駿河国

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駿河国(するがのくに)

かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

沿革

古代

7世紀朝廷珠流河国造(現在の静岡県東部)と廬原国造(現在の静岡県中部)の領域を合併して駿河国とした。廬原(いおはら)君臣の子大蓋(おおがさ)が国造に任命され、孫の首麻呂は神護景雲3年(769年)、駿河国の新国造となった。『旧事本紀』の「国造本紀」に静岡県内の国造として6国造が書かれている。素賀・遠淡海・珠流河・廬原・久努・伊豆の六国造。古墳群の分布の検討から素賀は原野谷川・逆川流域、遠淡海を磐田原台地西南部、珠流河を富士・愛鷹山麓、廬原を清水平野、久努を太田川流域、伊豆を伊豆半島のそれぞれの地域に国造領域を比定している。(『静岡県史』通史編1)[1]

※この時点では伊豆半島伊豆諸島(後に再度分離して伊豆国となる)を含んでいた。

駿河は当初、須流加(『和名類聚抄』)、須留可(「東遊駿河舞歌」)、薦河(『駿河国風土記』)などとも表記され、尖川ないし駿馬の如きつまり、山から海に落ちる険しい川の意図をもって命名されたといわれている。富士川の流れが急峻であることに由来するというものである。

西隣の遠江国との境は大井川であった。奈良時代の大井川は、山間を出てから現在より北に折れ、今の栃山川を流れており、その流路が境であった。後世に、大井川の流路変更に従って、駿河国の領域が西に広がった[2]

680年天武天皇9年)に、東部の2郡を分離して伊豆国を設置した。それに伴い、駿河郡駿河郷(現在の沼津市大岡付近)にあった国府が安倍郡に移った。

中世・近世

1192年源頼朝鎌倉幕府を開き、畿内朝廷東国幕府二つの政権が並立する時代では、両地域を結ぶ東海道の要衝。また、鎌倉時代には、円爾安倍川流域で緑茶栽培を広めた。

戦国時代には、今川氏の地盤となる。義元の時代には、駿府(静岡市)には、戦乱を逃れた京の都公家や文化人が転入し「東(国)の都」、あるいは「東(国)の京」、と呼ばれる繁盛を見せた。

義元が桶狭間の戦いで戦死すると、武田信玄徳川家康の統治下に置かれた。駿府の今川館は、家康の時代に駿府城として改修された。1590年に家康が駿府から江戸に移ると、中村一氏が入った。

江戸時代初期には、江戸幕府を開いた家康が、大御所として再び駿府で過ごした。江戸時代には、直轄地である駿府の西の守りとして田中藩が、東の守りとして小島藩が置かれた。この他にも、東海道の宿場町が多く誕生した。中でも、大井川は架橋や渡船が禁止されたため、旅人は川越によって渡川するほかなく、両岸に位置する島田宿金谷宿は、川越で盛えた。

近代以降の沿革


脚注

  1. 荒木敏夫「静岡の夜明けと律令体制の成立」 本多隆成・荒木敏夫・杉橋隆夫・山本義彦『静岡県の歴史』山川出版社 1998年 27ページ
  2. 『静岡県史』通史編1(原始・古代編)481-484頁。




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