飛鳥田一雄

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飛鳥田 一雄(あすかた いちを、1915年4月2日 - 1990年10月11日)は、日本政治家衆議院議員横浜市長日本社会党委員長を歴任した。

来歴・人物

生い立ち

横浜市出身。厚木市の旧家で医師の家に生まれる。

父は弁護士横浜市会議長・名古屋高検検事長を務めた飛鳥田喜一。5歳の頃に小児麻痺にかかり、左足が不自由となった。これを機に、名の読みを「かずお」から「いちを」に改める。横浜一中(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)を経て、旧制水戸高等学校(現・茨城大学)を受験するが、左足の障害を理由に不合格とされた。横浜一中時代の同級生に寺田透(東京大学元教授、夫人の兄)、川合武(元衆議院議員新自由クラブ)がいる(川合は1971年の第7回横浜市長選挙の際、現職の飛鳥田の対抗馬として自民党推薦で立候補したため、「同級生対決」となった[1])。

中央大学専門部を中退後、明治大学予科に進み、映画研究部に属する。明治大学卒業後、高等文官司法科試験を受験して、弁護士となった。第二次世界大戦終戦直後は弁護士としてBC級戦犯の弁護にあたった。

1949年に横浜市会議員、1951年神奈川県議会議員を経て、1953年第26回衆議院議員総選挙左派社会党から立候補し衆議院議員に当選。社会党内では党内最左派平和同志会に所属し、主に軍事基地反対を訴えた。

横浜市長

1963年、社会党の公認を得て横浜市長に当選する。1963年の統一地方選挙以後、全国で革新首長が続々と誕生し、飛鳥田は革新首長のリーダー的存在と見なされるようになった。1964年には全国革新市長会を結成し、その会長となった。

横浜市長としては、1万人市民集会を企画するなど、住民による直接民主制の実現に努力した。このことは「議会軽視」と市会などから批判されたが、飛鳥田が直接民主制にこだわったのは、市議時代、同僚の議員のレベルがあまりにも低すぎ、飛鳥田が市会に不信感を持っていたことに由来する。

また、公園や保育所など社会資本の充実にも力を入れた。しかし、革新市長のリーダーとみなされた飛鳥田は物価高など、本来、市長の権限ではどうしようもない問題の解決まで迫られ、さらに市政の長期化と条例を避けた要綱に基づく裁量行政に伴い、側近が汚職日照権汚職)で逮捕されるなどのスキャンダルも発覚した。

市長時代はベトナム戦争の真っただ中だったことから、その在任中も反戦・反基地運動を継続した。代表的な活動として、1972年8月、ベトナム行きの輸送船に積み込むため相模総合補給廠から横浜ノースドックへと向かう米軍戦車の列を、ノースドックへの進入路である横浜市道の村雨橋(神奈川区)の上で人垣を築いて足止めした「村雨橋事件」(「村雨橋闘争」とも)がある。これは、車両制限令という政令に基づく市道管理者たる横浜市長による通行制限命令であった(11月に車両制限令が改正され、在日米軍車両は対象外にされた)。

退職時、横浜市長時代の退職金として、一般職員の基準額である1,592万円を受給し、市長としての特別手当1億2,888万円を返上した。

日本社会党委員長

1977年同年の参院選敗北の責任を取り辞任した成田知巳の後任として日本社会党委員長に就任し、その3ヶ月後に横浜市長を辞任する。しかし地元の支持者たちからは市長辞任を反対され、飛鳥田は地盤の横浜から国政選挙に出馬することができなくなり、1979年第35回衆議院議員総選挙にて旧東京1区千代田区港区新宿区)から出馬することとなった。しかし、支持基盤のない東京1区からの出馬は飛鳥田に他の社会党国会議員の選挙応援に行く余裕を失わせ、飛鳥田の求心力を奪っていった。1978年首班指名選挙で社会党は党首である飛鳥田委員長が非国会議員のため、副委員長の下平正一に投票した。

飛鳥田は委員長就任の条件として全党員による委員長公選制導入を成田委員長に実現させ、開かれた党を目指してイタリア共産党(当時)の「カード党員」をヒントにした百万党建設運動による党員拡大に力をいれたり、1983年の参議院議員通常選挙において一致する政策を期限を切って58の市民団体と政治契約を締結した。また、党本部書記に対しては綱紀粛正を指示したが、疲弊した党の再建は容易ではなかった。飛鳥田は、教条主義的と批判されていた「日本における社会主義への道」の改定に乗り出す。1980年公明党との社公連合政権構想により、公明党・民社党との連携(社公民路線)にかじを切り、結果として成田委員長時代まで共闘の対象としていた日本共産党との関係を断絶することとなった。

同年、社会党は大平内閣不信任決議案を提出。その採決に自民党内反主流派の福田派三木派が造反し欠席したため、不信任決議案が可決され(ハプニング解散)、衆参同日選挙へ突入した。選挙戦では、社会党が「自民党は金権腐敗で軍事大国の道を歩んでいる」と批判するのに対し、共産党が「社会党は反革命である」と社会党を批判。さらには連合政権構想で連携している民社党から「社会党の防衛政策は不明確である」と批判され、本来「反自民」で協調するべき野党内の足並みの乱れが目立った。さらに選挙中に大平正芳首相が急死したため自民党に同情票が流れ、自民党に復調の機会を与えることとなった。飛鳥田自身、東京1区(定数3)でのトップ当選どころか自民党の与謝野馨中曽根派)・大塚雄司(福田派)に追い越され野党第1党の党首でありながら最下位で当選し、首相の座から遠のいた印象を与えた。飛鳥田は「俺が苦戦するのもしょうがねえや、ろくに地元にいねえんだもんな」と語ったという。

定員3人の東京1区では自民党の与謝野、大塚と、民社党系無所属の麻生良方が現職で、社会党元衆議院議員の加藤清政が次点と言う構図だったが、加藤に勝ち目は無く、人気の高い飛鳥田の1区参入により社会党は議席を獲得しようと言う目論見だった。加藤は参議院に鞍替えし、東京選挙区から立候補したが落選した。このため、加藤の支持者からは飛鳥田に対する反発が起こった。選挙後、加藤は社会党を離党し、翌1981年1月の千代田区長選に自民党推薦で立候補し、当選、同年5月には自民党に入党することになった。

1981年12月20日~21日には党員による委員長公選を実施し、社会主義協会・三月会・勝間田派などの支持によりこれに出馬。選挙戦では右派の求める公明党との共闘深化に対して慎重な立場を打ち出す。投票総数6万票弱のうち得票率68%を得て武藤山治下平正一に圧勝。

1982年には左派若手の馬場昇を書記長に抜擢したことをきっかけに右派が反発して、党内では次第に孤立していった。1983年参議院選挙での敗北を理由に委員長を辞任し、政界も同時に引退し佐々木秀典が地盤継承も落選。その後は市民派の弁護士として活躍した。1990年10月11日、脳梗塞のため75歳で死去。

横浜市長としての飛鳥田一雄

飛鳥田は横浜市長として、革新首長のリーダーとして活躍し、地方自治制度に関する理論家としても注目された。また、公害の規制(当時の法定値を1/2~3/4下回る磯子火力発電所の煤煙規制、当時大気汚染の主力であった日本鋼管(現JFEホールディングス)京浜製鉄所を沖合に移転する社内計画への対策協議会設置を神奈川県・川崎市に呼びかけ)や公園などの社会資本の整備といった面でも市長としての手腕を発揮した。さらに大規模な公共事業を嫌う革新首長が多い中では異例とも言える六大事業を策定し、際立った個性をもつ今日の横浜市の基礎を作り上げたとも評価できよう。

六大事業とは、

  1. みなとみらい21をはじめとした都心部強化事業
  2. これと連動した金沢地区埋め立て事業
  3. 港北ニュータウン事業
  4. 幹線道路事業
  5. 地下鉄事業
  6. ベイブリッジ事業

を指す。

とりわけ、みなとみらい事業については、当時、高い稼動状態であった三菱重工横浜造船所を立ち退かせるものであったため、当初は実現が困難と見られていたが、飛鳥田の死後、計画通り完成した。

飛鳥田が取り組んだ横浜市内の幹線道路整備に際して、横浜市電を廃止することを決断した際に飛鳥田は「マイカー族のエゴにやられちゃったよ」と述懐していたという[2]

また飛鳥田は「横浜公園プロ野球の公式戦が出来る野球場を造りたい」「その新球場をプロ野球チームの本拠地としたい」と考え、戦前から在った横浜公園平和野球場の建て替えを決断する。新球場建設のために飛鳥田自身も神奈川県内の企業などを回って計画の説明などを行い、横浜市議会でもスタジアム運営に関する案件などを可決するために努力を払った[3]。更にその当時、川崎球場を本拠地にしていた大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)の横浜への本拠地移転に飛鳥田が自らが動いたことでも知られている[4]。そうした経緯で現在の横浜スタジアムの完成に漕ぎつけ、横浜スタジアムこけら落とし試合となった1978年4月4日の大洋ホエールズ 対 読売ジャイアンツ第1回戦に際しては、市長を辞職して日本社会党委員長になっていた飛鳥田が始球式を行っている[3]

しかし、一方で、社会党出身であることから市職員労組に甘く、市職員給与の大幅賃上げなどで財政を逼迫させ、また、当時、全国の政令指定都市中、最低レベルであった環状道路の整備状況なども解決できぬまま任期を終えた。自宅付近に鉄道駅がないことを理由に、国鉄根岸線磯子駅を設置させたという噂もあった。

社会党委員長としては、委員長という地位自体にほとんど権限がなかったことから十分に力を発揮することができなかった。

なお、飛鳥田は朝鮮民主主義人民共和国を訪問した際、以下のような北朝鮮を賛美する言葉を残したとして批判されることがある。

チュチェ思想は今や、チョソン人民にとって革命と建設の羅針盤となっているばかりでなく、プロレタリア国際主義とも完全に合致しているところから、日本や世界各地でひろく研究され、各国人民のたたかいを励ます思想ともなっている。」
「帰国後私は家内に『あなたはキム・イルソン主席にほれてしまいましたね』とよくいわれたものだが、まさにその通りである。私は、チョソン民族の偉大な指導者としてばかりではなく、アジアと世界のすぐれた指導者の一人であるキム・イルソン主席にいまだにほれつづけているわけである。」[5]

一方、日本社会党本部中央執行委員であった船橋成幸の見方は正反対で、飛鳥田は金日成に対する個人崇拝をひどく嫌っていたという。金日成ゆかりの史跡を訪ねたとき、史跡の職員に金日成を賛美するよう暗に求められたが、案内役の女性に「あなた、こんどお訪ねするまでに素敵な人を見つけて、お幸せにね」とだけ言って、迎えの自動車に乗り込んだ。また、金日成と対等な立場で会談し、へりくだった態度を見せなかったため金日成のほうが飛鳥田に好印象を持ったといわれているとのことである。[6] それを根拠に、飛鳥田の北朝鮮を賛美する言葉は、社会党の政治家が訪朝すれば北朝鮮側から金日成や金正日を評価する発言を言うよう強く求められることが多いためで、本心からではなかった、とする意見もある。

1987年に出版された回顧録の中で、北朝鮮の工作船・不審船が石川県能登半島沿岸の日本海に出没していることについて言及しており、自身が委員長時代(1978年2月頃)に第1回総対話集会を小木(石川県)で開催し、現地の漁民から情報収集を行っていたことを明かしている[7]

参考文献

  • 飛鳥田一雄『生々流転 飛鳥田一雄回想録』朝日新聞社、1987年。
  • 船橋成幸『〈証言〉戦後半世紀の政治過程 混迷のいま、21世紀へのメッセージ』明石書店、2001年。

脚注

  1. 『横浜市史Ⅱ』第三巻(下)、2003年、14〜15頁
  2. 季刊誌『横濱』2016年夏号(No.53)14頁「60’s70’s 横浜グラフィティ - 世相 類は呼ぶ 友を呼ぶ」文◎石井尚武 参照
  3. 3.0 3.1 座談会 横浜公園とスタジアム 『有隣』第398号 有隣堂刊 平成13年1月1日
  4. 「横浜スタジアム」は、どう変わっていくのか 球団・スタジアム「一体運営」の狙いとは? 東洋経済オンライン 2016年2月6日付
  5. 外国文出版社編『偉大な人民の指導者キム・イルソン』(1977年)より
  6. 船橋成幸『〈証言〉戦後半世紀の政治過程 混迷のいま、21世紀へのメッセージ』明石書店、2001年、76頁
  7. 飛鳥田一雄『生々流転 飛鳥田一雄回想録』朝日新聞社、1987年、225〜226頁
党職
先代:
成田知巳
日本社会党委員長
第8代:1977年 - 1983年
次代:
石橋政嗣


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