治的なやりとりを行う際には関白が事前にその内容を把握・関与する[3]ことで国政に関する情報を常に把握し、天皇の勅命や勅答の権限を直接侵害することなく天皇・太政官双方を統制する権限を有したのである。これを摂関政治という。

歴史

関白の起源

関白職の初任者は、藤原基経である。ただし、その就任時期については大きく3つの説に分かれている。

  • 陽成天皇元慶4年11月8日880年12月13日)…『公卿補任』によって採用されている説で、陽成天皇の成人と同時に関白になったというものである。『公卿補任』が公卿の経歴に関する基本資料であるためにこの記述をそのまま採用する書籍は多い。ただし、当時は国家による正史(『日本三代実録』)が編纂されていたにも関わらず、当該期日に関白就任に関する記事が全く見られないのは不自然であること、天皇が成人した際に関白に転じる慣例が成立したのは60年後の朱雀天皇成人時の藤原忠平の時と考えられていることから、平安時代史の研究家の多くが“後世の人が当時の慣習を知らずに書き加えたもので、事実ではない”とする説を採っている。
  • 光孝天皇の元慶8年6月5日884年7月1日)…この日に天皇から基経に対して国政委任の詔が出され、これが後の関白任命の際の詔書の原点になっていることから、竹内理三以来平安時代史の研究家の間で支持が多い説である。この時の詔書は『日本三代実録』に記載されているが、『公卿補任』ではこの詔書については触れられていない。
  • 宇多天皇仁和3年11月21日887年12月9日)…これは「関白」の語源である「関り白す」の言が入った国政委任の詔書で『日本紀略』などに記載されている。阿衡事件のきっかけとなった詔書でもある。河内祥輔はそもそも後世における摂政・関白の概念をそれが確立する以前の藤原良房・基経期に遡らせて、「関白」という言葉が存在しない時期に関白の初例を求めることに問題があるとする。当時太政大臣・摂政・関白の職掌の違いが明確化されていたわけではなく、また『日本三代実録』の清和上皇の崩伝には藤原良房清和天皇23歳の時より良房が死去するまで摂政の任にあった事が記されており、この時代には成年の天皇に摂政が設置される可能性もあった[4]。“最初の関白任命そのものは「関白」という職名が成立したときである”という考え方については支持する研究者もいる。

だが、どの説を採用するとしても、「関白」という言葉の語義または具体的な職掌・役割が確定するのは阿衡事件に伴う議論の結果によるところが大きいこと、藤原基経が最初の関白であったという事実は変わりがない。

摂関政治の隆盛

続いて、関白に任命されたのは約半世紀後の基経の子・忠平である。忠平は朱雀天皇摂政を即位時より務めてきたが、承平7年(937年)に天皇が元服したのを機に辞表を提出した。だが、折りしも承平天慶の乱が発生したために天皇はこれを慰留して乱の鎮圧に努めさせ、乱が鎮圧した天慶4年(941年)になって漸く忠平の摂政辞表は受理されたものの、直ちに基経の先例に従って関白に任じられた。天皇の成人を機に摂政が関白に転じた確実な事例はこれが最初である。村上天皇期には関白が設置されなかったものの、冷泉天皇が即位すると再置されることになった。しかし外祖父に当たる師輔はすでに死亡しており、その兄にあたる太政大臣実頼が関白となった。実頼は外戚でなかったため権力に乏しく、「揚名(名ばかり)の関白」と嘆くほどであった[5]

実頼以降は筆頭大臣が摂関となることが続いたが、986年(寛和2年)に右大臣藤原兼家が外孫一条天皇の摂政に任じられた。この時兼家の上座には太政大臣と左大臣の二人がおり、摂政の位置づけが不明確になった。一ヶ月後に兼家は右大臣を辞職し、摂政が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より上席を占めるという一座宣旨を受けた。この「寛和の例」以降、摂関と大臣は分離され、藤原氏の氏長者の地位と一体化していった[6]。しかしこれ以降摂関と太政大臣が陣定の指導を行う一上とならない慣例が生まれ、摂関が太政官を直接指導することは出来なくなった[7]。関白の主要な職務は太政官から上奏される文書を天皇に先んじて閲覧する内覧の権限と、それに対する拒否権を持つことであった。しかしこの対象は太政官に限られ、蔵人からの上奏は対象とならなかった[8]

兼家の死後は権力争いに勝利した道長が朝廷の主導権を握った。道長自身は関白に就くことなく、内覧および一上として政務を主導したが、事実上の関白として「御堂関白」とも呼ばれた。道長の嫡流を御堂流というのはこれに由来する。1016年(長和5年)に後一条天皇が即位すると道長は摂政となったが、間もなくその子の頼通にその座を譲った。その後も道長の外孫が天皇となることが続き、頼通は50年以上にわたって関白の座を占め続け、摂関政治の最盛期を築いた。しかし頼通は子宝に恵まれず、入内した子女も皇子を産むことはなかった。また頼通も優柔不断な性格で決断を嫌ったこともあり、責任を押しつけ合う頼通と天皇との間で政務は停滞した。こうした状況を藤原資房は、天下の災いは関白が無責任であることが原因であると記している[9]

頼通と外戚関係にない後三条天皇が即位すると、後三条の主導による政治改革が始まったことで関白の存在感は減少していった。その子の白河天皇堀河天皇に譲位して院政を開始したことや、師実師通の父子が相次いで死去し御堂流が主導権を握れなかったこともあり、摂関政治の時代は終焉を迎えた。堀河の没後に白河が鳥羽天皇を擁立すると、鳥羽の外舅にあたる藤原公実が摂政の地位を望んだ。しかし白河は御堂流直系の忠実を摂政に任じた。これ以降、外戚の有無に拘わらず、御堂流の嫡流「摂家」が摂関となる慣例が成立した[10]

摂関家の分裂

1121年(保安2年)に関白藤原忠実は白河法皇の勘気を被り、10年にわたる謹慎生活を強いられることとなった。関白は息子の忠通が継ぎ、院御所議定に加わることもあるなど、一定の影響力と権威を持った[11]。しかし1132年(天承2年)に忠実が内覧に任じられて政界復帰を果たすと、関白忠通と内覧忠実が並立する異常事態となった。忠実は忠通の弟頼長を寵愛し、近衛天皇の元服が行われた1150年(久安5年)、忠通に対して摂政の地位を譲るよう要求した。しかし忠通は拒否し、激怒した忠実は藤原氏長者の証である朱器台盤などの宝器を忠通邸から強奪して頼長を氏長者とした。しかし鳥羽法皇は忠通を関白、頼長を内覧とし、氏長者と関白が分離する事態が発生した。忠通と忠実・頼長の対立は保元の乱の一因ともなり、頼長はこの乱で敗死した。乱後には信西の主導によって忠通に氏長者補任の宣旨が下り、藤原家内の身分であった氏長者が朝廷に握られることとなった。その後の後白河院政と平氏政権で摂関家は主体性を発揮することが出来ず、さらに忠通の子の代から近衛家松殿家九条家の三系統に分裂することとなった。

中世の関白

鎌倉時代以降は政治の実権が朝廷から武家に移り、朝廷内での権力も治天の君が中心となる体制が築かれたため、関白職の政治への影響力はますます薄れていった。承久の乱後には関白九条道家が権勢を振るったが、関白の地位を息子達に譲って後も勢力を保つなど、関白の地位と権勢の分離が明らかとなった。その後九条家から二条家一条家が、近衛家から鷹司家が分立して五摂家による摂関職の継承体制が固まった。

戦国時代になると、摂関家は朝廷儀式に関わることがほとんど無くなり、女房など女官を出すことも無くなった。このため室町・戦国期を通じて摂関家が外戚となった例は一例も無い[12]。摂関家が比較的経済状態がよかったことや、天皇家や廷臣と所領や権利をめぐる競合関係があったことが理由ではないかと考えられている[13]

近世の関白

安土桃山時代羽柴秀吉が「関白相論」問題を機に近衛前久猶子となって関白に就任し、日本で初の武家関白となる。さらに秀吉が豊臣姓を賜ったことで、藤原氏でも五摂家でもない関白職が誕生することとなった。その後、秀吉は羽柴家世襲の武家関白による政権(武家関白制)の実現のために、にして養子であった秀次が関白職及び家督を継承した。しかし、秀次は関白職にありながら、実権は太閤たる秀吉の掌中にあり、後に秀吉と対立して失脚することとなった。その後も豊臣政権は続いたが、秀吉は幼い息子秀頼の成人まで関白を置かない方針であった。だが、秀吉の死後関ヶ原の戦い以降は次第に天下の実権は徳川家に移り、関白職は再び五摂家の任ぜられる職となった。その後豊臣家は大坂の陣で滅亡したため、関白職に復帰することはなかった。

江戸時代の関白職は豊臣家滅亡後に制定された禁中並公家諸法度にて幕府の推薦を経ることが原則とされ、天皇第一の臣にして公家の最高位たる関白職は実質的に幕府の支配下にあったといっても過言ではない。だが同時に、朝廷の会議は関白の主宰で行われるようになり、改元や任官などの重要事項も関白が自己が主宰した会議の決定を武家伝奏などを通じて幕府に諮るという手続が確立されたために、朝廷内において大きな権力を有するようになった。また、公家の中で関白にのみ御所への日参が義務付けられる(逆に言えば、その義務の無い他の公家の権力への関与の度合いが関白に比べて大きく低下する)一方で、太政大臣の任官が江戸時代を通じて徳川将軍と摂政・関白経験者のみに限定されるなど、宮中での待遇の厚さは格別なものがあった。更に娘を将軍正室御台所)として嫁がせる関白も多く、逆に幕府において一定の影響力を有した関白さえ存在した(近衛基煕など)。 幕末維新時、幕府大政奉還に際して、坂本龍馬が新政府草案として示した人事案には、五摂家ではない閑院流に属する三条家三条実美を関白に、徳川慶喜を副関白にという案が出されたが、これは実現されなかったため、豊臣氏を除いて非五摂家の関白も、過去存在しなかった副関白の職も設置・任命されることはなく終わった。

慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令で、摂政、関白、征夷大将軍の職が廃止され、関白の歴史も終焉を迎える。その後、摂政のみは復活し、天皇の公務を代行する役目として皇太子など皇族のみが任ぜられる職として皇室典範に定められ、今日も存続している。

関白の辞令

関白の辞令は、詔書勅書によって発行されるが、さらに、宣旨で発行される場合もある。

豊臣秀吉(藤原秀吉)の関白宣旨(奉者:大外記)※「足守木下家文書」所載

權大納言藤原朝臣淳光宣、奉 勅、萬機巨細、宜令内大臣關白者、

天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正助教中原朝臣師廉 奉

(訓読文) 権大納言(柳原)藤原朝臣淳光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、萬機(ばんき)巨細(こさい)、宜しく内大臣(藤原秀吉)をして関白にせしむべし者(てへり)。天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正助教中原朝臣師廉 奉(うけたまは)る。

※天正十三年七月十一日段階では、未だ豊臣の氏は賜わっておらず、近衛家に猶子となったため、氏は藤原となる。

脚注

  1. 南北朝時代近衛道嗣北朝関白)が、後光厳天皇より貞治改元奉行を命じられたときに、「為摂関之人不得行公事、譲一上於次大臣已為流例、以之思之公事奉行不可庶幾者也(摂関は公事を執行せず、次席の大臣に一上の地位を譲る慣例となっている。従って摂関が公事を奉行することはあってはならない)」と主張して辞退している(『愚管記』貞治元年7月7日条)。
  2. ただし、関白の政治的立場の位置づけが十分確立されていなかった平安時代中期には、藤原基経藤原頼通のように関白在任のまま一上を兼ねたり太政官の政務を執った例もある。また、江戸時代に入ると関白が会議を主宰するようになる。
  3. 政事要略』には初代関白である藤原基経太政大臣)の職権について、「其万機巨細、百官惣己、皆関白於太政大臣、然後奏下」と記し、政務全般において公卿以下百官がその職務を守り、太政大臣(基経)に関白(関り白す=報告・了承)を得た上で奏上・命令させたとしている。
  4. 元慶8年の詔の内容が後世の関白にあたる職掌を含んでいたとしても実際に関白となっていたわけではないとする立場に立つものとして、佐々木宗雄は太政大臣(元慶4年任命)基経に対して国政委任の職掌を与えたであったとし、河内祥輔は摂政任命の詔であるが基経より年長であったために文体を変えたもので、宇多天皇が阿衡の文面を撤回した仁和4年6月2日の詔も実質は摂政任命の(関白は摂政の兼職となる)であり、関白と摂政が別の職として分離するのは藤原忠平以後であると説く。
  5. 大津、26-27p
  6. 大津、33-34p
  7. 大津、87p
  8. 大津、86-87p
  9. 下向井、210-213p
  10. 下向井、222p
  11. 下向井、226p
  12. 池、222-228p
  13. 池、229p

参考文献

関連項目

外部リンク